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生活世界に、虚構的空間を介在させる方法論について

『イデーン�-�』の第二章「純粋意識の一般的構造」を読み進めているが、「視覚の仮設」という操作について、考えてみたい。

例えば、私の生活世界の舞台は「街」である。
私はそこで暮らし、休日には河川公園をランニングしたりする。
現象学にとって、「虚構」は非常に重要な概念であった。
私がカフェテラスで本を読む時、その空間に対する直観を、内在的知覚が「砂漠」とか「植物園」などに変容させることは、可能である。
この場合の操作においても、明らかに重要なのは、『イデーン�-�』で詳述されていた「現象学的還元」すなわち、実在論的世界のカッコ入れである。

都市で生活する時、生活の画一化が起きる。
例えば、「昨夜コンビニに行った」という行為は、しばらくすれば、また反復されるだろう。
つまり、「昨夜」という時間的な概念が「早朝」とか「昼下がり」になったりするだけで、やはり「コンビニに行った」という行為は、今後も継続されるだろう。
これと同じようなことが、生活には無数にある。
「ポストから朝刊を取り出す」「靴を履く」「鏡の前に立つ」「シャワーを浴びる」「茶碗に白米を盛る」など・・・。
だが、現象学的還元によって、少なくとも「純粋意識」の世界だけでも、これらの緩慢な日常生活を、全て、( )入れしてしまえないだろうか?
つまり、私は、明日から、一切御飯を食べないし、靴も履かず、服も着ず、TVも観ない。
無論、実在論的地平においては、私の生活はこれまで通り、同じように継続されているのである。
だが、私の内在的知覚地平においては、金輪際、こういった実在的な要素を、そして日常生活のあらゆる視覚、行為なども、全て、( )に入れてしまうのである。
だとすれば、残存するのは、私の意識、絶対的残余として、世界に先立つこの「純粋意識」なのだ。
この純粋意識が、今度は、かつて実在論的地平において獲得した数枚の「孤島の風景」を、日常生活として、虚構する。
すなわち、私は、この現実世界を完全に遮断して、明日から、どこか知らない広大な海原に浮かぶ「孤島」で、楽園的な生活を始めるのである。
こういったことは、純粋意識が、この「孤島の風景」を、実在的地平に限りなく近接させた状態で、虚構することによって成立する。
そのためには、「現実生活における虚構的視覚の仮設」が条件となる。
つまり、私の世界は、�「都市生活(現実)」と、�「孤島生活(虚構)」という具合で、分岐するのである。
私は、いつでも、�から�への扉を開くことができるし、双方を交通できる。
例えば、�の世界で、赤信号で横断歩道を渡るまでの短い期間、�の世界の海で楽しいサーフィンをするといったような意識的体制が、成立可能となる。

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では、そもそも何故「孤島」なのか?
日常生活において、私の場合、憧憬や願望として想像される場は、常にそこである。
それは各人の意識によって差異を持つ。
だが、仮に私と同じく、「孤島」の現実への侵入を想定している人間が存在した場合、ここで非常にスリリングな概念が生まれる。
すなわち、「諸主観共存の虚構的世界」である。
私だけでなく、他者のコギトまでもが、同じように「孤島」を視覚的仮設していたとすれば、この孤島は最早、単に独我論的地平から生起した虚構的空間ではなく、間主観的な地平から産出された、「新しい日常」なのである。
無論、私と彼/彼女は、実在論的地平においては、平凡な日常生活を営んでいる。
だが、自他の純粋意識が絡み合い、交叉した、この架空の島においては、我々の理想的な、それこそ「エデン」に限りなく接近した生活が到来するわけである。
私が孤島の風景に意識的な癒しを受けるのは、そこがおそらく、「エデン」に類似した視覚的な空間だからであろう。
ということは、この視覚の古代、視覚の始祖にまで遡行すれば、我々の純粋意識は、“アダムの意識、アダムの視覚”にまで到達するわけである。
このように、私は「現象学的還元を経た島=エデン」という図式を、一つ提示しておきたいのである。


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ところで、同じく「孤島」を考究した小論を、『アンチ・オイディプス』の著者の一人が書いていたことを想起しておこう。
彼はあの小論で、「反復」の概念を地理学的な孤島の出現、再出現・・・に応用していた。
例えば、ノアの家族が到達したアラトトの山は、エデンの園の再現前化であるとしている。
デリダが『声と現象』で頻繁に用いていた言葉を用いれば、“représentation(再現前)”である。
表象されることは、常に代理である――「表象=代理」。

今の私は、「再現前化」の概念を、現象学的にうまく帰属させ切れないでいると思うのだが、私がいいたいのは、つまり、「孤島」は、常に哲学/神学にとって、何かある一つの真理を授ける場として機能しているということである。
孤島」に対して、私が異様な愛着を抱くのは、おそらくそこに、私がかつて、棲んでいたからである。
つまり、ノスタルジックな世界として、私の意識は、これらの孤島の風景を直観しているわけである。
これらの孤島の写真は、何かある原型となる場の、表象=代理である。
それを、私のようなカトリックであるならば、創世記的に、「あらゆる孤島の写真が持つノスタルジックな楽しさは、それらの島の風景が、エデンの園の再現前であるからに他ならない」ということも可能だろう。

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