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鈴村智久の研究室

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今、シュンペーターが新たに注目を集める最大の理由――J.A.シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』×『資本主義は生きのびるか――経済社会学論集』読解記録

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資本主義・社会主義・民主主義資本主義・社会主義・民主主義
(1995/05)
J.A. シュムペーター

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資本主義は生きのびるか―経済社会学論集 (名古屋大学出版会古典翻訳叢書)資本主義は生きのびるか―経済社会学論集 (名古屋大学出版会古典翻訳叢書)
(2001/11)
J.A. シュンペーター

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【資本主義社会の原理としてのCreative Destruction(創造的破壊)】

現在、再評価が目覚しいJ.A.シュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』と、『資本主義は生きのびるか――経済社会学論集』を読んだので、このページにその記録を残しておきたい。
シュンペーターの思想を最大に結晶化した主著とされる『資本主義・社会主義・民主主義』は、非常に分厚い書物で、これは訳者が解説でも述べていたように、未だに汲み尽くされていない点を多く持った一種の「予言書」である。
このページで展開するのはあくまでも私の現在の読みであり、特に『資本主義・社会主義・民主主義』は「再読されるべき書物」として他の読者諸氏からも重要視されているので、また理解が深化すればその記録を掲載してみたいと考えている。
ここで先に、彼の提示した独創的な幾つかの概念を紹介しておきたい。
これは、解説でも訳者がシュンペーターを理解する上で前提となるものであるという趣旨で概略している。

「シュンペーターの基本概念」

(1)イノベーション
(2)企業家
(3)創造的破壊
(4)社会主義的体制へのシフト



イノベーションという言葉は、経済ニュースに慣れ親しんでいる読者であれば自然に耳にしている表現かもしれないが、概念としてはシュンペーターが創出したものである。
彼が1927年に発表した「資本主義の不安定性」(『資本主義は生きのびるか――経済社会学論集』所収)にその定義が明晰に記されているので紹介したい。
それによれば、「イノベーションとは、既存の生産要素の新しい結合によって、新商品を作ったり、新しい生産ルートを作ったりするという、新しい企業に見出される技術的な革新」である。
それは、産業の新しい拡大を創出するような革新だ。
イノベーションにはポジティブな意味が込められており、「それ自身が主導して、生産を拡大し、需要を拡大し、結果的には雇用や人口増加を創出する」までに至るものである。
シュンペーターは、この「資本主義の不安定性」の中で、明らかにイノベーションに「美学」を見出している。
企業による新しいテクノロジーの創出、それによる経済・産業界の躍進は、彼にとって偉大な美であった。
イノベーション(innovation/革新する)の語源は、innovare(リニューアルする)に遡る。
先の定義にあるように、イノベーションとは、「既存の生産要素の新しい結合によって」生み出される点で、いわばレディ・メイドな発明の産物を、新しい理論や視座に基いて組み合わせ、更新させ創出する運動そのものである。
それは完全にオリジナルなものは存在しないという点で、文学的にはクリステヴァの「間テクスト性」や、コンパニョンの「内部引用」とも交換可能な概念である。
それは文学のみならず、芸術一般や科学上の発明にも妥当する概念であろう。
そういう点で、イノベーションとは、まさに人類の「創造」そのものである。
これは、既にして「技術とは何であるか」を根源的に思索したハイデッガー的な思想とも、直通する大切な部分である。

このイノベーションの概念を理解した上で、シュンペーターの以下の「資本主義のエンジン」についての説明を読んでみよう。

「資本主義のエンジンを起動せしめ、その運動を継続せしめる基本的衝動は、資本主義的企業の創造にかかる新消費財、新生産方法ないし新輸送方法、新市場、新産業組織形態からもたらされるものである」


これは、いうまもなく資本主義が、イノベーションを基軸にして回転している、現に回転し続けているという彼の分析である。
イノベーションには、何か弊害はあるのだろうか?
即座に考えられるのは、新結合を通じて、旧産業界のシステムが刷新されてしまうことである。
これによって、一部の企業では失業者が増加する可能性は常にある。
資本主義の本質的要素を、「テクノロジー」の刷新、すなわち「イノベーション」に見出す以上、それは常に「創造」であると同時に、「破壊」でもある。
これが、シュンペーターの名高い、そしてイノベーションと表裏一体の概念である「創造的破壊」に他ならない。
これについて、彼は『資本主義・社会主義・民主主義』の第二部七章「創造的破壊の過程」の中で、以下のように語っている。

「このCreative Destruction(創造的破壊)の過程こそ、資本主義についての本質的事実である。それはまさに、資本主義を形作るものであり、全ての資本主義的企業がこの中に生きねばならぬものである」


イノベーションによって生起する創造的破壊こそ、資本主義の内在的な存立根拠である、という極めて重要な定式が、ここで展開されている。
これは永遠に記憶されるに値する決定的に重要な箇所である。
イノベーションを創出する存在とは、「企業家」である。
この企業家の概念については、「企業家精神の研究のためのプランへの論評」(『資本主義は生きのびるか――経済社会学論集』所収)に説明されている。
それによると、「資本主義社会における経済的変化のメカニズムは、企業家活動を軸として回転する」のであり、企業家とはまさにシュンペーター理論の「主役」である。
ここで、企業家と区別されるべき人々を厳密に規定しておかねばならない。
企業家は、資本家とも、経営者とも、発明家とも異なっている。
混同され易いのは、発明家であろうが、発明家が単にアイデアを生み出して終わるのに対して、企業家はそれをビジネスとして市場に展開する。
例えば、古代ギリシア人の持っていた認識論は、シュンペーターの見解によれば、産業革命を実現するだけの次元にまで達していたが、当時のギリシアではそれは実現されなかった。
理論はあっても、それが具体的に市場で登場しない以上、企業家ではない。
また、経営者とも企業家は異なる。
経営者は企業を経営、維持する側であって、イノベーションに積極的に参加するというよりは、むしろそれを利用する。
経営者は時に、血族的な世襲によって受け継がれることがある。
しかし、企業家というのは、この点で経営者とも一線を画している。
それは、「新結合」をいかに市場で展開し、「創造的破壊」を行えるかという「資質」でしか認められない。
資産を有し、投資を行う資本家とも企業家は異なる。
シュンペーターは、現代では最早死滅したマルクス主義者のように「労働者」に資本主義の「主役」を見出すのではなく、その本来的な「技術」の洞察に戻って、イノベーションの担い手である「企業家」の活動にこそ真の価値を見出すのである。
今日にあっては、実務だけでなく「新結合」にも積極的に参画し得る実力のある経営者が存在するだろう。
重要なことは、資本主義の本質を彼がイノベーションに見出している以上、それをビジネスとして着想できる存在者=企業家こそが、真の資本主義的主体だということに他ならない。

また、シュンペーターは、創造的「破壊」の負の側面によって、一時的に何かエラーが生起したとしても、短期的ではなく、もっと長期的な眼差しで資本主義それ自体の動向を眺めねばならないという、非常に時代を超越したような視座に立っている。

「我々は数十年ないし数世紀を通じて展開される(資本主義の)全期間について、その成果を判断せねばならぬ」


また、彼は資本主義の中核たる創造的破壊が、経済を不安定にさせるという見方についても、経済学的なデータに基いて以下のように断言している。

「イノベーションのプロセスから生じる不安定性は、矯正される傾向にあり、累積し続けるものではない」


「資本主義の不安定性」の中で、シュンペーターが資本主義の特質として述べている箇所は、以下のようにも換言できるだろう。

「非連続的で大きな変化を含むイノベーションは、競争的資本主義のもとでは、新しい企業の中で典型的に具体化される」



ここで、シュンペーターの「資本主義」のシステムについての見取り図を、まずもって描出しておくことが可能である。
イノベーションの主体となる「企業者」は、「私有財産制」と「契約の自由」に基いて市場で自由に活動することができる。
企業者は、銀行から貸し出しを受け(信用創造)、試行錯誤を重ねたり研究者と結託しつつ、「新結合」により新しい商品を(例えば次世代のネットワーク機械)を開発する。このイノベーションによって、市場では創造的破壊が起きて、適者生存に至る。
当然、消費者は新しい製品が登場したことによる恩恵を受ける。
旧式のマシンは、新しいイノベーションの結晶化である新製品に淘汰、排除されていく。
資本主義のプロセスとは、まさにこのようなサイクルとしてシュンペーターに概略的に素描されているのである。
資本主義社会の特徴として、シュンペーターが『資本主義・社会主義・民主主義』でまとめているので、ここでそれを列挙しておきたい。

「資本主義社会の特徴」

(1)大衆の生活水準を引き上げる。
(2)人間の行為・思考を合理化する。それは同時に、心の中から形而上学的信仰と共にあらゆる神秘的・ロマン的観念を追放する。
(3)資本主義文明における産業活動は、神学的見地からすれば「むしろ異端的ないし異教徒的でさえある」。
(4)人間はこの社会では、合理的功利主義、個人主義的功利主義を信奉するhomo economicusとなる。



だが、ここで私がシュンペーターにほとんど傑出した迫力を感じるのは、彼がこのまるで資本主義を謳歌した「讃美歌」の如き論稿の中で、以下のようなことを予言するからである。
すなわち、資本主義は、極めて素晴らしい効率性を重視した社会を構築し続けるがゆえに、やがて「社会主義その他と呼ぶかどうかは趣味と用語法であるような事物の秩序」へと、シフトしていくというからである。
これは、全くもって衝撃的な言及であるが、本文は以下のように記されている。
おそらく、単なる資本主義概論に留まるのであれば、シュンペーターには特に迫力はなく、今でも第一級の名著とされるまでには至らなかったのではないか。
以下のテクストは、例えば社会主義を倒した「自由の騎士」、F.ハイエクが読めば、どんな顔をしたであろうか。


「資本主義は、経済的には安定であり、また安定性を増してさえいるが、人間の精神を合理化することによって、それ自身の基本的条件、動機、そして社会制度と両立不可能な精神と生活スタイルを生み出したのであり、経済的必然性によらず、おそらく経済的厚生の何らかの犠牲をあえてしても、社会主義その他と呼ぶかどうかは趣味と用語法であるような事物の秩序へと変化させられていくであろう」



この恐るべき予言をどのように解釈し、今後どのように読書の基本姿勢に活かしていくべきだろうか。
次のページでは、シュンペーターが予言している現代日本の未来についても極めて重要なメッセージ性を持っている以下の謎めいた発言、「資本主義体制には、自己崩壊に向かう傾向が内在する……」について、更なる考察を深めたい。


【資本主義の終焉について】


J.A.シュンペーターが死の前日まで執筆していたとされる「社会主義への前進」(1949)は、『資本主義・社会主義・民主主義』の最終章に収録されている。
そこには、資本主義がどのように「解体」されていくのかが記されている。
彼には経済学的なデータに基いて、こうした結果を導き出すだけの根拠があったのだろうが、ここではその概略的な要素だけを抽出したい。

「資本主義が解体にまで至る要素」

(1)実業家、企業同士の敵対的な競争関係は、やがて互いに防御し得ない状態にまで達する。
(2)そもそも実力主義、成果主義、個人的功利主義だけでは人間社会は成立しえない。
(3)かつての実業家階級の力がじょじょに失墜していく。
(4)資本主義の制度そのものが、大衆及び資本家の心に対する支配力を失っていく。



これと合わせて、既に大衆や実業家階級にも実質的に受容されつつある因子として、以下のようなものがある。
これらも、資本主義から社会主義へ至る可能性に拍車をかけるものとして記されている。

「資本主義で既に受容されている社会主義的因子」

(a)再分配課税(累進課税)
(b)物価に関する規制強化
(c)完全雇用を目指す大量の公共管理
(d)市場への公共的な統制
(e)公共的企業(官の力)の拡大
(f)社会保障制度



これら六つは、いずれも純粋な資本主義の原理とはかけ離れたものであることは、ミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』で、これらのどれもが批判されていることからしても明白である。
先の四つの、いわばホモ・エコノミクスの内在的な「不満」と合わせて、既に取り入れられている六つの社会主義的政策の「強化」による相乗効果によって、資本主義はじょじょに社会主義的体制へと、知らず知らずのうちにシフトしてしまう――これが、シュンペーターの唱える「資本主義の未来図」である。
四つの「不満」、六つの政策の「強化」と合わせて、更に決定的であるのがインフレーションである。
インフレに対する警戒については、ハイエクも特に強調しているところである。
インフレを防ぐための三つの処方箋として、シュンペーターが提示しているのは、(1)低金利政策、(2)増税、(3)価格統制、である。
これら三つは、どれも公的権力の増強を招く性質を持っている。
シュンペーターは、インフレという資本主義に内在する現象そのものが、社会主義に至る危険性を常に既に孕んでいる点を強調して、以下のようにいう。

「不断のインフレ的圧力は、官僚制度による私的企業体制のありうべき制服において、一つの重要な役割を果たしうる――ここから出てくる摩擦や行き詰まりは、私的企業になすりつけられて、更にいっそうの制限と統制とを支持する論拠に用いられる」



これだけではないだろう。
現代日本は、更に少子高齢化による年金制度や、社会保障制度の肥大化によって、ますます政府の力が大きくなっている。
少子高齢化、これはシュンペーターの予言が実現化しかねない決定的に重大な問題である。
周知のとおり、2030年には労働人口は7000万人を割り込むと予測されている。
2020年代(つまり、現在20代の若者が30代になる頃)には、社会保障負担率は19%、潜在的な国民負担率でいえば50%に達すると予測されている。
これらの予測は、人口予測が数学的に導出されている限り、ほぼ実現することは間違いない。
今後、どの首相、どの政権になろうが、「社会保障負担率は常に高い」という状態が続くと考えられている。
経済の入門書にも、こうした基本的な事項は前提として明記されている。
「社会保障負担率を抑制するための改革がどうしても必要だ」というのは、我々の時代のコンセンサスなのだ。
特に、現在20代である我々の世代は、「世代間扶養」のシステムによって、上の世代よりも統計的に負担率が高いのである。
「世代間扶養」というのは、公的年金が世代間での所得移転を行っているために、どの世代に属するかによって損得が大きく異なってくるという日本の年金制度の問題点である。
老人医療費も、異常なほど増大している。
2015年には、65歳以降の人口(高齢者人口)は25.2%に達する。
すなわち、国民のほぼ五人に一人はお爺さん、お婆さんというのがごく自然な風景になってしまうのである。
問題なのは、長期入院や過剰診察などの、いわゆる「漫然診療化」である。
先にも述べたとおり、その医療費の財源は後世代に負担される。
「世代間扶養」が取り入れられている限り、我々がいわば高齢者の福祉を支えているのである。
日本の医療制度の中で、86年に制定された老人保健制度は、特に増大が目立っている。
これらは、社会保障を国が温情的に世話するというパターナリズムの結果である。
フリードマンが述べたように、年金を民間企業から購入するという方法も存在するのだ。
金利の自由化や資産運用手段の多様化が進展すれば、この点は私的な年金でも対応可能であるということが、既に経済学の参考書レベルにも書かれているのである。
だとすれば、「社会保障改革」として、年金を民営化し、世代間扶養のシステムを廃止するというのが、フリードマンやハイエクのいう「自由主義国家」に接近するための最良のプロセスである。
小泉内閣によって郵政は確かに民営化されたが、革命を起こすべき諸問題は少なくともあと10は存在する(これについては、M・フリードマン『資本主義と自由』を参照せよ)。
郵政改革はフリードマンが『資本主義と自由』の中で述べていた数ある改革案のうちの一つに過ぎない。
少子高齢化、中国の台頭、世界不況、3・11以後の復興財源など……テーマ、問題が山積みになっている現在、まずもって重要なのは「復興」支援政策であるが、その後も常に問題視されるのが、この「社会保障改革」である。
換言すれば、この改革は、シュンペーターの予言を実現させないためにも必要である。

シュンペーターについて、話を戻そう。
彼は、やがて「極めて穏当なタイプの社会主義がほとんど自動的に出現してくる」と予言していた。
これは、「資本主義の衰退」の兆候である。
もしも、現在の復興支援がそのまま社会主義国家体制への拍車となり、社会保障改革に何のメスも入らないまま少子高齢化だけが加速し、産業が衰え、有能な人材は海外へ流出するというような現象が常態化すれば――その時、シュンペーターは微笑みながら「私の予言が的中した」というのではなかろうか。
何故なら、それは最早「資本主義」という仮面を被った「社会主義国家」にも等しいからである。
もっとも、「自由企業経済」を重視する一方、そこで生じた弊害を「社会保障」によって修正していく経済システムを、modified private enterprise economy(混合私有企業経済)とか、端的にmixed economy(混合経済)などと表現する。
しかし、自由主義の伝統からして、政府の力は常に最小限に抑制され、市場の自由は最大限に発揮されなければならない。
だとすると、社会保障政策の支持によって中央集権化を加速させる現在の日本の国家体制は、まさに「資本主義の衰退期」の兆候を見せているという他ないのである。
我々は現在の政党がかつての集産主義国家の二の舞を踏まないように、常に観察し、牽制していく姿勢を忘れてはならない。
シュンペーターは、1950年の段階で、以下のように記している。

「資本主義初期の商業的冒険のロマンスは、今や急速に昔日の光彩を失いつつある」


これが事実だとすると、それから60年後の現代は、まさに「衰退期」に位置しているのであろうか。
繰り返すが、穏当な社会主義は気付かないうちに資本主義と摩り替わっている。
ソ連の壁の崩壊のように、大々的にそれが可視化されるというよりは、むしろ「資本主義」というものが、素顔から「仮面」へ交換されてしまうことの危険性を、シュンペーターは述べていたのである。
シュンペーターの予言は、自由主義の信条がこの世界に存在する以上、けして実現させてはならない。






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05/06のツイートまとめ

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tomoichiro0001

「映画界のみならずオペラ、演劇界に決定的な影響を及ぼし、後世の文化人に未だ深い感銘と陶酔を与え続けるイタリアの名門貴族の血を引くルキノ・ヴィスコンティ。その美的原理を最新の美学によって徹底的に分析する」鈴村智久『ヴィスコンティの美学』http://t.co/LmGP9wjVVJ
05-06 22:21

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
05-06 21:44

「小説とは根源的に何なのか、その〈制度〉への懐疑なくして新しい現代文学は誕生しないと感じる全ての読書家への真の応答がここにある。前衛的実験作品三篇を収録した来るべき文学のための羅針盤」鈴村智久『メリーゴーランド』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/PAI547jgZg
05-06 21:17

「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/6TGpCPHa0Q
05-06 20:44

「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく……。」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http://t.co/F4DNMDHv3Y
05-06 20:18

今日、私の髪をとても丁寧にトリートメントしてくれたり、ストレート後の薬を付けてくれた男性スタッフさんの手を何気なく見ると、薬品成分でしょうか、かなり荒れて赤くなっていました。私はその人の手にとても惹かれた。仕事上で負った傷から「美の本体」が入る、と言ったヴェイユの言葉を思い出す。
05-06 18:54

店舗にもよりますが、個人的には大阪よりも東京の美容師さんの方が総体的にレベルが高い気がします。
05-06 18:47

今日は美容院でカット&部分的にストレート。前回と同じディレクターに担当していただきました。
05-06 18:40

「押井守が2015年4月30日(木)に発売した書籍、『友だちはいらない。』(東京ニュース通信社)がヤバい」友だちって本当に必要ですか? 鬼才・押井守が語る『友だちはいらない。』 | ダ・ヴィンチニュース http://t.co/TaNWNzObUP
05-06 18:14

「ある日、奇妙な塔で暮らす少年に出会い、間もなく大津波がやって来るという予言を知らされて……。切実なメッセージが込められた、〈書く〉ことと〈建てる〉ことの真意を問う3.11以後の新しい文学」鈴村智久『空き地と津波』http://t.co/8y4W9zsDfn
05-06 13:03

ハイエクの「コスモス」、あるいはドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」についてーー今こそハイエクの主著『法と立法と自由』を読解する

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Tyson Ballou   Daphne Guinness by      Steven Klein

Tyson Ballou Daphne Guinness by Steven Klein


ハイエクに対する関心は、近年ますます高まり、専門家による一般向けの入門書なども刊行され始めているようだ。
このページでは、ハイエク全集『法と立法と自由』の一章で具体的に描かれる極めて重要な「コスモス」と「タクシス」について記録しておく。
前回のハイエクのページでも既にアウトラインを紹介したように、もの・社会に対する観方というのは大別して以下の二通りが存在する。

・ 設計主義的合理主義
・ 進化論的合理主義


この二つを先に厳密に区別しておこう。
実はこの二つを区別するに当たって役立つ本は、ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』の中で詳述されている「リゾーム」と「ツリー」である。
リゾームとツリーの違いについて、ここで判り易いように「アメーバ」と「樹木」の差異について記しておこう。
私が今から述べるアメーバは、他生物を吸収して絶えず自分自身を変身させていくために、常に居場所を移動していくような運動体である。
アメーバは様々な領土で様々な生物に遭遇し、その生物を自分の中に吸収し、自分の持つ内的器官を他者の内的器官と交換したり、或いは異化させる。
アメーバの形状は常に変化することになり、初期の状態と現在の状態では、外観や器官の構造などに著しい差異を持つ――これらは全てリゾームの概念の具体化である。
他方、樹木は大地に根を張り、固定されつつ光合成によって自分自身の身体を拡大し、幹を広げていく。
それは樹木の、あらかじめ大きさや役割がある程度規定された体系の範囲内での成長であって、樹木は他のいかなる生物とも同化したりすることなく、朽ち果てるまで樹木という同一性を保守し続ける――これらは全てツリーの概念の具体化である。
まとめると、リゾームはいわば一定の固定された身体を持たない変容する運動体であり、ツリーは常に固定されて後は幹や枝葉を生い茂らせるだけの体系的な存在である。
実はこのリゾームとツリーの差異が、そのまま「進化論的合理主義」と「設計主義的合理主義」の差異である。
「設計主義的合理主義」の方は、いわばツリーのように樹木状に知の領土を体系化、構造化していく思考方法である。
ツリー的なこの「設計主義的合理主義」は、リゾームと並んで無論非常に重要であり、何かを学ぶ上での基礎である。
一方、「進化論的合理主義」は、あらかじめ決められた体系や枠を持たずに、いわば無定形のままその場、その場で各領土の基本的性質を吸収し、内的変化を生起させていく思考であり、これはツリーのように一定の固定化された領土を、渡り歩く(=遊牧する)性質を強く持っている。
『千のプラトー』において強力に発信されている「知の遊牧論」は、それまでの学問に対するアプローチの方法が樹木状の「設計主義的合理主義」に支配されていたため(その象徴はまさにキリスト教神学を核とする西洋形而上学である)、その思考方法そのものを根源的に変革させるために導出された「思考方法」であり、その概念としての「リゾーム」こそ、ハイエクが重視する「進化論的合理主義」に相当するものである。

さて、ここまでの段階で我々は「設計主義的合理主義/ツリー」と、「進化論的合理主義/リゾーム」の決定的な差異について読んできた。
それでは、ハイエクのいう「タクシス」と「コスモス」とは何なのだろうか?
簡単にいえば、タクシスとは、「作られた、制度化されたルール」のことである。
他方、コスモスとは、制度化されていない、「自生的な秩序」のことである。
どちらもルールであることには変わりが無いが、人間に対する拘束力の大きさが決定的に異なる。
タクシスは人間によって(政府によって)制度化され、具体的な法律として施行されるので、当然その法から逸脱するとペナルティを受けることになる。
他方、コスモスは法律を具体的に設計したりせずに、人間の各々の活動の自由に身を委ね、基礎となる原理的なルールのみを作って、後は個々の現実問題にその都度臨機応変に適応していくという原理である。
いわば、タクシスとコスモスは、それぞれツリーとリゾームを、法学的な次元で再定義したものである。
判り易く説明するためにもう少し述べると、タクシスでは、個々の事例に対して「同じタイプの型にはまる法律」を適用させなければならない。
いわば、法律という大きな樹木の中から個別的な例に合わせて法律を用意しておかねばならない。
一方、コスモスでは、ハイエクが「数多くの特定事実への適応」という言葉でも表現している通り、個々の事例に対して、アメーバ状にその都度臨機応変に適応していくためだけのシンプルなルールのみが存在することになる。
法律を膨大に作り、法の樹木を構築していく思考方法に対して、ごく基本的なシンプルなルールのみをあらかじめ作り、それを具体例に臨機応変に適応させていく思考方法の二つが区別される。
ハイエクはこれを、「自生的秩序は多くの点で、作られた秩序とは違った特質を持つ」という言葉で表現している。
ハイエクによれば、自生的秩序の原理的なモデルを最初に考案した人物は、ミレトスのアナクシマンドロスであった。
アナクシマンドロスは、「ディケーのルールを現実にまで“拡張する”こと」に、「国家や社会における正しい秩序」のあり方を見出していたのである。
この「ディケー」というのは、ギリシア神話に登場する女神であり、「秩序と季節」を司っている。
ここで重要なのは、アナクシマンドロスなどのイオニア地方の学者においては、人間の「正義」を最大限に発揮するためのルールは、樹木状に構築されていくタクシスよりも、その都度臨機応変に「正義」に根差して対処できる抽象性を重視したコスモスの方に価値が認められていたという点である。
確かに、意識的ないし計画的な選択によるのではなく、私たちの制御の及ばないメカニズムによって作動していくコスモスの方が、自由度が圧倒的に高い分だけ、現実の個別的具体例に幅を広げて適応させ易い。
ここで、改めて「進化論的合理主義/コスモス」の重要な三つの特徴をまとめておこう。

・ 人間の不定形な無意識に根差した性格の次元にまで影響を受けることができる。
・ 論理過程を経て精神が作り出すものではなく、むしろ精神を構成する諸範疇としての特質を持っている。
・ 計画的で意識的な制度ではなく、より自由度の高いメカニズムによって具体的事例に適応することができる。



注意しておかねばならないのは、ハイエクが必ずしもタクシスを批判しているわけではない点である。
彼がタクシスの限界を補うための概念としてコスモスの重要性を強調しているという点は、記憶しておかねばならない。
ここで、ハイエクがコスモスという概念に持たせている意味をもっと具体的にしっかり把握するために、「有機体、組織」と、「コスモス」の差異についても記しておかねばならない。
ハイエクについて情報発信している学生の中には、「有機体」と「コスモス」を混同している者も見受けられるようだが、ハイエクはこの二つを厳密に区別している。
そもそも、有機体は、具体的な恒常的システムであって、自分自身を絶えず環境によって変身させていく自生的秩序とは相容れない。
後にこれは、ハイエクの市場概念である「カタラクシー」にまで発展する部分なので、最初の段階のこの違いを強調しておくことは有益だろう。
コスモスは、有機体が持つツリー以上の自由度よりも、いっそう高い自由度を有するのである。
また、「組織」は、自由度の高さという点で、既に硬直化してしまう危険性を常に秘めている。
「組織」はいわば「タクシス」である。
こうして見ると、「有機体」の概念は自由度の高さの点で、タクシスとコスモスの中間に位置しているということができるだろう。
タクシスについての最適の説明として、ハイエクは「磁石と鉄粉」について記しており、これは非常に判り易いので紹介しておくべきだろう。

「磁石と個々の鉄粉からできる力は、環境と作用しあって一般的パターンの一意の例を生み出す。その一般的性格は、よく知られた法則で決定されるが、その具体的出現は我々が完全には確かめることができない特定の事情に依存するであろう」



つまり、鉄粉が磁石に引き寄せられるという基本的性質のみをルールとするのがコスモスである。
このルールは、「鉄粉の一つ一つの位置、重さ、粗さ、なめらかさの程度、及び紙の表面のあらゆる不規則性」にその都度適応している原理であって、いわばこの一つの法則性の無限に近い具体例が出現しているわけである。
どちらが法のモデルとして、人間の自由にとってより重要かは、火を見るよりも明らかではないだろうか。
ハイエクは「コスモス」という言葉でこれを表現したわけだが、ハイエクが属するオーストリア学派の創始者であるカール・メンガーも、「全ての社会科学にとっての中心課題たる制度の自生的形成と、その発生論的性格」を研究課題にしていた、とハイエクによって認識されている。
いわば、オーストリア学派の基礎に存在している法概念こそ、この「コスモス」、「自生的秩序」なのである。
これなくして、現代の「市場」について語ることは不可能である。
「市場」は、資本主義の根幹を担う場であるので、まさにこの「コスモス」は、資本主義について学ぶうえで決定的に重要な基礎概念なのである。
因みに、歴史上「コスモス」ではなく、「タクシス」の方に重要性を見出した論客として、ハイエクが列挙しているのは、ルソー、ホッブズ、コント、ヘーゲル、マルクス、ケインズなどである。
彼らはまさに、「理性は神から与えられた」(ヴォルテール)という、キリスト教神学的な「ツリー」状の思考方法によって、法は「制度化」すべきものであると認識していた。
20世紀後半において、ドゥルーズ&ガタリだけでなく、デリダやフーコーなどフランスの「脱構造主義」(ポスト構造主義という表現は明らかに、構造主義の尾を引いているというニュアンスを帯びるので不適切である)の論客たちが、この「ツリー」状の構造主義、認識の「構築」論に対して解体を試みたことも、ハイエクの「コスモス」の概念と類比的に把握されるべきである。
このように、ドゥルーズ&ガタリが現在でも若者に大きな影響力を放っている情勢を考えれば、ハイエク全集が21世紀になって刊行されている事実の「新しさ」の真相が、自ずと理解できるはずだ。
それはまさに、「脱構造主義」の「次の新しいパラダイム」に続くために必要なイニシエーションなのである。

以上、このページではハイエクの「設計主義的合理主義/タクシス」と、「進化論的合理主義/コスモス」の差異と、コスモスが持つ現代的な意義について示した。
これらの概念は、今後あらゆる哲学、神学についての思想を学ぶ上でも極めて有効な視点を提供していると確信している。




「参考リスト」

法と立法と自由I ハイエク全集 1-8 新版法と立法と自由I ハイエク全集 1-8 新版
(2007/12)
ハイエク

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