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鈴村智久の研究室

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M・ハイデッガー『哲学への寄与論稿』におけるEreignisについて

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哲学への寄与論稿-性起から(性起について)- ハイデッガー全集 第65巻哲学への寄与論稿-性起から(性起について)- ハイデッガー全集 第65巻
(2005/06)
ハイデッガー、辻村 公一 他

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秘教的な性格を持ち、読む者にこの上なき衝撃と魔力を与え続ける20世紀の哲学者マルティン・ハイデッガーの『哲学への寄与「エアアイグニスについて」』は、『存在と時間』と並んで「ハイデッガーの思索の道における二つの絶頂」(フォン・ヘルマン)とされて現代に及んでいる。 このページでは、Ereignis(エアアイグニス)とAb-grund(深淵)という二つの重要なテーマ系を、民俗学的地平へと脱領土化させることによって、「存在と時間」であった20世紀の思想から、「存在と霊」の時代へとシフトしつつある21世紀への架け橋を示す。

「ハイデッガーの思索において本質的なのは、神々を喪失したという歴史的な経験である」by G・フィガール



 
私自身の経緯を先に少しだけ紹介程度に記しておくと、私はカトリック教会で洗礼を受けた二十一歳の頃に集中的に創文社版の「ハイデッガー全集」を読むことをしていた。
このページのテクストは、そのような中でもう一つの主著である『哲学への寄与論稿』を読解した結果、堆積していったものから構成されている。
これは、ハイデッガーの『哲学への寄与』の中で最も重大な意味を持つEreignis(エアアイグニス)と、Ab-graund(深淵)という二つのテーマ系の周辺で思考される。
もしも表題をつけるとすれば、「存在と時間」ではなく、「存在と霊」になるであろう。何故、しかし「霊」なのか。「存在」と「霊」には、いかなる親和性があるのだろうか。そもそも、「霊」とは何であるか、ということも含めて私はこれを書き残す。
いうまでもないが、これはソーシャルメディア(ツイッターやブログその他)などで私が極めてよく目にする、「新しいスピリチュアリズム」の運動とも連関している。ハイデッガーの存在論を、二十一世紀のこれからのスピリチュアリズムの文脈で改めて把捉するということ、これには単なる哲学界の常識を越えた強力な有効性がある。


○ 「Ereignisとは何か?」


 エアアイグニス――。
 目下、この言葉は極めて重要である。というのは、これを後期ハイデッガーの「思索を導く主導語」とする認知が研究者のあいだでも常識となっているためだ。フォン・ヘルマンが「西洋ヨーロッパ哲学の二つの偉大な著作」の一つとして称賛する名高い『哲学への寄与論稿』(以下、略して『寄与』)のサブタイトルも、やはり「Ereignisについて」である。(創文社版全集では、「性起」と訳されているが非常に判り難い言葉である。このような漢字を当てるくらいなら、いっそプラトンのイデアやニーチェのルサンチマンと同じく、カタカナで原語の響きを高貴に響かせる方が良かったのである)。
 Ereignisの意味は何であるのか? これは『フライブルク講演』の第三講演「同一性と差異」にて詳しく記されている。もともとの原義は、er-augen(エア-オイゲン)であり、これは「見つめて自分の方へ呼ぶこと」を意味している。Ereignisは名詞形であり、意味は「出来事、事件」である。ハイデッガーの後期思想の始まる『ヒューマニズム書簡』(1947)に登場しているのはsich sreignen(生じる、起こる)という意味の再帰動詞である。
 以上から、「エアアイグニス」という言葉の意味は少なくとも理解できる。基本的に、この言葉はハイデッガーにとって無限に深い奥行きを与えられていて、「ギリシア語のロゴスや、中国語のタオと同様、翻訳不可能である」とまでいわれているのであるが、それでも存在論的な意味をエアアイグニスに与えると、かろうじて「存在が人間を呼び求めているという存在論的関係そのもの」になると今のところは解釈できるはずである。
 よくハイデッガー関連の本を読んでいて、「Kehre(転回)」という言葉を目にするが、この語の存在論的な本来的意味は、「人間と存在の相互性(呼応関係)」を指しているとされている。特に重要なテクストは、「エアアイグニスは、見えざるものの内で最も見えざるもの、単純なものの内で最も単純なもの、近いものの内で最も近いもの、遠いものの内で最も遠いものであり、我々はその中に、死すべき者として生涯滞在するのである」(『フライブルク講演』)という箇所である。
 こうした意味が明確には伝達されない謎めいた性格をエアアイグニスは持っている。それは翻訳不可能であり、表現不可能性に帰属されるテーマであるが、少なくとも「極度に見えざるもの」でありつつ、「存在と人間の関係性」を指示する語として理解できよう。もともと、この言葉にハイデッガーが憑かれたのは、ヘルダーリンの「ムネモシュネー」に由来するといわれている。

 

 Lang ist
 Die Zeit, es ereignet sich aber
 Das Wahre.


 時は
 永い、だが真なるものは
 出来事として生じる。



 ここで、sich ereignen(生じる)という言葉を詩人が使用している。この「真なるものが出来事として生起する」ことを、ハイデッガーはそのヘルダーリン論の中で「存在の露になること」と理解した。より詳しく述べると、「乏しき時代」としての現代が、「世界の転換」にどのようにして遭遇するか、いうなれば「転換」がどのように「生じる」かを意味するのである。
 重要なことに、エアアイグニスは、「時間/存在」を、与えるところのものであるとも考えられている。「時間」というのは、実質的にエアアイグニスの発現形態なのだ。
 『寄与』におけるエアアイグニスについての言及によれば、「存在は没落する者たちを必要とし、ある存在者が現象する場合には彼らを既に呼び求めており、自らに割り当ててしまっている。これが存在それ自身の本質活動であり、この本質活動を我々はエアアイグニスと名付ける」とある。このテクストが重要なのは、「存在が存在者を呼び求めている」と記されている点にあり、実はこれは原義であるer-augen(エア-オイゲン)の「見つめて自分の方へ呼ぶこと」の意味と深く重なり合っているのである。いうなれば、「存在」が我々「存在者」を「呼び求める」という、その存在それ自身の「不可視」の「活動」を、ハイデッガーは「エアアイグニス」と規定する。
 ここまでの段階で、我々はまだハイデッガーのエアアイグニスという言葉の意味を紹介しただけに過ぎない。これは繰り返すが後期ハイデッガーを語る上で避けては通れない概念である。しかし、読者はここに何故「霊」的な意味が結び付いてくるのか、頭を傾げるだろう。それを示すためには、エアアイグニスと並んで重大な意味を持つ、Ab-grund(深淵)というテーマについて考えねばならないのだ。


○ 「存在論における<幽霊>、あるいは<異界>」 


 前期ハイデッガーの著作『存在と時間』は、これもよく知られるように「未完成」だといわれている。和辻哲郎も指摘しているが、ハイデッガーは「存在」について徹底的に考究しようとしたものの、「時間」については極端に言及が少ない。ハイデッガーの「時間」論は、いわば『現象学の根本諸問題』でしかその内容を知り得ない状態である。しかし、この本でも彼の「時間」「空間」論がうまく「存在」と結合して語られたことはない。
 では、何故タイトルが「存在」と「時間」だったのか? これが最大の謎である。また、何故「空間」ではなく、あえて「時間」なのか? 「存在」についての問いは、ハイデッガーによって確かに深化したかに見えるが、これは十分に「時空概念」と共に有機的な全体を形成し切れていない。
 実は、『寄与』という書は、高度にesoterisch(秘教的)であると称される。それは彼の使う言葉が極めて特異なためでもある。未だに完全に解明されていない『寄与』(研究は世界的に見てもまだ始まったばかりだといわれている)の中に、私はハイデッガーの「時空概念」を解明する手掛かりがあると考える。その上でキーワードとなる概念が、Ab-grund(深淵)なのである。
 ここで私は、ハイデッガーの哲学を積極的に脱領土化して思考するために、民俗学でいうところの「他界」、もしくは「異界」概念について記しておきたい。民俗学者で学習院大教授の諏訪春雄氏はその体系的大作『霊魂の文化誌』の中で、「現世」を同心円モデルで把握することで、古今東西の文献に登場する「幽霊」や「妖怪」の出現する原理が解明され易いということを示している。
 例えば、あなたは今、「A市」で生活している。存在論的にいえば、あなたは「世界-内-存在」として、A市というローカリティに属する「世界」の内で現実存在している。あなたは、A市に、有る。これを、大きな同心円モデルで表してみよう。プラネタリウムの半球体のように、A市はある領域として規定される。この時、A市、すなわち「世界」は、端的に「現世」である。そこでは、通常の時間の流れが作動している。諏訪氏は、この「世界」という同心円と、その円を重なり合わせた別の「世界」が存在することを示唆している。それが、「他界」や「異界」である。
 「他界」というのは、人間が死後訪れる「黄泉」とか、「根の国」と呼ばれる場所を示し、極めて古い神話文献における前提となっている。「幽霊」という存在は、この「他界」から「世界」に浸透してくる存在である。その実在性はともあれ、少なくとも民俗学的資料からこうした現世とは異なる空間概念が導出されるのである。
 諏訪氏によれば、「他界」から出現するのが「幽霊」であり、「異界」から出現するのが「妖怪」である。「他界」が「世界」と隣り合った同心円として存在しているのに対し、「異界」は「世界」の円と完全に重なり合っている。つまり、「世界」のあらゆる領域が、何らかのシャーマン的祭儀、もしくは心霊現象などを通じて突然、「異界」化する可能性を持つとされている。
 Ab-grund(深淵)に話を戻そう。先述して、私はハイデッガーの『寄与』における謎に包まれた「時空概念」を解明するためには、その「深淵」という言葉が示す意味を汲み取ることに糸口があると記した。
 Ab-grundとは何であるか? それは、「根拠が現れないこと」である。言い換えると、「根拠であることを拒絶するという仕方での自己秘匿」であるとも記されている。Der Ab-grund ist Ab-grund(根拠が現れないこととしての深淵は、深淵的な根拠に他ならない)。Die zögernde Versagung des Grundes(深淵とは、ためらいつつの拒絶である)。
 「深淵」とは、「形あるものとしては生じない」が、「拒絶」という仕方において、「空虚」という形で己を開示するものである。しかしまずもって、より重要な意味は、「深淵」がまさにZeitigung(時間化)と、Räumung(空間化)の根拠付けを行う場であるということである。すなわち、「世界」における物理的時間の流れ、物理的な空間の位相は、全て「深淵」による「時間化/空間化」という、「作り出す」作用に従って生起したと解釈される。
 「深淵」は、ゆえに「時間化と空間化の統一として根拠付けの働きをなす」ところである。「時間」と「空間」の根拠は、「深淵」にある。ハイデッガーは、「世界-内-存在」としての我々が属すこの「世界」における「我・今・ここ」という時空認識に対して、「かの者・かの時・かの場所」を想定し、そちら側へのEntrückung(時間脱出)とBerucküng(空間脱出)の可能性を示唆する。
 ここまで示してきて、我々はあることに気付かないであろうか? 一体、ハイデッガーは何を想定して「深淵」のことを語っていたのか? 実は、このAb-grund(深淵)という後期ハイデッガーの重要概念は、民俗学的にいうところの「他界」、「異界」の持つ意味内容に限りなく接近しているのである。
 「深淵」とは、「時間が空間を開く」こと、「空間が時間を開く」ことが、同時に生起する原-時間、原-空間そのものである。そこは、「存在」が自己を秘匿するという仕方で開示される場であると同時に、「根源的な空虚」である。先に紹介したEreignis(エアアイグニス)の意味を看取して再考すると、まさに我々人間が「存在する」ということを、成立せしめる「存在」そのものとの関係性(=エアアイグニス)の「現場」として、「深淵」は存在するのである。
 人間にとって、「存在」そのもの(これは、まさに「最後の神」のテーマに近付いているのだが)は、けして見えない。見えないこと、それは存在それ自身の「自己秘匿」であり、この退隠運動によって「存在」は我々「存在者」にとってまさに「隠れたる存在」として露になるのである。存在が隠れることで、己を人間に明かす場、それが「深淵」である。ハイデッガーの無限に豊穣な表現を借りれば、深淵とは、まさに「自己秘匿のための明るみ」なのだ。
 「深淵」は、また「再び新たに始まる歴史の場所」としてのAugenblicks-Stätte(瞬間の場)である。そこは、「新たな歴史の創設の場」でもあるのだ。日常的な時空の世界を変容させ、「更新」させるような特権的な「時間」の原形質、「空間」の原形態として、「深淵」はまさに「存在」の住まいである。
 以上の、『寄与』における「深淵」という用語を、意図的に「他界」に、「存在」を「幽霊」に交換してみよう。すると、極めて強い衝迫力を維持して意味が通じるばかりか、むしろハイデッガーが何をイメージして「深淵」について語っていたのかが理解できる。「他界」とは、まさに現世であるこの「世界」の時空を発現させる根源的な場である。「世界」において「幽霊」の存在が不可視であるのは、幽霊が「見えない」という「自己秘匿」によって退隠しているからであり、この幽霊の「隠れ」の場こそが、まさに「他界」=「深淵」なのである。
 我々人間は、「世界-内-存在」として、「我・今・ここ」に属するが、「幽霊」は世界の「外」である「他界」=「深淵」に属している以上、常に「かの者・かの時・かの場所」に属する。また、通常の現世である「世界」に属す我々にとって、「他界」の根拠が「現れないこと」もまた、「深淵」の持つハイデッガー的意味と符合する。そして、ハイデッガーが「時間脱出/空間脱出」によって、「存在」それ自身が住まう「深淵」と対峙できると考えていた以上、我々はシャーマニズムにおける「世界の中心化」の原理や、祭儀におけるekstasis(脱魂)によって、まさに「他界」に属する「霊的‐存在」に、対峙することができるのである。
 こうして、我々は『寄与』の最大のテーマであるエアアイグニスの真意の一端に、まさに接触する。エアアイグニスの原義としての、「呼び求めること」は、「霊的-存在」が、「存在者」を「深淵-他界」に向かって、招き寄せることである。これが、「新しい歴史の創設」であるとされるのは、普遍宗教の創始者たちが密接にエアアイグニスのさ中にあったからである。「霊的-存在」に対する道が、隠された都市の路地裏として示されている以上、我々は「深淵に出会いうるのでなければならない」。
 さて、最後に私は「深淵」のある古い系譜について記しておく。周知の通り、『ヨハネの黙示録』にはabyssos(底無しの深淵)という言葉が登場する。これは暗い悪の意味を担っているが、まさにそうであるがゆえに、パトモスのヨハネが属した当時の「世界」状況を裏面として現出させている。ヨハネにとって、底無しの深淵とは、サタンやサタンに属する者らが最終的な刑罰を受けるまでの千年間ものあいだ、幽閉されている場を意味する。黙示録にはこの他にも、aer(アエール:中空)という意味の悪霊たちが住む低空領域の存在が記されている。
 『ヨハネの黙示録』とパトモスのヨハネについて考える上で重要なのは、この書が作品中では少なくとも「島」で極秘裏に記されたことになっている点である。ハイデッガーの『寄与』が「秘教的」と表現されるように、パトモスのヨハネの黙示録もまた、mysterion(秘められた意味)を担うのである。
ハイデッガーは、『ヨハネの黙示録』に対してはいかなる評価を与えていたのであろうか? 残念ながら、彼が直接的にこの黙示に言及しているテクストは見当たらないが、Erschweigung(黙示)について、彼は以下のように記している。「黙示は、哲学が別の原初に基いて根本の問いを問う限りにおいて、哲学の<論理>である」。この文は、「存在」という新たな原初において真理の本質に突入しようと企てる者が持つ論理は、黙示的な言語を前提にすると読み替えることもできるであろう。
 先の「時空概念」の考察で得られた点を加味すれば、「パトモス」という島は、南エーゲ海上に実在しているのでまぎれもなく「世界」に属する、と考えられる。これに対し、『ヨハネの黙示録』の内部で、幾つもの幻視のビジョンを持ったヨハネが流された「パトモス」は、現実と「深淵」の「あわい」である。すなわち、ヨハネの世界認識において、パトモスという土地は二重化しているのである。
 一方では、政治的理由で島流しにあったという現実が示す舞台としてのパトモスである。他方は、その島で見た幻の飛び交うファンタジックで奇怪な舞台としてのパトモスである。島は二重化している。ここに、諏訪氏の研究における空間概念を吸収すると、まさにパトモスという現実の島の上には、「最後の審判」が目前にまで急迫したことを劇的に示す数々の幻視的空間が、覆い被さっているのである。パトモスという島の同心円に、黙示的光景を伴う別のパトモスが二重化している。ハイデッガーの「深淵」概念は、こうした「深淵」の方が、「世界」の時空を出現させるという点にその独創がある。
 
 以上のように、「存在と時間」において未提示のままだと囁かれてきた「時間」概念は、Ereignis(エアアイグニス)とAb-grund(深淵)というテーマ系を、民俗学的な領土へと脱領土化させることによって、その意味の内実を充溢させる。このようにして、「存在」を霊的なものとして把捉し、「深淵」を「他界」(キリスト教的にいえば「天国」や「地獄」といった、現世領域とは異なる時空間)と同定することで、実はエアアイグニスがエクスタシスを導くための哲学的予備概念であったという事実が開示される。『寄与』の秘教的性格は、このようにして開かれたのである。

 
 
 
 

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なぜ、今「動物」が重要か?ーー動物の存在論的なステータス、あるいはドゥルーズの「マイノリティへの生成変化」についてーージョルジョ・アガンベン『開かれ』の世界

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文庫化されて話題を呼んでいるジョルジョ・アガンベンの名高い『開かれ』(原著2002)を読了したので、ここで我々なりに判り易く得たテーマを記録しておこう。本書の副題は「人間と動物」であり、存在論的なコンテキストで「動物」とは何であるかが、ユクスキュル、ハイデッガーなどを慣用して考察されている。「動物」とは「人間界」の「外部性」であり、人間のように「存在了解」を持てない点で、根本的に我々とは異なる存在であると規定されてきた。アガンベンの企ては、リンネが規定した「ホモ・サピエンス」の定義の本質的な“曖昧性”を問い質すことで、新たに「人間」と「動物」の意味を根源的に思索する壮大な試みである。


○ 「動物」とは何か


アガンベンは動物学、存在論という二つの方向性から「動物」についてアプローチしている。まず、ハイデッガーの「動物」論については、以下のように解釈されている。

「ハイデッガーにとっての焦眉の課題とは、動物の<世界の窮乏(Weltarmut)>と<世界を形成する(weltbildend)>人間との関係を通じて、現存在――世界内存在――という根本構造そのものを動物に対して位置付けることなのであり、そうすることで、人間の登場と共に生物のうちに現れる開示の根源と意味を探究することなのである。人間とはアニマル・ラティオナーレ(理性的動物)であるという形而上学の伝統的な定義を、ハイデッガーが常に拒んでいたことは有名である」



ここでまず前提として理解しておくべきなのは、動物が「存在了解」を持てない点である。ハイデッガーの出発点はフッサールの現象学であり、師によれば全ての事物は「純粋意識」によって直観されることで、初めて存在する。世界は意識されなければ存在しない。よって、「存在」によって「存在者」が成り立っているという、ほとんど神学的な「創造論」に近いこのフレームを認識できない動物たちは、「存在者」ではあっても、「存在了解」を持つ者としての「現存在」ではないのである。
これをアガンベンは、以下の見事な「三つ組のテーゼ」によって表現している。すなわち、

命題�「石には世界がない[weltlos]」
命題�「動物は世界に窮乏している[weltarm]」
命題�「人間は世界を形成する[weltbildend]」



この三つの命題は非常に重要であり、アガンベンの本書を読解する上での基本的前提になる。動物が世界に窮乏しているとされるのは、既に述べたが「存在了解」を持てないためである。「存在了解」を持てる人間は、「世界-内-存在」として存在できるが、その前提に欠く彼らは「世界」が「石」のように「無い」とはいえないまでも、明らかに「窮乏している」と解釈できる。
アガンベンは「動物の環境の存在論的なステータス」について、以下のようにハイデッガーを看取して述べている。

「…(動物の環境は、)開かれている(aperto)が、露顕して(svelato)はいない、と。動物にとって、存在者は、開かれてはいるが、近付くことができるものではない。いいかえるならば、存在者は、接近不可能性と不透明性のうちに、つまり、いうなれば、非関係性のうちに開かれているのだ。人間を特徴付けるのが世界の形成であるとすれば、動物における世界の窮乏を規定するのは、まさに、この露顕なき開示(apertura senza svelamento)なのである。動物はたんに世界を欠いているばかりではない。何故なら、動物は放心のうちで開かれているがゆえに、――石が世界を剥奪されてしまっているのとは違って――世界を差し引き、世界なしですます(entbehren)ことを余儀なくされるからだ。すなわち、その存在において動物は、窮乏や不足によって規定することができるのである」


動物とは、したがって存在論的にいえば、「世界の窮乏」であり、「放心」した存在である。また、動物は世界に開かれているのではなく、世界を存在論的に持てない存在として、「閉じられている」ということへと露顕されているのである。この世界に開かれてはいるが、「存在了解」(私という存在者は、存在に巻き込まれて世界に存在している――この認識)を持てるほど進化していないために、ただ世界に開示されているだけという存在様態は、まさに天使の「放心」に近接したものである。アガンベンはハイデッガーの韜晦的な文体の影響を受けて、これを世界の「閉ざされ」へと「開かれている」と表現している。
動物はゆえに、「存在」を知ることがない。動物を聖なる存在として崇拝できるのは、あくまでも人間による「意味賦与」(フッサール)であって、動物自体は「存在」を認識しない。この無垢で、どうにも「存在」に手が届かない存在者である動物を「放心」と表現するのは、現代人が往々にして「存在」を忘却していることに由来している。ハイデッガーが基礎存在論を構築したその未完の大著『存在と時間』において述べていたように、「存在忘却」とは、現存在が「ひと」という共通の無個性的かつ匿名的な存在様態へと「頽落」した姿である。「ひと」はある意味で、「存在」に「放心」しているのである。ここにおいて、本質的に「放心」した存在としての「動物」が、「存在忘却」を患った現代人である「ひと」と類比的に把捉されている点は見事である。すなわち、ここにおいて人間の一種の存在論的な「動物化」という事態が生起する。
ハイデッガーはその存在論形成において、ユクスキュルの影響を多分に受けたとされている。ハイデッガーにおいて「動物」とは「放心」しているだけでなく、「朦朧とした」、「心を奪われた」、「ただ振舞う」だけの存在である。彼らは本能的に振舞うのみである。こうした、一種の「本能」という制度へと降下している存在である動物は、カッチャーリが近代以後の「天使」として、現代的な天使論『必要なる天使』で展開した姿と相関的である。カッチャーリによれば、天使とは「人間」よりもむしろ「動物」に類似している。天使の無垢さは動物の「放心」に類似しているだけではない。天使は「神」と「人間」の架け橋となるメディウムであるが、「動物」もまた「世界を持たない」、「石」と「人間」との架け橋になるメディウムなのである。
「石」―(動物)―「人間」―(天使)―「神」、この関係性の図式において、( )で括られた存在は共に人間にとって、存在論的な階層性を示す上での媒介項となっている。再び、アガンベンの以下の解釈を検討しよう。

「動物は、存在するものも存在しないものも、開かれたものも閉ざされたものも知らない以上、存在の外に存在している。つまり、あらゆる開かれよりもはるかに外的な外在性における外部、あらゆる閉ざされよりはるかに内的な内密性における内部に存在しているのだ。とすれば、動物を存在せしめるということは、動物を存在外に存在せしめるということを意味することになるだろう」


ここにおいて、動物の持つ「外部性」が強調されている。アガンベンは「存在の外に存在している」と規定しているが、この点についてもう少し深く考察しておくべきだろう。本来、神学的には動物は神によって創造されている以上、「存在の外部性」ではなく、「存在」にあくまでも「包摂」されている。しかし、ハイデッガーは「神」を棄却し、「存在」にテーマを再設定したのであるから、当然「存在了解」を持たない動物は、「存在」からも見放されたものとして扱われることになるのである。「神」なき現代文明において、「動物」の持つ存在論的意味とは、最早動物が「存在しない」ということである。動物は、「神」なき以後、存在できない。何故なら、彼らはアガンベン=ハイデッガーが述べたように、「存在の外部性」だからである。この外部を、デリダの戦略素としてのparergon(余白)へと置き換えれば、「存在のパレルゴン」としての「動物」には、現代思想にとっての考察の余地が膨大に残されているということを意味する。
何故なら、言明されていない「余白」には、意味の書き込みを免除された“聖性”が宿っているからである。動物は、「存在の外部性」として、我々の人間中心主義化された思想圏から迫害・追放されてしまっているがゆえに、新たにここに思考を領土化できる可能性を我々は持っているのである。


○ 「開かれ」とは何か

先述したように、現存在は「存在了解」を持つが故に「世界」に開かれている。しかし、動物はそれを持たないが故に、「世界」に開かれていない。ハイデッガーはこれを以下のように述べている。

「…開かれを持つということは、持たないということであり、より正確にいうならば、世界を持たないということである。実際、世界に属しているのは、存在者の存在者としての露顕可能性なのであるから」


アガンベンの動物論を読解する上での重要な存在論的定式は、aperto(開かれ)を、彼が「存在了解を持つこと」として規定している点であり、これが彼の思考の基礎である。更にこれを出発点として、アガンベンはこの「存在了解を持たない動物」の「放心」を、現代人の「存在忘却」に曝された「深き倦怠(tiefe Langeweile)」と類比的に把捉している。彼は以下のように述べている。

「かくして、動物の本質としての放心こそが、“いわば人間本質を際立たせるような恰好の背景”(ハイデッガー)となる、という一つの見込みのもとで、世界の窮乏――ある意味では動物はそこに、自分自身の開かれざる存在を感じているのだが――は、動物環境と開かれとのあいだに一つの突破口を保証する戦略的な機能を担うことになるのである」



以上から、我々が往々にして抱く「深き倦怠」が、「動物」の「放心」と、存在論的な等式で結ばれるに至る。我々は「存在忘却」に陥ったまま憂鬱である時、或いは端的に「不安」である時、「動物」なのである。それは動物園の檻に幽閉された犀の表情が、悲哀を湛えてメランコリックに眺められた、という程度のものではない。そうではなくて、どれほど活発に動き回る愛らしい猫であれ、子犬であれ、彼らは「存在」に対して無知であるが故に、「存在」を忘れ去った人間の姿を現したものとして存在論的に認識できるということなのだ。ハイデッガーは以下のように述べている。

「…動物が世界を持っていないことを、世界をなしですましているものとして理解し、動物の存在様態そのもののうちにひとつの窮乏した存在を見出さざるを得ない、ということである。……とはいえまた、動物における世界の窮乏を動物性そのものの内部にある問題として展開するのに、ペシミズムさえ必要ではない」



○ 我々は「最後の神」に出会い得るのでなければならない

我々が「深き倦怠」に襲われるのは、我々が「存在」に対峙していないからである。動物はあくまでも「放心」したものとして人間に直観されるだけに留まるが、人間はどこまでも「深き倦怠」へと沈殿していく存在者である。では、このような大いなる倦怠とは、具体的にどのような状態を指しているのか? これについて、ハイデッガーの愕くべきテクストをアガンベンが引用している。

「例えば、片田舎の支線の退屈な駅にいるとしよう。一番早い次の列車の到着には、あと四時間もある。この周辺に別段見所はない。リュックサックに本があるので、果たして、読書に耽るだろうか。否。それでは、何か疑問や問題についてあれこれと考えを巡らせるのだろうか。いや違う。時刻表を調べたり、まるで不案内な別の場所からこの駅までの色々な距離を載せた一覧表をしげしげと眺めたりする。ふと時計に視線を移す――やっと一五分経った。駅を出て、目抜き通りへ。何かしようとして往ったり来たりする。しかし、何の役にも立たない。街路樹を数えてみる。改めて時計を見る。さっき時計を見た時からようやく五分経ったばかりだ。往復にもうんざりして、石の上に腰を下ろし、砂の上に色々な模様を描いてみる。再び時計を見て愕く。三〇分経った……」


この一見何気ないが不穏なテクストを読んで、我々は何を感じるだろうか。実は、これは普段の我々の日常の些細な一こまである。時刻表を眺めたり、砂に絵を描いたりする行為がアイフォンでのほとんど空虚なネットサーフィンに変化しただけの微分的差異に過ぎない。ハイデッガーの捉えた「現代人」の「深き倦怠」の姿は、二一世紀初頭を生きる我々の姿にも重なるものである。
我々は何かを必死でしているように見えて、実は何もしていない。我々は何か与えられた仕事や課題に全力で取り組んでいるように見えて、存在論的には何の進展も生起してなどいない。この憂鬱で倦怠を知った自分に気付いた時、我々はようやく「存在」に対峙する端緒を掴むのである。ハイデッガーは、以下のように我々に宣告している。

「…倦怠によって、現存在が、全体としての存在者に直面する」



すなわち、我々は「深き倦怠」に支配されて初めて、ようやく始原的な、我々を現出させた「存在」それ自体に遭遇するのである。この「深き倦怠」とは、私が直観するに、原初の「存在」が抱いていた「根本気分」の表象=代理である。ハイデッガーの決定的に偉大な点は、彼がこの「存在」を、キリスト教神学的な「神」として認識「しなかった」点である。本来、人間は「深き倦怠」のさ中で、何らかの超越的な救いを見出すものである。ナザレのイエスによれば、我々は苦しめば苦しむほど、それだけ大いなる富を天国に積む。我々は「深き倦怠」にある時、実は神に慈愛によって抱き締められているのである。だが、ハイデッガーはこの最後の救いをも徹底的に拒絶する。
ハイデッガーは真の主著として再評価が目覚しい『哲学への寄与』において、「最後の神」がユダヤ・キリスト教神学における「神」とは何の関係も持っていない点を明記している。

「最後の神はその最も唯一的な唯一性を持ち、あの精算的な規定、すなわち<一神論>、<汎神論>、<無神論>、等といった表題が意味するような規定の外部にある。<一神論>と全ての種類の神論は、ユダヤ―キリスト教の<護教論>以来、初めて存在する。それは<形而上学>を思惟的な前提として持っている。この神の死によって、全ての神論は没落する。神々の多数性はいかなる数に服するのでもなくて、最後の神の合図が輝き出ることとその合図を覆蔵することとの瞬間場における、諸々の根拠と諸々の底無しの深淵の、内的な豊かさに服するのである」



「最後の神」と、全集版では「性起(エアアイグニス)」と名付けられている二つの概念は、明らかにハイデッガー思想の真の核心的テーマである。『哲学への寄与』の七章「最後の神」には、「既在の神々に対する、とりわけキリスト教の神に対する、全く別の神」という副題が設けられている。
アガンベンがテーマにしている「開かれ」について、ハイデッガーは同じ章で以下のように述べている。

「自らの裂け開けの不幸に帰属することを許されて、孤独な者たちの常に原初的な対話の内で聴き従う者となる人は、幸いである。この対話の内へ、最後の神が合図を送り入れる。何故なら最後の神はこの対話を通して、その傍過において、合図して招かれるからである」



まさにこれは、アガンベンのいう「深き倦怠」において、「最後の神」への応答可能性が「開かれ」るということに他ならない。我々は、「神の死」以後の「最後の神」と、応答する責任を持っている。何故なら、それこそが「深き倦怠」に抗戦し得る唯一にして最大の勇敢さだからである。ハイデッガーがこの章で述べていることをまとめておくと、それは「最後の神は底無しの深淵においてのみ現れる」という一文で言い尽くせる。底無しの深淵とは、「深き倦怠」として、我々の日常生活全てに潜在している。我々はその瞬間にこそ、「開かれ」ることに気付かねばならない。この「気付き」こそ、「最後の神」との「応答可能性」なのである。

○ 「電脳都市」に棲む「動物」

先述したように、人間は「深き倦怠」のさ中でこそ、「存在」に遭遇し、「現存在化(diventare-Dasein)」し得る。人間も動物も、共に「世界」に対して、「閉ざされ」という存在様態において「開かれている」点では共通する。しかし、人間は現存在化し得る存在である。ここが動物と人間の存在論的な決定的差異である。
また、ハイデッガーは「ポリス」について、我々がそこで生活する限り、本来隠されたものとしてあり続ける「存在」が、本質から遠ざかったものとして現前すると述べている。この「隠されている」ということは、実は真理の根本的な本質である。対して、本質ではないものが現前する現代都市においては、全てが「隠されることなく」現前し、可視化されてしまっている。彼のいう「ポリス」を、「ウェブ社会」やWeb3.0以降の「電脳都市」として換言しても良いだろう。その場合、我々なりに言い直したハイデッガーの新たなテクストは以下のようになる。すなわち、

「<電脳都市>は、存在者の非隠匿性が集中する場である。しかし今もし、語の意味するとおり、真理が闘争する存在を持ち、そのような闘争性が欺瞞や忘却との対立関係に表れているとすれば、人間の本質をなす場を意味する<電脳都市>においては、非隠匿性や存在者との、すなわち、その本質に反する多様性における非存在者との、あらゆる屹立――と共にあらゆる非本質――が優勢を占めるはずである」



ここで表現されているのは、いうまでもなく現代人の生活空間としての「電脳都市」が、全ての存在者(例えば本来プライベートなはずの司祭の生活記録がブログ形式で公開されるなどといった、私秘性の公的開示)の秘密を奪取しているということである。これをハイデッガーは「非隠匿性」(隠匿されるに非ず)と表現しているだけであって、実質的にこのテクストは、「秘密=真理」が消尽されつつあることを暗示させているわけである。我々がポリスを現代的な「電脳都市」に換言した理由は、いうまでもなくハイデッガー本人が「テクネー(技術)」を存在論的な位相に大きく据えていたことを受容している。我々の生活を根本的に変革してきたのは技術的なイノベーションであり、現代社会にとってそれはまずもってウェブ社会の更なる進化、飛躍と相関的である。


○ 人類の「動物化」について

エルンスト・ヘッケルの研究によれば、人間と類人猿の中間には、「言葉を持たない原人(sprachloser Urmensch)」という観念を想定すべきであるという。この人間特有の「言語」を持たない原人は、「ホモ・アラルス」などとも呼称されるが、人類の前-言語的段階として位置付けられている。ヘッケルのこの考えによれば、「人間」とは「言語」を持つ存在であることになる。
これを受けて言語学者のハイマン・シュタインタールは、「言語」を使用することを「人間」の条件に設定する。動物は人間に固有の言語システムを持っていない。双方の決定的差異は、やはり文化的生産物としての「言語」の有無だということになる。アガンベンは一見、シュタインタールの上記の見解に賛同しているかに見える。だが、哲学者である彼はこの「人間」概念に疑義を呈している。そこが大変興味深い。
人間を「言語的な存在」として位置付ける場合、動物はあくまでも人間と差異化された存在として規定されてしまう。いわば、動物は「人間に非ず」、その「外部性」、「余白」へと追放されるのだ。しかし、リンネは「ホモ・サピエンス」の概念を、より動物性に近いものとして規定していた。人間とはただ、「汝とは何者か」という問いに、動物が無言であるのに対して、「我々は人間である」と答えることが可能な点のみによって規定されると彼は考えていた。

「事実、リンネは冒頭から、自然は“剥き出しの地上に裸のままの”人間を、つまり、教えられでもしない限り話すことも歩くことも食べることも認識することもできない人間を産み落とした、と記している。人間は、人間を超えるときにはじめて人間そのものになるのである」



このリンネの定義によれば、「ホモ・サピエンス」は生まれながらに理性的な存在などではなく、むしろ「人間たるべくして自らを人間として認識しなければならない動物である」。動物と人間は、そもそも厳密にラインを引かれてしまったカテゴリーではなく、その概念は本来的に浸透し合っていたのである。

「ホモ・サピエンスは、それ故、明確に定義された実質でも種でもない。むしろそれは、ひとつの機械、あるいは人間認識を生み出すための一つの装置なのである。当時の趣味に従うならば、このマッキナ・アントロポジエーニカ(人間発生機械)は、人間が見凝めると自分の姿が常に既に歪んで猿の容貌として見えるような一連の鏡からなる、ひとつの光学機械なのである」



人類という概念には、「動物性」が賦与されているのであり、我々はただ「人間に類似したもの」になり得るだけなのである。我々は未だに「人間」ではなく、むしろ「人間に向かって進化途上の動物的存在」なのである。人類学が設けた「人間とは何か」に対する学術的な定義それ自体も、実はひとつの人類自身による文化的捏造に過ぎない。こうしたことから敷衍すれば、我々と動物の境界線はいよいよ揺らぎ始めるのである。根源的に我々と、その外部性である動物を分け隔てるものについて、再考せざるを得なくなる。アガンベンは、以下のようにいう。

「人類とは、人間の形をしたものとして構成された動物であり、この動物が人間的足りうるためには、人間ならざるもののうちに自らを認識しなければならないのである」



また、アガンベンはハイデッガーの政治的履歴をも問題視しており、歴史における「自民族中心主義」(ナチズムにおけるアーリア人至上主義)を、「使命としての遺伝」と呼称し、テロス(目標=結末)を歴史に設定してしまうことでその神話的な世界観が完結すると信仰する人間を、「動物化」とみなしている。これはK.ポパーが名高い『歴史主義の貧困』の中で、歴史にあらかじめ定められた「法則」や「掟」を設定し、その理論の軸上でしか政治、文化、社会を進行させない考え方であるHistolicism(歴史主義)への批判を展開したことと相関的に読解できるだろう。
アガンベンが、動物と人間を安易に生物学的に差別化してしまう考え方を批判している背景には、彼の「人間中心主義」、「ロゴス中心主義」への批判がある。人間を動物よりも秀でた存在として認識し、そこに境界線を設ける考え方も、ある特定の民族に劣位的地位を与えて迫害する考え方も、根本的には「種差」を生産していく理性的動物としての人間の過ちとして理解できる。これが、アガンベンのいう人間の「動物化」である。それは人外のもの、自分とは異なるもの、他なるものを設置して「意味」の余白へと追放していく運動としての「動物化」であり、この段階での人類は未だ真の目が開かれた「人間」ではない。

○ そしてドゥルーズの「マイノリティへの生成変化」へ

アガンベンの存在論的動物論について、そこで引用されている三人の重要な学者を紹介しておこう。ハイデッガーを筆頭に、ユクスキュル、そしてドゥルーズである。特に彼が注目しているのはユクスキュルの「環世界」の概念であり、これは人間には人間の属す世界があり、蟻には蟻の属す世界があり、各環境はそれ自体の内に閉じているという考え方である。ハイデッガーのいうin-der-Welt-Sein(世界-内-存在)は、ユクスキュル的に把捉すれば、あくまでも「人間の属す環世界」の意味にしかならない。つまり、そこでは隣接する類人猿や他の昆虫、植物たちの「世界」が意図されていないのだ。ハイデッガーの存在論が、本源的に「人間中心主義」化しており、従って「動物化」した思考の産物として位置づけられる由縁である。
しかし、アガンベンが哲学を「存在論」として規定している点では、やはりハイデッガーを相続しているといえるだろう。彼は第一哲学は依然存在論であるとみなしている。そして、存在論こそが、人間と動物を差異化させたのである。アガンベンはまた、存在論の近未来の地平についても以下のように予言している。

「(a)歴史以後の人間は、開かれざるものとしての自己の動物性を最早温存させてはいず、むしろ技術によってそれを統御し管理しようとする。
(b)存在の牧者たる人間は、自己自身の隠匿性、自己自身の動物性を我が物とすることで、動物性を覆い隠されたままにするわけでも支配対象にするわけでもなく、むしろ、それ自体として、純粋に置き去りにされたものとして思考する」



以上、本書の読解記録としてまとめてきたことを改めて整理しておこう。アガンベンは、ハイデッガーの存在論を視座に「動物」という存在を思考している。そうすることで、存在論的には「動物」が「外部性」に追放されていることを暴きだし、ハイデッガーの「世界」概念が自体が、実はユクスキュルの「環世界」程度の意味しか持っていなかったことを暴露する。これによって次に発展可能なのは、本書では言及されていないドゥルーズの「マイノリティへの生成変化」の概念である。我々は、この21世紀において、真剣に今一度「狼になること」について思考せねばならない。或いは、「薔薇になること」とは、一体哲学的にどのような事態を意味するのか? エクリチュールの問題としての動物への生成変化は、ドゥルーズが『千のプラトー』の生成変化論で述べていたように、文体そのものの持つ文化的背景を抹消し、我々を非-理性的な、シュルレアリスムのような「理論」にさえ帰属されない「原始」の力へと遡行させるであろう。このような意味では、21世紀の哲学は、まさに「動物になること」をテーマにして発展していくと考えられる。それは我々の思考の沸点の限界を越えていくテーマであり、哲学及び神学、そして存在論に新しい稲妻のような衝撃を与えるものとなっていくだろう。




「参考リスト」

開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)
(2011/10/11)
ジョルジョ・アガンベン

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哲学への寄与論稿-性起から(性起について)- ハイデッガー全集 第65巻哲学への寄与論稿-性起から(性起について)- ハイデッガー全集 第65巻
(2005/06)
ハイデッガー、辻村 公一 他

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千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)
(2010/10/05)
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ 他

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05/15のツイートまとめ

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tomoichiro0001

「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 http://t.co/flDdGL0xlA
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「米航空宇宙局の火星無人探査車キュリオシティーが初めてカラーで捉えた火星の夕日の画像が公開された」火星の青い夕焼け、キュリオシティーが撮影 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News http://t.co/WgkpM0su4b
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「ブライトマンさんは既に宇宙旅行代5200万ドル(約62億1000万円)を支払っており、宇宙で歌う初のソプラノ歌手となる予定だった」S・ブライトマンさんが宇宙旅行辞退 ロシア、交代要員探しに奔走 AFPBB News http://t.co/I4bNdLn2zI
05-15 20:30

「ブラック企業だというイメージがつけば顧客離れや株価の下落など大きな影響が懸念されるため企業が自主的に長時間労働を是正するなどの効果が期待できる」ブラック企業対策強化で企業名公表へ  http://t.co/awBf4vK69f
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05-15 20:19

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05-15 20:19

最近、ブログ上で私が去年書いた恋愛小説『アニエールの水浴』に何度か拍手ボタンを押してくれていた方がいらっしゃったので、久々に読み返してみました。デザイナーの女性と若い大学講師が織り成す、プールサイドが舞台の物語です。 http://t.co/sceSd2wc82
05-15 16:34

RT @Valery_BOT: 新しさの中にあって最上のものは、古い欲求にかなうものなのだ。
05-15 16:10

RT @dessinatrice001: 「映画界のみならずオペラ、演劇界に決定的な影響を及ぼし、後世の文化人に未だ深い感銘と陶酔を与え続けるイタリアの名門貴族の血を引くルキノ・ヴィスコンティ。その美的原理を最新の美学によって徹底的に分析する」鈴村智久『ヴィスコンティの美学』h…
05-15 01:41

カトリックで本好きな私としては、これは是非訪れなければ! 公式サイトで紹介されている関連商品のラインナップも気になります。「印刷博物館:企画展示 > ヴァチカン教皇庁図書館展Ⅱ 書物がひらくルネサンス」 http://t.co/yts2gDTcra
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