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鈴村智久の研究室

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なぜ人は「神隠し」や「臨死体験」に惹かれるのか?ーー小松和彦『神隠し』×カール・ベッカー『死の体験』

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Shigeru Aoki

【神隠しの真相】

『今昔物語』に、極めて興味深い以下のような話が収録されている。

ある男が夕暮れに行方不明になり、13日間「神隠し」に合っていた。
しかし男自身は、女のもとで子供を作り、長い年月を過ごしていた。
ある日男の家に使者が現れて、彼をその領域から救い出した。
この時、男は「怪しく黒き猿のやうなる者」として出現したという。
この蔵には、無数の狐が存在したという……。



このページでは、小松和彦の重要な著作『神隠し』に依拠しつつ、現世とは異なる領域について考察を一歩進ませることを企てる。
「神隠し」が、実は「天狗隠し」とも呼ばれ、天狗信仰と深い関わりを持ってきたということは前回の記事で既に述べた。
江戸時代には、知切光蔵の『天狗の研究』や、『兎園小説』、あるいは平田篤胤の『仙境異聞』など、天狗信仰と結合した神隠しについての伝承は枚挙に暇が無い。
だが、神隠しを異界のコスモロジーの側から捉えた時における「攫う側」=「隠し神」信仰は「天狗」だけではない。
そこには今昔物語の例にも見られるように、「狐」も重要な役割を担っている。
狐がどちらかというと無邪気な悪戯心で異界体験を人間に与えるのに対し、「兇悪な隠し神」もやはり存在している。
それは、「鬼」である。
以下に記すのは、『遠野物語』の中に存在している「鬼による神隠し」の報告である。

村で長者の娘が攫われる。
数十年して、一人の村人が女の変わり果てた姿を山で見つける。
何故こんなところにいるのかときくと、以下のようにこの女は答えたという。

「或る物に取られて今はその妻となれり。
子もあまた生みたれど、すべて夫が喰い尽くして一人此の如くあり。
おのれはこの地に一生涯を送ることなるべし。
人にも言うな」



ここで興味深いのは、「或る物」と記され、「鬼」と明記されていない点である。
しかし、小松はこの話を「鬼」の仕業であり、彼女が暮らしていた世界は「鬼土」、「鬼隠しの里」であると考えている。
狐、天狗などは神隠しによって人間に「悪」を行うわけではない。
しかし、村の「外部」からやって来る「鬼」は、攫った者に恐怖を与える。

既に記したように、私は「神隠し」は近代化に伴って以下のようなプロセスを経たと解釈している。
これは小松の研究を敷衍し、昨今の「ひとりカクレンボ」などの都市伝説を加味した上での私の見解である。

①中世の「神隠し」

ムラ社会で何らかの原因によって子供などが忽然と消え去る。
原因不明であることの合理的解釈として、ムラ社会に伝わる「異界のコスモロジー」が引用される。
すなわち、消え去った理由は究極的には謎であるが、それは「おそらく天狗か、狐、あるいは鬼の仕業」と現象に対して意味賦与することで、その事件を「解釈」するツールを得るわけである。

②近代化による「カクレンボ」

近代化のプロセスで、①の「異界のコスモロジー」の中で位置づけられていた「神隠し」が、都市部の「カクレンボ」にまで零落する。これは、柳田国男の「信仰零落説」と類比的な次元で解釈できるだろう。すなわち、かつてムラ社会で起きていた神隠しの主体である「隠し神」は、都市部においては子供たちの「カクレンボ」の「オニ」として、表象=代理されるのである。

③ソーシャルメディアによる「新しい異界のコスモロジー」の再生産

イノベーションによって、主として都市伝説を流布する温床に「ネット」が重要性を持ち始める。Web内では、これまでの「異界のコスモロジー」に属していた説話や伝承が、形式を変えて(リメイクされて)新たに発信され続けている。「神隠し」という出来事そのものは、警察の科学的調査によって「誘拐事件」や「行方不明」として捜査される場合が大半であるが、現在にも残る「カクレンボ」や「ひとりカクレンボ」などには、「隠し神」の痕跡が見られる。



「カクレンボ」の起源を探れば、あるいは中世社会においてもこの種の遊びが見受けられたかもしれないが、重要なのは、こうした子供の遊びには実は「原型」が存在し、それを小松が「神隠し」に認めている点なのである。
ここで、我々はもっと①の時代の「神隠し」について急迫してみよう。
小松の研究によると、実は「村で忽然と子供が消え去る」ということはありえない。
全てには何らかの原因が存在する。
鎌倉時代に記された『撰集抄』には、奇妙な「海辺の市」が登場する。
この市場には、海の幸だけでなく、「馬」や「人」までもが売買されていたという。
こうした今日でいう「人身売買」を思わせる記述は、14~15世紀の文献にも数多く言及されているという。
「人攫い」が横行していたのは、子供の生の肝臓が当時、不治の病の特効薬であると信じられ、貴族階級から重宝されていたという背景がある。
この非常に禍々しい「神隠し」の暗黒面について、関西地方でも昔「児肝取り」の噂が存在したことや、広島ではライ病者には小児の肉の黒焼きが効くという「迷信」が信じられていたという説によっても裏付けられるであろう。
このようにしてみると、「異界のコスモロジー」というのは、実は「攫われた側」である村社会の内部の神話であって、実際はそうした神話の背後に「隠された事件性」を読解することは当然のことながら可能なのである。
小松が注意しているのは、むしろ「異界のコスモロジー」が、「神隠し」という神話素によって、実際の事件の真相を「隠す」機能を持っていた点である。
すなわち、「神隠し」とは、子供などを「隠す」という意味とは別に、より根源的に実際に生起した事件を「隠す」という、二重のクリプト化の作用を持っているということである。


【「異界のコスモロジー」の起源について】


だが、ここで我々は神秘を追い求める者として、同時に以下のような戸惑いを覚えないであろうか?
つまり、本当に全て現実に悲惨さを伴う事件ばかりであったか?
ここからが、「神隠し」の研究が実に興味深くスリリングなところである。
実際、誰に攫われることもなく「神隠し」を経験した人間はこれまでも存在したということを小松も認めている。
では、彼らはどこで、なにを、経験したのだろうか?

ここでまず、我々はカール・ベッカーの「Near Death(臨死体験)」についての本格的研究書『死の体験』で報告されている、人間が臨死において経験する8つの典型的なパターンを紹介しておきたい。

①トンネル
②花園
③三途の川
④life review(人生への反省)
⑤イエスや仏陀などの超越的存在との遭遇
⑥使者との遭遇
⑦高揚、病の治癒
⑧地獄の体験



ベッカーの研究によると、これら「他界」経験の証言に多い場所としては他に、「広い草原」、「木立と広い青空」、「小道」、「鳥居」、「城」などが統計的に報告されている。
時間帯でいえば、「朝焼け」と「夕焼け」において共通項を持つというのも謎めいている。
また、共通して「暖かく強い光」を目にしたとする指摘も見逃すべきではないだろう。
これら臨死体験を経験した者の多くは、死後「生」に対する価値観が大きく変わり、より深く生きる意志を持つようになるという。
臨死研究の地平を開いたキューブラー・ロス女史は、十二時間も死亡した状態の後に「蘇生」した例を報告している。
医学的にみて、臨死は軽視されているものの、完全に「存在しない」と断言はできない未解明な点を多く持つ新しい領域なのである。

次に、我々はマルコム・ゴドウィンの「夢」についての極めて豊穣な研究書『夢の劇場』の興味深い言及を読み返そう。
彼はその中で、「夢」は「自己」を霊化させていくという見解に賛同している。
我々は現実世界で往々にして「自己自身」を喪失しているが、「夢」の中で自己は真の「自己自身」に遭遇するとされる。
その時、眠る前に「手」を意識的に集中して眺め、頭の中でイメージするというトレーニングを数十分した上で眠ると、夢の中にイメージしていた「手」が出現する「通路」が生起するという刺激的なテクストが存在する。
すなわち、ある「物体」をイメージの中で念じて、瞼を閉じても再現できるようになった状態で、夢中にもそれを「持ち運べる」という画期的な見解である。
これが更に深化すると、夢の中に「自分の神殿=家」を建造し、自由に出入りしたり、そこを夢の中における「始発駅」として、他の夢の階層に渡ることが可能になるとまで報告している。
ゴドウィンのテクストが重要なのは、「夢」で見る世界が、我々の現実と類似していつつ明らかに「異界」的な側面を帯びている点を強烈に呼び覚ましてくれる点である。
夢は、臨死体験と同じく、実質的に「異界」や「他界」を繋ぐ通路なのである。

ここで、ベッカー+ゴドウィンの見解を踏まえた上で、改めて「神隠し」について考察を促そう。
おそらく、ある村で一つの神話が形成される起源には、一人の娘か、少年か、あるいは平凡な村人がいただろう。
彼女、彼は山で木の実を採集しに行く。
夕暮れに不注意からか崖から転落してしまい、一時的にNearDeath状態になる。
あるいは、臨死にまで到らなくとも、疲れ果てて草原の上で眠り込み、夢を見たのかもしれない。
ここで、「山」という村の「外部性」という空間、及び「臨死」ないし「夢」という「異界への通路性」の要素が全て登場することになる。
崖から落下した者の場合、身体に傷を負っていたかもしれない。
しかし夢の中で彼女は何か「暖かい光」に傷を癒される経験をする。
覚醒すると、実際に酷い傷は癒えていた。
実際には、眠っている彼女の身体の傷口を鹿などの野生動物が舐めて癒したのかもしれないし、通りすがりの旅人が傷を縫合したのかもしれない。
いずれにせよ、彼女はそこで何らかの異界体験をして、それを「村」に持ち帰る。
村社会で「異界のコスモロジー」が形成される起源となる出来事には、このような因子が重なった一部の人間の経験が存在しているのではないだろうか。
それがやがて村社会で「共同幻想」化するのである。

以上、我々は「神隠し」について探ってみた。
それは「夢」や「臨死体験」を我々が時に欲するように、おそらく人間にとっては現実の柵を越えた「癒しの場」としても考えられてきたのではないか。
小松は『神隠し』の結語で、それを「社会的存在としての人間に与えられた休息の時間」と定義している。
そして、「癒しに満ちたスピリチュアルな神隠しのような社会装置が必要だ」とも述べている。
我々は「臨死」や「神隠し」といった非日常的な出来事だけからではなく、日頃見ている「夢」にもう少し敏感になるだけで、あるいは「異界」との接触に気付くのかもしれない。
仏教における2世紀の聖人ナーガールジュナは『能断金剛般若経』の中で、以下のように述べている。

「夢の中にみえる姿の如く、万物をみなければならぬ」





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05/08のツイートまとめ

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tomoichiro0001

ヴェルフリンによれば、全ての芸術的直観は常に何らかの認識論的「形式」に拘束される。絵画を「観る」とは、ある何らかの「形式」によって「観る」こと、すなわち「制度的な眼」を媒介にすることを意味する。同様に、あらゆる芸術作品は例外なく何らかの「様式」の枠内に帰属される。
05-08 22:46

ブルデューは文化的なlégitimité(正統性)を、「自然的差異として誤認されるに至った社会的差異、無根拠な根拠」として定義する。ノブレス・オブリーシュやナショナリズムは「正統化」された「ドクサ(臆見)」、すなわちortho-doxie(正統ドクサ)であり、本質的に幻想である。
05-08 22:41

ブルデューは『美術愛好』で「眼は文化的産物である」という定式を提示しているが、これは「視点が対象を創造する」というソシュールのテクストを敷衍したものである。同様の見解は、ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』結論部の認識論とも一致する。
05-08 22:36

modus operandi(作り出す方法)をハビトゥスとした場合、opus operatum(作り出された作品)とは行為者の諸特性、生活様式である。ハビトゥスが我々行為者の慣習行動を生み出す〈生成母胎〉=〈方法論〉であり、いわば行為者は〈ハビトゥスの作品〉という図式が成立する。
05-08 22:31

フランス語の有名な諺“Chassez le naturel, il reviendra au galop.”(本性を追い払ってみよ、すぐさま舞い戻ってくるであろう➡人の本性は容易に変えられない)は、「ハビトゥス」が「存在」にいかに決定的な影響を与えるかを如実に物語っている。
05-08 22:26

現代文学の通奏低音たる「書くことの不可能性」について、ド・マンはlinguistic predicament(言語的な苦境)と表現している。「ポール・ド・マン・ルネサンス」である現在、その思想的営為は、今後新しい文学の可能性を開く全ての書き手にとって豊穣な収穫を齎すだろう。
05-08 22:21

「映画界のみならずオペラ、演劇界に決定的な影響を及ぼし、後世の文化人に未だ深い感銘と陶酔を与え続けるイタリアの名門貴族の血を引くルキノ・ヴィスコンティ。その美的原理を最新の美学によって徹底的に分析する」鈴村智久『ヴィスコンティの美学』http://t.co/LmGP9wjVVJ
05-08 22:20

文化的に何が「正統的」であるかというこの問題は、常に〈界〉内でのclassement(分類=階級付け)の操作を通して行われる。「R・シュトラウスは世俗的だがバッハは正統的である」、「P・ハイスミスは大衆的だがH・ジェイムズは純文学的である」などの「印象/効果」はここから生まれる。
05-08 22:16

distinguerの過去分詞であるdistinguéが形容詞になると、「上品な、気品ある」という意味になる。différences(差異)、différenciation(差異化)、discrimination(差別)もdistinctionの概念的な射程範囲にある。
05-08 22:11

ブルデュー社会学の基礎概念であるdistinctionは「他者から自己を区別して〈際立たせる〉こと」を意味する。「区別、弁別、識別」、AとBの差異、その差異の認識である。これは元々、フランス語特有の代名動詞であるse distinguer(自分を他者と区別する)の名詞形である。
05-08 22:06