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「引用」の本質とは何か?ーーアントワーヌ・コンパニョン『第二の手、または引用の作業』読解(1)

Guinevere Van Seenus Sasha Pivovarova by Paolo Roversi
Guinevere Van Seenus Sasha Pivovarova by Paolo Roversi

コレージュ・ド・フランス教授でフランス文学を教えている、現代ヨーロッパを代表する文芸理論家アントワーヌ・コンパニョンの若干二十九歳の処女論稿『第二の手、または引用の作業』(1979)の「シークエンスⅡ基本構造――引用の記号学」を読了したので、その記録を残す。

【引用の基本的図式】

例)ピエール・メナールとセルバンテスの場合

t … 文面自体
T1 … セルバンテスの『ドン・キホーテ』
T2 … メナールの『ドン・キホーテ』
A1 … セルバンテス
A2 … メナール
※F … 引用を生み出す力
※T=F(A2、T2) … 「力」を媒介させた上での引用行為の基本形式。常にT(テクスト)は二次的であり、原理的にいって起源のテクスト(A1、T2)はどこにも存在できない、ともいえる。

S … A、Tから成り立つ記号論的システム
S(A、T) … テクストのシステムの基本形式
S1(A1、T1) … セルバンテスのテクストのシステム
S2(A2、T2) … メナールのテクストのシステム


前提として、T1とT2は同一のテクストである。A1とA2は主体における差異であるため、時代・文化・個性によって必然的に差異化する(コンパニョンは「時間-空間的状況を表示する指標記号における差異」と表現している)。
バフチンはT1→T2への移行を、「対話」と呼んでいた。コンパニョンは「橋」、ないし端的に「関係」と呼称している。
このように図式化すると、S1とS2は、それぞれ“独自な記号論的実体”を構成していることが判然とする。T1とT2はテクスト同士では同一であるが、A1とA2において差異化するために、そのテクストのシステムS1とS2も必然的に差異化する。ゆえに、S1とS2は交換不可能である。
ここで注意せねばならないのは、コンパニョンがテクストの表面上では同一性に帰属されるT1とT2について、「還元不可能な差異」の内に置かれていると規定している点であり、ここは特筆すべきである。その理由は、彼がテクストのシステムを常にSとして一体的に把捉し、TとAの個別的な要素のみではテクスト自体が成立しないと考えているからである。したがって、たとえ同一の文字の配列であっても、メナールのテクストとセルバンテスのそれは同一ではないのである。

【引用概念を理解するための基礎】

自身の引用概念を理論化する上で、コンパニョンはバンヴェニスト、パース、クインティリアヌスらに学びつつ、ソシュールを批判的に摂取している。まず最初に要点として抑えておくべきなのは、クインティリアヌスの「比喩」の定義であり、これがそのままコンパニョンの「引用」概念として発展する基礎になっている点である。「比喩(トロープ)とは、ある語またはある文について、それをその固有の意味から、別のより強い力を持った意味へと移動させる変化である」(クインティリアヌス、p94)。
ソシュールのラング/パロールの対立関係を、バンヴェニストはラング/ディスクールへと修正した。ラングとは、「言語活動・記号の世界」を意味し、ディスクールとは「ラングの生きた顕現」であり、端的に「文の世界」である。「間ディスクール性」とは、ディスクールAとB、あるいは他の文たちとの間で結ばれる関係を指す。
以上から、まずもって「引用」とは「根源的な“間ディスクール的関係”」と規定される。具体化すれば、「引用、諺、レプリカ、リフレーン、模作、註釈など」が、間ディスクール的関係に含まれる。「引用」において重要な概念は「反復」であり、コンパニョンは「反復はディスクールの中で関与的なものとなっている」と述べている。
コンパニョンは、バンヴェニストを批判的に看取して「文面(ある文章そのもの)が一つの記号になり得る」と解釈している(因みに、バンヴェニストは「文=記号」の等式を否定した)。文、すなわちディスクールとは、「取替えのきかない、不可逆的な経験的唯一性」を意味する。したがって、たとえ引用によって同一のテクストが再現されたとしても、S2はS1に対して“個別的”なのである。換言すれば、「S1かつS2という関係性」によってのみ、「引用」は把捉される。
引用する以上、引用する主体は引用したテクストに何らかの「意味」を賦与するはずである。「引用は、ある文面に対して<観念性の記号価値>を与えるもの」である。

無題25423523

上図のようにパース記号論の三項関係を表現する。

O … Object(対象)
R … representamen、あるいはsigne(記号)
I … interprétant(解釈項)


例)Rを「血」とすると、Iは「殺人」、「供儀」、「鼻血」…と解釈項は無限に連鎖していく。
パースにとって「意味」とは、「記号の解釈項」を指す。セルバンテスのt(S1)はO(対象)であり、メナールのt(S2)はR(記号)になる。「解釈項が単数であるということはけっしてなく、それは常に<系列的>である。すなわち、ある引用の<意味>は無限であり、解釈項の連続継起へと開かれているのである」(p82)。

「象徴の定義は、第三項がなければ、最早意味をなさない。つまり、象徴にとって表意体が対象と関係を持つのは、それを第三項すなわち解釈項に結び付ける法や慣習があって初めて可能だからである」(p85)
先の図で示したように、「解釈項の系列には終りがない」。解釈項が無限に続く以上、スコラ的な「記号」概念である、“aliquid stat pro aliquo”(あるものが別のあるものの代わりをする)という、一対一関係は否定される。この否定は、パースだけでなく、クインティリアヌスの<シグヌム>概念にも見出せる。コンパニョンはこのコンテキストでクインティリアヌスを再評価しており、彼の「記号」概念である、“per quod alia res inteligitur”(それによって別のものが了解される)を踏襲している。ここでaliaとは、「複数的な別のもの」であり、パースの解釈項が無限に続くことと相関する。すなわち、「記号」はシニフィアン/シニフィエという一対一関係では規定できないのである。
「引用は最も単純な記号のひとつであり、テクストを循環する標識である」(コンパニョン)。「引用」はアレゴリーとして法廷での「召喚」にも擬えられる。

【人はなぜ引用するのか?】

引用者の心的動因力は以下のように二分解できる。

・ 内的促し
・ 誘惑


例えばヴァレリー・ラルボーは引用に所有欲、コレクター精神を感じていた。人が引用するのは、「みせびらかし、誇示」としてのincitation(内的促し/顕示の欲望)に拠るというのがコンパニョンの強調する点である。
「引用の反復価値は、二つのシステムS1(A1、T1)とS2(A2、T2)の間に設定される対応関係によって支えられる。その価値は、すなわち<誘惑>と<内的促し>の原理にしたがって動機付けされており、なおかつ偶発的なものである」(p93)。
反復価値の複合」は、パース的にいうと「新たに生成し続ける解釈項」であり、それらは「同一の記号表現」では最早ないのである。

【comprendre(理解する)と、interpréter(解釈する)の差異】

「理解するというのは、全体化する身振り、包括する身振りである。理解は、全体を把握し意味を取り囲み、その輪郭をはっきりさせることで、ディスクールに<一貫性>を与える。それに対して、解釈するというのは、二つのものの間に身を曝し、それらにきっかけを与え絡み合わせ、そして常に仕損じることである。仕損じるというのは、何事かがその解釈に対して常に抵抗するからである」(p99-100)
ハイデッガー存在論的に解釈すると以下になる。

・ comprendre(理解する) … consistent(共に-存在する)ことを目的にした関係。
・ interpréter(解釈する) … ex-sistence(外部-存在)。切り抜かれ、接着される関係。「それはひとつのアクシデントである」(コンパニョン)。


「引用の価値は、解釈に先立っては存在しない。反復に含まれた諸々の力を評価して、反復価値を生み出すのは、解釈なのである」(p101)

【引用の種類/パターン】

全てのテクストはこのどれかの定式に当てはまる。
以下の定式はパースの基本形が前提となっている。

アイコン(類像記号) … 対象の何らかの性質を有している場合、類像記号はその対象を<展示する>。
インデックス(指標記号) … 対象との存在的な関係の中にある場合、指標記号は対象を<表示する>。
シンボル(象徴記号) … この記号は対象を参照するものであるとして解釈されることを含意する法則に従って、解釈項と関係付けられる場合、象徴記号は対象を<意味する>。



(1) T1- T2 [symbole/象徴記号]

数学の定理や、定言化された作家からの引用など。

(2) A1‐T2 [indice/指標記号]

例)バルザックについての論文における、バルザックからの引用文。A1はバルザックであり、T2は「引用されたバルザックのテクスト」である。

(3) S1(A1、T1)- T2 [icône/類像記号]

例)バルザックについての論文を書く行為におけるテクストのシステムの図式。S1はバルザックのテクストのシステム全体であり、ハイフンを挟んでT2と結ばれていることで「論文を書く行為」を意味する。もちろん、論文を書いている主体はA2である。

(4) T1-A2 [diagramme/ダイアグラム]

ダイアグラムをメモするだけの行為における関係性

(5) A1-A2 [image/イメージ]

「猥らな引用」。原理的には、全ての書き手はこの図式の支配化にある。「イメージとしての反復」なので、T1、T2の関係はクリプト化されている。良くいえば、「枕頭の書からの引用」。

【メタ言語の定義】

あるテクストT(L1)に対するメタ言語《T》(L2)の関係。

langage-object(L1) … 対象言語。対象について語る文面。
métalangage(L2) … メタ言語。対象言語を対象としたもう一つ別の文面を構築した文面。


「会話や対話においては、ひとつひとつの台詞が前の台詞に対して、そのメタ言語を配置する」(コンパニョン)。
S1(A1、T1)のメタ言語はS2(A2、T2)である。引用する行為(ギユメ《 》を付ける)は、全てメタ言語を生成させる。

【フレーゲの図式によるピエール・メナールの正当化】

sens(意味) … 対象を指し示す仕方に照応した意味。
dénotation(外示) … 記号が指し示す制限された対象。


例えば「コンパニョンの引用論」の言い換えである、「水声社で刊行された『第二の手、または引用の作業』」は、同一の「外示」(対象)を持つが、異なる「意味」(記号表現)である。この関係から、「S2における《T》は、S1におけるTとは異なる」ことが導出される。

T … ある文面。
《T》 … ある文面Tの引用(直接話法)
T´ … Tを換言した文面(間接話法)


この場合、T´はTの意味を保持し、展示し、外示することができる。一方、引用された《T》は、Tの意味を覆い尽くし、埋没させると解釈される。
ボルヘスの生み出したメナールの『ドン・キホーテ』がセルバンテスのそれと差異化されている理論的背景として、以下のテクストが重要である。「ある命題(S1におけるT)が引用される場合(S2における《T》)――これはまさに、フレーゲがその論文「意味と外示」の中で、ライプニッツの命題を報告しながら行っていることそのものなのだが――その時、《T》は<新しい命題>である。引用が問題となっている以上、その外示自体がひとつの命題である(《T》はTを外示する)」(p119)。
実際、メナールはライプニッツ研究者であった。

【結論】

多様な分析は全て同じ結論に達する。つまり、ある文面をそっくりそのまま引用する行為によって生じるのは、そのテクストの「同一性」ではなく「差異」である。テクストが常にS(システム)である以上、引用による反復行為の定式はS1≠S2である。
「反復する言表行為である引用が現れるテクストにおいては、引用はひとつの出来事であり――ある言表行為は常に一回的な出来事である――新たな連辞のなかに(再び)取り込まれた、ディスクールの分割できないセグメントである」(p122)。
ビュトールの印象的なテクスト。
「個人的な作品などというものは存在しない。ある個人の作品とは、文化の織物の内部で生産される結び目のようなものであって、その織物の中に、個人は浸っているのではなくて、<現れて>いるのである。個人とは、元来この文化の織物のひとつのモーメント(因子)である。従って作品とは常に集合的なものである。私が引用の問題に関心を持っているのは、そもそもそのような理由からである」(p124)。
コンパニョンが述べるように、テクストは常に様々なfragmentsから構築されている。どのfragmentsもS2の関係にあり、したがって引用の構造の支配下にある。バルザックが書いたテクストについての論文を書く行為の中で、バルザックのテクストを断片的であれそっくり引用する行為は、引用文に新たな「解釈項」を与える限りで、「新しい意味」を形作っているといえる。




「参考文献」

第二の手、または引用の作業 (言語の政治)第二の手、または引用の作業 (言語の政治)
(2010/03)
アントワーヌ コンパニョン

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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

03/30のツイートまとめ

tomoichiro0001

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-30 21:39

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-30 21:16

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-30 20:42

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-30 20:17

「ある日、奇妙な塔で暮らす少年に出会い、間もなく大津波がやって来るという予言を知らされて……。切実なメッセージが込められた、〈書く〉ことと〈建てる〉ことの真意を問う3.11以後の新しい文学」鈴村智久『空き地と津波』http://t.co/8y4W9zKe6V
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「ボルヘス文学と〈Web〉が革新的に融合した〈来るべき文学〉の誕生。〈個性〉の分散が加速する現代社会の中で、〈存在〉の在り方を探究した黙示録的な注目の最新短編集」鈴村智久『聖アントニウスの誘惑』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/hohcwdynZi
03-30 12:38

この30日間のブログ拍手数257というのが多い方なのかよく分かりませんが、私の書いた記事をかなり真剣に読解して下さっている方が沢山おられるようで励みになっています。
03-30 02:02

彼女と夜桜を見て、春の到来を実感。日曜日はゆっくり過ごせて良かった。
03-30 01:58

RT @lunar_shirayuki: 水墨画みたいな夜桜・・・ http://t.co/hE3SaGX6Vs
03-30 01:54

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ユダヤ一神教的な「神」を一つのオブジェクトとして把捉する、というのはルーマンの宗教システム理論とも相関する気がします。現代の多中心化した宗教情勢の中では、キリスト教システムも実は「世界」を覗くための一つの「チャンネル」に過ぎない、という自認を、他者との対話のための前提として持つ。
03-29 20:06

実は最初のコンセプトとして、50年後、100年後の単位で「近未来社会」をあらかじめ想定し、その上で伝統的な形而上学批判を行う場合の方が、もしかすると哲学はラディカルになるのかもしれません。つまり、最初にあるのは未来世界の思想を予測する「想像力」で、「概念」はそれに後続する、と。
03-29 19:44

現代思想でデリダ、ドゥルーズ、フーコーが話題だった時代は既に終わりを告げたようですね。これからの「新しい文学」を考える上でも、『現代思想』で話題になっている「思弁的実在論」の動向は今後極めて重要だと思います。
03-29 19:36

グレアム・ハーマンはラヴクラフトの研究書も刊行されているようだけれど、星野氏の論稿を読んでいて、オブジェクト同士のあいだには離れていても「感覚的エレメント」において渦状のネットワークのようなものが存在している、という点に、何か心霊主義とも相関するような気配を感じてしまった。
03-29 19:31

星野太氏の「第一哲学としての美学ーーグレアム・ハーマンの存在論」読了。「オブジェクト指向存在論」や「代替因果」など、魅力的な概念について極めて分かり易く解説されている。特に「神もひとつのオブジェクトに過ぎない」という箇所には、不思議にも弐瓶勉氏の『BLAME!』の世界観を想起。
03-29 19:27

人気作家の京極夏彦さんなども登録している、Amazonでの鈴村智久の専門ページがオープンしました。今後も応援よろしくお願いいたします。 http://t.co/xpkxy7A0A6
03-29 14:23

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03/28のツイートまとめ

tomoichiro0001

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03-28 20:43

RT @norwayyumenet: 美少年役はスウェーデン人です“@dqhossy: ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』の魔性の美少年役、ビョルン・アンドレセンが作中で着てたこのセーラー衣装の本物が金子国義先生が所蔵してると知ってすげービックリしてる。 http:/…
03-28 20:20

RT @yuri030916: 1976年3月17日にはイタリアの偉大な映画監督ルキノ・ヴィスコンティが亡くなっています。そして、2015年3月17日、日本の偉大な芸術家、金子國義さんが亡くなりました。 http://t.co/A4DrT0FEiC
03-28 20:20

RT @KarinSunagare: 今更だけどルキノ・ヴィスコンティに興味を持った。そうか~、「ベニスに死す」の監督だったのか。ビョルン・アンドレセンが綺麗なのが印象的だったなぁ(本当に私はクレジットを見ないなぁ)。
03-28 20:19

RT @takaya_0822: ルキノ・ヴィスコンティ『ベニスに死す』観た。オープニングからしっとりとした質感のカメラが、この作品が恋愛映画であることを告げる。ダーク・ボガードの恋との距離がよく分かるのが面白い。彼が美少年を見る姿は、誰もが一度は経験したことのある初恋の姿だ…
03-28 20:19

RT @suzu1arbre: オムニバス映画「ボッカチオ'70」の第3話 ルキノ・ヴィスコンティ監督の「仕事中」で、衣裳を担当したココ・シャネルが出演者のロミー・シュナイダーにフィッティングしている。Coco Chanel and Romy Schneider http:…
03-28 20:18

RT @suzu1arbre: ルキノ・ヴィスコンティ監督と女優ロミー・シュナイダーが「仕事中」に…Luchino Visconti and Romy Schneider at a rehearsal in the set of "Boccaccio '70” http:…
03-28 20:18

RT @barth_lotr: ルキノ・ヴィスコンティが気になる
03-28 20:18

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『ジャン・サントゥイユ』に描かれたプルーストの生誕地ベグ=メーユの海辺について

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フランス、ブルターニュ地方、ベグ=メーユの浜辺

 若きプルーストの『ジャン・サントゥイユ』には、『失われた時を求めて』にも受け継がれていく叙情的で牧歌的な美しい自然描写が描かれている。とりわけ特筆すべきなのは、ベグ=メーユ(beg meil)の半島における「浜辺の読書と安逸――月の光」と題された海辺の描写ではないだろうか。このベグ=メーユという土地はフランスのブルターニュ地方の小村であり、作家プルーストがこの世に生まれた地である。それだけでなく、実はこの『ジャン・サントゥイユ』という作品自体が、「作家C」の自伝的小説という形式を採用したメタ小説的な構造を持っており、彼がその作品を書き始めたのが1895年の9月、このベグ=メーユの地においてなのである。つまり、ベグ=メーユという田舎の村こそ、まさにプルーストにとっての精神的な意味も込められた「故郷」なのだ。(引用は全て筑摩書房版『プルースト全集』に拠る)

 たらふく昼食を取ってから、ジャンとアンリは本を持って、浜の西側から始まる小さな砂丘に寝そべりに行くのだった。彼らはそこに横になる、けれども、時々長いあいだ本を読もうともしないことがあった。互いに気がねなく読書に没頭しようと、二人は少し離れた所に場所を占めるのであったが、砂丘の起伏のために、また砂の上にはただ空と海と絶えず飛翔を続けるかもめの姿しか見えないので、二人はそれぞれ自分が全人類から隔絶されていると信じ込むこともできるのであった。…ジャンは毎日のように同じ作品を携えて行った。やがてそれは二巻目になり、ついで三巻目になった。彼はパリに手紙を書いて、同じ作者の他の著作を送ってくれるように、また作者の生涯に関して何かを教えてくれるようにと頼んだ。(12巻、p122)


 ここに登場している少年アンリはジャンの親友のクラスメイトで、本名はアンリ・ド・レヴェイヨン、父は公爵である。ちなみに、ジャンが浜辺に携えて行く本というのは、『宝島』の作者スティーブンソンの作品である。これが実際のプルーストが読んでいた本とは一致していない可能性があるが、むしろ一致していない方が、つまり『宝島』の作者である方が、いっそうこの場面の「童心」を鮮明に映し出すのではないだろうか。

rhdrhyrdyh.jpg
フランス、ブルターニュ地方、ベグ=メーユの浜辺

 少年時代のジャンの読書遍歴についても本作では細やかに綴られている。ジャンの母はラマルチーヌの「みずうみ」を勧めたりするが、ジャンはむしろヴェルレーヌの「都に降る如く、我が心にも涙降る」を好むような感傷的な少年であった。アンリ四世中学校時代になると、ヴェルレーヌだけでなく、パルナス派の詩人ルコント・ド・リールに耽溺するようになる。ルコント・ド・リールについては、「人生が夢であり事物が虚無であることを目覚ましい力で語る」という評をジャン自身が与えている下りもある。しかも作中のジャンは、将来書き上げられるであろう自分の全著作の冒頭に以下の言葉を刻むつもりだったというから、その傾倒は特筆すべきである。

なぜなら生きるとは既に虚しいことだからである。またしても無限の空間の方に屈みこんで眩暈を起こさぬようにと、彼は詩の中ではそのことを語るまいと思ったが、しかし未来の彼の著作がどれほど純粋に造形的なものであろうとも、自分の全著書の冒頭に次のように記そうと決意したのであった、「この書物の著者は、フランスが彼より千倍も大きく、ヨーロッパはフランスの百倍も大きく、また太陽は……、ということを考えた挙げ句に……、この書物の著者は今や全てが虚しく、この書物も他の諸々のものと同様に虚しいことを知っている。とはいえ人は生きねばならず、想像力を有する者は書かねばならないから、作者は先に進んで行くのである。」と。その後、ルコント・ド・リールの、

古代の生活は尽きることなく
空しい外観の、終わりを知らぬ渦巻きより成る。

     『悲劇詩集』中の詩篇「ラ・マヤ」より

 この詩句を読んだジャンは、彼の著書の冒頭にこれを記し、その下にただ次のように書いておこうと決心した、「この書物の著者は、全てが虚しいことを知っている。だが……」(11巻、p314)



 その他、ラシーヌの『フェードル』、ラ・フォンテーヌの『寓話』、コルネイユの『シンナ』など、多くの古典作品にも慣れ親しむようになっていく。教師からの影響面では、最も尊敬しているブーリエ先生の考え方、言動に共鳴するようになる。「精神の高さは地位の高さとは無関係である」という言葉にも見られるように、彼は財産や外見では人間をけして評価せず、事物の本質的な非実在性にも気付いている聡明な教育者として描かれている。
 センチメンタルで繊細、そして厭世的な詩人を好むジャンだったが、一方でプルーストは以下のような印象的な描写も残している。これは「時間」、とりわけ未来に属する「明日」の時間について希望的に綴った箇所である。

そして子供は、「今日」のうちに何一つ見つけられなかったからといって悲しむこともない。「明日」があるではないか。彼の眠っているうちに、まだすっかり包み隠された「明日」が、もうそこに置かれているではないか。それはちょうど元日の朝、ランプに照らされて、紐のあいだにカードの挟まれた大きく神秘的な贈り物が彼を待っているようなもので、彼は誰よりも先にその紐を解き、それを眺め、それに触れ、喜び勇んでそれを持ち去ることができるのだ。「明日」は彼にとって、永遠にまで広がっている一世界のように見えるのであった。けれどもその「明日」が「今日」になった。すると、あの新たな「明日」が新しい世界となるのである。(11巻、p330)

 
 次に、農園の場面に触れてみよう。ここでも、以下のような煌めく抒情描写が特徴的である。

「小さな松林――林檎の木の下の農園」

小さな林に着いた時、ジャンとアンリは、もう風を感じなくなっていたのである。二人は互いに相手の邪魔にならぬよう、かなり離れたところに陣取った。そして事実、二、三分もすると、アンリはもう自分がどこにいるのかも忘れてしまう。その時ジャンは、まだ座る場所を探しながら、本を読み始めてもいないことがしばしばであった。軽やかな風の息吹以外に何も感じられなくなった二人の耳には、絶え間のない風の囁きが、まるで波の音を聞くように響いていた。そして顔を上げるたびに、ジャンは眼の前に、宏大な空を見るのであったが、それは果てしのない海のように静かで蒼々としており、近くに聞こえる囁きにも関わらず、遠くの方は穏やかに凪いでいるのだった。…やがて疲れを覚えて、本を置くと、読書によって一つまた一つと彼の内部に浮かび上がってきた思想に、太陽の光が射し込んで来て、それを輝かせるのであった。風もまた、あらゆるものに刻印する軽い動揺によって、何の努力をするまでもなく、それらの思考をいっそう早く動かしていく。ジャンには、それが逃れ去っていくように感じられるのであった。(12巻、p288)



二人は葡萄畑のあいだを抜けて降りて行くのだったが、燦々と太陽を浴びて輝いている葡萄畑には、ジャンと同じに歓喜が染み通っていた。こうして彼らは農園に着く。すると、太陽に愛撫されているその農園の石段は、ジャンの微笑に微笑でもって答えるのであった。それから二人が林檎の木陰で飲み物を摂り始めると、今はもう実をつけている林檎の木は、春の花こそずっと以前に散っているものの、未だにその繊細な枝々の優雅な絡み合いの中に、春に備えていた魅力の何ほどかを留めており、それが青春を思わせるのであった。(12巻、p289)


 『ジャン・サントゥイユ』には、ジャンを中心にした生活風景の他に、語り手自身の思索、内省も断片的に挿入されている。このような「描写」と「思索」が交互に、あるいは溶け合って展開されるスタイルは『失われた時を求めて』にも採用されている。

結局のところ、我々の思考の節度においても、我々の肉体の健康法においても、善ないしは幸福の探求に関しても、友人なり愛人なりへの信頼、または一つの目標を信ずる場合でも、我々は常に信仰と懐疑のあいだを揺れ動くものである。あるいはむしろ、その二つを同時に感じるものである。おまけに我々は、今まさに人生を失敗しつつあるのかどうかを、けして知ることがない。とりわけ働くという点で我々は誰しも、無意味で馬鹿げた仕事のために一生涯働き続けた『ミドルマーチ』(ジョージ・エリオット作)のカソーボン氏(牧師)に、いくぶん似ているものだ。…おそらく、我々が信仰を抱くか、ないしは懐疑を持つかは、我々の思想の価値や重みを表明しているのだろう。また、我々が物を書き終わってから、がっかりしたり、満足したりするのは、我々が作り上げたものの価値を示しているのだろう。(12巻、p285)






「参考文献」


楽しみと日々/ジャン・サントゥイユ 1  プルースト全集 11巻楽しみと日々/ジャン・サントゥイユ 1 プルースト全集 11巻
(1997/02)
マルセル・プルースト

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プルースト全集 12 ジャン・サントゥイユ 2プルースト全集 12 ジャン・サントゥイユ 2
(1997/02)
マルセル・プルースト

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テーマ : art・芸術・美術 - ジャンル : 学問・文化・芸術

首都大学東京(フランス語圏文化論)准教授で日本を代表するデリダ研究者として名高い西山雄二先生が鈴村智久の詩集『薔薇苑:ROSERAIE』』をRTして下さいました!


薔薇苑: ROSERAIE薔薇苑: ROSERAIE
(2015/04/08)
鈴村智久

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遂に鈴村智久による処女詩集『薔薇苑:ROSERAIE』が発売しました。
ドゥギー、デリダ、ヴァレリーをめぐる三つの詩論を併録しています。
どうぞよろしくお願い致します。


内容紹介

「我、恋する、故に我は言語である/我、詩作する、故に我は恋愛である」、このたった一つの信条の下、〈貴族〉、〈薔薇〉、〈輪廻転生〉、〈オペラ〉など、様々な詩的概念を駆使して愛の迷宮を生成させた、鈴村智久による二十三篇の魔術的な恋愛詩集。
同時に、ドゥギー、デリダ、ヴァレリーに関する三つの先鋭的な詩論を併録。
(装訂/門倉ユカ)

【なぜ、詩でなければならないのか】

 現代フランスを代表する詩人で、哲学者でもあるミシェル・ドゥギーはかつて『奇数』という詩集の一篇「夏」において、以下のように綴った。

「夏は、言語の中にあってこそ存在する」。

 換言すれば、été(夏)という文字の中には、我々が毎年経験しているあの夏の全てがあることになる。これはいったい、どのような想念のもとに発せられた断定なのであろうか。私にとって最初の詩集となる本書は、付属の論稿三本も含めて、全てこの言語にとって決定的な問いを、新たに問い直す作業によって成立している。基本的に本書に収録された二十三篇は、恋愛や官能を主題にしている点で共通しているが、書き手にとって本質的な謎であったのは、詩的言語の内部において、「何が」生起し得るかという命題だった。より正確に言えば、詩を読み、書く行為において、我々の生を更新させるような力が生起しているのだとすれば、それをひとつの「出来事」として解釈すべきであるのかが、私にとっての最大の問題だったのである。だとすれば、ドゥギーの先の一節にもあるように、果たして言語によってamour(恋愛)は語られ得るに値するものなのか、あらゆるドラマティックな局面における情動性を文字にする行為において、そこでは「何が」生起し得るのか、それを問い直しつつ書くことこそが、私の詩作の課題であると考えた。
 近年の『現代詩手帖』で掲載される対談や講演録からも判るように、現在、詩を書くことはいよいよ困難になりつつあると言われている。言語がすぐに揮発し、拡散して広がっていくこの高度情報社会の中で、我々にはなぜ「詩」が必要であると言えるのだろうか。私はなぜ、何のために、誰のために、詩を綴ってきたのだろうか。こうした問いを抱えつつも、私は日々生きていく上で時おり降下してくる何かに導かれるようにして、小説でもなく、論稿でもないもの、すなわち「詩」を綴ってきた。それは詩であることの必然からか、「愛」をめぐって綴られたものが多くを占めるようになった。
 これらの詩は、ひとつひとつが私にとって薔薇である。全ての薔薇は微妙に色合いが異なっている。その花言葉にもあるように、中には官能色の強いものもあるだろう。だが、こうして同じテーマ系のもとに二十三篇の詩を集結させると、グラデーションが少しずつ異なる、言語的な「薔薇苑」の様相を呈するのではないかと感じられた。詩集のタイトルにフランス語で薔薇苑を意味するRoseraieを冠したのは、まさに以上のような理由に拠っている。
 
(本書「前書き」より)

【目次】

「前書き」
『汝は美しい』
『薔薇苑』
『ねえ君 僕と踊ろう』
『聖夜が明けて』
『彼女に百億の花束を』
『僕らはいつでもここに戻って来れる』
『夏の想い出』
『愛のディアレクティケー』
『灼熱のクピド』
『小鳥の肉体』
『夜の女王』
『ヘンゼルの死』
『クピドたちの饗宴』
『ウロボロス』
『貴族的時間』
『貴族的発情』
『 Siamese 』
『 VaNITaS 』
『夜を駆ける』
『君のスカートとその内なるイメーヌ』
『再会』
『もし君が水死しようものなら』
『愛そのものの裸形』

【ドゥギー、デリダ、ヴァレリーをめぐる三つの詩論】

・付論A
 〈夏〉はどこに存在するのか?――ミシェル・ドゥギー『愛着』をめぐって
・付論B
 「我、恋する、故に我は言語である/我、詩作する、故に我は恋愛である」――グラマトロジーから「恋愛詩」へ
・付論C 
 そのたびごとにただ一つの詩作――ポール・ヴァレリー『詩学講義』の余白に


テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

03/27のツイートまとめ

tomoichiro0001

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-27 21:40

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-27 21:16

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-27 20:42

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-27 20:17

RT @BaddieBeagle: "世界的建築家の代表作がついに!英語版より選り抜いた論考にその後の主要作を加えた日本版オリジナル編集。彼の思索のエッセンスが詰まった一冊":レム・コールハース/渡辺佐智江,太田佳代子『S,M,L,XL』 http://t.co/FAXWAqQ
03-27 19:43

RT @editions_azert: 『ユリイカ』2015年5月号特集「ポール・トーマス・アンダーソン(仮)」、『現代思想』2015年5月号特集「精神病理の時代(仮)」。2015年4月下旬発売予定。http://t.co/nmeWSKSQmi
03-27 19:43

RT @hirakurakei: シネマート新宿、平置きしてあった…!ありがとうございます http://t.co/h1Y9WbwhB4
03-27 19:42

RT @tanaka_hitoshi: 国立国際美術館のフィオナ・タン展はいろいろあって結局3回見に行くことになった。《興味深い時代を生きますように》を見たあとで転がり落ちる作家を見るのはなかなか感慨深いものがあった。今回は会場で某先生と偶然お目にかかって、忙しいから最近出不精…
03-27 19:36

RT @H_YOSHIDA_1973: 阪大では美学と文芸学が同じ専修なんですね。だからその文芸学研究会に美学の人もたくさん来ていると。
03-27 19:35

RT @MasahiroKitano: 自分の出身講座の理念が、わけの分からないものになってしまって悲しい。「現代文芸学と西洋古典学との統一」かつては端的に「文芸を対象とする美学的研究」だった(記憶による)のに。ずっとギリシア・ローマを研究対象とする教員がいたのは確かだけれ…
03-27 19:34

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03/26のツイートまとめ

tomoichiro0001

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-26 21:39

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-26 21:16

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-26 20:41

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-26 20:17

RT @shinjifukuhara: レオス・カラックスの「汚れた血」の劇場公開時の日本語字幕は松浦寿輝先生だった。セリフがカッコよくて何回見てもゾクゾクしたものだ。「君とすれ違うと僕は世界とすれ違ったことになる」こんなセリフ、なかなか書けない。
03-26 19:05

RT @asakue_: 水はしたたりおわった稲光は遠ざかった夏の旋律は絶えた鶏が数羽くびり殺され蒼ざめた血が鋪石のうえに撒き散らされた汚れた魂となってわたしは歩いた極北の島の海辺で――松浦寿輝『そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所』
03-26 19:00

RT @superflat_2: 思弁的実在論の美術への影響や応用のヒントですね→「メイヤスーがマラルメを初めとする19世紀の芸術家たちの夢(神なき宗教としての芸術の創造)を真正面から取り上げなおそうとしていることは、少なくとも時代の兆候として興味深い」http://t.co/
03-26 18:57

RT @getana_aug: へー、メイヤスーってこんなに若いのか! 自分がリアルタイムに活動を追うことが出来てかつ「おじいちゃん」じゃない人って(もちろん原理的にw)圧倒的に少ないからなんかテンション上がったわ。/https://t.co/CHcPT6kGjY
03-26 18:55

RT @yuji_nishiyama: 「私がここに来たのは、シャルリ事件以後の表現の自由のためです。このブックフェアこそが、この自由への答えです。思想への信頼、文学への信念による創造性、表現、思考を保たなければなりません。フランスはつねに創造者の側に立ち続けるべきです。」 h…
03-26 18:44

RT @nstn49: 出版文化再生]ブログ:II-3 小林康夫最終講義のおそるべき一日 http://t.co/Ndbm7m6TIg
03-26 18:43

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次の百年の文学のための最重要概念――郷原佳以『文学のミニマル・イメージ モーリス・ブランショ論』読解

  真 JULIA NOBIS BY DEREK HENDERSON FOR RUSSH #34 のコピー
JULIA NOBIS BY DEREK HENDERSON FOR RUSSH

【郷原佳以のモーリス・ブランショ論について】

 ジャック・ランシエールによれば、ブランショの文学理論は「イメージの終焉」という体制が行き着いたひとつの到達点であり、ブランショはイメージとの癒着から脱却した純粋なエクリチュールを志向した思想家であるとされる。郷原氏はこれを「現在多くの読者のあいだで共有されているブランショ像を要約的に示すもの」として、そこから全く別の新しいブランショ像を提示していく。その前に、序論ではブランショが追求した最も重要な概念として「エクリチュール」が挙げられるが、これを支える諸概念として以下(従来までの解釈)が列挙される。

「ブランショのエクリチュールを支える諸概念」

・非人称性
・不在
・〈ひと〉、〈彼〉
・死ぬこと
・脱作品化
・外
・彷徨
・繰り言
・中性的なもの
・あいだにある対話
・断片的なもの


 これらにより60年代の構造主義的文脈における「作者の死」を準備したと評されるが、次の百年の文学の最重要概念を用意したとも目されており、ブランショ読解は現代文学を知る上で最早必須のイニシエーションである。郷原氏はそのブランショ論において、「イマジネール・ミニマム(最小限の想像的なもの)」という概念を核にして幾つかの諸概念を提示している。

【ミニマル・イメージ】

 ブランショの「イメージ」概念には以下の二つの特徴がある。一つは、「事物を捉え直す助け」になるもの。もう一つは、「現前としての不在へと送り返す」ものである。郷原氏は、後者の意味でのイメージを特別に「ミニマル・イメージ」と呼称する。では、「現前としての不在」とは何であろうか? 現前を考える上で重要なのは「今」の語源的解釈である。郷原氏は注p25の47で、「今」の興味深い語源について言及している。それに拠れば、maintenant(今)の語源はmain(手)でtenir(支える)であり、「現前」は常に何かによって「支えられている」ものである。ブランショはこのmain(手)に「不在」を見出しているのだろうか? 「現前としての不在」と彼が述べる時、その「支える」ものとしての手自体が、存在していないことを意味しているのだろうか? 
 ミニマル・イメージは第一のイメージの概念「事物を捉え直す助け」と切り離せないものだが、第一のイメージを支えつつそれに抵抗し、滞留するイメージである限りで、その「イリヤ」として「ある」(p107)。ミニマル・イメージは何ものかのイメージとして同定されることはないが、けして「無」ではなく、不透明な厚みをもった物質として「ある」。この場合の「ミニマル」について郷原氏は、ミニマル・アートがそうであるように、現実あるいは想像上の何ものかに送り返されることを拒む「重み」を有するものとして解釈している。それは端的に、「何もののイメージでもないけれどもイメージであるという意味で、イメージ化を拒む最小限のイメージなのである」(p107)。このように、ブランショはレヴィナスのような「イメージのイコノクラスム」とは距離を置き、「無神論的な反イコノクラスト」という立場を採用する。
 この概念は本書の結論「文学にイメージが〈ある(イリヤ)〉というこの〈驚異〉」においても改めて定義される。その記述によれば、ミニマル・イメージとは「表象的イメージを可能にすると同時にそれへの抵抗の条件ともなるような、イメージの零度のことである。このイメージの〈イリヤ〉が、文学の中心にあって文学を支えているのである」(p306)。また、ブランショのミニマル・イメージの概念は、松浦寿輝氏の『平面論』における「貌(かお)」の概念に相当すると、郷原氏は述べている。「松浦寿輝は『平明論』において、近代の空間を特徴付けるイメージを二種類に分割し、対象から等距離を保ちつつ再現してゆくイメージを〈像〉、不在を密着的に触知させつつ反復されるイメージを、ブランショの名と結び付けながら〈貌〉と名付けており、…ブランショのイメージにアプローチしようとする本章の観点は、後者の命名に通ずるものと思われる」(註p21、2)と述べている。正確に言えば、松浦氏が〈貌〉の概念を導出する際の発火源となったのはブランショではなくプルーストの『ソドムとゴモラ』における、「祖母の想起」の描写である。彼はそこにアウラを感じて、大量複製可能な像としてのイメージとは異質な一回性の聖なるイメージを見出したのだった。郷原氏は、この〈貌〉に、「ミニマル・イメージ」の概念が通底していると述べている。

【rien(無)とは、常に既にpresque rien(ほとんど無)である】

 郷原氏は、ブランショにおける「ミニマル・イメージ」の概念を抽出するために、(1)オルフェウス(2)バルザック『知られざる傑作』(ラストに描かれる神秘的な「カトリーヌ・レスコーの足」)について言及し、これらから共通して同じ概念を導き出している。それは、ブランショという作家がどれ程「イメージ」を捨象しようとしても、最小限の「ミニマル・イメージ」を浮上せざるを得ないということを証明するものである。ここで郷原氏がいう「イメージ」は、実質的にブランショの規定する意味でのrien(無)を言い換えたものとなっている。元々、rienという語はラテン語において「もの」を表すresの派生語であり、郷原氏はこれを踏まえた上で「いってみれば、rien(無)というものは、逆説的なことに、常にpresque rien(ほとんど無)であることしかできないままに、〈もの〉として残存しつつ、完成に、全体性に、無化としての絶対化に、抵抗し続けるのである」(p118)と述べている。また、ブランショ自身が「…何もないところでは無は否定されえず、それは存在としての虚無を、存在の無為を告げ、断言し、さらに断言する」(p119)と同様のことを述べている。つまり、ここで言及されていることを先に要約しておけば、人間の「イメージ」であっても、存在論的な「無」の概念であっても、完全な意味でそれらが純粋なる「無」に達することはありえず、常に何らかのミニマル・イメージを不可避的に帯びてしまうということに他ならない。ブランショだけでなく、レヴィナスですらil y a(ある)を述べるために「夜」などの様々な表現を用いている。すなわち、純粋な「無」など存在し得ず、常に人間が「無」を思考する限り、イメージ化が起きるということである。
 忘れてはならない言葉は、ブランショのrien est ce qu'il y a(あるのは無である)という表現であり、郷原氏がこれをrien(無)が、逆説的にpresque rien(ほとんど無)として「ある」と解釈していることである。これは氏の規定するミニマル・イメージの核心となる存在論的な要諦であって、ブランショのオルフェウス論、そしてフレンホーフェルを看取した「消滅」の理論も、全てこの定式を導出するための仕掛けとして機能している。

(1)【オルフェウス】

 ブランショは少年時代の「神なき啓示体験」について、以下のように述懐している。

空、この同じ空が、絶対的に黒く絶対的に空虚に、突然開きつつ、啓示する(破れた窓ガラスを通してのように)。全てがそこでははるか以前から、そして永久に失われてしまっているような不在を。あるのは無であり、そしてまず彼方には何も、という眩暈をもたらすような知が、そこにおいて確信され、かつ消え失せてしまうほどに、この光景の思いがけなさ(その際限のない性質)というのは、ただちに子供を覆い尽くす幸福の気持ち、荒々しい悦びであり、子供は涙、止めどなく流れる涙によってしかそれを表すことはできまい。人々は子供が悲しいのだと思い、慰めてやろうとする。子供は何も言わない。彼は以後、秘密を抱いて生きるだろう。最早泣くことはあるまい。(p109~110)


 ブランショはここで既に「不在」として到来すべき「啓示」に対して、「空が…絶対的に黒く…開きつつ…破れた窓ガラスを通してのように」という、はっきりした「イメージ」化を行っている。「不在」としての「無」が、実は「イメージが〈ある〉」という逆説的な図式を滑り込ませてしまうというこの事実について、実はブランショ自身が『文学空間』所収「オルフェウスの眼差し」(1953)で語っている。ロバート・グレイヴズの『ギリシア神話』(28章c)を参照したオルフェウスの「冥府下り」の該当記事があるので、以下にブランショのテクストと合わせて紹介しておこう。

オルペウスの妻エウリュディケーが毒蛇にかまれて死んだとき、オルペウスは妻を取り戻すために冥府に入った。彼の弾く竪琴の哀切な音色の前に、ステュクスの渡し守カローンも、冥界の番犬ケルベロスもおとなしくなり、冥界の人々は魅了され、みな涙を流して聴き入った。ついにオルペウスは冥界の王ハーデースとその妃ペルセポネの王座の前に立ち、竪琴を奏でてエウリュディケーの返還を求めた。オルペウスの悲しい琴の音に涙を流すペルセポネに説得され、ハーデースは、「冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件を付け、エウリュディケーをオルペウスの後ろに従わせて送った。目の前に光が見え、冥界からあと少しで抜け出すというところで、不安に駆られたオルペウスは後ろを振り向き、妻の姿を見たが、それが最後の別れとなった。(※出典:Wikipedia「オルペウス」)


オルフェウスは、エウリュディケーの方を振り返るとき、歌うことをやめ、歌のもつ力と手を切り、儀礼を裏切り、掟を忘れ去るのだが、それと同様に、作家はある瞬間において、全てを裏切り、全てを、芸術も作品も文学も、否定しなければならない。そうしたものは彼にとって、…自分が捉えたいと思っている未知に比べれば、歌うのではなく見たいと思っているエウリュディケーに較べれば、もはや何ものでもないように思われるのである。(p112)


 郷原氏はこのブランショのオルフェウス論が、彼の文学論を知る上で最重要にして必須の文献であることを強調した上で、「地上を目指して上ってゆくオルフェウスが掟を犯して冥府のエウリュディケーを振り返ってしまう、その注視こそが作家のインスピレーション(霊感)だとブランショは論じていたのである」(p112)と述べている。「したがって、作品創造の根源に掟の侵犯としてのある種の視覚の経験が想定されていることは疑いを容れない」(同)。これは、ランシエールらがブランショを「イメージの終焉」を体現した作家であるとみなす見解に対する強力な反論として機能している。
 オルフェウスが「振り返る」時、そこにはエウリュディケーの姿が「見えていた」はずである。つまり、そこには「像」がある。郷原氏は、このオルフェウスの「振り返り」を、「書くこと」そのものの本質として理解している。「〈書くこと〉は既に、死の中のエウリュディケーを振り返り、目にした後で書くこと、つまり〈書くこと〉の後で〈書くこと〉である。この終わりなき循環ゆえに、純粋な芸術は存在しない。しかし、むしろ純粋ではありえないものとして、芸術のようなものは〈ある〉」(p117)。郷原氏のこのブランショ読解を、我々はどのように解釈すべきなのだろうか? 少なくとも氏は「序論」で、ブランショが「イメージの終焉」の作家ではなく、「ミニマル・イメージ」の作家であることを主張するという主旨を予告していた。しかし、彼がここで達しているのは、「イメージ」というよりも、むしろ「エクリチュール」の本質それ自体の真理への急迫ではないだろうか。オルフェウスの「振り返り」が「像」を伴い、郷原氏がこの「振り返り」そのものを「書くこと」であると同定する時、そこで展開されているのは正確に「エクリチュールとイメージの等根源性」なのであり、書く行為に不可避的に到来するイメージ――すなわち、どれ程捨象しようとしても最小限度に到来せざるをえない「ミニマル・イメージ」に他ならない。ブランショのように、極度にイメージを排斥しているかに見える文体ですら、テクストの創出に当たっては最小限度に抑制された「振り返り」をせざるをえないわけである。だとすれば、エクリチュールという行為を「イメージ喚起力」の場であると規定した大江健三郎のような作家は、むしろトートロジーに陥っていたといえるのではないか。エクリチュールがイメージを喚起させるのではなく、エクリチュール(オルフェウス)が、イメージ(エウリュディケー)を振り返らせざるを得ないのである。双方は「視の関係」において分ち難く結合しているのであり、どれ程イメージを排除した文体であっても、我々はそこにミニマル・イメージを浮上させざるを得ないだろう。
 
(2)【カトリーヌ・レスコーの足】

 郷原氏は、バルザックの『知られざる傑作』に登場する老画家フレンホーフェルが描き、そして主人公である画家プッサンも垣間見たカトリーヌ・レスコーという女性の「足」について言及しながら、ブランショにおける「作品の消滅」のテーマに繋げている。ブランショは、「消滅」と呼ばれるはずのものを「完成」と呼んだ。そこで、まずバルザックの本作のあらすじを紹介しておきたい。
 物語はアンリ四世の御用画家フランソワ・ポルビュスのアトリエに集まった若き画家(主人公)ニコラ・プッサンと、かつてヤン・マビュースに学んだ老画家フレンホーフェルの三者によって開幕する。プッサンはフレンホーフェルの芸術信条を知るうちに、この老人の魂の内部に芸術の神アポロンに値するような何かを見出す。フレンホーフェルは芸術においてどこか狂信的な側面を持っており、自分が描いた《カトリーヌ・レスコー》(美しき諍い女)という絵に未だに「恋」をしている。このようにピュグマリオン・コンプレックスに支配されているフレンホーフェルが印象的な形で描き出される。ポルビュスも恋人と仲睦まじいプッサンに対して、「恋の果実はすぐさま消え去るが、芸術の果実は永久ではないか」と発言する。物語の終わりで、フレンホーフェルは《カトリーヌ・レスコー》を自ら破壊する。しかし、その前にプッサンの前には、神秘的な彼女の足が出現する。――以上、簡略的に紹介したが、郷原氏はこの最後の、芸術が白紙状態にまで還元された後に現前する謎めいた「カトリーヌ・レスコーの足」に注目している。
 ブランショは、「消滅」と呼ばれるはずのものを「完成」と呼ぶ。この意味深長な見解について郷原氏は、「完成」とは画家が「何もない」と確信できるような状態であり、通常とは逆の意味で、つまり「ない」ことにおいて「完成」する境地を指すと解釈する。しかし、「ない」ことにおいて「完成」した作品など、果たして真に傑作であると言い得るのだろうか? それは現前してはいない。だとすると、何が生起した時、ブランショはある芸術に「傑作」を見出すのであろうか?
 郷原氏がブランショ、バルザックについて論じた論稿で到達している考えは、「ブランショにとって、傑作の創造には〈何もない〉を妨げる何ものかが必要だということ」(p117)である。それは「無限なものが有限なものと和解した後になお残る、有限なもの」であり、「不在の現前の境界に立ち現れてくる何ものか」に他ならない。バルザックがフレンホーフェルをして描き出した「カトリーヌ・レスコーの足」とは、ブランショにとってオルフェウスがエウリュディケーを振り返ってしまうその「注視」と本質的に同じ概念を導き出すための伏線であって、それは常にブランショがこのような極限下の「ミニマル・イメージ」を追求していたということを結論付けるためのものである。ブランショにおける「カトリーヌ・レスコーの足」――それは、「作品の完成を妨げることによって作品の消滅を導くイメージの現出したもの」(p117)である。

【ロマン(roman)とレシ(récit)】

 エレーヌ・シクスーはかつてブランショの作品は「詩的ではない」と評しているが、彼が本当に「小説」を書いていたのかという問題について、郷原氏が本書で一定の解決を提示している。以下のように、氏はブランショの虚構作品を「ロマン」と「レシ」によって大別する。「ロマン(roman)」とは、「登場人物やエピソードの多い長編」であり、「レシ(récit)」とは、「主要登場人物が三人前後であり、エピソードも少なく、一人称の語り手には名前が与えられず、その語りはしばしば中断されるために物語的な一貫性に欠けるといった特徴がある」(p192~193)。

「ロマン」(三作品のみ)

『謎の男トマ』第一版(1941)、『アミナダブ』(1942)、『至高者』(1948)

「レシ」

『死の宣告』(1948)以降の作品



 カテゴライズする上で重要な分岐点となる作品は、『至高者』と『死の宣告』である。前者は物語性を持った長編小説であり、ロマンからレシへの過渡期に位置しているが、後者も同時期に「同じ一つの現実の二つのヴァージョン」として計画され、スタイルは「レシ」に相当する。興味深いことに、ブランショは『死の宣告』に続いて1949年に短編小説「レシ?」(後に『白日の狂気』に改題)を発表するが、その最後には「レシ? いや、レシはない、二度と、けっして」(p193)と締め括っていたということである。氏によれば、『至高者』にも「ロマン」が今後書かれ得ないことを作家自身が自覚したかのような側面があると解釈されているが、ブランショが「ロマン」と「レシ」のはざまで揺れ動き、文学作品としてのスタイル上の懊悩を抱えていた点を感じさせるに十分である。
 ブランショ自身はスタイルをどのように自覚していたのだろうか? 「私はintrigue(筋)という語を使った。確かにこの語はある絶望的な役目を遂行するように定められているのだが、それでもこの語はそれなりの仕方で私の感情を表しているのである。それは、私がhistoire(物語)ではなく、ある事実に結ばれているという感情なのだが、その事実というのは、物語がますます私に欠けていきそうになると、その貧しさが…私の生に残っているものを、残酷なまでにもつれたある動きの方へと惹き寄せていくという事実である」(p149)――郷原氏はこのテクストの「もつれ(embrouillage)」を、intrigueの換言とみなしている。つまり、ブランショ自身は自分の小説のスタイルが明らかに「物語」ではないことを自覚しており、その上で「絶望的」に、「ロマン」と「レシ」のembrouillage(もつれ)であらざるを得なかったのではないだろうか? ブランショが「物語」を書くことができず、「もつれ」=「筋」に「絶望的な役目」を見出しているという、このスタイル上の自認は極めて重要である。というのは、それは今後ブランショの遺産を相続し、新たな文学を創造しようとする次世代の作家たちにとって、「ブランショの様式に倣う」とは、詰まるところ「レシ」(あるいはロマン的要素の介在したembrouillage)を採用することを意味するであろうからである。だが、私は少なくとも「レシ」には、郷原氏も『望みの時に』をhistoire(物語)の要件を満たしていない、と言及し、「演劇性の乏しさ」に触れている点はあくまでも重要であると考えている。というのは、これは我々が現代思想上いかにブランショの追求したテーマがラディカルであると認め得たとしても、果たして心から我々が彼に共感できるのかという問題とも繋がるからである。彼は果たして『死の宣告』以後の作品で「小説家」としても活躍し得た、といえるのか? ブランショの作品を読んでいて、惹かれながらも結局私が感じてしまうのは、彼の「暗さ」と「孤独さ」、そして「物語」からあくまで遠ざかろうとする一種の「病」である。現代文学において『至高者』を、まるで「最後の小説(ロマン)」と同定するかのような郷原氏の解釈には、どこか疑問を感じざるを得ない。実際のところ、ブランショの存在の有無に関わりなく「小説」は存続するし、彼の追求したテーマとは何の関係もないところで、「ロマン」は当たり前のように復権し続ける(ノーベル文学賞の受賞者の顔触れを見ていて感じるのはその各自の異文化性であって、彼らが自国の文化、民族性をテーマにしたものは往々にして「ロマン」である)。

【アンリ・ソルジュ、あるいは人間の姿をとったsorge(不安、憂慮)の神】

 ブランショの「レシ」の特徴としてまず挙げられるのが登場人物の「名前」の無さである。郷原氏はこれをブランショの「名への不安」として解釈する。ブランショにとって「名前」は「不気味な、不安を与える驚異」であり、中でも「神の名前はその不安を最大限に高めた名前」(p197)であった。印象的なのは、ブランショにとって「最後のロマン」となった『至高者』の主人公には「名前」がしっかり与えられており、その名がHenri Sorge(アンリ・ソルジュ)である点である。クロソウスキー、及びフーコーの解釈によれば、これはドイツ語読みすればHeinrich Sorge(ハインリッヒ・ゾルゲ)であり、ドイツ語でSorge(ゾルゲ)は「不安、憂慮」を意味し、ハイデッガーがその基礎存在論で現存在の「情動性」における要諦として認めた存在様態であった。ヨーゼフ・Kという名が文学史の中で神秘化されてきたように、この名を今後現代文学における「最後のロマン」を記念する主人公の名として神秘的に受け取ることもできるのだろうが、ブランショ自身は「名前」をそれ程重視していないように感じられる。
 郷原氏はアンリ・ソルジュを「人間の姿をとった〈不安〉の神」として解釈しつつ、ムージルの描き出したウルリヒが着想源の一つになっていると示唆している。ムージルによれば、「特性なき男とは…大都会に住むありふれた人間であり、誰と取り替えても構わない、何者でもなく何者とも見えない人間である。あの日常的な〈ひと〉であり、最早何らかの特殊な存在ではなく非人称的な存在の冷ややかな真理と溶け合った個人である」(p202)。
 ブランショが「神の名」を特に恐れていたという点について、郷原氏はフランス語版聖書の一つにある「在るだろう     在るだろうところの者(わたし)が」という神の自己規定の表現に注目している。この訳文によれば、「一人称の単純未来形動詞が主語の〈わたし〉を背後に隠している」(p198)。ブランショはそこに神の「謙虚さ」を見出しており、「神は無媒介的に〈わたし〉として現れるのではない」と考えていた。この解釈は神学へのアプローチとして見ても非常に奥深い。神はその後、「これは永久にわたしの名である」と述べるが、ブランショはヘブライ語でこの箇所の母音を一つ置き換えれば「わたしの名は隠れたままでなければならない」という意味になると考えたラビの言葉を引用している。
 
【遺骸的類似】

 ブランショは自作の映画化の話題が持ち上がった時に、それが「朗読」されることすら忌避したと伝えられている。「…私は、書かれたものが見られるものに移行することに懸念を覚えるのです。朗読でさえ、私には苦痛です」(p15)。彼が視覚中心の文学(イメージ喚起の力学)から乖離することを前提にしていたことは疑い得ない。
 郷原氏は、元々ローマではimagoという語が「死者の表象」を意味していたことに注目する。死者、換言すれば遺骸。ブランショにとって「遺骸」とは、世界内に存在しながら、どこにもいないという印象を与えるものであり、「ここ」と「どこでもない」を関係づける概念である。興味深いことに、彼は生命の死体のみを「遺骸」だとみなしているわけではない。「遺骸」には、「脱いだ服」、「獣の皮」、「抜け殻」、「破損した道具」などのアナロジーが含まれており、ブランショはこれらの語を実際に用いている(p93)。では、なぜ「破損した道具」までもが「遺骸」の概念になり得るのだろうか? これについて、ブランショは「その時、道具は使用のうちに消え失せることなく、現れる」と述べている。この特異な「現れ」は、それまで瑞々しく生きていた生命が、突然死に襲われて物体的な遺骸となって「現れ」る現象と通底する。ブランショにとって「遺骸としてのイメージ」は、「~として」という意味の貼付を容認しない、ただ単に「現れる」物体、それゆえに「現れ」それ自体を指している。そして彼はこのようなイメージについて、「ときに美的対象ともなる」という注目すべき言葉を残している。
 さて、ブランショの「遺骸的類似」の概念は以下のように解釈されている。

では、遺族の前に横たわった生気のない身体は、いったい何に似ているのか。それは、何にも似ていない。それは、生きた身体であることをやめたときから、徐々に、それ自身に似始める。更に言えば、なんら外的なものに似ているのでもない、「類似」それ自体である。したがってブランショにとって遺骸とは、脅威的な力を帯びたイメージの限界的な形象であるといえよう。というのもそれは、もはや主体に類似していると言い難くなるまでに、主体を逸脱した分身なのだから、それゆえ「遺骸的類似」とは、イメージの不気味な性格をいわば最も純粋なかたちで抽出した概念なのである。(p34)


 ブランショは以下のようにこの概念を予告している。

ひとつの存在がそれ自身との類似というあの最大の美、反映された自己自身というあの真理を帯びるには、死によるイデア化、終わりによる永遠化である遺骸のような現れを待たねばならない。(p49)


 また、「遺骸」の概念は次に紹介するレヴィナスの「イリヤ」の概念と深く相関している。レヴィナスによれば、「遺骸」とは恐怖を誘うものでありつつ、「すでに身内に自身の亡霊を宿しており、自らの回帰を告げている」(p84)ものである。遺骸、それは「亡霊としての回帰」の概念を既に含み込んでいるのであり、無としての「死の不可能性」を体現する究極的形象である。遺骸の概念は、レヴィナスにとっては「イリヤ」を体現する形象であり、ブランショはこれに深い影響を受けている。
 このような概念がなぜ生まれたのかについて、ラクー=ラバルトがベンヤミンから敷衍しつつ「純粋なアウラ的作品はけっして存在しない」と明言している点は重要である。ブランショは彼の立場に近く、あらゆる創造は既に反復可能な「商品」としての性質と関係を結んでしまっていると考えていた。郷原氏はここから、こうした大量に複製可能な商品にまで失墜した芸術には、「何か恐ろしく不気味な、さらには聖なる性質が残されている」と述べている。機械的反復が増えれば増えるほど、「不気味で聖なるもの」も増していくという、この奇妙な現象……。

【イリヤ】

 本書の「註p19」の注釈23には、「イリヤ」と吠える「奇妙な犬たち」についての謎めいた記述が存在するので、先に紹介しておこう。この不気味な犬たちはブランショの短編『究極の言葉』に実際に登場する。本作では、この吠え声「イリヤ」が「究極の言葉」であるとみなされている。

私が通り過ぎてだいぶ経ってから、犬たちはまた吠え始めた――その押し殺したような震えた吠え声は、一日のこの時刻ではil y a(イリヤ/ある)という言葉の木霊のように鳴り響いた。「これがおそらく究極の言葉だろう」と、私はそれを聞きながら考えた。(註p19)


 ブランショによれば、rien(リエン/無)の本質とは、il y a(イリヤ/ある)に他ならない。彼はレヴィナス読解を通じて、この概念を文学的形象として表現していると考えられる。それが「犬たちの鳴き声」として描出されるところに、何か奇怪なものを読み取ることができるだろう。
 レヴィナスによれば、「イリヤ」はベルクソンが『創造的進化』の最終章で論じた、否定された存在の概念と等しいような「無」(ベルクソンはそれを「絵画」の内に見出した)の概念と類似している。あるいは、「イリヤ」は社会学者リュシアン・レヴィ=ブリュールの「融即」概念においても見出されている。「融即」とは、「主客両項の自己同一性が完全に消滅し、ある項が他の項と共通の属性を持つのではなく端的に他の項であるという神秘的な状態を指して」(p87)おり、未開社会分析において提起された概念である。郷原氏は、レヴィ=ブリュールのこの「融即」概念にレヴィナスが「イリヤ」を見出したと解釈している。デュルケームの「聖なるもの」の概念が、いずれはそこから啓示宗教の神が生まれでてくる「非人称性」であるとすれば、レヴィ=ブリュールの非人称性は、「神の出現を準備するものなど何一つない世界を描出して」おり、「未開人たちは絶対的に啓示以前、光の到来以前にいる」(p88)とされる。この点はレヴィナスのイリヤ概念たる、「神の不在へ、あらゆる存在者の不在へと導く」点と共通する。ブランショは、レヴィナスが提起したこの「イリヤ」概念を「言語」それ自体の「現実」として受容した。「イリヤ」――それはあらゆる存在者の否定の果てに逆説的に残存する非人称的で非実体的な出来事である。郷原氏はレヴィナスの以下の説明を引用している。

何もない、けれどもなにがしかの存在が力の場のようにしてある。暗さはたとえ何もないとしても働いているような実存の戯れそのものである。…密度を賦与された、あるいは実存の息遣いによって捉えれた、あるいは力の場に置かれた、対象とは同一化されないこの存在―密度、気配、場…。空虚そのものの、あらゆる存在の空虚の、あるいは空虚の空虚の――こうして否定の乗数をいくら高めても残存する、空虚の実体的密度。(p83)


 このテクストはどこか、旧約聖書において唯一「空の空」の概念を提示し得た名高い「コヘレトの書」を想起させる。レヴィナス自身はイリヤに様々なイメージを連ねて迫ろうとしており、それは例えば「不眠」、「白日の夜」、「夜の空間」、「闇」、「沈黙の呟き」…であるが、重要なのはイリヤが「恐怖」とう情動と不可分の関係にあるということである。郷原氏の説明によれば、イリヤの恐怖とは、ハイデガーの「不安」お対蹠点にあり、無としての死への恐怖ではなく、否定の果てにもなお「ある」という出来事が「ある」ことの恐怖である。レヴィナスはそれを「死の不可能性、実存の消滅の最中にまで行き渡る実存の普遍性」と表現した。そして彼はこの恐怖の形象として「遺骸」を登場させる。

遺骸は恐怖を誘うものだ。遺骸はすでに身内に自身の亡霊を宿しており、自らの回帰を告げている。戻り来るもの、亡霊は、恐怖の要素そのものなのだ。(p84)


 既に「遺骸的類似」の項でも述べたが、イリヤ概念は遺骸をその究極的イメージとして持っている。レヴィナスにとって「遺骸」とは、死によってなおも消滅しない物体であると同時に、「亡霊としての回帰」の可能性を孕んでいる。それは亡霊を前提にする限りで、「死の不可能性」、すなわちイリヤを体現する形象である。
 イリヤの恐怖のイメージ、それは「遺骸」の形象にこそある。郷原氏はこの点を極めて重視しており、以下のように繰り返し強調する。

…現存在は己の終わりに際して己が元来そうであったところの「イリヤ」というまったき受動性に回帰し、誰でもない者、何でもない物となることになる。この見立てからは、ブランショが現象学的思考にのみ則っているわけではないことが見て取れる。というのも、ブランショは「イリヤ」を、そこから主体が生成してくる主体以前の不定形なエレメントとしてのみ捉えるのではなく、同時に主体の死後の痕跡としても捉えていることが窺える。主体はしたがって、逆にいえば、己の死を条件として成立するのであり、そして死後の痕跡とはイメージに他ならない以上、主体は己のイメージから生まれてくることになる。(p94)


 このテクストは、本書においてある意味で最も「亡霊」概念の素描に接近している箇所である。それによれば、我々は死ぬと、「イリヤ」に回帰することになり、これによって「幽霊」=「誰でもない者、何でもない物」になる。では、「イリヤ」とは一体何であるのか? それは、我々がそこから生成してくるような「主体以前の不定形なエレメント」であり、同時に我々の死後の「痕跡」でもある。それはまさに、rien(リエン/無)の本質とは、il y a(イリヤ/ある)に他ならないというブランショの卓見を保証する概念である。ここで郷原氏が述べている「主体の死後の痕跡」を、単に「遺骸」としてのみ形象化してしまって良いのだろうか? 遺骸は最早動くことはないが、印象的なことにブランショは「亡霊」は「回帰」してくるものであるとも語っているのである。レヴィナスにおいては、遺骸は「すでに身内に自身の亡霊を宿しており、自らの回帰を告げている」(p84)ものとして規定されている。それは換言すれば、我々の本質が「遺骸」になることを前提にしているというだけでなく、「遺骸」が既に内包している「亡霊」を存在論的な核にしているということではないだろうか。すなわち、我々の本質とは「亡霊」であって、だからこそ、我々はイリヤ(ある)であるにも関わらず、リエン(無)とも直通するのである。亡霊――それはイリヤとリエンの交叉路、その「交通」する特異な不可視の「抜け殻」であるだろう。重要なことは、ブランショが「絵画」、「文学」――総じて芸術一般を存在の「抜け殻」であるとみなしている点であり、イリヤとは存在論だけでなく、彼の芸術論を支える核心的概念でもあるということだ。
 
【盲目的視覚】

 郷原氏は、ブランショを読解しながら「視覚のイリヤ」、あるいは「盲目の視覚」と表現される概念を提示している。彼はブランショの以下のテクストを引用している。

魅惑は孤独の眼差し、絶え間なく際限なきものの眼差しである。そこでは盲目がなおも視覚であるのだが、それは最早見ることの不可能性ではなく、見ないことの不可能性、見られるものとなった不可能性である。終わりなき視覚の中で続く――いつまでも、いつまでも――死んだ眼差し、永遠の視覚を持つ亡霊となった眼差し。(p101)


魅惑とは、眼差しが、眼差しも輪郭もない深さ、盲目にするがゆえに見られる不在との間に保つ、それ自体、中性的で非人称的な関係である。(p101)


 視知覚優位のこのWeb社会にあって、「盲目の視覚」とか「死んだ眼差し」、そして「視覚のイリヤ」とは何であろうか? 語彙の問題で言えば、これらの概念は未だにその表現に「視覚」、「眼差し」といった「像」の呪縛を孕んでいる。他方、レヴィナスはイメージのイコノクラストとして知られていた。彼によれば、「イメージの禁止」とは一神教の至高の戒律に他ならない。最終的にレヴィナスは芸術を社会からの離脱として批判するが、その根拠となるのは芸術が「イメージ」を横溢させるからである。しかし、ブランショは芸術、特に文学に「魅惑」を感じていた。彼は「書く」ことについて、以下のように語っている。

書くとは時間の不在の魅惑に身を委ねることである。…時間の不在とは純粋に否定的な様態ではない。それは何も始まらない時間、主導権がどこにもなく、肯定の前に既に肯定の回帰があるような時間である。…それは否定作用なき、決定なき時間、ここが同時にどこでもなく、あらゆるものがそのイメージのうちに引き下がり、我々であるところの「私」が顔なき「彼」の中性性に沈み込んだ己を見出すような時間である。時間の不在の時間には現在も現前もない。(p104)


 また、郷原氏は註の中でブランショの「文学的な行為」について以下のように述べている。

ブランショによれば、文学的な行為とは、読者に自らが示すテクストを知らないままでいるようにと勧める行為であり、その無知は読者をテクストから遠ざけるのではなく、読者をテクストから分離する大きな隔たりを思い起こさせることでテクストに近付ける。その意味で、翻訳こそは優れて文学的な行為となる。(註p31、94)


 このテクストで郷原氏が「翻訳」に、逆説的なことながらブランショの文学的行為の本質を見出している点は重要である。

【イサク=雄羊】

 ブランショはアブラハムのイサク献身の挿話の中でも、息子イサクが犠牲になる直前の「恐怖感」にシンパシーを抱いていた。カトリックである私にとってもこの挿話は非常に感情移入しにくい箇所であるが、ブランショが前景化していたテーマはイサクを通して得たdevenir bélier(雄羊になること)である。彼の小説『望みのときに』は、イサク献身の挿話のラディカルな読み替えとして制作されたと解釈される。その上で作家はアブラハムを女性であるジュディットとして再現前させている。ブランショにとってイサクとは、雄羊と交換可能なイメージである。雄羊はイサクの「身代わり」として犠牲になる。これはポール・ド・マンが『盲目と洞察』で展開した「表象」概念と通底するものである。イメージは、常に何らかの「代理」として再現前することになる以上、このエピソードから宗教的側面を捨象して読み解くことは常に可能であろう。「イサク献身」のテーマはユダヤ的特質を有する作家を等しく揺さぶるような伝統があり、カフカもまたキェルケゴールの『おそれとおののき』、『あれかこれか』、そして『士師記』などの読解を通して新解釈を提示していた。
 郷原氏は本書の中でカフカの「大罪」観が伝わるテクストを引用している。

人間には二つの大罪があり、他の罪は全てこれに由来する。すなわち、焦燥と投げやりである。人間は、焦燥のために楽園から追われ、投げやりのためにそこへ戻れない。しかし本当は、ただ一つの罪、焦燥があるだけかもしれない。焦燥のために楽園から追われ、焦燥のために戻れないのである。(p293)


 興味深いことに、ブランショはこの「焦燥の罪」を、「芸術創造のために不可欠の罪」であると解釈していた。文学が言語の芸術である限り、それはfiguration(形象化)を回避し得ないのであり、人が「無際限なもの」の領域に踏み込もうとするや否や、結局のところ「イメージ」たちの方へ向かわざるを得ない。この論点は本書を貫く要諦であり、彼女のオルフェウス、カトリーヌ・レスコーの足についての論稿でも展開されている。文学はどれ程形象化を避けようとして、独自の「レシ」を生成させたとしても、不可避的に「ミニマル・イメージ」を到来させるのである。「焦燥」とは、意志に反して形象化へと向かってしまうという意味なのであり、あるいは形象化と「無」への志向の間で板挟みになってしまうという葛藤、受苦としてのパッションそのものを指している。これをカフカが「大罪」と認める時、彼自身が作家として犯した罪についての告白調を帯びるのである。

【要諦「オルフェウスのエクリチュール」】

 本書で郷原氏が展開しているブランショの「ミニマル・イメージ」論を読解していて私が感じたのは、彼が註でも言及している松浦寿輝氏の復刊されて新たに注目を浴びる『平面論』で展開されている「近代」の概念である。松浦氏は「近代」を端的に映画の最小分節単位としての「ショット」に映し出される「像」の出現にこそ見出している。彼が当時のエッフェル塔の大量複製された「像」の流通過程に言及したのも、予告された「映画」産業の到来のためであった。そして、プルースト、及びマラルメがそれぞれの作品によってイメージの「像」ではなく、イメージの「貌」を追い求めたのは、それ自体でまさに彼らが「近代」的主体であったことを暴き出すためである。重要なことは、松浦氏が「貌」の概念を浮き彫りにする上で不可避的にベンヤミンの「アウラ」に言及していた点であり、これは「貌」が「像」の如く大量にコピーされる産物ではなく、主体の意識に到来する一回性の神秘として特権的な機能を持っていることを意味している。つまり、松浦氏はいわば冷たい「像」の支配する現代において、同じイメージ概念を構成するもう一つの質としての「貌」に、ある種の光を見出していた。これは、近代を乗り越えるための一つの戦略に他ならない。
 郷原氏の視座も「イメージ」である点では松浦氏と同じである。その上で彼が序論でランシエールの考え――ブランショを「イメージの終焉」として位置付ける解釈――に反論するかたちで本書で「ミニマル・イメージ」の概念を提示していることは重要である。ミニマル・イメージとは、郷原氏も註で認めているように、松浦氏のいう「貌」と概念的に近接したものであり、共に「イメージの近代」=「像」を超克するための、「最小限の想像的なもの」によって「視覚のil y a」を仮設するものである。視覚の「イリヤ」――それは、rien(無)とは、常に既にpresque rien(ほとんど無)であることを前提にした新しいイメージ=存在論の定式に他ならない。視覚の「イリヤ」に限りなく急迫した文学的挿話としてブランショが考えていたのは、まず「オルフェウス」の神話である。オルフェウスが「けして振り返るな」とハデスに戒められたにも関わらず、愛するエウリュディケーを「振り返る」というその「注視」には、どれ程愛するもののイメージをその瞬間において払拭しようとしてもし難い、強烈な「イメージ」の襲撃が伴っている。ここで郷原氏の思考が輝かしい閃光を放つのは、この「振り返り」を「エクリチュール」そのものの本質的開示として把捉している点であり、ここは本書における最高の白眉であると言わねばならないだろう。すなわち、どれ程我々が書く行為において「イメージ」を払拭しても、常に既に「ミニマル・イメージ」としてのエウリュディケーを「注視」せざるを得ないのである。もしも、ミニマル・イメージまでをも本当に封殺し、レヴィナスの如く「イメージのイコノクラスム」を志向するのであれば、我々に残された「文体」は、おそらく感情表現を跡形も無く抹殺した「数式」である。イマジネール・ミニマムの最果てには、おそらくライプニッツ的な普遍学構想の地平が広がっている。

※ブランショは「アルス・ノヴァ」(1963)の中でシェーンベルクとヴェーベルンについて語っている。これは数少ない音楽論として注目される。ちなみに、アルス・ノヴァとは、「新たな形のエクリチュールの探求」の意味である。





「参考文献」


文学のミニマル・イメージ モーリス・ブランショ論 (流動する人文学)文学のミニマル・イメージ モーリス・ブランショ論 (流動する人文学)
(2011/03/03)
郷原 佳以

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平面論――1880年代西欧 (岩波人文書セレクション)平面論――1880年代西欧 (岩波人文書セレクション)
(2012/10/24)
松浦 寿輝

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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

03/25のツイートまとめ

tomoichiro0001

麗しい憂愁。こんな軽やかなメロディーのようにメランコリーを感じられるような人間になりたい、今日この頃。フランシス・プーランク《メランコリー》 https://t.co/QmzZqbOK7P
03-25 21:55

自分でも出版用の書籍の原稿を書くようになってから、明らかに「今、どんな本を買うべきか」の審美眼も成長してきたように感じる。
03-25 21:43

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-25 21:40

さらに美味しいおまけとして、ゴシック文学研究者には必読のジュリアン・グラックの処女作『アルゴールの城』(岩波文庫版)を購入。私が現在、「最高に美しい文体」だと考える作家です。メディアを避けて最高賞のゴンクール賞を辞退したりと、プロフィールもどこか貴族的な厳格さで満ちている。
03-25 21:26

特にこのメイヤスーの論稿は、私の想像力を掻き立て、「新しい小説を書く」ことへと駆り立てるような力を持っているように感じる。これから読むのがとても楽しみだ。
03-25 21:20

気になっていたQ・メイヤスーの異様な存在論「亡霊のジレンマ 来るべき喪、来るべき神」や星野太氏のG・ハーマン論が収録された『現代思想』(15/1月号)と、明らかに神学研究者にも必読の『ニュクス』創刊号を購入。どれも刺激的なラインナップなので、また赤線付箋だらけになる可能性大。
03-25 21:18

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-25 21:16

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-25 20:41

芥川賞の小野さんの『文学』という小説論、わりと参考文献の引用がラフで少し驚きました。ページ番号もなかったけれど、あれでも良いのかな。内容は充実していました。
03-25 20:40

プルーストの『楽しみと日々』も遂に岩波文庫化されましたね。相変わらず研究書も大型書店では面陳です。
03-25 20:36

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03/24のツイートまとめ

tomoichiro0001

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-24 21:39

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-24 21:16

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-24 20:43

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-24 20:17

「ジョイス以後の文学における言語実験の一頂点をなしたソレルスの傑作。待望の改訂版」4月中旬発売予定:ソレルス『ドラマ』 http://t.co/gRKlVxKRlM
03-24 19:01

@lunar_shirayuki 4/5は日曜日だし、どこかで記念日らしくしたいね🌟
03-24 16:26

RT @PQuignard_Bot: 彼にとって小説とは、うち捨てられたもの、あるいは押し黙っているものが、すべてそこに集められるイグサの籠だった。すべてが名づけられうる、この世のある場所。人間の頭の内部を映す鏡は、小説のほかにない。この点では、詩も、哲学も、戯曲も、音楽も、絵…
03-24 15:07

「ある日、奇妙な塔で暮らす少年に出会い、間もなく大津波がやって来るという予言を知らされて……。切実なメッセージが込められた、〈書く〉ことと〈建てる〉ことの真意を問う3.11以後の新しい文学」鈴村智久『空き地と津波』http://t.co/8y4W9zKe6V
03-24 12:45

「ボルヘス文学と〈Web〉が革新的に融合した〈来るべき文学〉の誕生。〈個性〉の分散が加速する現代社会の中で、〈存在〉の在り方を探究した黙示録的な注目の最新短編集」鈴村智久『聖アントニウスの誘惑』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/hohcwdynZi
03-24 12:37

神奈川県立音楽堂の公式Twitter、かなり私の発言をリツイートして下さっていたのですね。《メッセニアの神託》についての評論は『ヴィスコンティの美学』の次に発売するオペラに関する研究書で、一つ章を設けて取り入れる予定です。素敵な時間をどうもありがとうございました。
03-24 09:21

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鈴村智久による朗読小説『聖域』がYouTubeに公開されました。




鈴村智久による朗読作品『聖域』がYouTubeに公開中です。
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※朗読は素人ですので、読み間違いなどはどうぞ御容赦下さい)

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レイアウト担当の門倉ユカ様。










テーマ : オリジナル小説 - ジャンル : 小説・文学

03/23のツイートまとめ

tomoichiro0001

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-23 21:39

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-23 21:16

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-23 20:41

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-23 20:17

鈴村智久による新しい物語朗読『ロココと真珠』(14分)がYouTubeに公開されました。今回のテーマは十八世紀後期バロックに当たる絢爛たる「ロココ」を、現代社会から改めて見直す試みです。御気軽にどなたでも御聞き下されば幸いです。https://t.co/QatTIoFbYl
03-23 19:53

「ある日、奇妙な塔で暮らす少年に出会い、間もなく大津波がやって来るという予言を知らされて……。切実なメッセージが込められた、〈書く〉ことと〈建てる〉ことの真意を問う3.11以後の新しい文学」鈴村智久『空き地と津波』http://t.co/8y4W9zKe6V
03-23 12:45

「ボルヘス文学と〈Web〉が革新的に融合した〈来るべき文学〉の誕生。〈個性〉の分散が加速する現代社会の中で、〈存在〉の在り方を探究した黙示録的な注目の最新短編集」鈴村智久『聖アントニウスの誘惑』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/hohcwdynZi
03-23 12:37

RT @lunar_shirayuki: 『ゼロ・グラビティ』を鑑賞。リアルな宇宙空間の怖さと美しさに魅了されたが、自分まで地球に還りたくて仕方がなくなった。。緊迫感のある音響も耳に痛くてやけに怖かった・・・。
03-23 00:53

RT @lunar_shirayuki: かわいいおじいちゃん、おばあちゃんになりたい・・・・
03-23 00:53

03/22のツイートまとめ

tomoichiro0001

真理を表現する際に伴う「断定」を宙吊りにするところに、まさに文学の固有性の運動としての「散種」があるという考察の流れは、『散種』の訳者でもある立花氏ならではでしょう。デリダ以後、現代文学には何が可能なのかという問いへの「応答」は、まさにここから始まります。
03-22 23:15

本日は彼女と外出した後、立花史氏の「デリダ美学の研究ーー文学、あるいは〈フィクション性〉の制度」を2/3まで読解。脱構築の本質である「一般的ミメーシス」、文学のフィクション性についての考察など、非常に濃い内容です。これから小説を新たに読む/書く人にとっては間違いなく必読です。
03-22 23:06

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-22 21:40

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-22 21:16

RT @kimarx: ヴァーグナーの強みは、ブーレーズが指摘したように、アカデミーでの体系的知識を習得した人間ではなく好事家であることに存する。個々の技術に関しての知識はアカデミー上がりに劣らないものがあるけれど、それらの知識はアカデミーで教えられる図式で体系化されていない。
03-22 20:50

RT @kimarx: 大澤真幸であったと思うけれど、ユダヤの神は因果応報を人民に約束しないから、現世では好き勝手に滅茶苦茶やってもよい、という認識を持つ人間が出て来る、と言っていた。たしかにイスラエルの極右を見ているとそう感じたくもなるけれど、そのような認識を持つ者は稀ではな…
03-22 20:47

RT @hirakurakei: 「建てるためにレンガを一個ずつ産まなければならないなんて!」(遅筆の気持ち)
03-22 20:43

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-22 20:42

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-22 20:17

「ある日、奇妙な塔で暮らす少年に出会い、間もなく大津波がやって来るという予言を知らされて……。切実なメッセージが込められた、〈書く〉ことと〈建てる〉ことの真意を問う3.11以後の新しい文学」鈴村智久『空き地と津波』http://t.co/8y4W9zKe6V
03-22 12:45

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03/21のツイートまとめ

tomoichiro0001

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-21 21:42

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-21 21:16

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-21 20:45

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-21 20:18

『小さき花』の挿話から。テレーズは部屋の唯一の光である蝋燭の火が消えてしまい、日課の聖書を読めなくなりました。 その時、彼女は「暗い、読めない」と考えるのではなく、「そろそろ眠るために幼きイエスが灯りを消して下さった」と自然に受容します。ここにもトマス的な「肯定」の思考がある。
03-21 20:05

幼きイエスの聖テレーズ......。いつの間にか私は貴女よりも年上になったのですね。
03-21 19:58

RT @Therese_de_lsx: 主は、私に対していつも、「同情深く、やさしさにあふれ、怒るにおそく、慈しみに満ちて」(詩編103・8)おられました。
03-21 19:53

RT @Therese_de_lsx: 主イエス、あなたは仰せになりました。「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む。父がわたしを愛してくださったように、わたしもあなたがたを愛した。わたしの愛にとどまりなさ…
03-21 19:53

RT @Therese_de_lsx: 愛の特徴は、自分を低くすることにあります。
03-21 19:52

昨夜は新しい小説を電光石火の勢いで書いていました。気付くと朝の7時になっていましたが、オペラでいう「第一幕」は、ほぼ仕上がりました。おそらく、これまでの私の小説で、初めて新約ではなく旧約の始まりに位置する『創世記』を舞台にした作品になると思います。
03-21 16:03

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03/20のツイートまとめ

tomoichiro0001

RT @lunar_shirayuki: 後悔のないよう、金子國義氏の一般焼香に行ってきました。とても安らかなお顔でした。 http://t.co/vzrNksEtnB
03-20 23:38

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-20 21:40

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547ASnQ
03-20 21:16

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-20 20:42

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-20 20:17

私に神学面で最も大きな影響を与えているのは、実は聖トマスでもオリゲネスでもアウグスティヌスでもなく、12世紀の女子修道院長ヒルデガルト・フォン・ビンゲンです。彼女の『スキヴィアス』における「隠喩」の体系は、私の中で最も神のイメージに近いものです。
03-20 19:10

大阪から東京で生活し始めてから、最近よくリゾームよりも実はツリーこそが重要であることに気付きました。複数の領土を横断、遊牧し続けるのではなく、同じ領土を常に違った視点で新たに読み解くこと。私は今になってようやく、私の原点としてのカトリシズムの現代性に気付き始めました。
03-20 19:07

4/5で彼女と二人暮しを初めて一年になります。ちょうど桜の季節に二人で多摩川沿いをお散歩したのが懐かしい。
03-20 18:57

小説を書くのも、それにカバーが付いて販売されるのも楽しいです。そして、朗読するのも。基本としてあるのは、やはり「物語を書く」行為。
03-20 18:53

満腹猫かわいい。
03-20 18:51

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カトリック東京カテドラル関口教会「主の降誕のミサ」2014年12月24日の記録

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 12月24日、私と彼女は東京で最も大きなカトリック教会であり、世界的な建築家丹下健三氏が設計された東京カテドラル教会を訪れた。このサイトを読んで下さっている方であればおそらく御存知だと思われるが、私は二十一歳の時に大阪のカトリック教会で洗礼を受けた。洗礼名は「洗礼者聖ヨハネ」で、これは彼の祭日が私の誕生日に近いことと、私が兼ねてからヨハネについての記述に多大な関心を寄せていたことを受けて、洗礼志願期間中に要理担当役をして下さっていたカルメル会のSシスターとの相談の末に決めたものである。
 このSシスターという素晴らしい修道女に、私はあたかももう一人の母親から教わるかのようにカトリックの手解きを受けた。Sシスターは何事もポジティブに捉え、常に物事の良いところ、明るいところを見ておられるような、そんなカルメル会シスターだった。彼女は私によく、カルメル会の黙想会に行こうと誘って下さった。一度、二人で京都のカルメル会修道院を訪れることになった日も、Sシスターはミサ後に私の分のランチまで手作りで準備して下り、その後は二人で電車に乗って京都の修道院へ向かったのだった。その際、私は修道院まで向かう途中のバス停留所の前で、以前から聞いてみたかったことを質問したのだった。
「シスターはどうして修道女になられたのですか?」
 今にして思えば、この学生特有の不躾な問いにも、シスターはいつもの微笑みを絶やさずに寛容に応えて下さった。
「何か辛いことや哀しいことがあって、だからシスターになろうと思ったわけではないんですよ。私の場合、召命があったのです」
 この時、シスターが口にした「召命」とは、いわば「神に招かれている」こと、つまり聖職者になるようにイエス・キリストから内的な促しを受けていることを意味している。Sシスターが洗礼を受けられたのは二十歳であり、私が一つ上の二十一歳であったから、この当時のシスターが「神に招かれている」と感じていた感覚の一端を、私は少なくとも敬愛の念を込めて受け取ることができた。シスターは、私と同じようにカトリックの世界に憧憬を抱かれていたのだと思う。彼女の父親も事業を展開しておられて、信仰を持ってはいなかったという。いわば、両親が信徒ではない点でも、Sシスターは私に共感して下さっていたのかもしれない。実際、私は本当にSシスターから、「実の孫」以上の愛情と優しさを与えられたのだった。その至福の洗礼志願期間は、今でも私の人生の中で「永遠」のような輝きを帯びている。
 このような素晴らしいシスターとの出会いもあって、私は二十一歳の時に無事、洗礼を受けることができた。それから数年が経過し、私は大阪から東京に引越して、恋人と二人暮らしを始めた。2014年という一年は、まさに私と彼女が同棲生活を始めた、最初の年である。
 新しい街、新しい職場、そして新しい部屋……。全てが新しく、あたかも私という存在の内から、もう一人別の人間が殻を破って生まれてきたような、そんな鮮烈な感覚に満ちた新生活が始まった。やがて仕事も少しずつ慣れ始め、安定してくると、相乗効果のように精神も穏やかになってくる。最近の私は、執筆や読書よりも、むしろこうした「日常の平安」にこそ価値を見出していたように感じる。
 そして季節は冬になり、この12月24日、世間ではクリスマス・イヴと呼ばれる日に、私たちは日本でも最高の教会と称される東京カテドラル関口教会のミサへ赴いたのだった。

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 実は今、これを綴っているのは、12月24日である。そう、私はミサから帰宅して、その昂奮も冷めないうちに、感動したことをどうしても言葉で表現しておかねばならないと感じたのである。この日、関口教会の前は、既に警備員が数名出動するほどの長蛇の列ができていた。私たちが参加したのは午後7時からのミサだったが、既に30分前の段階で、今までのミサの経験では考えられないほどの大勢の人々が、教会に押し掛けていたのである。私はまず、この「教会の人気ぶり」に新鮮な悦びを抱いた。ヨーロッパでも昨今、「若者の教会離れ」などということが嘆かれていたはずなのに、ここ東京の関口教会では、少なくともクリスマスは圧倒的な人気ぶりを見せていたのである。それも、集まってるのは年配の方よりも、むしろ若い男性、女性が非常に多いのだ。私にとっては画期的なほど、関口教会は活気付いていたのである。この事実、この「教会でイヴを過ごしたい」という人々の気持ちの高まりに、私は素朴な感動を覚えた。

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 丹下健三氏が設計したことで名高い関口教会の聖堂内部。コンクリートの打ちっぱなしの三角錐状のスタイリッシュなオプスである。静寂な空間でありながらも、極めて洗練されたモダニズムの息吹を感じた。

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 典礼では、第一朗読が『イザヤ書』9.1-3,5-6で、第二朗読が『使徒パウロのテトスへの手紙』2.11-14だった。朗読して下さった方も、おそらく何度も事前に練習されたのだろう、信仰心が宿った声だった。 司祭様の朗読場所は『ルカによる福音』2.1-14だった。日本では「クリスマス」というと煌びやかで楽しいイベントという受け取られ方だが、実は「人類の貧しさを神と共に担う」ことを感謝することにこそ、クリスマスの本質があると述べられていた。また、幼子イエスについて、「無力」、「謙遜」などの特徴を挙げつつ、神が自ら最も貧しい場所に生まれることを欲し、また最も痛ましい受苦を担うことを欲したことを示唆された。更に司祭様は、乙女マリア様の許嫁であったヨゼフ様の「不言実行」を褒め称えられた。彼の言葉は聖書に残ってはいないが、ベツレヘムから馬小屋へと渡る道中でマリア様の身体を守り抜いたのは、他でもないヨゼフ様だった。 司祭様の御話は降誕祭に相応しく、素晴らしい内容だった。
 聖体拝領について、ここで綴っておきたいことがある。これは、洗礼を受けている信徒は「キリストの体」であるパンをいただき、まだ洗礼を受けていない方は祝福をいただくという、ミサでも最も重要な瞬間である。今回、私は聖体を聖堂の中央に立っておられる司祭様からいただくことができた。私の後方には多くの人が、やはり祝福を求めて並んでいる。いざ司祭様から聖体を受け取り、「アーメン」と唱え、口にした瞬間、私の中で実に不思議な感情が芽生えたのである。それは、「懐かしさ」であった。そう、私は東京に越してきてからというもの、忙しさの中でなかなかミサに参加することができないでいたのである。聖体の味は、まさに私が熱心にミサへ通っていた時代を呼び覚ましたのだ。それだけではなく、聖体が私の舌の上に乗り、ゆっくりと身体に浸透していくにつれて、「不可視の御守り」が内に芽生えたような満足感を覚えた。この「不可視の御守り」というのは、けして目に見える御守りではない。それはまさに、心の中に根付くものとして、私に与えられたのである。
 聖体に、このような神秘的な力が存在していたことに気付き、私は悦びに震えた。私たちは普段、数知れない「物」に囲まれて暮らしている。「物」は確かに私たちの精神に一定の満足感を与えるだろう。だが、「物」が精神と深く繋がり合っていなければ、それは実際にはその人の所有物とはなりえない。単なる置物とか、他に取って代わられるものだからだ。だが、聖体というのは、初めは確かに「食べ物」として存在しているのだが、それを口にすると、まことに不思議な変化を感じさせるのである。それはいわば「キリストに抱き締められている」という感覚、いわば慈愛の塊のようなものである。「キリストの体」は教会そのものであり、世界中の信徒の総体でもある。いわば、単なるひとつの部分、破片に過ぎないパンによって、世界中の信徒に分有された「大きなパン」と一体になるような感覚である。
 こういうわけで、聖体拝領には、神学的にも極めて奥の深い意味が込められている。私と彼女は、この日、こうして祝福に与ることができたのだった。これは、これからも日々を生きていく上で必要不可欠なものであり、この日はその礎を与えられたのであった。

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 この写真は、私ではなく彼女が撮影してくれた貴重な一枚。というのは、ミサ後はこのキリスト降誕を象ったミニアチュアの飾り物の前に数知れない人が集まっていたからだ。なんとか最前列にまで辿り着いた彼女が、記念に撮影してくれたものである。降誕祭に見るだけのことはあり、東方三博士の一人の表情一つ取っても、独特な温かみが伝わってくる。

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 皆が聖歌を声を揃えて唱え、「グロリア」がパイプオルガンに乗って響き渡りました。

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 カテドラル全景。夜は特に硬質な品格を感じさせる。実はクリスマス・ミサに参加する前まで、洗礼を受けた身でありながらとても緊張していた。だが今は聖体をいただき、彼女も祝福を受け、とても満ち足りている。

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 サーチライトを浴びて、あたかも宙空に現れたかのような光の十字架。

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 教会の敷地内には、聖ベルナデッタのルルドの泉を記念した祭壇が設けられていた。おそらく泉の聖水が祀られているのだろうか、前列では熱心に祈りを唱えている女性もいた。

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 この洞窟の聖母像は、おそらく聖ベルナデッタに現れた聖母様だろう。何か不思議な温かみと優しさが周りの空間に充溢していた。


【今年の降誕祭で感じたこと、考えたこと】


 以前から私が感じていたことも踏まえて、降誕祭の後に今、考えていることを綴っておこう。私たちの周りには、様々な信仰を持った人がいる。だが、その中でいったいどの教えが、あと千年先、二千年先も残っているだろうか。中には、自分勝手に様々な伝統宗教の教義をパッチワークして、傍目からは奇妙にしか見えない「擬似宗教」を作って満足している人もいたりする。だが、そのようなものに限って、非常に少ない一部のメンバーにかろうじて支えられている程度である。語り方が極めて特殊であったり、自分だけの世界に没入してしまうようなタイプの救いなどというものは、その人個人の思想であって、真の宗教ではない。
 カトリックには、二千年の歴史の中で培ってきた様々な伝統がある。時代、国家を越えて語り継がれ、信じられている普遍的なものがある。そして、どの普遍的な宗教もそうだが、そこには「万人に伝わる」という共通項がある。私がキリスト教を愛するのは、この「万人に伝わる」という点で、最も配慮が行き届いているためだ。例えば「祈り」一つ取っても、そこには誰でも読める言葉遣いで、実に深い教えが反映されている。
 二十一世紀の今、日本では何を信じ、何を人生の支柱にしていけば良いのか判らずにいる人が多くなっている。そして、この事態に拍車をかけるかのように、独善的で閉鎖的な、まともな宗教施設も聖典も何もない「擬似宗教」が跋扈している。こうした教えは、時代が変わればすぐに消えてしまう。それは歴史が教える通りである。だからこそ、我々には今、本当に困った時、本当に人生に思い詰まった時に「寄り添える思想体系」が必要なのだ。騙されないようにしよう、偽りの真理を説いている人々に。そして、時の浸蝕に耐え抜いてきた歴史的な聖典を、もっと大切にしよう。
 全ての孤独は、自分で発明したその思想が、ただ自分をしか救えないという哀しみにこそある。換言すれば、自分一人しか満たせないことを自覚できる限りで、その思想の限界性は自ら認知されているのだろう。真の宗教は、もっと圧倒的な「救済の感覚」を呼び覚ますものである。私の場合、その支柱となるものが十代の頃に発見できたという点が、いわば幸福であった。
 カトリックの教えには、真理の全てがある。私はナーガールジュナや老子の思想などにも触れたが、そこにあるのは全て、イエス・キリストが説いていることである。そして、これは詩人W・B・イェイツも述べていたように、「葉は数あれど、幹は一つ」なのだ。私たちに今、必要なのは、この「幹が齎す安心感」なのである。そして、この安心感は、カトリックの教えにこそ存在すると、私はこれからも信じ続けるだろう。それを今回の関口教会での降誕祭が、私たちのために証明したのである。




 

テーマ : 聖書・キリスト教 - ジャンル : 学問・文化・芸術

鈴村智久の最新小説『今夜もそこに騎士がいる』、本日発売です。どうぞよろしくお願いします。


今夜もそこに騎士がいる今夜もそこに騎士がいる
(2015/03/16)
鈴村智久

商品詳細を見る



内容紹介

晴彦は夜の散歩中、得体の知れない騎士に追いかけられる裸の女に遭遇。女は騎士に無惨に切り裂かれる。しかし、翌日にはその痕跡はなく、警察も動き出さない。これを大学で教える弟に話すと、彼はボッカッチョの『デカメロン』の「ナスタージョ・デリ・オネスティの物語」にも、裸の女が騎士に同じように殺され、それが何度も繰り返されることを伝える。果たして、同じ場所に二人で向かうと……? 迷宮化する物語構造を通して、「作者」の地位を揺さぶり続ける刺激的かつ前衛的なミステリー。





テーマ : オリジナル小説 - ジャンル : 小説・文学

03/19のツイートまとめ

tomoichiro0001

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-19 21:39

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-19 21:16

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-19 20:41

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-19 20:17

『進撃の巨人』という有名なアニメがあります。これが何故、現代においてこれほど人の胸を打つかという点はもう少し深く考察した方が良い気がします。私の考えでは、これは「虚構化した戦争」(巨人=テロルの暴力装置)を背景に、常に人間の「限界状況」下の心理を隠喩的に描いた作品です。
03-19 18:57

マイケル・ナースの重要論稿「デリダ最盛期」はもう少しで読了。ヘーゲル、デリダ、そしてジュネそれぞれの「死刑」論を踏まえ、アメリカの死刑制度にもメスを入れる大変ラディカルな考察。
03-19 18:51

RT @lunar_shirayuki: ウェザーマップ「さくら開花予想」 http://t.co/Bz2mQOftpO
03-19 18:47

昨日は神奈川と東京の県境にある三沢川流域をランニングしました。やっぱり汗を流すのは気持ちいいですね。頭もスッキリした気がします。
03-19 18:46

最新作、よろしくお願いします。鈴村智久『今夜もそこに騎士がいる』「迷宮化する物語構造を通して、〈作者〉の地位を揺さぶり続ける刺激的かつ前衛的なミステリー」 http://t.co/xxg0rW8HvC
03-19 18:43

「ある日、奇妙な塔で暮らす少年に出会い、間もなく大津波がやって来るという予言を知らされて……。切実なメッセージが込められた、〈書く〉ことと〈建てる〉ことの真意を問う3.11以後の新しい文学」鈴村智久『空き地と津波』http://t.co/8y4W9zKe6V
03-19 12:45

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鈴村智久の最新小説、『空き地と津波』と『黒アゲハ』が二冊同時発売されました。どうぞよろしくお願いいたします。


空き地と津波空き地と津波
(2015/03/13)
鈴村智久

商品詳細を見る


内容紹介

都市の片隅にぽっかりと開いた空き地、ノートの余白、Web上のpage not foundの表示……。それらに共通する、ある奇妙な感覚の正体を追い求めているうちに、坂東は「空き地」と「廃墟」をテーマに研究する建築学科の院生玲子と知り合う。やがて二人の前に、忘れ去られた河川敷の工場跡地に〈シェルター〉と呼ばれる塔を組み立て、そこで再び大津波が日本を襲う日に備えて隠棲している、一人の少年が現れる。名前すら存在しない、その少年はいったい何者なのか? 〈書く〉ことと、〈建てる〉ことの本質に迫る刺激的な長編小説。




黒アゲハ: BLACK SWALLOWTAIL黒アゲハ: BLACK SWALLOWTAIL
(2015/03/12)
鈴村智久

商品詳細を見る


内容紹介

飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の日常がポップに描かれた《BUTTERFLY SEX》。
名門カトリック女子高を素行不良から退学し、初めてポルノに出演することになった少女の卑俗な言語を媒介にして描出される性の宴《BLACK SWALLOWTAIL》。
性愛にのみ聖性の回復を企てる青年が出会った女との忘れられない一夜《LINGERIE HEART》の三篇を収録。
卑俗かつ挑発的な言語を大胆に駆使した「露出症」的エクリチュールの極北。
【装訂/門倉ユカ】

【目次】

1《BLACK SWALLOWTAIL》
2《BUTTERFLY SEX》
3《LINGERIE HEART》








【作品のサンプルは御使いのスマホで簡単にチェック】


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テーマ : 更新報告・お知らせ - ジャンル : 小説・文学

03/18のツイートまとめ

tomoichiro0001

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-18 21:40

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-18 21:16

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-18 20:43

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-18 20:18

「ある日、奇妙な塔で暮らす少年に出会い、間もなく大津波がやって来るという予言を知らされて……。切実なメッセージが込められた、〈書く〉ことと〈建てる〉ことの真意を問う3.11以後の新しい文学」鈴村智久『空き地と津波』http://t.co/8y4W9zKe6V
03-18 12:45

「ボルヘス文学と〈Web〉が革新的に融合した〈来るべき文学〉の誕生。〈個性〉の分散が加速する現代社会の中で、〈存在〉の在り方を探究した黙示録的な注目の最新短編集」鈴村智久『聖アントニウスの誘惑』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/hohcwdynZi
03-18 12:37

鈴村智久&門倉ユカの朗読作品『革命前夜』(10分)がYouTubeに公開されました。



今回の朗読は、往復書簡形式なので鈴村智久と門倉ユカの二名がそれぞれのパートを担当しています。
作業用BGMとして、­­気軽に御聴き下されば幸いです。
『革命前夜』(400字詰め原稿8枚)







テーマ : ショート・ストーリー - ジャンル : 小説・文学

ジャック・デリダが『散種』で分析対象にした初期フィリップ・ソレルスの代表作『公園』の魅力

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Monica Bellucci by Norman Jean Roy

 デリダの『散種』の翻訳が遂に日本でも刊行され盛んに研究会などが開かれている模様たが、収録されている一篇にはフランスの作家フィリップ・ソレルスの初期作品『公園』についての論稿がある。該当する論稿の読解記録は既に本サイトでも掲載しているので、このページではソレルスの『公園』の訳出されたテクストに見られる興味深い特徴について考えたことをまとめておこう。本作についてまず概略を述べておこう。『公園』は1961年に第一回メディシス賞を受賞した若きソレルスの三番目の小説である。彼は既にこの頃、『挑戦』、『奇妙な孤独』でモーリアック、アラゴンらに賞賛を受けていた。しかし『公園』では二人はその前衛的な様式に沈黙してしまい、批評家からはロブ=グリエの『嫉妬』のエピゴーネンに過ぎないという指摘も提示された。ソレルス自身の弁明によれば、『公園』とは「様々な読み方のできる」作品であり、そこには従来の小説の制度に対するアンチテーゼの戦略が働いている。全54の断片から構成され、「彼」、「彼女」、そして二人を書いている「僕」という三つの人称を用いながら、テーマは一貫して「空間」の概念的な探索に向かっている。『公園』で採用された文体力学は、その後次作『ドラム』で極限形式に達したと評され今日に至っており、現代文学の比較的新しい「古典」の一つであることは間違いない。

【『公園』の文体の特徴】

(1)ナラティブの基本的な構造は、クロード・シモンの『三枚つづきの絵』のような「事象の客観的な細密描写」に、語り手「僕」の心理描写(意識の流れを、鼓動のリズムに合わせて更に精緻化した方法)が溶け合っている。この点で、ソレルスのエクリチュールの様式は二つの「森」を、あるいは森の中にもう一つの森を潜在させている。
(2)会話文は《 》で地文に埋め込まれている。
(3)(1)において、観察のディテールを( )を挿入して付け足すことが随所に見られる。
(4)他の作家からの引用、あるいは固有名詞付きの書物についての言及は存在しない。
(5)一つの段落は短くて一段、長くて三~四段のブロックで構成されており、次のブロックになる際に空行を設けている。(原稿用紙三~六枚ほどの断片を接続させているスタイル)
(6)幾つかの「映画(コンセプチュアル・ムービー)」――より正確に言うと、互いに異なる幾つかの「空間の流れ」――が同時並行して同じページに描かれている場面が存在する。それはタイトルの無い「架空の映画の断片」の挿入に近い。



 何よりも注目すべきなのは、何か一つの「空間」を綿密に、細部まで豊かに造形していくその言語的構成力である。プッサンの絵について論じたテクストが小説『公園』の「解説」として機能するとソレルス自身が述べているが、実際にこの作品は「何枚かの絵の連続」であり、その点でやはりシモンの文体に、ジェイムズ的な心理描写を断片的に挿入したような体裁である。読みながら感じたのは、「空間描写」と「心理描写」を上手く切断しつつ、それらを交互に描き出している作法なのだが、その際に場面は主観を交えずに客観性を志向して、綿密な観察を伴って描かれているという点である。ディテールへの驚嘆すべき執念と、この様式を忠実に最後まで守り抜こうとする作者の強靭な意志のようなものが相俟って、稀有な「癒し」を読者に齎すテクストになっている。
 また、主人公「僕」については社会的ステータス、人物設定などが一切説明されていない。おそらく、ソレルスは自分に近い存在としてこの「僕」を仮構しているのだろうが、無論作家と「語り手」は区別しなければならない。「僕」は「彼」という第三者を観察し、描写している。「彼」と「僕」は時おり交替するが、物語の階層性の上部に位置しているのは「僕」であろう。そして「僕」は「自室」(※1)から近隣の「公園」を絶えず観察してもいる。
 特色としての「細密主義」は、絵画におけるアンドリュー・ワイエスや、トマス・ジョーンズ、中期ターナー、あるいはフェルメールのディテールに与える情熱を髣髴とさせる。「神は細部に宿る」という理念をこの頃のソレルスは信じていただろうし、それがテクストにもたらす豊饒な「空間のリアリティ」を自覚していたと考えられる。読みながら思わずイメージしたことだが、例えば公園の樹木にある「一枚の葉」にすら、その若葉の最初の産声の瞬間から、地面に落ちて枯葉となり、土に養分として吸収されるまでの壮大な「ミクロコスモス=物語」が存在していることを、ソレルスはその文体において読者に教えている。一本の樹木について原稿用紙で三枚くらい費やす作家ならいるだろうが、さすがに五百枚をその葉一枚の生死に全力で費やす書き手はいないだろう。だが、このソレルスの文体であれば、それは可能になる。私はこの絵画的、あるいは「映画的」(動く絵という点において)なディテールへの徹底した観察眼に、美を感じた。(※2)
 例えば、少し長くなるが以下のテクストには本書の文体の特徴が明瞭に現れている。
 

ひとりの女が菩提樹やプラタナス(浅い緑と濃い緑)の下に隠れ、村の狭い道、緑色の鎧戸と乾いた石の壁の白い家に沿って、歩道もなく続いている道を歩く。彼女は車に乗り込んでスタートする、車はプラタナスの並木道を全速力で飛ばし、牧場を抜け、丈の低い葡萄の畑を通り、やがて海に出る。斜面になった牧場の尽きる辺り、右手に広がり、輝く海。車がまた別の村を通り抜ける時、村を貫く道の端に、青く光る四角形の海。白い壁の間に一瞬空と水とが見え、たちまち消える……空は晴れている。一日中晴れだろう。公園に面しているであろう僕の部屋から、眼を覚ました僕は、芝生やかたまって咲いているカンナとチューリップや、まわちはじめる水撒き器(遠いのでその音は聴こえない)を眺めるだろう、少人数のグループになって真中の小径を進み、陽の当たる中庭まで来て、やがて建物の中に入る朝の最初の訪問者たちの数をかぞえるだろう(僕に会いに来る人は一人もいない。一日中僕だけの時間であるだろう)。僕はすぐ傍のプラタナスの葉を眺めるだろう、その影がバルコニーの石の上を動く……何故なら、僕を街の外に移す必要があったのだろうから。その時、白い部屋に一人取り残されて、僕はより鈍い痛み――胸の真中の、今は麻酔で一時的に紛らわされている痛みを感じるだろう。呼吸が困難であるにも関わらず落ち着きを払って、顔を低いテーブルの方に向けているだろう、その上には、他の紙に混じって、僕の言いつけ通りに一緒に持って来られたオレンジ色のノート、まだ余白があるので今これを書き付けることのできるノートが置かれている。書くこと、そしてあの肉体、既にもうずっと前から放置されている死骸――今頃は分解の最終段階に入り、肉もほとんど完全に溶け落ちた骸骨を想像すること(いやまだ幾分は肉片が残っているかもしれない)、ある夏の朝、博物館のガラスケースの中に見た頭蓋骨と同じく、度外れて眼窩の大きな無名の髑髏。――その時僕たちが立ち並ぶミイラの間を歩いて行った長廊下には、高窓から日光が射し込んでいた……(p110~111)


 この箇所は特に場面が矢継ぎ早に変化しつつも、一つのファンタスマゴリーに映し出された映像のように滑らかに接続し合っており、非常に美しい。分解して読解してみると、最初の場面は見知らぬひとりの女性が車に乗り込み、やがて海に出るまでのシーンである。

ひとりの女が菩提樹やプラタナス(浅い緑と濃い緑)の下に隠れ、村の狭い道、緑色の鎧戸と乾いた石の壁の白い家に沿って、歩道もなく続いている道を歩く。彼女は車に乗り込んでスタートする、車はプラタナスの並木道を全速力で飛ばし、牧場を抜け、丈の低い葡萄の畑を通り、やがて海に出る。斜面になった牧場の尽きる辺り、右手に広がり、輝く海。車がまた別の村を通り抜ける時、村を貫く道の端に、青く光る四角形の海。白い壁の間に一瞬空と水とが見え、たちまち消える…[A]


 続いて、「晴れた空」を接続因子にして、「僕」が部屋から公園を観察している場面が描かれる。

…空は晴れている。一日中晴れだろう。公園に面しているであろう僕の部屋から、眼を覚ました僕は、芝生やかたまって咲いているカンナとチューリップや、まわちはじめる水撒き器(遠いのでその音は聴こえない)を眺めるだろう、少人数のグループになって真中の小径を進み、陽の当たる中庭まで来て、やがて建物の中に入る朝の最初の訪問者たちの数をかぞえるだろう(僕に会いに来る人は一人もいない。一日中僕だけの時間であるだろう)。僕はすぐ傍のプラタナスの葉を眺めるだろう、その影がバルコニーの石の上を動く……何故なら、僕を街の外に移す必要があったのだろうから。その時、白い部屋に一人取り残されて、僕はより鈍い痛み――胸の真中の、今は麻酔で一時的に紛らわされている痛みを感じるだろう。呼吸が困難であるにも関わらず落ち着きを払って、顔を低いテーブルの方に向けているだろう、その上には、他の紙に混じって、僕の言いつけ通りに一緒に持って来られたオレンジ色のノート、まだ余白があるので今これを書き付けることのできるノートが置かれている。書くこと、そしてあの肉体、既にもうずっと前から放置されている死骸――今頃は分解の最終段階に入り、肉もほとんど完全に溶け落ちた骸骨を想像すること(いやまだ幾分は肉片が残っているかもしれない)[B]


 自室で物思いに耽るうちに、ある夏に博物館で骸骨を見た記憶を回想するが、その際にもやはり「細部」まではっきりとイメージが復元されている。

ある夏の朝、博物館のガラスケースの中に見た頭蓋骨と同じく、度外れて眼窩の大きな無名の髑髏。――その時僕たちが立ち並ぶミイラの間を歩いて行った長廊下には、高窓から日光が射し込んでいた……[C]


 このように、ソレルスの文体は、全く異なる人物についての映像[A]が、本筋としての語り手の日常に唐突に挿入されたりするが[B]、語り手もまた回想によって記憶の細密な場面にまで帰っていく[C]ことになり、これらがある「語」を媒介にして滑らかに結合し、ひとつながりの「空間」を形成しているのである。
 別の箇所を拾って読んでみよう。

緑色のビロードのカーテンを僕は引き寄せる。戸棚を開ける。するとあれが起こるのだ。影と布の奥に、とうとう円筒形の見通しが開く。たった今絶対の裏側に口を開けた虚無、その中を攀じ登りながら、そこに生じたもの――幾世紀もの錯雑した塊、実際には何の音も聞き取れはしないのだが、その呟きが次第に強くなる塊――そこを立ち去り、逃れ去り、必然的に逃れ去るはずのもの――そして最も透徹した精神のみが達し得るまさにその場所から始まるもの(自分の中にあるもの以外に創り出すことはできず、事実、自分にはそれと判らぬながら、自分の欲するもの自分の本性から言って当然発見するはずのものを発見し、目的と手段と世界とを生み出し、究極的には全然誤りを犯すことがなく、しかも定義し得ない誤りを常に犯すもの)。そうだ、形もなく、暗闇と冷気の中を攀じ登りながら、見えるものを浸し、彼の中から立ち昇り、彼の外にまで溢れいで、突如として肯定され、或いは否認される何らかの物質によって自己の存在を際立たせる何か、があるのだ。最大限に押し広げられた限界をも文字通り包含する何か、世界の思考を絶する包装があるのだ。…――そして僕は、部屋の中、戸棚の瀬戸の把手に手をかけた僕のすぐ傍にいるらしいと推測される僕自身の中を覗いて、至る所でこの夜にたちまじる。(p135)


 読み難い、にもかかわらず何か研ぎ澄まされた濃密なauraの気配を感じてページを捲らせてしまう魔力――『公園』にはそんな言語の力が作動している。この作品の「僕」の心理描写は「意識の流れ」の手法を緩用しているが、それは「鼓動のリズム」と歩調を合わせるかのようにして細かく綿密に描かれている。事物観察における細密主義が、自己の内面観察においても採用されているのである。




「参考文献」


公園 (1966年)公園 (1966年)
(1966)
フィリップ・ソレルス

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「註」

※1)――以下のテクストは「自室」という閉ざされた空間で記されたものであろうが、この場からすると近くにありながらも常に観察対象として「遠さ」を与えられる「公園」という空間は、到達不可能な存在の故郷としてエリアーデのいう「世界の中心」の概念に近接しているだろう。自室にとって、公園とは常にひとつの、あるいは複数のミュトスの場なのだ。

「いつでも彼の人生そのものに思えていたあの馬鹿でかい部屋から、彼は物音一つ立てず、そっくり抜け出ることができたのか? これまで誰一人成し得なかったような一つの行為の基盤を固めるというのか? この極端さ、この充溢を向こう側で再び見出すというのか? 彼に優先する唯一の現実的なものに反抗して彼が同時に創りあげた幾つかの逸話は、いったい誰かによって知られるということがあるのだろうか?」(p93)


※2)――ソレルスの文体では物事の「断定」は巧妙に避けられ、以下のようなアモルフで捉え難い状態が常に持続している。

「表と裏、夜と昼――というよりも、蝶番のように、表と夜、裏と昼、そのどちらでもなく、しかも同時にその両者であるもの」(p147)













テーマ : 読んだ本の感想等 - ジャンル : 小説・文学

龍安寺石庭の「間」とデリダのコーラ(chora)の相関性、あるいは磯崎新のデミウルゴモルフィスム(造物主義)について

ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり―10 years after Anyビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり―10 years after Any
(2010/01)
磯崎 新、浅田 彰 他

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コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書)コーラ―プラトンの場 (ポイエーシス叢書)
(2004/04)
ジャック デリダ

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○ 「間=コーラ」


ティマイオスの宇宙論によれば、宇宙を構成する三原理はデミウルゴス、イデア、コーラ(リセプタクル)である。デミウルゴスは「造物主」などと訳されているが、本来の意味に近いのは「靴屋、大工のような存在」である。マルシリオ・フィチーノやアルベルティはルネサンスにおいて、このデミルゴスの特徴を「芸術家」と同一視した。グノーシスのヴァレンティノス派にとって、デミウルゴスは「永遠について、また永遠に反して嘘をつく大嘘つき」(ハロルド・ブルーム)とされ、その姿は明らかに「神の他者」に等しい。
ジャック・デリダ、ピーター・アイゼンマン、磯崎新など現代思想と現代建築を媒介する研究者たちが注目しているコーラ(chora)は、「あらゆる生成の、いわば養い親のような受容者」(プラトン『ティマイオス』)である。デリダの説明によれば、コーラとは以下のようなものである。

「それが暗に示しているものとは、運動のようなもの、つまり、揺れであり、諸力や種子の振り分け、選別、濾過というものが起こる地震なのですが、一方そのようなときでもこの場は依然動じることなく、決定されることもなく、形もなさぬままなのです」



デリダはまた、磯崎新らを交えた対談の中で、コーラを「超時間的な場所、あるいは非―場所」と捉えている。それはいわば「出来事」、「意味」が生起する前の「容器」であり、いかなる実体化された建造物でもおそらく表現不可能な根源的な、宇宙の起源に先立つ「場」である。ジュリア・クリステヴァはこれを「母胎」的に認識していたが、これは意味を母性的に限定化する行為だとして批判も多い。デミウルゴスは、コーラを発現させる作動主体であり、コーラは「意味賦与作業」に先立つ何か、その全ての意味を受容可能な空の器のようなものである。浅田彰は、コーラについて以下のように述べている。

「いったいデミウルゴスはどこへ行ってしまったのか。もしかするとコーラは、デミウルゴスの代替物として機能しているのかもしれない。だがそもそも、存在が理性の対象であり、生成が感覚の対象であるのに対し、<一種のまがいの推理>によってしか捉えられないとティマイオスのいうコーラ、このどこかフィクショナルなコーラとはいったい何か。それは、アトミストたちのいうケノン(空虚)でもなければ、アリストテレスのいう充満したトポス(場所)でもなく、部分的に占有された空間なのだ、とストア派のゼノンは言うだろう。空虚と存在の中間にあるこの謎の空間は、豊かな経験を可能にする文脈としながらもまさにそのことによって人を歴史の重みで縛りつけるトポスを解体するため、しかも均質なケノンの中に呑み込まれずに済むための、アンチトポス的あるいはアトピー的な足場となるかもしれない。だが、いかにしてか」



この末文の告白、「いかにしてか」は、コーラの捉え難さを端的に伝えている。場所でもなく、空虚でもなく、そこで出来事・意味が発生する根源的な場である非―場所=chora。これは、もしかすると建築学―現代思想の中で再現前化している、一種の神秘主義的運動ともいえるのかもしれない。コーラのそもそもの出自が、ティマイオスの宇宙論であるという点も、それを示唆しているのではないか。しかし、コーラは神秘主義というひとつの宗教的な「場」に帰属してしまうようなものではない。「場所を持たず」、いわば「場所」を「揺れ」によって生起させる根源である。
このコーラの「揺れ」をデリダは比喩的に「地震」を述べているが、それは果たして地上に生起する、例えば先の東北大震災に見受けられるような「場の抹消」、「意味の破壊」を伴うものなのか。磯崎新は『孵化過程』の中で、「都市の変貌は、巨大な亀裂からはじまる」と述べていた。「コーラの震動」の持つ意味とは、プレートの地殻変動によって大地が隆起して「場所」が誕生するように、けして人間には見えない「場所の根源」において働く「揺れ」のことなのであろうか。
実はこの「揺れ」も、『ティマイオス』において述べられているのである。浅田は以下のように続ける。

「コーラは、内に含んだ諸要素の運動によって揺さぶられ、またそれらを揺さぶり返して、ふるいのように機能するという。それがトポスの持つ創造機能――デミウルゴスとしての?――なのだ。空虚と存在の中間にあってリズミカルに振動するコーラ。唐突な連想が許されるとしたら、それは日本でいうMa<間>と共通する点を持っているのではないか」



これを受けて、磯崎が述べている「間=コーラ」についての記述は、特に興味深いところである。

「間とは、日本語において、二点間の距離、二音間の休止区間などの空白部分を指す言葉で、芸術表現の全域だけでなく、日常生活における均衡感覚などにも深く関わり、それらを解読する鍵概念となったものである。ここでは、感知される存在よりも、それらの周辺または中間に介在する空虚を注視することが要請され、その見えないものの感知には気の呼吸を介して肉体化する手段が採られている。当然ながら、ここには唯一者はない。むしろ無数の中心、そして拡散し、流動しているなかで、創造する主体は単に任意の一地点を占めるに過ぎない。たま(遊離魂)、空白の祭壇に水平移動しながら降臨するカミ(ひもろぎ)、余白を多く残した絵画、ふすま(可変性)とたたみ(互換性)に貫通された建築、指揮者を欠いた合奏、消滅へ向かうすさび(衝動)、転移の瞬間のうつろひ(注視)など、間に関わる芸術表現は、いずれも固定された主体の位置を否定し、明滅する状態にそれを追い込んでいる。
間は、間隙、距離、亀裂、ズレ、剥離、転位、境界、休止、拡散、空白、虚空のいずれでもある。そこで、J.デリダのespacement=becoming space(空間生成)に限りなく近い働きをしているとも言うことができる。
デミウルゴスとしての建築家は、この間がままならぬものとして抱え込んでいる場所(コーラ)の中でのbecoming spaceに深く関与しているが、ここで特記すべきは、産出されていく形象は一定せず、決定的なものから常に離れさせられていく。そこでその行為を記述すれば、ab-から始まる全ての言葉といった趣を呈する。すなわち、ab-dication、ab-duction、ab-erration、ab-jection、ab-negation、ab-normal、ab-omination、ab-rogation、ab-ruption、ab-scission、ab-sence、ab-surdity」



念のために、「コーラ=間」的な接頭辞ab-から始まる磯崎が列挙した単語の意味をリスト化しておこう。

ab-dication(退位、放棄、棄権)
ab-duction(誘拐、外転)
ab-erration(脱線、異常、収差)
ab-jection(下賎、卑劣)
ab-negation(拒絶、放棄)
ab-normal(病的な、異常な)
ab-omination(憎悪、忌まわしい)
ab-rogation(廃棄、廃止)
ab-ruption(剥離)
ab-scission (脱離、部分切除)
ab-sence(不在、留守、欠席、欠勤)
ab-surdity(不条理、矛盾)
 



このように、どれもがネガティブで、サスペンス映画に一回は登場してしまうような単語である。だが、例えばab-sence(不在)であるもの、権威的な思想からはab-omination(憎悪、忌まわしい)とされているもの、ab-surdity(不条理、矛盾)を孕んだもの――これらはどれも、デリダが形而上学的体系のparergon(余白)から回収し、再評価して光を照射する際に用いた戦略素そのものであることが判る。

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「間=コーラ的な場としての竜安寺、石庭」

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「平安末期に記された『作庭記』(11世紀)にも記されているように、日本庭園は海景、河景、湖景をモデル化しており、磯崎はこれを<海のメタファー>と呼んでいる」

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(北脇昇『竜安寺石庭ベクトル構造』)


浅田はまた、ディコンストラクティビズムの果てにあるものとして、やはり「間=コーラ」を見出している。

「問題は、東洋の形而上学的体系を脱構築し、<気>をそこから解き放ってやることだろう――ジャック・デリダが西洋の形而上学的体系を脱構築し、コーラをその底無しの基底として再発見したように。その時、それらは<存在の場所>でも<無の場所>でもなく、両者のはざまにあってすりぬけるplacing/spacing(間)として現れるだろう」



ここで浅田が「風水」、「気」といった東洋的な思想を再評価している点は注目に値する。ただし、彼は以下のようにも付記している。

「…フィクションがフィクションに過ぎないことが忘れられる時、それは形而上学的体系となるか、悪くすればニューエイジ・オカルティズムに堕してしまうだろう。しかし、一切のフィクションを排し、表象しえない何かをただ沈黙のうちに指し示すとしたら、それもまた否定神学的な神秘主義に陥ってしまうのではなかったか。とすれば、フィクションを――しかも可能なら複数のフィクション(デカルト的なグリッドも含めて)を、それらがテンタティブなフィクションに過ぎないことを意識しつつ、積極的に利用し、互いに衝突させることで、語りえぬものについてあえて語らねばならない。例えば、最も現代的な建築を設計するにあたって、風水というフィクションを利用してみること――ジョン・ケージが、チャンス・オペレーションのために易経を利用したように」



浅田彰は東洋の神秘主義、とりわけ「気」や「風水」に注目しているが、磯崎は『見立ての手法』でも概念化されていた「間」の操作子である「うつろひ」について、明らかに「コーラ」ともリンクさせて以下のように述べている。

「仏典に由来する<空>、老子の<虚>、すなわちこの宇宙全域に空虚が浸透していると考えられたが、古代日本ではそれを<うつ>として認識していたと思われる。<うつ>は文字通りの空洞。物体はそれが神聖視されると内部に空洞を抱え込んでいると見られた。想像された空洞である。その<うつ>に<ひ(霊)>が吸引される。仏教や道教の概念が超越的であるのに比較して、この<うつ>は具体的で即物的だった。自然界にみられる洞穴、古代住居の内部など。ここには開口部はなく、暗闇である」



この「内部の空洞に<ひ>が充満する」容器を、ティマイオス、デリダがchoraと呼称しているのであり、この概念を核にして、まさに現代思想と現代建築は深い神秘的な繋がりを見出すのである。因みに、磯崎はこの容器を「間」の中でも特に「うつろひ」と関係させ、代表的な女性アーティストとして宮脇愛子のワイヤー作品を例示している。彼女もまた、「うつろひ」の世界を表出していると解釈される。

造物主義論―デミウルゴモルフィスム造物主義論―デミウルゴモルフィスム
(1996/03)
磯崎 新

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○ デモウルゴモルフィスム(造物主義)


これは磯崎が『造物主義論』で展開した理論であるが、2010年の浅田彰との対談で再びスポットライトを浴びている。

⑴tentaive folm

「仮説的であり、実験的であり、異領域的であり、未見であり、不快感を与え、マイナーで、他者たりうるようなフォルムを創出すること。ここでは、歴史的文脈において承認されていないこと、共同体内への帰属が確定していないことが必須条件である。それだけに違和感を持ち、居心地も悪い。だが、必ずしも古典主義的言語を、一方的に排除もしない。転移、非連結、重層化などの操作によって、安易にその内包する意味を脱落させることも可能だからである。コーラに常に応答していること。それ故にtentativeであり続ける」



⑵主体・客体の互換性

「唯一者ではなく、任意の誰か(anyone)であることは、主体と客体が容易に交換可能であることを示している。そこでは他者を受け容れるだけでなく、それと同居もなされる。その関係のなかに間=主体性、共通感覚、公共性などといった概念の投入をはかるのではなく、互換性を持つ断絶状態に置くべきである。そのとき、視線の交換、主客の転倒、異文化との遭遇、異種混交といったダイナミックな視点が獲得できる。



⑶トポスの虚構化

「計画を推進する視点から見ると、今日の世界は大きく三つに仕分けできる」

A リアル

各々の歴史的コンテキストを保存してきた都市。ヨーロッパ・東洋いずれも歴史的な都市、変動の少ない定住社会。

B シュルリアル(アンリアル)

コンテキストとは無関係に、あらゆる種類の要素(古いものと新しいもの、西洋と東洋、等々)が混在させられている、東京のようなメトロポリタン都市。

C ハイパーリアル/シミュレーテッド

いかなるコンテクストも欠き、虚構と人為的技巧に基いている、ディズニーランドのようなテーマパーク都市。

「この三種に分類できる諸都市に対して、その場所の特性に応じて提案は組み替えられるだろうが、いずれにおいても見られる共通性は、意味の充満している場所が、他者の介入によって変質することで、特徴的には、事物の定着性が薄れ、浮遊状態がおこり、故郷喪失が発生し、デラシネとなり、挙句に場所が虚構化していくことである」




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03/17のツイートまとめ

tomoichiro0001

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-17 21:46

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-17 21:18

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-17 20:49

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-17 20:20

先週発売した『黒アゲハ』を執筆していた頃の鈴村(大阪の研究時代)。ナツカシス。 http://t.co/mcv8k4xpxJ
03-17 18:44

先週のブログ記事の総拍手数131、どなたかが集中的にお読みくださっているのかしら。
03-17 18:38

「ある日、奇妙な塔で暮らす少年に出会い、間もなく大津波がやって来るという予言を知らされて……。切実なメッセージが込められた、〈書く〉ことと〈建てる〉ことの真意を問う3.11以後の新しい文学」鈴村智久『空き地と津波』http://t.co/8y4W9zKe6V
03-17 12:48

「ボルヘス文学と〈Web〉が革新的に融合した〈来るべき文学〉の誕生。〈個性〉の分散が加速する現代社会の中で、〈存在〉の在り方を探究した黙示録的な注目の最新短編集」鈴村智久『聖アントニウスの誘惑』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/hohcwdynZi
03-17 12:42

03/16のツイートまとめ

tomoichiro0001

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-16 21:46

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-16 21:19

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-16 20:50

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-16 20:20

脳のトレーニングに良い習慣についてのメモ⑴何事にも不平不満を言わない⑵相手を褒める⑶絵を観たりスポーツをする⑷意識して笑顔でいる⑴については、トマスの「肯定の哲学」にも繋がりますね。要するにポジティブな意味付与が脳の健康を活性化させるそうです。
03-16 19:26

これは私にとっての個人的な課題ですが、ピュタゴラスのメタンプシコース(輪廻)の思想やボルヘスの円環的時間の概念を、異端ではなく、「神の国」における時間の構造、すなわち永遠の表現として受容できないかという点についても更に考察の余地があります。キリスト教にとって「輪廻」とは何か?
03-16 14:41

あえて申し上げると、カトリシズムが一つの宗教システムとしてより発展するためには、私にはデリダ的な「歓待」、「友愛」、「他なるもの」の概念を受容することが必要だと感じています。したがって、デリダを読むことは今日、神学を更新された様式において新たに読む作業でもあると思います。
03-16 14:34

ちなみに、私が初めて読んだデリダの本はちくま文庫版の『死を与える』でした。私はこれをカトリックで洗礼を受ける前に、必死に赤線を引きながら理解したい一心でなんとか読み、更にデリダの思想形成を理解するために、みすずのフッサール本やハイデッガー全集を買い集めたりしました。
03-16 14:30

デリダとカトリシズムの最良の概念を私なりに受け継いで、それをけして哲学、神学固有のキーワードではなく、いかにポエティックに文学空間(小説、詩)へと昇華させるかという問題は 、私の今後の大きな課題であり、責務でもあると僭越ながら感じています。
03-16 14:22

RT @parages: 「仏哲学者デリダを再評価 没後10年、大著刊行相次ぐ」- 日本経済新聞 2015/3/8付 http://t.co/nhuUnoPWSR
03-16 14:17

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03/15のツイートまとめ

tomoichiro0001

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
03-15 21:39

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-15 21:16

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
03-15 20:43

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-15 20:17

出版予定の原稿、全体の9割は完成したが「序章」の大幅加筆で予想以上に大変な作業に。でも、これはこれまでの作品とは質的に異なる最初の研究書なので、手抜かりは絶対に許されない。
03-15 19:05

RT @lunar_shirayuki: ナタリー・ポートマンが出てるミスディオールのCMいいな~
03-15 16:43

RT @lunar_shirayuki: この作品愛してるO嬢の物語 ポーリーヌ・レアージュ 澁澤龍彦訳 富士見ロマン文庫 http://t.co/0tJccJB5jL
03-15 16:42

執筆にほぼ一年間を費やした小説が発売です。「都市の片隅にぽっかりと開いた空き地、ノートの余白…。それらに共通する、ある奇妙な感覚の正体を追い求めているうちに、主人公は川縁の工場跡地で、名前のない少年に遭遇する。彼の正体に迫るうちに…」 http://t.co/Eqf9nchfW3
03-15 13:25

最新小説『空き地と津波』が『黒アゲハ』と同時発売されました。どちらも作者の切実なテーマが込められた力作なので、どうぞよろしく御願い致します。http://t.co/AcFKQmoLfz
03-15 13:15

ホワイトデーの日に発売したにも関わらず、日付けの変わった夜に販売数レポートをチェックすると、もう2冊も売れていました。御購入下さった方、本当にありがとうございます。これからも刺激的で面白い小説を作るために、切磋琢磨していく所存です。 http://t.co/sWzzws7H0A
03-15 02:09

03/14のツイートまとめ

tomoichiro0001

RT @H_YOSHIDA_1973: 愛がなければ、すべての知は駆動しない。もちろん、その愛の対象は、目に見えるものには限られない。〈自然〉でも〈社会〉でも〈あなた〉でもいい。その意味では、鉱物学者も、社会学者も、文学者も、等しく対象を「愛している」といってよい。それがなけれ…
03-14 22:45

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-14 22:38

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここに!前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-14 22:37

「ボルヘス文学と〈Web〉が革新的に融合した〈来るべき文学〉の誕生。〈個性〉の分散が加速する現代社会の中で、〈存在〉の在り方を探究した黙示録的な注目の最新短編集」鈴村智久『聖アントニウスの誘惑』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/hohcwdynZi
03-14 22:29

RT @H_YOSHIDA_1973: 今まさに自分が書類中にそれを書いていて、ハタと思いとどまったのだが、最近よく用いられる「見える化(可視化)」という語は、つねに「分かりやすい」という形容詞とセットだ。しかし、感性学者としては「ちょっと待て」だ。視覚化によって逆に「分かりに…
03-14 22:10

RT @H_YOSHIDA_1973: 何かを「罵る」ことで、その何かの価値が下がったり、逆に上がったりすることはない。確実なことは、何かを罵ることで自分の価値が下がることだ。覚悟して罵られよ。
03-14 22:09

RT @albertiana: ヴァチカン教皇庁図書館展II 楽しみやー http://t.co/rRNaxhdWJX
03-14 22:08

RT @kunisakamoto: アリストテレス『気象論・宇宙について』 「新版 アリストテレス全集 第6巻」2015年3月。「偽作『宇宙について』は、…神的秩序をもった存在としての宇宙を考察する。イスラーム圏および西欧中世に大きな影響を与えた重要な著作である」 http:/…
03-14 21:51

RT @lunar_shirayuki: 駅にて http://t.co/Qs9GrPlop2
03-14 21:08

RT @lunar_shirayuki: 😻 http://t.co/CkePLwCZWg
03-14 21:08

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03/13のツイートまとめ

tomoichiro0001

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
03-13 22:37

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここに!前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
03-13 22:34

「ボルヘス文学と〈Web〉が革新的に融合した〈来るべき文学〉の誕生。〈個性〉の分散が加速する現代社会の中で、〈存在〉の在り方を探究した黙示録的な注目の最新短編集」鈴村智久『聖アントニウスの誘惑』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/hohcwdynZi
03-13 22:29

RT @PQuignard_Bot: ポリオはこう伝えている。「第五の季節が存在するとアルブキウス・シウスは言う。それは海面が割れ、コップがフェルトのようにしなり、不可能なことが可能な季節である」。この第五の季節が現に存在する証拠はある。私がアルブキウスを思い出している季節がそ…
03-13 19:06

RT @yamauchishiro: フォイエルバッハの『キリスト教の本質』は、軽く見ていたが、読み直してみると、とても面白い。宗教批判のための内在的理解というのは、ルターの道筋とも共通している。ハルナックもそうだが、一九世紀の神学研究の様子は思想史として面白い。研究対象にする…
03-13 18:56

RT @deja_lu: アガンベンがヴァールブルクとヘンリー・ダーガーの類比(「ダーガーのニンファ」)を主張している。。。これまでImage et mémoireはあったけれど、それを超える独自のイメージ編集とは、高桑さんのお仕事貴重だし、ありがたいー(アガンベン『ニンファ …
03-13 18:52

RT @deja_lu: [4月中旬発売予定:ソレルス『ドラマ』待望の改訂版] http://t.co/Zee3dGj96V
03-13 18:40

小説の「挿絵」の歴史――西村清和『イメージの修辞学―ことばと形象の交叉』を読む

イメージの修辞学―ことばと形象の交叉イメージの修辞学―ことばと形象の交叉
(2009/11)
西村 清和

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少年時代に我々がよく目にした、「絵本」とは何だろうか?
それは「テクスト」と「絵」のハイブリットであり、「絵本」である限り、「絵」はテクストと同じほど重要な地歩を占めている。私が小学生時代によく読んだ『宝島』には挿絵が付いていたが、これは読む上での愉しみの一つでもあった。
『イメージの修辞学』第四部「小説と挿絵」第八章「近代小説と挿絵」は、こうした「挿絵」と「小説」の歴史について考察した独創的な論稿である。
スチュワート・シラーズの定義によれば、18世紀の「近代小説」において花開く「挿絵」とは、単なるテクストの補完的要素ではなく、「言葉によって語られた様々な出来事を一つにまとめ、我々に出来事のシークエンスからいったん身を引いて立つことで、物語のシークエンスの転回点で人物の性格や感情について省察し観照することをゆるす」(p352)ものである。
活字によって得られた具体的なイメージを「挿絵」が「一つにまとめる」という視座は、他方でディケンズが批判したように、「想像力を限定化してしまう」可能性も含んでいる。実際、ディケンズは挿絵としてどの場面が「選別」されるのかといった挿絵画家の恣意性に批判を向けていた。
とはいえ、近代小説が出現する18世紀には、ストザード、コドウィエツキーといった上品で装飾性にも秀でた挿絵画家が活躍する。19世紀になると挿絵は「映画」を予兆させるカット割にまで発展したり、あるいは風景画的な質を高めてテクストから独立するようなものまで現れる。

【15世紀】

木版本として、『貧者の聖書』などの挿絵が有名である。アンドレア・アルチャーティ(1492-1550)の『エンブレム集』も16世紀の代表的な「挿絵」集として規定できる。

【18世紀】

18世紀は挿絵が華々しく発展した時代である。
この時代になると、デフォー、シェイクスピア、そして『デカメロン』の挿絵が人気だった。重要なことは、挿絵は基本的に18世紀までは「テクストの従属物」に過ぎなかったが、バロック以後、挿絵そのものが自立的になっていくという現象である。

「17世紀以降、とりわけ18世紀にじょじょに顕著になる挿絵の変化は、それ以前の、バシィが“もっぱら言語的なタイプの修辞学に従う”というイメージのあり方に対して、テクストの修辞学に還元されない自立的なイメージの出現ということができるだろう。イメージはもはや言語的メッセージを形象化することをやめて、それに固有の<形象のディスクール(La discours de la figure)>を展開する。テクストに対する挿絵の関係のこの変化は、我々の言い方をすれば、挿絵が言葉の修辞学とその時間継起に従う読解に従属するあり方から、瞬間のタブローにおけるイメージの自立性とその美的経験への移行という、18世紀に顕著になる変化である。そして挿絵におけるこうした変化は、当然のことながら小説の語りの“近代化”と手を携えている」(p330)


挿絵の制度の根本的な変革は、ルソーの『新エロイーズ』(1761)につけられた挿絵に見出すことができる。ルソー自身、挿絵の具体的な指図をしていたとされている。
18世紀の挿絵画家として重要な人物は少なくとも二人いる。一人はイギリス人画家トマス・ストザード(Thomas Stothard/1755-1834)であり、彼はフィールディング、リチャードソン、ゴールドスミス、デフォーらの作品の挿絵を描いて人気を博した。ストザードはテクストと並んで、視覚によって新たな解釈を呼び覚ますことに成功した(挿絵それ自体の作品価値が高い)稀有な画家であり、本書でも特に注目されている。

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ストザード『クラリッサ』(リチャードソン)の挿絵

ストザード 『エレジー』(グレイ)の挿絵 
ストザード 『エレジー』(グレイ)の挿絵

例えばストザードはリチャードソンの『クラリッサ』(1784)に合計三十四枚もの挿絵を描いている。無論、書物はリチャードソンのテクストに、ストザードの挿絵付きで刊行されるわけである。テクストが愉しみな読者だけでなく、ぱらぱら捲っているうちに挿絵に関心を持って購入した読者も当時は存在しただろう。ストザードの挿絵はテクストの邪魔になるものではなく、むしろストザード自身のレクチュールによって解釈された新しい作品でもあり、読者の想像力を閉鎖させるものではなく、むしろその補助椅子の機能を果たす画期的なものであった。ストザードは画家ターナーと共同で仕事も担っており、ロジャーズの『詩、イタリア』の挿絵を描いている。彼の挿絵から共通して伝わるテーマとしてあるのは、「ひとり読書し、苦悩し、独語する内省的な女性」の姿である。これらの挿絵はどれも上質で、書物としての品格を高めることに貢献しているといえるだろう。
同じ時代に人気だった『ロビンソン・クルーソー』の挿絵画家として有名なのは、クラークとパインである。彼らは同一画面上に、物語の主要な出来事を全て描き込むという、いわゆる「異時同図法」を駆使した挿絵を描いた。

ミーナ・フォン・バルンハイム レッシング
コドウィエツキー『ミーナ・フォン・バルンハイム』(レッシング)の挿絵

ストザードはイギリスの挿絵画家であったが、同時代のドイツの挿絵画家にニコラス・コドウィエツキー(Nikolaus Chodowiecki/1726-1801)がいる。彼もまたリチャードソン、ゲーテ、レッシングなどの挿絵を描いて活躍した。彼は舞台的効果を狙い、小説を読む読者は演劇における「観客」であるとみなして、絵の周りをロココ的な装飾で飾り、劇場型の挿絵に作り変えた。また、鍵穴から人物を覗くというスタイルの挿絵も描いているなど、意匠が凝らされている。

【19世紀】

19世紀になると、ルーク・クレネル、ジョージ・クルックシャンクといった挿絵画家が活躍する。クレネルはウォルター・スコットの『イングランドとスコットランド国境の古跡』(1814-17)などの挿絵を描いているが、これは一つの風景画に匹敵するほどの効果を発揮しており、挿絵そのものが「物語」を構成しているといえる。クレネルの挿絵の見事さは、『神曲』や『ドン・キホーテ』で知られるギュスターブ・ドレに通じる単体としての作品価値を感じさせる。
クルックシャンクはディケンズの『オリヴァー・ツイスト』を読み、人物の動きを漫画的なカット割でコミカルに描いた。ここには既に「動く絵」(映画)の萌芽を感じさせるものがある。
近代ヨーロッパのこうした「挿絵」の変遷は、明治30年代の日本文学にも大きな影響を与えることになる。




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