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鈴村智久の研究室

表象文化論、美学の研究者鈴村智久です。哲学・思想ブログランキング総合2位。

表象文化論における「皮膚」のテマティック――谷川渥「芸術の皮膚論」講義を中心にして

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(1)【「肉体の美術史―芸術の皮膚論講義―」要約】


「芸術の皮膚論」の五つの方法

①肉体・皮膚・着衣の関係に注目する。
②「皮剥ぎ」の物語から、騙し絵の問題にまで及ぶ。
③「絵画術」を「化粧術」との類比において考える。これは線と色の二元論的問題に関係する。
④ダーマトロジカル・エステティクス(皮膚病理学的美学)を、「皮膚の記号論」として捉え直す。
⑤「聖顔布」や「聖骸布」の伝承を、「版」の問題として捉え直す。



谷川は西洋文明を以下のように大別する。

・ヘレニズム(ギリシア・ローマの思想・芸術)…「裸体の文化」
・ヘブライズム(ユダヤ・キリスト教)…「布の文化」



 ヘレニズムの芸術、例えばギリシア彫刻では屈強で美しい理想的な裸体像が肉体美として提示されている。他方、ヘブライズムでは創世記に端を発するように、恥部はイチヂクの葉で覆い、着衣した形式が芸術における一般的規則となる。「聖顔布」や「聖骸布」といったテーマも、布の表層に「キリスト」それ自体が顕現するという、高度に表層的なものである。
ヘレニズム的造形の根本原理は、マッス(量塊)とプロポーション(比例)といわれる。マッスの例として、ロダンが《ベルヴェデーレのトルソ》を見て、「断片様式」を開始したという挿話が紹介される。トルソは不完全な形、いわば断片であるが、ギリシア人たちは首、両足両腕がなく胴体だけの彫刻でも「肉体美」の基本的調律は伝わると考えていた。ヘブライズムとヘレニズムの彫刻における融合としては、サンマルティーノ《ヴェールに覆われたキリスト》(1753)、アントニオ・コラディーニ《羞恥》(1752)がある。絵画としては、ティツィアーノの《聖愛と俗愛》(1515頃)が二つの思想系列の融合として紹介されている。「聖愛」が裸体、「俗愛」が着衣した女性として描写されている点が意味深長である。




※「イギリスのエドワード・バローは芸術作品と観者との<心的距離>について、できるだけ接近しつつも、なお一定の距離を置くのが一番良い鑑賞方法だといっています。関心を誘発しながらも最終的には接触させない距離です。距離が離れすぎると作品の鑑賞はできない」(p252)

※ヴェサリウスの『ファブリカ』には、「皮剥ぎされた人」と等価なものとして、「廃墟」が背景に描かれている。解剖学は、谷川美学における「着衣―裸体―皮剥ぎ」のテマティスムにおいて重要である。また、小澤京子の『都市の解剖学』に見受けられるような、「建物」の表層を「皮膚」として把捉する視座とも、谷川美学は明らかに通底している。

※コスメティクス(化粧術)=絵画術という等式は、フィロストラトスや、プラトンの『ゴルギアス』において既に見出される。

※古代ローマのプリニウスが伝える「ゼウクシスとパラシオス」という二人の画家の力量較べの挿話について。

「ゼウクシスは画面に葡萄を描き、それがあまりに真に迫っているので、空を飛ぶ鳥が啄ばみ降りてきます。ゼウクシスはその瞬間勝ったと思います。そこで、パラシオスに、お前の絵を隠しているカーテンを取って絵を見せろという。すると、そのカーテンがパラシオスの絵だった。ゼウクシスは自分が騙されたことに気付いて、鳥を騙した俺より画家である俺を騙したお前の勝ちだ、といって賞を譲ったという。この話は、真理のあり方、剥いだ奥に何か本物があるという考え方を批判することにも関係して、とても面白いと思います。騙し絵には、迫真の葡萄で鳥が来るという<見つめさせる迫真>と、絵画であること自体を転倒させる<見つめさせない迫真>があって、後者が本来の騙し絵というべきです。…本来のあり方は、絵画のイメージを支える物質=メディウムで戯れて、人を束の間騙そうとすることです」(p259)



※バーバラ・スタフォードの「皮膚病理学的美学」については、これはそもそも18世紀に流行した視座であった。Sêmeion(記号)は、「皮膚に現れる病変、症状をさす」。セメイオティケ(診断術)が、セミオティクス(記号論)の由来である。

(2)【ジル・ドゥルーズの「襞」の思考からの発展】

 本書『肉体の迷宮』第七章「ピュグマリオン・コンプレックス」にはベルニーニの「襞」について興味深いテクストが存在する。彼の彫刻における衣服の「襞」は、それ自体で自己目的化して増殖を繰り返している。その上で、《ヴェールを剥がれる真理》(1645-52)という女性像では、衣服が彼女の恥部を隠蔽しているが、外面に表出している衣服の「襞」が、恥部の内部の「襞」を表象=代理していると考えられる。その場合、隠匿されているものが、代理的に外面にしっかり表象されていたことになる。こういった「肉のイリュージョン」についての谷川の以下のテクストは示唆的である。

「ドゥルーズは襞を、非有機的な物質が常に外側あるいは周囲から規定されるところの<外生的襞>と、有機体が固有の諸部分を折り目づけ、また展げるその能力によって規定されるところの<内生的襞>とに区別した。つまり、襞は有機的と非有機的とを、あるいは内と外とを問わず、際限なく生成するのだ。こうした考え方は直接にベルニーニに即して述べられているわけではないが、彼の作品を観る場合に決定的な意味を持つように思われる。聖女テレサやルドヴィカ・アルベルトーニの肉体を覆う外部の襞<外生的襞>は、肉体の内部の襞<内生的襞>に呼応しているのではないか――そういうことを考えさせるのだ」(p198)



 この谷川の思考は輝かしい跳躍を見せており、本章において圧巻である。彼は続ける。

外部の襞は内部の襞の反復なのだといってもいい。ここには、したがって、内部と外部とのア・プリオリな二元論は存在しないということもできる。肉体内部の襞と着衣の襞は、同じものであり、あるいは同じものから同じものへの転移である。これは、まさしくカトリシズムにおける聖餐の化体あるいは実体変化を髣髴させないではいない」(同)



「内生的襞は背後に立ち上がったヴェールに隠喩化し、その化体の有り様は肉体の表面の輝きに顕現するといってもいいほどである。バロックは確かに、ドゥルーズも強調するように、着衣の襞に特権的性格を与えた。それはまた、バロック特有の官能性、エロティシズムに関係すると見ることができよう。しかしバロックは同時に、肉体そのものをいわば生きた衣服=ヴェールとみなす感性を具体化したともいえるように思う。着衣のエロティシズムは、肉の着衣にまで及ぶのだ。だからこそ、そこでは着衣と裸体とが、襞と皮膚とが、それぞれの自立性を確保したまま対等の関係で並ぶのである」(p200)



 このテクストは、明らかにアナトミーを前提にしている。18世紀において興隆した解剖学は、人体の皮膚を切開し、開く。内臓が露わになるわけだが、この時、谷川的に考えると、皮膚は着衣の一様態であるわけだから、内臓こそ(解剖された人体内部)が真の「裸体」となる。最早「ピュグマリオン」のテーマからは大きく逸脱しているが、この部分はユベルマンの『ヴィーナスを開く』の終章で対象化されているクレメンテ・スジーニの《医師たちのヴィーナス》における、「裸体とは何であったか?」という重要な問いと密接に関わっている。
 ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》でも女神は恥部を髪でイチヂクの葉の如く隠蔽しているが、ユベルマンの解釈によれば彼女は「裸体」ではない。この絵のヴィーナスは裸体ではなく「ヌード」である。ヌードと裸体には決定的な差異がある。ヌードは芸術の一ジャンルであり高尚な画題であるのに対し、裸体はもっと通俗的で生々しくどちらかというと卑しいものである。眼前のヌードを前にして、それが「裸体ではない」という時、我々にとって彼女の見えない皮膚の奥に潜む人体領野こそが真の「裸体」となる。皮膚は常に更新され新しく上塗りされていくが、谷川がドゥルーズから敷衍して思考する「内部と外部の根源一体性(折り畳み合い)」は、「皮膚」が果たして「覆うもの」であるのか、「仮面」は果たして「素顔」と何が違うのか、といった刺激的な問いを本源的に誘発する。
 諏訪哲史は『領土』の中で、女性の「顔」には彼女の「性器」に関する全ての特徴が余すところ無く表出していると述べているが、これは谷川に学んだ作家らしい卓越した「内部と外部の根源一体性」を示す証左といえるだろう。

(3)【フランス革命期の建築家ジャン=ジャック・ルクーにおける「建築の皮膚」について】

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by Jean- Jacques Lequeu

18世紀イギリスの芸術理論家ウィリアム・ギルピンは、廃墟の表面を「老いた皮膚」と並置している。ユルスナールもピラネージの廃墟を「裸体画家にとっての屍体解剖」と呼称している。何故、この時代の芸術家たちは建物を身体のアレゴリーとして捉えることができたのか?
バーバラ・スタフォードによれば、この時代の啓蒙主義の基本精神こそが、解剖学だったのである。そこでは、廃墟は「皮膚組織の裏返し」であり、戦火による建物の砲弾痕などは「傷口」となる。この時代の解剖学的な視座に基づけば、ピラネージの廃墟画などは、「建築物の皮剥ぎ」として規定されるのである。重要なことは、これが単なる「形容」ではないことだ。著者の専攻が表象文化論であることを思い起こそう。紛れもなく、建物の朽ちた表象は身体論のトポスとして認識され得るのである。

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by Jean- Jacques Lequeu

Jean-Jacques  Lequeu

by Jean- Jacques Lequeu


その中でも、王立アカデミーで教育を受け、フランス革命後に投獄され、その後文官になったというフランス革命期を生きた建築家ジャン=ジャック・ルクー(Jean-Jacques Lequeu/September 14, 1757 – March 28, 1826 )の作品には、極めて奥深い魔術的なミステリーが宿っている。この作品を初めて観たのが小澤京子の本書であったということは、私にとって非常に幸運であったろう。私は彼の作品を眼にした時、奇妙なことにフランシス・ベーコン、ジェニー・サヴィリーを初めて観た時と同じくらいの衝撃を受けた。彼の作品はこの二人の画家よりも、いっそう静謐でいっそう無機質で、かつ偏執的である。何かルクーの作品には青白く燃える火炎のような冷たさを感じるのである。


「ルクーの建築案集成」

彼の作品集としては、『architecture civile(市民的建築)』、『figures lascives(猥雑な人物像)』、『figures et architecuture(人物と建築)』などがあるようだ。彼の作品を、例えばTACHENなどから刊行していたとしても不思議ではないが、ベーコンすら収録されているのに何故かこの古典的な重要人物について大々的に特集される機会がないのは極めて残念なことである。

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by Jean- Jacques Lequeu

ルクーの視座は、「建築=身体の内部へと通じる開口部へのフェティシズム」であり、いわば「切断立面図」への拘りである。ルクーとはいわば、分断された建築的身体の体現者である。

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by Jean- Jacques Lequeu

ルクーにはヘルメス主義的な建築思想も働いている。それは、「建築が発生する初源的な場」を、「地下空間」として考えるものであり、この秘められた眼には見えない地下は、身体的にいえば「女陰」の奥にある「子宮」に相当する。子宮は象徴的に「洞窟」として表現されるが、ルクーには「胎内回帰願望」があることを指摘する研究者も存在する。これはしかし、母親を知らずに生涯を送ったレオナルドにおける神聖不可侵な女神=母親=聖母のイメージとどこかで通底している。事実このルネサンスの「普遍人」も《岩窟の聖母》という作品を残している。ルクーの思想に基づけば、ヴァギナの奥は「神を祀る場」=「祭壇」にほかならない。
これと類縁的なエピソードとして紹介されているのが、、フロイトの「イルマの注射の夢」の話だ。フロイトは、診察中けして口を開いてくれなかった女性患者イルマの口内を、遂に夢の中で見たのだという。しかし、彼女の口に彼は得体の知れない不気味な異形の肉(ラカンの分析では、これは女性の肉体が持つ秘められた部位の全てを反映しており、口の中にヴァギナの肉が存在していたと解釈することもできる)が蠢いていた……。

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by Jean- Jacques Lequeu

私はこれを読んでいて、キリスト教の図像の神秘的な伝統を想起せずにはいられなかった。ロンギヌスが突き刺した槍によって生成したキリストの傷口は、伝承によれば女性器の形状と瓜二つであったという。これはキリストの受苦の姿勢が神学的な次元では「女性原理」に基いていることを象徴したエピソードとして重要だ。
我々は創世記でどのようにエヴァが創造されたのかも想起すべきである。というのは、アダムの脇腹の肋骨から神は女を創造したわけだが、この時の脇腹の位置は、正確にロンギヌスが突き刺したあの部位と一致すると解釈する学者も存在する。すなわち、肉体において現前していない全ての部位は、目には見えない(隠匿されている)がゆえに、神聖な次元に達するのである。例えば、少年のまだ包皮に覆われた桃色の亀頭、一度も男に抱かれたことのない乙女の処女膜、或いは司祭の腹部下を這い回る長い腸の構造……これらの肉体的秘所は、「触れてはならない」がゆえに、「触れる」ことによって「超越」に達するという一種の宗教的磁場を有するのである。『ロンバルディア遠景』でも、女を抱くことが「真の神との合一」であると説教する場面があったり、体に無数の女陰が移植された怪物が出現したりする。特に「女陰」は、「命」を新たに生み出す世界創造の出発地点でもあるので、宗教システムを考える上で避けて通ることのできない場=聖域となる。ルクーにも、おそらくこれに似た何か女陰崇拝的な傾向があったのであろう。

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by Jean- Jacques Lequeu

ルクーのオルガノン(器官)への関心の強さは、ドゥルーズ&ガタリの名高い概念の倒置としての「身体なき器官」(詳細は石井洋二郎氏のマルドロール論を収録した『身体のフランス文学』参照)に通底している。。ルクーにとっては、全体としての体(彼女)よりも、特定の器官(彼女の性器、乳房、唇、臍、肛門、鼻腔、眼孔など、総じて開口部を有する部位)に強い関心があったのであろう。
特に彫刻的な美と無機質なグロテスクさを持って我々を衝迫するのが、ルクーの「女陰シリーズ」である。《妊娠適齢期》や《妊娠を望んでいる少女の性器の働き》などは、あくまでも医学用の資料として、或いは冷酷奇怪なポルノグラフィの亜種として読解することも可能だが、シリーズのうち二つ、実に奇妙なタイトルの女陰がある。それは、《処女の純粋さの見られる思春期の少女の噴火口》と、《錯乱した欲望に駆り立てられた思春期の少女の噴火口》という姉妹的なヴァギナである。「純粋さ」を象徴する女陰に対し、「狂気」と「官能」に支配された女陰は、筆致自体が著しく薄く、しかも小陰唇がグロテスクに捲れ上がり、全体的に巨大化している。これを、ルクーは一体どのような思考回路で「建造物」として描いたのであろうか。

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by Jean- Jacques Lequeu

「噴火口」という表現から、建物よりは「活火山」などの自然の事物に近い風景として描かれたのかもしれない。しかし、女陰という器官のみで、その持ち主の性格まで分析しようとするところに、パラケルススの「特徴表示説」(人間の内面的な心理的傾向は本人が気付かない内に全て外面に表出しているので、外も内も実質的には存在しないという説)が表れているようにも感じる。
我々はルクーの描く身体を、表象文化論で一般化された図式である「建築の表面」として読解することも可能だろう。建築との相関で把捉されたヴァギナは、最早あの女性が担う性器ではない。それは建築でも器官でもない、何か極めて刺激的で強靭な、“判る人にしか判らない”ほど稀有な「思考の発火源」にまで概念化されているのである。

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by Jean- Jacques Lequeu

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by Jean- Jacques Lequeu

18世紀が、解剖学の興隆した時代であるという特徴をよく表した事例が、クレメンテ・スジーニの解剖学模型である。これは蝋人形で造られた女性の人形だが、子宮の中の胎児に至るまで内蔵模型が精緻に丹念に作り上げられている。医学生用の実験教材だったのだろうが、《医師たちのヴィーナス》というタイトルが与えられている点が興味深い。つまり、これもまた一人の女神なのであろう。16世紀のヴェサリウス以来の伝統が、この作品に結晶化している。
18世紀といえば、フランスで近代スピリチュアリズムが流行し始める時代でもある。フランス革命による王党派(カトリック)の衰退は、そのままローマ・カトリック教会の権力の脱中心化をも意味していた。「王の死」とは、「神の死」でもあるというのは、この時代の重要なバックグラウンドである。そんな時代に、《医師たちのヴィーナス》が造られたり、ルクーが奇妙な「建築の解剖図」を描いていたという事実は、何か奇妙な符合性を感じないだろうか。この感覚は、アメリカでのハイズビル事件と並んで、18世紀という時代に対する私の強い関心を端的に表明したものといえるだろう。
ルクーの作品から得られた概念に戻ろう。「外部」と「内部」は、何らかの「開口部」によって滑らかに接続している。例えば女陰という開口部に小型の内視鏡カメラを射し込み、臓物を掻き分けるように突き進んでいくと、原理的には鼻腔にまで達するだろう。皮膚の表面と、皮膚の裏側の臓物は、「内と外」というディコトミー構造によって差異化されているのではない。それらは「開口部」によって浸透し合っているのであり、容易に反転し得るのである。

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by Jean- Jacques Lequeu

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by Jean- Jacques Lequeu

我々はルクーの作品に触れた後で、最早念頭にしないわけにはいかないひとつの定理を再発見する。すなわち、“全て偉大なるものは、嵐のさ中に立つ”(M.ハイデッガー『ドイツ的大学の自己主張』)と。この政治的にはエラーを多分に孕んだ哲学者の名高い講演の末尾(プラトンからの引用)は、徹頭徹尾「芸術論」として把捉せねばならない。「危機のないところに芸術はない」――総じて、全ての創造者は壮絶な魂の「危機」に対峙することによってのみ、一つの核爆発の如き偉大な作品=天空へと開かれる「大いなる火柱の突然の消滅」(『哲学への寄与論稿』)を創出可能なのである。


【彫刻における「皮膚」と「衣服」にまつわる資料】


The Rape of Proserpina 1621-22 Marble height 295 cm Galleria Borghese Rome
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《プロセルピナの略奪》(1621-22)

The Rape of Proserpina (detail) 1621-22 Marble Galleria Borghese Rome
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《プロセルピナの略奪》(1621-22)

The Rape of Proserpina (detail) 1621-22 Marble Galleria Borghese  Rome    2
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《プロセルピナの略奪》(1621-22)

カノーヴァ Paolina Borghese as Venus Victrix 1804-08 White marble 160 x 192 cm Galleria Borghese, Rome
アントニオ・カノーヴァ《勝利のウェヌスとしてのパオリーナ・ボルゲーゼ》(1804-1808)

Paolina Borghese as Venus Victrix (detail) 1804-08 White marble Galleria Borghese, Rome
アントニオ・カノーヴァ《勝利のウェヌスとしてのパオリーナ・ボルゲーゼ》(1804-1808)

ジュゼッペ・サンマルティーノ Giuseppe Sanmartino
ジュゼッペ・サンマルティーノ《ヴェールに包まれたキリスト》(1753)

001-giuseppe-sanmartino-theredlist.jpg
ジュゼッペ・サンマルティーノ《ヴェールに包まれたキリスト》(1753)

Giuseppe Sanmartino
ジュゼッペ・サンマルティーノ《ヴェールに包まれたキリスト》(1753)

Antonio Corradini 《ヴェールに包まれた謙遜》
アントニオ・コラディーニ《ヴェールに包まれた謙遜》(1749 - 1752)

ヴェールに包まれた謙遜 ディテール
アントニオ・コラディーニ《ヴェールに包まれた謙遜》(1749 - 1752)

Bust of a Veiled Woman (Puritas) アントニオ・コルディーニ
アントニオ・コラディーニ《ヴェールに包まれた女性の胸像》) (1717-1725)

Stefano Maderno, Santa Cecilia 1600  Trastevere Roma
ステファノ・マデルノ《聖チェチリア》(1599)




「参考文献」

第七章「ピュグマリオン・コンプレックス」
第十章「肉体の美術史―芸術の皮膚論講義―」


肉体の迷宮肉体の迷宮
(2009/04/02)
谷川 渥

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谷川渥

出典:Wikipedia

谷川 渥(たにがわ あつし、1948年 - )は、日本の美学者、國學院大學文学部教授。

経歴

1972年東京大学文学部美学芸術学科卒業。1978年東京大学大学院博士課程修了。美学芸術学専攻。文学博士。 マニエリスム・バロックからモダニズム・現代美術にいたる広範な領域を視野に収めた研究で知られる。 芸術時間論、廃墟論、だまし絵論、シュルレアリスム論、そして「芸術の皮膚論」など、独自の視点による美学的地平を開拓。 友人に多摩美術大学教授・映像作家の萩原朔美、舞踏家の和栗由紀夫、教え子に作家の諏訪哲史などがいる。

単著

『構造と解釈』 世界書院、1984年
『形象と時間』 白水社、1986年/講談社学術文庫、1998年
『バロックの本箱』 北宋社、1991年
『表象の迷宮』 ありな書房、1992年/新編・1995年
『美学の逆説』 勁草書房、1993年/ちくま学芸文庫、2003年
『鏡と皮膚』 ポーラ文化研究所、1994年/ちくま学芸文庫、2001年
『見ることの逸楽』 白水社、1995年
『文学の皮膚』 白水社、1996年
『幻想の地誌学』 トレヴィル、1996年/ちくま学芸文庫、2000年
 中国語訳『幻想的地誌学―虚構地図大旅行』(邊城出版、2005年)
『図説・だまし絵』 河出書房新社、1999年
『イコノクリティック』 北宋社、2000年
『芸術をめぐる言葉』 美術出版社、2000年
『廃墟の美学』 集英社新書、2003年
『美のバロキスム 芸術学講義』 武蔵野美術大学出版局、2006年
『芸術をめぐる言葉 II』 美術出版社、2006年
『シュルレアリスムのアメリカ』 みすず書房、2009年
『肉体の迷宮』 東京書籍、2009年
『新編 芸術をめぐる言葉』 美術出版社、2012年

編著・共著

『芸術の記号論』(共著)勁草書房、1983年
『記号の劇場』(編著)昭和堂、1988年
『講座・20世紀の芸術』(全9巻、共編著)岩波書店、1989-90年
『アート・ウォッチング』(監修・共著)美術出版社、1993年
『アート・ウォッチングⅡ』(監修・共著)美術出版社、1994年
『モンス・デジデリオ画集』(解説)トレヴィル、1995年/新装版エディシオン・トレヴィル、2009年
『死都ネクロポリス』(解説) トレヴィル、1995年
『ユピテル変身譚』(解説)トレヴィル、1995年
『廃墟大全』(監修・解説)トレヴィル、1997年/中公文庫、2003年
『芸術理論の現在』(共編著)東信堂、1999年
『三島由紀夫の美学講座』(編・解説)ちくま文庫、2000年
『絵画の教科書』(監修)日本文教出版、2001年
『20世紀の美術と思想』(監修)美術出版社、2002年
『イコノエロティシズム―澁澤龍彦美術論集』(編・解説)河出書房、2003年
『天使たちの饗宴―澁澤龍彦同時代芸術論集』(編・解説)河出書房、2003年
『芸術の宇宙誌―谷川渥対談集』右文書院、2003年
『画狂人ホルスト・ヤンセン』(共著)平凡社、2005年
『稲垣足穂の世界タルホスコープ』(共著) 平凡社、2007年
『絵画の制作学』(共編)日本文教出版、2007年
『ベクシンスキ作品集成』(全3巻、解説)エディシオン・トレヴィル、2010年
 
訳書

ピエール=マクシム・シュール『想像力と驚異』白水社 1983年
エティエンヌ・ジルソン『絵画と現実』(佐々木健一らと共訳)岩波書店 1985年
エルンスト・ゴンブリッチ『棒馬考』(二見史郎らと共訳)勁草書房 1988年、完訳版1994年
ユルギス・バルトルシャイティス『鏡 著作集4』国書刊行会 1994年
クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマン『見ることの狂気』ありな書房 1995年
アンドレ・ブルトン『魔術的芸術』(巌谷国士らと共訳)河出書房新社 1997年、普及版2002年
ガブリエーレ・ファール=ベッカー『アール・ヌーヴォー』(監訳)koenemann 2001年
エリー・フォール『美術史4 近代美術I』(水野千依と共訳) 国書刊行会 2007年







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06/29のツイートまとめ

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tomoichiro0001

RT @dessinatrice001: 「ボルヘス文学と〈Web〉が革新的に融合した〈来るべき文学〉の誕生。〈個性〉の分散が加速する現代社会の中で、〈存在〉の在り方を探究した黙示録的な注目の最新短編集」鈴村智久『聖アントニウスの誘惑』(装訂/門倉ユカ)http://t.co
06-29 00:02

RT @dessinatrice001: Dieu n'existe pas encore(神はまだ存在しない)――現代思想において世界的注目を集めるQ・メイヤスーの神論に真正面から文学的応答を試みた表題作を含む、これからの時代の新しい文学。鈴村智久 『私たちの存在の墓で』 h…
06-29 00:01

06/28のツイートまとめ

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tomoichiro0001

『絶歌』でも実は主体が虚構的に直観する上で成立する個別化された「聖なる空間」(日常世界に偏在するありふれた事物、空間の聖別)の生成が前半部で重要なテーマになっていて、この点ではエリアーデの『聖なる空間と時間』や『聖と俗』との相関を見出しもします。
06-28 19:38

東京で暮らし始めて間もなく1年3ヶ月になりますが、大阪時代と比較して最近の作風における顕著な傾向が一つあって(自己分析的に)、それは私にとって「聖性」が最も重要で謎めいたテーマではないかということです。より厳密には「聖なるもの」の代理=表象としてのreprésentation
06-28 19:34

明日自分が死ぬ可能性がある、今の作品が文字通りの遺書になる、くらいの体当たり感で小説を書かない限り、自分にとっても読者にとっても「書いて/読んで良かった」と心底思えるようなものは作れないーー純文学でも大衆小説でもライトノベルでも、超一流はやはりこの点に自覚的な気がします。
06-28 19:25

注目が高まっている『自己啓発の時代』や『日常に侵入する自己啓発』の著作で知られる気鋭の研究者の牧野智和先生から、直接御言葉が届きました。
06-28 02:28

ちなみに、『私たちの存在の墓で』に登場するクァンタン・メイヤスーをモデルにしたウサギのキャラクターは、実はこのラビットマスクをイメージして描写しています。マスクは現在もこちらで入手可能です。 http://t.co/J0jVdcjIYc
06-28 01:54

最近は、アンティーク風のウサギの仮面や、ゴシック風のキャンドル、壁掛け用古地図など、そういった雑貨に心を癒されます。一つ一つのオブジェクトを、その時の心の具象化されたものとしてもっと大切にしてみたい。
06-28 01:46

今年の夏は彼女と伊豆に滞在しようと思っています。波打ち際で貝殻を拾いたい。
06-28 01:34

@noplan_soba 牧野先生、この度は万人が読むべきこのような素晴らしい御本を世に贈って下さりまして、一読者としてーーまた僭越ながらいつかは一人前の物書きになりたいと望んでいる若輩としてーー心より御礼申し上げます。先生の御活動をこれからも熱く応援しております!
06-28 01:16

06/27のツイートまとめ

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tomoichiro0001

RT @consaba: 【本日6/27発売予定】『現代思想 7月号 いまなぜプラグマティズムか』(青土社)伊藤邦武、野家啓一、北田暁大、岸政彦、石田正人、三浦俊彦、秋葉剛史、森政稔、箱田徹、齋藤直子、E・ラクラウ、山本圭、清水高志、大河内泰樹ほか http://t.co/8x
06-27 21:25

RT @dessinatrice001: 「最も特異的で、最も興味深く(逆説的ではあるが)ニーチェの要請に近い意味で、最も〈高貴な〉、そうしたle possible divin(神の可能性)とはどのようなものだろうか」クァンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」
06-27 12:34

RT @dessinatrice001: 「時間と空間の共包含性としての痕跡の構造こそが、あらゆる時間的な存在を条件付けてるのである。継起の支配下にあるあらゆる存在は、それが生きているか否かを問わず、その一切が痕跡の支配下にある」マーティン・ヘグルンド「時間の原物質性」
06-27 12:33

RT @dessinatrice001: 「メイヤスーの想定とは反対に、時間は出来事の可能性に制約を課す空間的、物質的な支えに左右されるのだから、時間は何事かを生じさせるための潜在的な力にはなりえない」マーティン・ヘグルンド「時間の原物質性」
06-27 12:33

RT @dessinatrice001: 「空間化と無縁な時間の流れなど存在しない。時間が流れるためには、最初に空間化されている必要がある。だからこそ、我々が時間について語る全ての事柄(過ぎる、流れる、動いている等)は、空間的な隠喩なのだ」マーティン・ヘグルンド「時間の原物質性」
06-27 12:33

06/26のツイートまとめ

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tomoichiro0001

「ポスト・ドゥルーズの実在論」PDF https://t.co/0GBCOFW09W
06-26 18:54

RT @tmaita77: 東京の小学生の学力が、区によって大きく違う理由 | 日経DUAL http://t.co/AqqHa2ectg 地域の社会経済条件を考慮するなら,「教師力」があると評されるのは足立区よ。
06-26 18:36

RT @tmaita77: 住みよさランキング「安心度1位」の都市は? 部門別「利便度1位」は4年連続で野々市市に | ランキング - 東洋経済オンライン http://t.co/h2ncohBiDW 東洋経済 『都市データパック』っていう資料があるのね。
06-26 18:32

RT @deja_lu: 全体としても、没後10年という機に発表された最新のデリダ論を載せていて、デリダに関心があれば全部読まなければという特集になっている。紀要が充実しているのはすばらしい。ちなみに、ダリンさんの猫論については、『早稲田文学』夏号の拙稿でも紹介させていただきま…
06-26 16:36

RT @deja_lu: 首都大学東京『人文学報』(ジャック・デリダ没後10年特集)をお贈りいただき、まずダリン・テネフ「猫、眼差し、死」への3人の方の応答を読んだが、各々、漱石、ジョイス、中世の「猫」イメージについての専門的かつ批判的なコメントで、大変面白かった。講演後のこう…
06-26 16:36

RT @nekonoizumi: ミシェル・ウエルベック『服従』(河出書房新社)、翻訳出るの素早いな。http://t.co/rrVp2btqUOhttps://t.co/T9RzxIjUoF
06-26 16:32

RT @Philo_Shinkan: 【本日発売】『映画は絵画のように――静止・運動・時間』(岡田 温司著 岩波書店)【Amazon紹介文】「19世紀末に産声を上げた映画は、絵画の長い歴史からいかなる影響を受けてきたのか」【Amazon】→ http://t.co/P7
06-26 16:30

RT @lunar_shirayuki: 去年全生庵の幽霊画展に結局行けずだったので今年こそは!「うらめしや〜、冥途のみやげ」展 http://t.co/hUl6YGYjbh
06-26 01:01

06/25のツイートまとめ

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tomoichiro0001

最新作の原稿が昨夜、飛躍的に進み135枚に。これまでの私の小説を御存知の方からすると、「ようやくここまで書いてくれたのか」という方と、「ここまでイメチェンして良いの?」という両極端に分かれそう。いずれにしても、執筆中は楽しくてほとんど夢中です。
06-25 20:42

RT @dessinatrice001: 「映画界のみならずオペラ、演劇界に決定的な影響を及ぼし、後世の文化人に未だ深い感銘と陶酔を与え続けるイタリアの名門貴族の血を引くルキノ・ヴィスコンティ。その美的原理を最新の美学によって徹底的に分析する」鈴村智久『ヴィスコンティの美学』h…
06-25 13:54

RT @dessinatrice001: Dieu n'existe pas encore(神はまだ存在しない)――現代思想において世界的注目を集めるQ・メイヤスーの神論に真正面から文学的応答を試みた表題作を含む、これからの時代の新しい文学。鈴村智久 『私たちの存在の墓で』 h…
06-25 13:54

RT @dessinatrice001: 「arche-fossils(原化石)とは、地球上に存在する生命よりも古く、なおかつその持続が計測可能な対象のことである。“例えば、我々にその星が誕生した時期を教えてくれる光線などがそれに当たる”(メイヤスー)」マーティン・ヘグルンド「…
06-25 13:54

RT @orangeflower08: これは貴重だ。ルネサンス期の巨匠ミケランジェロが、「字の読めない召使いのために、イラスト付きで書き記した"買い物リスト"」。ちょっとしたメモ書きなのに、よく現代まで残っていたなぁ。http://t.co/8BX8vtEyHY ht…
06-25 13:50

RT @Kawade_shobo: 『戦争思想2015』発売。戦後の問いを総括し、現在の戦争を根底から問い直す。書き下ろし論集!【執筆者】鵜飼哲、椹木野衣、小泉義之、若松英輔、山城むつみ、西谷修、田島正樹、橋本努ほか http://t.co/GjkFeCr98z http:…
06-25 13:42

RT @201yos1: 主体的な関係性の中で神を捉えることが重要であるということは、感情や個人的体験において神を理解することの大切さを意味しているのではない。人間に与えられている最も優れた能力である理性をフルに活用して、理性と感性を含めた人間精神全体に絶対者がどう現前するかを…
06-25 13:37

RT @yuji_nishiyama: フランス大学入学資格試験2015年「哲学」理系1)芸術作品はつねに意味をもっているのか。2)政治は真実の要求を免れるのだろうか。3)キケロ『神性論』抜粋の注釈
06-25 13:34

RT @yuji_nishiyama: フランス大学入学資格試験2015年「哲学」経済社会系1)個人の意識はその帰属する社会を反映したものにすぎないのか。2)芸術家は理解すべき何かを生み出しているのか。3)スピノザ『政治神学論』抜粋の注釈
06-25 13:34

RT @yuji_nishiyama: フランス大学入学資格試験2015年「哲学」文系1)あらゆる生きものを尊重することは道徳的な義務なのか。2)現在の私とは過去によってつくられた私なのか。3)トゥクヴィル『アメリカの民主主義』抜粋の注釈
06-25 13:33

06/24のツイートまとめ

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tomoichiro0001

RT @noplan_soba: 南田さんの文章は個人的にかなり好きというか憧れるものがあり、文字を追うプロセス自体が楽しい。内容と合わせ、あー面白かったとゆっくり本を閉じたのだけど、誰かにとって、自分の本がそうあってくれるといいなあ。
06-24 23:32

RT @noplan_soba: 南田勝也『オルタナティブロックの社会学』(花伝社)。個々のエピソードについてはそうそう分かる!的な受け止め方をしつつも、歌詞だけでなく音楽そのものを精緻に分析したうえで示される、波から渦へ、非線形化したがゆえの線形化の破綻といった解釈にため息。
06-24 23:32

RT @dessinatrice001: クァンタン・メイヤスー(1967~)は人類学者クロード・メイヤスーと、プロティノスを中心にした古典研究をしつつ小説家として活動するグエナエル・オブリを妻に持つ。高等師範学校で学び、1997年に博士論文『神の不在』を提出後、同校で教えた。…
06-24 13:38

RT @dessinatrice001: 「最も特異的で、最も興味深く(逆説的ではあるが)ニーチェの要請に近い意味で、最も〈高貴な〉、そうしたle possible divin(神の可能性)とはどのようなものだろうか」クァンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」
06-24 13:38

RT @dessinatrice001: 「課題は、神と必然性(神は存在せねばならないか、神は存在してはならない)の間にある、無神論と宗教の連帯を暴き、神を潜在的なもの(神は存在し得る)へと結び付けることである」クァンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」
06-24 13:38

RT @dessinatrice001: 「神の不在は、不在についての神的な性質、言い換えれば、いま現実に潜在的状態に留まっているものは、来るべき神のpossibilité(可能性)を秘めていることを意味する」クァンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」
06-24 13:37

RT @dessinatrice001: なぜ愛は詩の形式に至るのか? 〈貴族〉、〈薔薇〉、〈輪廻転生〉、〈オペラ〉など様々な詩的概念を駆使して愛の迷宮を生成させた、鈴村智久による二十三篇の魔術的な恋愛詩集『薔薇苑』。ドゥギー、デリダ、ヴァレリーについての詩論を併録。 htt…
06-24 04:33

建築家フランク・O・ゲーリーを中心にした「皮膜」の思考――青木淳、妹島和世らに共通する「建築の皮膚」のスーパーフラットについて

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Frank Owen Gehry
Frank Owen Gehry


 グロピウスがバウハウスで見られるような直線で構成された建物を理念にしていたなら、フランク・オーウェン・ゲーリー(Frank Owen Gehry, 1929年2月28日 - )は建物の皮膜を「曲面」化させることで近代建築の画一化された無機質な雰囲気からの脱却を試みている。1986年の建築展が開かれるまで、彼は一部にしか知られていなかった。「建物は建設中が最高の状態である」という有名な言葉を残した彼の代表作として知られているのは、スペイン最北のバスク地方ビルバオにある《グッゲンハイム美術館》である。この美術館はコンピューター技術によって建築を創出した最重要例として今日も知られている。(ただし、ゲーリー自身は設計する段階においてはコンピューターに依存していない)。ゲーリーの事務所には優秀な技術者がいて、彼らはGATIAという三次元形状を扱うプログラムのスペシャリストである。

Guggenheim  Museum
Guggenheim Museum  Frank O. Gehry

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Guggenheim Museum  Frank O. Gehry

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Ray and Maria Stata Center   Frank O. Gehry

 ゲーリーはカリフォルニアのモダン建築家からの影響を受けているといわれている。彼にとって大切な土地はL.A.であり、ロサンゼルスという都市のコンテキストを「アーバン・ジャンクヤード」と呼称していた。ゲーリーの作品を「脱構築主義」運動の中に入れてしまうことは、今日ゲーリー関連の書籍を著している著者から批判されている。彼はアヴァンギャルドの旗手(学生時代、アンチ・コルビュジエ派だった)というよりも、やはり「機能主義の終焉」を象徴する建築理論家として解釈されているようだ。ゲーリーは建物の皮膜に、「ワイヤーメッシュ」、「波板」を使用することが多かった。これには彼一流の理由があり、それは「皮膜になりたいと望むチタンは、曲面状化するべきである」というものだ。

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《パイミオ・チェア》

 ゲーリーが女性の柔らかい腰のラインのような「曲面」を先鋭化させるのは何故なのだろうか? それには、彼が兼ねてから尊敬している建築家アルヴァ・アールト(Alvar Aalto)[本名フーゴ・ヘンリク・アールト(Hugo Henrik Aalto, 1898年2月3日-1976年5月11日)]の有名な《パイミオ・チェア》(1931)の形状が重要なインスピレーションの源泉になっているようである(ゲーリーはアールトだけでなく、ハンス・シャロウ、フランク・ロイド・ライトを高く評価していた)。実はゲーリー自身も「曲げ木の家具」をデザインしているが、それらの編み籠はゲーリーの建築の概念的な模型のような役割を果たしている。椅子の骨組みはやはり「曲げる」ことにおいて一貫されており、「曲面化した皮膜」という彼の理念が家具にもしっかり具象化されていることが判る。

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ヴェールに包まれた謙遜 ディテール
アントニオ・コラディーニ《ヴェールに包まれた謙遜》(1749 - 1752)

Antonio Corradini 《ヴェールに包まれた謙遜》
アントニオ・コラディーニ《ヴェールに包まれた謙遜》(1749 - 1752)

Bust of a Veiled Woman (Puritas) アントニオ・コルディーニ
アントニオ・コラディーニ《ヴェールに包まれた女性の胸像》) (1717-1725)

 アアルトの《パイミオ・チェア》だけでなく、ゲーリーは「服の襞」が持つ「動き」にも注目している。例えば、ジョヴァンニ・ベリーニやフェルメール、レオナルドのデッサンに見られる衣服の襞、或いはギリシア彫刻という硬質な作品群の中で端的に「柔らかさ」、「動き」を伴って迫ってくる精密な襞の造形――これらはゲーリーが「曲面」=「皮膜」のテーマを発展させる上での参照軸であった。建築も、彫刻と同じく静止した硬質な構築物である。そこにいかに「動性」を賦与するかというテーマは一見矛盾しているようだが、例えば文学でも「余白」や「行間」といった書き込み区域以外の箇所に独特なメロディーを持たせられる作家が存在するように、これは建築家にとっては極めて神秘的なテーマといえるのかもしれない。服の襞の持つ潜在的な動性のほかに、ゲーリーは「魚の形態」にもアイディアを見出している。
 ゲーリーの作品は、初期の《ティーム・ディズニー社屋》において、既にグロピウス的な近代建築が持つ、あののっぺりした無機質な「匿名性」の罠から解放され、極めて個性的になっている。その個性のキーワードは、やはりゲーリーが天空の巨人と合言葉を交し合った痕跡であるかのような、建物それ自体の「彎曲」、「捻れ」である。これについてイメージしておくことは重要かもしれない。グロピウスの建物が硬質な積み木で構成された建築物だとすると、ゲーリーの《ティーム・ディズニー社屋》の黄色の建物や、《ハノーヴァー交通局ビル》は、まさに「粘土で自由に捏ねて捻じ曲げられる自由な建物」である。この幾何学的な空間を「弄る」操作は、明らかにコンピューター技術をゲーリー事務所が多用していることとも相関的だろう。

walt disney concert  hall

「walt disney concert hall」

walt disney  concert hall4

「walt disney concert hall」

 ゲーリーはポップアートやディズニーとも関係性が深い。《ティーム・ディズニー社屋》のほか、ロサンゼルスに《ウォルト・ディズニー・コンサートホール》も設計している。どれも重要な作品だが、先の《ティーム・ディズニー社屋》の中を撮影したある写真が、私には何故か「子宮の内部」のように感じたのだった。それは内装の壁が赤で、天井などに人間の骨や筋肉の筋をイメージさせる白が使用されているからかもしれないし、私が建築を人体として読解することに知的冒険心を感じているためかもしれないが。いずれにしても、ゲーリーが皮膜を曲面化させ、いっそう人体の自然なラインに接近させているように見えることは、我々にそういった解釈を許すものであろう。
 グロピウスとの対比で興味深いのは、ゲーリーが設計した工場や、《ゴールドスタイン集合住宅》である。「工場」と「集合住宅」、それは機能主義の観点からすれば最も没個性化し易い建物の典型例であるように感じられるが、ゲーリーがひとたび設計すると、工場ですらキュービックになり、平穏な集合住宅までもがしっかりと「ゲーリー的」な個性で彩られる。無論、我々はバウハウスやミース・ファン・デル・ローエに代表されるような近代建築にも、建築様式史の流れで見れば著しい前衛性を認め得るのだが、現代都市の諸相にあって、彼らの建物はあまりにも普及して「故郷喪失性」(M.ハイデッガー)の主要原因と化してしまっているといわざるをえないのである。ゲーリーの作品群は、したがって彼単体を読むというよりも、明らかに近代建築からの脱却として把握する方がその斬新さ、ユニークさに共鳴できると思われる。

Frederick R. Weisman  Art Museum

「Frederick R. Weisman Art Museum」

Frederick R . Weisman Art Museum2

「Frederick R. Weisman Art Museum」

 《トレド大学視覚芸術センター》には、どこかポップなメカや古典的SF作品に登場する機械仕掛けの都市のイメージが結び付くし、代表作の一つである《ワイズマン美術館》に及んでは宮崎駿の『ハウルの動く城』における初期「城のデッサン」が持っている、「建物としてのゴーレム」的な雰囲気にも通低しているのではないだろうか。こういった愛嬌あるポップな世界は、少年時代に我々が楽しんだ懐かしいエンターテイメントの世界観から飛び出してきたような印象を与える。彼にユーモアの効いたジョークのセンスがあるのもこういった作風と対応しているのだろう。

LOUIS VUITTON  ニューヨーク

《LOUIS VUITTON NEWYORK》青木淳

Nationale-Nederlanden building 2

「Nationale-Nederlanden building」Frank Owen Gehry

 《LOUIS VUITTON名古屋》や《LOUIS VUITTONニューヨーク》などで知られる私が好きな建築家の一人青木淳も、多くの注目を集めた『原っぱと遊園地』の中で、ゲーリーの代表作《グッゲンハイム美術館》を高く評価している。私が観た限り、確かに青木がゲーリーから多くの影響を受けていると感じたのは、むしろチェコ、プラハにある《ナショナル・ネーデルランデン・ビル》(通称「ダンシング・ハウス」)である。この建物は「女性のドレスのよう」と評されたセクシーな作品だが、左側の建物は「ガラスの皮膜」を建物が「着ている」といった様相であり、この形態は明らかに青木の《LOUIS VUITTONニューヨーク》でも反映されている。《LOUIS VUITTONニューヨーク》も、建物が半透明のガラスの服を着衣したような形態になっていて、青木がコーリン・ロウの理論から得た「フェノメナルな透明性」/「リテラルな透明性」を具象化させた作品である。建造物が「スケルトン」であったり、完全に透明であるというよりは、むしろ「半透明」(これは日本の美学者の一人である岡田温司の『半透明の美学』の要諦概念の一つだったアリストテレスの〈ディアファネース〉と明らかに相関している)であったりするというデザインは、建物の内部を外部に強く意識させる点で効果的であり、どこかゲルハルト・リヒターのあのボカシが入ったフォトペインティングとも共鳴している。

Dancers - Edgar Degas
Dancers -Hilaire Germain Edgar de Gas

 ゲーリーの《ダンシング・ハウス》は、絵画的次元で我々にエドガー・ドガの描いた数知れない踊り子たちの一人を髣髴とさせるものだ。建築作品でこのようなダイナミックな運動性を視覚的に与えるものは極めて稀有である。
 ゲーリー&青木の「透明性」を主題化した一部の建築は、「薄い膜のような〈表層〉」を追求する建築を意味する「スーパーフラット」(村上隆)の以下の二つの定義を条件的に満たすだろう。

(1)立体的なヴォリュームや区間の組み合わせよりも、ファサードがデザインの核となるもの。本来、建築は三次元的だが、むしろ二次元的な存在に近付く。ガラス面に文字をプリントした建築は、様々な情報が等価に並ぶデスクトップ画面と類似している。代表例は渋谷駅前の《QFRONT》、あるいは妹島和世と西沢立衛のSANAAによる《飯田市小笠原資料館》、《横浜市六ツ川地域ケアプラザ》など。
 こうした特徴はステファン・ペレッラが提唱する「ハイパーサーフェイス・アーキテクチャ」とも相関する。これはイメージが叛乱する都市の風景のように、サインと物質の融合、あるいは情報を発信する皮膜と構造が一体化した建築である。代表例としては、デジタル系建築家NOX、ヤコブ+マクファーレン、グレッグ・リンらの作品。

(2)建築のヒエラルキーを解体し、表裏の差異や空間の優劣をつけないプログラム。SANAAの《金沢二十一世紀美術館》のようなチューブ状の形態によって建物に正面性ができることを回避する方法や、西沢立衛の《ウィークエンドハウス》にように、構造材、二次構造材、装飾材を分けて使用しないことを目指した作品が挙げられる。



表参道Diorビル 妹島和代
妹島和世《表参道Diorビル》

ライナーアッペンツェル美術館(スイス)ギゴン&ゴイヤー
ギゴン&ゴイヤー《ライナーアッペンツェル美術館》(スイス)

 建築の「スーパーフラット」――これは20世紀末に浮上した概念で、もとは村上隆の造語である。建築家として「スーパーフラット」と関連する代表的人物は妹島和世、ギゴン&ゴイヤーらが名高い。マニフェストとしては東浩紀が関与した雑誌『広告』(1999年11、12月号)の「スーパーフラット特集」に彼が以下のように書いている。

「カメラアイがない。奥行きがない。階層構造がない。内面がない。あるいは「人間」がいない。しかし、視線がいっぱいある。全部に焦点が当たっている。ネットワークがある。運動がある。そして「自由」がある」(五十嵐太郎『現代建築に関する16章』p160)


 あるいは、「村上隆やオタクの図像の特徴は奥行きのない平面性と記号化された眼であり、近代的な透視図法による秩序化された空間表現や視線の制度が解体した世界の現れ」とも表現されている。

LOUIS VUITTON  名古屋 2

《LOUIS VUITTON 名古屋》青木淳


national  nederlanden building
フランク・オーウェン・ゲーリー《ダンシング・ハウス》

 ゲーリーの《ダンシング・ハウス》はダンサーの「ジンジャー&フレッド」に擬えられた作品であるが、「建築」と「身体」の形態的なアナロジーは現代建築でもテーマになっている。例えば、かつてヴィオレ・ル・デュクやC・ガルニエは、建築において「循環」している運動体は他でもない「人間」である、という見解を共有していた。そして、彼らは物理的な身体としての人間だけでなく、人間の内面(意識)に与える影響もデザインに組み込んでいた。20世紀ドイツのパウル・フランクルの『建築史の基礎概念』(1914)に至までには、既に「建築」を「身体」として動的に捉える視座が形成されている。
 ここで重要なのは、「建築」を本来別個に考察されるものである「人体」と相関させる「隠喩」の思考そのものである。最近の表象文化論でも、例えば田中純・小澤京子による『都市の解剖学』に見られるように、建物の表面を「皮膚」とみなして思考を発展させていく試みが見られる。表象文化論においては、単なるアナロジーによるイメージの結合ではない点に注意しなければならないが、いずれにしても「建築」と「人体」の単純な隠喩であるならば、17世紀以降様々な建築家によって語り継がれてきたことのである。
 ゲーリーはなぜ建築を「ダンスしている女性」として捉えることが可能だったのか? この命題を深く考える上で重要なのは、いうまでもなくゲーリーと同じく20世紀に活躍したル・コルビュジエの名高い「建築、それは動線である」という言葉である。実はこの考えの起源を辿ると、1615年に、ヴェネツィアの建築家ヴィンチェンツォ・スカルモッツィの以下のテクストが浮上する。

「建物におけるあらゆる部分の中で、階段は疑いなく最も必要で、人体における〈静脈〉や〈動脈〉のようである。なぜなら静脈や動脈が本来的に血を各部に行き渡らせる役割を果たすように、主階段と裏方の階段とは建物の最も深い部分に達しているからだ」(エイドリアン・フォーティー『言葉と建築』p129)



 スカルモッツィのこの卓越した見解は、17世紀半ばに活躍したサー・ウリィアム・ハーヴェイの「血液循環」説よりも二十年も前である。ハーヴェイは1635年に発表した「心臓と血液の動き」という論稿の中で、「我々は、アリストテレスが空気と雨は天体群の動きをなぞると言わねばならなかったのと同様に、この血液の運動を〈循環〉と呼ぶ」と述べている。(前掲書p147)
 ヴィオレ・ル・デュクは『建築講話』の中で、スカルモッツィ、ハーヴェイ的な思考を復権させて以下のように建築を把捉している。

「すべての建物に、一つの主要な器官――一つの支配的な部分――があり、一定の二次的な秩序や部材があり、これら部分のすべてを循環の体系によって活かすのに必要な設備がある、と言えよう。これら器官の各々は各々の機能を持っている。しかし建物全体とは各々の要求に応じて接続されるべきである」(前掲書p130)


 19世紀後半のフランスの批評家セザール・ダリーは1857年に、やはり以下のように「建築」と「生体」をアナロジーによって表現している。

「この建物(ロンドンのリフォーム・クラブ)は石、煉瓦、鉄による生気を欠いた塊ではない。それはほとんど〈生体〉であり、血管と神経の循環体系を備えている」(前掲書p130)


 こうした考え方の背景には、19世紀半ばから、ダンスホールの主階段(代表例はC・ガルニエ設計によるパリの《オペラ座》)などにおいて人々の往来(循環)が建物全体を把握する上での重要なコンセプトになっていたという問題がある。我々は既にバロック時代に、「建築」を人間の「身体」と相関させて把捉していた思考を見出すことができるのだ。こういった隠喩的思考から、二十世紀の我々の《ダンシング・ハウス》まではあと一歩だったのである。
 このように、ゲーリーの作品は「架空の不安定性」や、「動きのある建築」、「横たわった女性のシルエット」、「色っぽい有機的形態」などという評価にも見られるように、従来の静止した建造物のイメージを塗り替えるものである。まさに建物に有機的な生命を賦与する点で、彼はオーギュスト・ロダンの作品とも通低しているのではないだろうか。ロダンの作品もまた、例えばカミーユ・クローデルをモデルにしたとされる名高い《ダナイス》に見られるように、今にも血管を出現させて呼吸を始めそうな、瑞々しい躍動感で横溢している。
 因みに、ゲーリーの愛読書はプルーストで、彼の建築物についての卓越した描写がお気に入りのようだ。ゲーリーのデザインした建物の中で、例えば《コンデナスト社のカフェテリア》の中でプルーストを読む行為は優雅な一時を過ごせるかもしれないが、「落ち着いてリラックスできるか否か」という点については、保留にしておきたい。いずれにしても、ゲーリーは近現代建築を代表する象徴的存在として、我々の記憶に強い衝迫力を放っている稀有な建築家である。





「参考文献」

フランク・O.ゲーリー―アーキテクチュア+プロセスフランク・O.ゲーリー―アーキテクチュア+プロセス
(2008/01)
ミルドレッド フリードマン、 他

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原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か
(2004/10)
青木 淳

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言葉と建築言葉と建築
(2005/12/23)
エイドリアン・フォーティー

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現代建築に関する16章 〈空間、時間、そして世界〉 (講談社現代新書)現代建築に関する16章 〈空間、時間、そして世界〉 (講談社現代新書)
(2006/11/17)
五十嵐 太郎

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06/23のツイートまとめ

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tomoichiro0001

RT @mychingmachizo: 牧野智和『日常に侵入する自己啓発』を読む。「ヘゲモニックな男性性」「自分らしさ志向」「自己確認的読み」など、「ミドルクラス・カルチャー」としての自己啓発書などなど、自己啓発本界を外から観察した結果、対象化する物言いはなるほど社会学的だと感…
06-23 20:21

RT @KinoShinjuku: [今朝の新聞から]「日経」から『日常に侵入する自己啓発』https://t.co/gON5qykAGo 日常にあふれる自己啓発書から、今の社会における私達の不安、理想を分析。流行した「断捨離」にみる、わたしたちの閉鎖的な心理とは何なのか? AS
06-23 20:20

RT @keisoshobo: 『日常に侵入する自己啓発』(牧野智和)は現在版元品切で6/11重版出来です。一部書店のHPで在庫状況を表示しておりますのでお急ぎの方はどうぞご活用ください。丸善&ジュンク堂書店http://t.co/ADowbNRUIX 紀伊國屋書店https:…
06-23 20:20

RT @sasakiatsushi: 告知が遅れましたが、北海道新聞に寄稿した、牧野智和著『日常に侵入する自己啓発』の書評が同新聞のHPにアップされました。http://t.co/629yoysDeV
06-23 20:20

RT @c_dokusho: 『日常に侵入する自己啓発』は、分析枠組みにピエール・ブルデューの理論が使われているので、そうした方面に関心のある方にもお勧めです。
06-23 20:19

牧野氏の言う出版市場カテゴリーの一つとしての「自己啓発界」は、いわば伝統宗教の価値観が近代化に伴って稀薄化するプロセスにおいて不可避的に生起する「喪われた聖性への回帰」として解釈することも可能かもしれません。実際、昨今の自己啓発本は「プチ宗教」的なレトリックを採用しています。
06-23 16:27

RT @Ryuugoku: 新国誠一『0音』読了。一枚目から順に、「子供の城」、「女」、「秒針」。NOTEにはこれらの「象形詩」も「音読すること」と注意書きがされている。四枚目の作品は「象音詩」と名付けられている。電子音楽のイメージから触発された前衛的な作品群。 http://…
06-23 15:47

RT @dessinatrice001: なぜ愛は詩の形式に至るのか? 〈貴族〉、〈薔薇〉、〈輪廻転生〉、〈オペラ〉など様々な詩的概念を駆使して愛の迷宮を生成させた、鈴村智久による二十三篇の魔術的な恋愛詩集『薔薇苑』。ドゥギー、デリダ、ヴァレリーについての詩論を併録。 htt…
06-23 15:29

RT @dessinatrice001: Dieu n'existe pas encore(神はまだ存在しない)――現代思想において世界的注目を集めるQ・メイヤスーの神論に真正面から文学的応答を試みた表題作を含む、これからの時代の新しい文学。鈴村智久 『私たちの存在の墓で』 h…
06-23 15:28

あまりにも出会った本の研究が素晴らしくて、執筆を一時的に忘れてしまうことってありますよね。この二日間はまさにそんな感じでした。
06-23 05:46

ジャック・デリダの代表作『グラマトロジーについて』の世界

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グラマトロジーについて 上グラマトロジーについて 上
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グラマトロジーについて 下グラマトロジーについて 下
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【現前の形而上学」の原=暴力】

「<意味するもの>の外面性はエクリチュール一般の外面性であって、我々はもっと先でエクリチュール以前には言語記号は存在しないということを示そうと思う」上p37

「自然的エクリチュールは直接に声と息に結び付けられる。その性質はグラマトロジック(文字学的)ではなく、プネマトロジック(霊気学的)である。それは宗教的なものであって『信仰告白』の神的な内部の声の、また自己に還帰することによって人々が聞く声の、すぐ近くに存在する。つまり、我々の内的感情に対する神のパロールの充溢的で真実の現前のすぐ近くに存在する」上p42



序盤では「世界は一冊の書物である」といったデカルトなどが引用されているが、本書の骨格は「起源の代補性」である。デリダが「言語の起源」に迫っていく上で獲得したこの概念は、「言語」というテマティスムを越えて幅広く適応可能と思われる――特にジェンダーによる性差の男性中心主義的な配置という「暴力」に抗する場合。

「人間という概念の統一性を解体すること。それは疑いもなく、いわゆる<エクリチュールなき民族>、<歴史なき民族>といった古ぼけた観念を棄て去ることである」上p174



デリダは、イースター島のエクリチュールが絵画=表意=表音書法的であったことに注目している。「多義性と重層的決定が隠喩を生み出すこともあり」、この古代文明においては「真のrhetorique graphique(表記法的修辞学)」とでもいうべきものが見出された。これは下巻で概念化される「言語の起源は代補である」、或いは「原―痕跡」そのものであり、「差延運動」であるといった主張を先取っている。イースター島では、まさに本書の「言語の起源=代補性」が具体化していたのである。
例えば、今ここにある言語学者が登場し、「言語の起源は音声であった」と位置付けたとせよ。これを、デリダは「音声が現前している」と解釈する。

「現前のモチーフは、音声=ロゴス中心主義の開始とその哲学的完成との間で、決定的な仕方で分節された」上p204



このテクストはさり気ないが「代補性」を思想的に今後応用したい読者にとっては極めて重要である。「現前のモチーフ」とは、この場合「音声」を意味している。だが、デリダは「音声」であれ、「エクリチュール」であれ、「身振り」であれ、起源を何か一つの「領土性」に帰属させてしまうことを「現前のモチーフ」と呼んでいると解釈した方が、応用可能性は広がる。すなわち、起源に人間側で勝手に意味賦与を遂行する思想系列全体を、デリダは批判しているのだ。したがって、音声中心主義が即座に「ロゴス中心主義」を意味しない。ロゴス中心主義とは、意味の策定に「暴力」が働いている系列を指示するのである。
例えば、「メンズファッション誌は女性が読むものではない」というルールを厳格に敷いている小社会があると仮定せよ。この社会では、女性は女性らしい洋服しか着衣できなくなるであろう。その時、男性の洋服にこそ真の魅力を見出した女性は、まさに「周縁」として排斥されてしまうことになる。この小社会のルールにおける最初の意味賦与こそが、デリダのいう「現前の形而上学」に他ならない。

「神は、絶対的に純粋で絶対的に自己現前的である自己についての知を可能にするものの名称である」上p204


「神は」から始まるセンテンスは本書でここだけである。神とは、「絶対的に現前するもの」(換言すれば、絶対的なルールを持っている存在、ないしそのルールを強制する存在)である。したがって、「神」に基礎を置く全ての形而上学的体系は、それがどれほど感銘を与える書であろうが、「現前の形而上学」になるのであり、これこそがデリダのいう「ヨーロッパの知のエピステーメーの閉域」なのである。
「デリダの死」以後を生きる我々が、仮に神学を学習する場合、この点を忘却してはならない。神学には初めから「絶対的な自己現前者(絶対的ルールの裁判官)」が存在している。そしてデリダが一貫して抗うのは、この「現前の体系」である。「~は正しい」、「~は禁止されている」といった意味賦与は、そのルールが妥当する組織内部でのみ「真理」である。つまり、そのルールが現前している社会にのみ許されたルールに過ぎない。
「間=化」や、「差延」、「原―痕跡」は、全てこの「現前する意味の暴力性」から逃走するための、いわば「抜け道」であり、「隠れ処」である。デリダ的思考スタイルが常にどの書を読む場合でも活きてくるのは、まさにこの点なのである。本書は単に「言語の起源」とは何かを究明しただけの書ではない。「言語」とはデリダが有する壮大なテマティスムのほんの一例に過ぎない。

「存在の意味はけしてその現前という規定の外では歴史として生み出されないがゆえに、存在の意味はいつも既に現前の時代としての形而上学の歴史の中に囚われていたのではあるまいか。このことは、おそらくニーチェが書きたかったことであり、ハイデッガー的読解とは衝突する点である。自己の能動的運動における差延作用――能動性は差延作用の概念の中に含まれているが、差延作用の概念が能動性に尽きるものではない――は、たんに形而上学に先立つだけでなく、存在の思惟をも溢れ出るものなのだ。存在の思惟とは形而上学以外の何ものでもない。たとえそれが形而上学を乗り越え、形而上学を閉域における自己自身として思惟するとしても、である」下p5


デリダはニーチェを無論高く評価しているが、ハイデッガーに対しては極めて複雑な心情を持っていたと考えられる(ユダヤ系のデリダに対し、ハイデッガーは一時的であれナチスに入党した政治的履歴を有する)。おそらく、ハイデッガーという「存在論的帝国主義者」を最も卓抜した視点で解体してみせたのは、私が知っている限りデリダとブルデューをおいて他にいない。
彼はここで「現前の形而上学」を、明らかに「存在論」と等号で結んでいる。存在論は、私がハイデッガー全集を洗礼前に集中読解していた経験から申し上げれば、「神学」においてアクィーノの聖トマスが「神の六つの属性」として規定したものの一つである「有」を、「神」に換言した体系である。『哲学への寄与』における、全ての事物から「存在」が奪去されつつあるという表明は、とりもなおさず「神」を全ての人間が忘却し始めているということと相関的である。ハイデッガーの修士論文は、私の記憶している限りドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」についての考察であった。
ハイデッガーとは、いわば「迷妄の時代」における巨大なる危険な「入口」である。私が洗礼前まで彼を読解していた体験は、キリスト教神学とハイデッガーの基礎存在論の著しい相同性についての一つの生きた例になるであろう。
デリダがハイデッガーに言及し、彼を「現前の哲学」の権化と規定している限り、キリスト教神学もそうであることは論理的必然である。

「もしテクストがそれ自身の諸根源のある再現前化(表象=代理)を常に有しているとすれば、それはこれらの根源がこの再現前化によってしか生きないということであって、けして地盤に触れることはないということである。このことは確かにそれらの根源的本質を破壊するが、それらの根を張る機能の必然性を破壊するわけではない」上p208


デリダの「差延」が、クリステヴァの「間テクスト」を包含した概念であることは今更いうまでもない。
本書で依拠されているルソーに影響を与えたヴィーコについては、以下のように述べられている。

「ヴィーコはその時、エクリチュールとパロールとの起源の同時性を信じていた唯一の者ではないにせよ、稀な者の一人である。“哲学者たちは、まずラングが生まれ、後からエクリチュールが生まれたと信じてきたが、それは誤りである。それらは双生児であり、並行的に進展したのである”(ヴィーコ『新科学』)、カッシーラーは、ルソーがヴィーコの言語理論を『起源論』において“取り上げなおした”とはっきり断言している」p218註釈(5)


この註釈は本書全体においても重要である。何故なら、「差延」の概念を前景化した系譜としては、デリダ←ルソー←ヴィーコというように遡行できるからである。デリダの「代補」を、ヴィーコは「双生児」などと表現していたと考えられる。
いよいよ興味深いのは、ナンビクワラ族における「固有名の禁止」の問題である。

「“固有名詞の使用は彼らのもとでは禁止されている”とレヴィ=ストロースは記している。…固有名詞は、独自的存在の現前にあてられる独自的呼称としては、抹消符号の下における透明で現前的な可読性という神話でしかなかったからである。…“人はけして名付けることはしない。人は他者をクラス分けしている…か、或いは自分自身をクラス分けしている”(レヴィ=ストロース)」

「名前はアイデンティフィケーションの表徴であり、これは名付けられる個人の、予め定められたクラス(諸集団の体系における一つの社会集団、諸格位の体系における一つの生来的格位)への所属を規則の適用によって確認する。もう一つの場合、名前は名付ける個人の自由な創造であり、この個人は自分がどのように人を名付けるかということによって彼自身の主体性の暫定的状態を表明する」レヴィ=ストロース p238註釈(1)



「固有名」は何故禁止されるのか? この問題の考究は極めて重要で感動的でさえある。

「実際、名付けるという第一の暴力が存在したのである。名付けること、場合によっては口に出すのが禁じられるであろうような名前を与えること、これがランガージュの根源的暴力であって、これは差異の中に絶対的な呼びかけ符号を書き込み、それをクラス分けし、宙吊りにする。独自的なものを体系の中で思惟すること、それを体系に刻み込むこと。これが原―エクリチュールの所作である。つまり、原=暴力であり、固有なるものの、絶対的近接性の、<自己への現前>の喪失であって、実際、けして生じなかったものの喪失、けして与えられはしなかったが夢見られ、いつも既に二重化され繰り返され、自己自身の消失においてしか出現することのできなかった一つの<自己への現前>の喪失なのだ。この原=暴力は、第二の暴力によって禁止されており、それゆえ確認されている。第二の暴力は修復的、防御的なものであり、モラルを設定し、エクリチュールの隠蔽を命じ、そしてまた既に固有なものを引き裂いていたいわゆる固有名詞の抹消と抹殺とを命ずる。原=暴力から第三の暴力が、悪、諍い(戦い)、無遠慮、強姦などと呼ばれるものの中に、場合によって出現したり出現しなかったりする(経験的可能性)」上p227



私はこのテクストが西洋の一人の男から書かれたという真実に、ひとつの敬意と感動を覚える。西洋思想はこれまで多くの民族の文化、慣習を根絶やしにし、その上に自身の思想をプラントしてきた――その「邪悪なもの」に西洋思想それ自身がようやく気付いた、これはその瞬間に他ならない。
異邦人の文化に恣意的な意味賦与を遂行するということ(例えば我々と同じ宗教的アイデンティティを持つダンテは『地獄篇』の中で地獄の住居をイスラム教の寺院として描いている)――これをデリダは「原=暴力」と呼ぶ。
例えば、教室で「幽霊」という悪いニックネームで呼ばれている少年がいるとせよ。彼はそう呼ばれたくはない。だが登校すればその「名付け」が待ち望んでいる。これは少年の現存在にとって深甚な意味を持っている。西洋文明の暴力の縮図は、こうした光景に既に反映されている。
西洋人とはいえ、著者はアルジェリア生まれのユダヤ系フランス人なので、こうした「暴力を受けている存在」の側から分析するというスタイルに、既に彼の「砂漠の思想」を見出すことも可能であろう。私がデリダに(彼以外の書き手にほとんど興味を喪失するほどの)敬愛を抱くのは、彼が常に“砂漠を放浪しながら=苦悩を携えながら”書いているように感じられるからである。

ソシュールは音声に優位を与え、エクリチュールを排除する。

「それは表音文字のモデルに、つまり表記法の排除をより容易にし、より正当化するモデルに、特権を与える甚だしき民族中心主義である。だが、この民族中心主義は、逆に自分は反=民族中心主義だと思いなしているのであって、解放的進歩主義の意識における民族中心主義なのだ。実際、ラングからはっきりとエクリチュールを切り離し、それを下位、外部に置き、或いは少なくともそうし得ると信じ込み、言語学をあらゆる書かれた証言から解放するという幻想を抱きつつ、人々は、にも関わらず自ら<エクリチュールなき民族>と呼び続けている民族が用いているあらゆるラングにその本来的ラングの格位を、つまり人間的で充溢的に意味するランガージュという格位を、取り戻してやるのだと思っている。同じような曖昧さがレヴィ=ストロースの意図にも影響を及ぼしているが、これは偶然ではない」上p244


こうして読むと、デリダの本書での最大の「敵」は音声に優位を与えた「主犯格」であるソシュールその人である。デリダはこの「言語的次元における民族中心主義(音声中心主義)」に対して、何処か「ユダヤ的怨念」を感じているかのようだ。

「強引にパロールとエクリチュールとを切断する伝統的で基本的な民族中心主義は、それゆえ反=民族中心主義として取り扱われ、思惟されている。…つまり人間による人間の搾取は西欧型<書く文化>に由来する事実であるという訳だ。無垢で抑圧的でないパロールの共同体は、このような弾劾からは免れている」上p246


obs ervando
by observando

ルソーが「恋愛」に言語の起源を見出していた点について、デリダは以下のように述べている。

「憐れみの情。この根本的感情は自己愛と同じように原初的であり、我々を自然的に自ずと他者に、つまり人間は勿論のこと、またあらゆる生き物にも結び付ける」上p215


言語以前に、我々に近しい類人猿たちは絶え間ない戦いのさ中で家族を失い、その「遺族」として「泣く」ことをしたはずである。その抑え切れない悲哀は、「表現」へと溢れ出ていく。

【言語の起源は「代補」としての「恋愛」である】

言語の起源はパロールか、エクリチュールか、それとも身振りか? 

「ある器官を他のもので代替する能力、時間と空間、視覚と声、手と精神、とを分節する能力こそが、またこの代補性の能力こそが、諸言語の真の<起源>――すなわち非=起源――、つまり自然と約束、自然とそのあらゆる他者、どの分節化としての分節化一般なのである」下巻p191



どれが最初であるともいえない。デリダの解答は「代補性」そのものである。声や身振りが起源であるとか、エクリチュールは後天的であるとか、そういった「策定」は権力を産出する。三つは交叉配列的に癒合して起源なのであり、「~が起源である」という「一つの領土」を位置づけることはできない。この声が文字によって代理され、文字が身振りによって代理され、更に身振りが声によって代理されるという名状し難い螺旋構造が、デリダのいう「言語の起源」、すなわち「代補」と規定できる。

「またもしその器官が欠けているならば、他の器官を同じ目的のために使うようになるだろう」ルソー p192


ルソーは声、身振り、文字の起源に「恋愛」を見出している。

「恋愛がデッサンの創始者だといわれている。それはまたパロールを創り出したかもしれなかったが、余り悦ばしいことでもなかった。恋愛はパロールにほとんど満足せず、それを軽蔑する。恋愛にはもっと生き生きとした表現方法があるのだ。あれほどの悦びをもって自分の恋人の影をなぞった女性は、何と多くのことを彼に語っていたことだろう。この棒の動きを表現するためには、彼女はどんな音を使えば良かったというのだろうか」ルソー p179

「問題なのは最も自然的なものに向かっての代補的還帰であって、言語の起源ではない。…愛の沈黙のランガージュは、前=言語的な身振りではない。それは無言の雄弁なのだ」p182



デリダが満足しそうな「言語の起源」に位置するものをあえて一つ、強制的にあげるとすれば、それはルソーがいうように「恋愛」をおいて他にあるまい。愛しくて堪らない相手に想いを伝えるために、我々が聴覚を奪取されている場合、必死で身振りや文字を多用するであろう。全身全霊で想念を伝達しようという企て、この感性的な雷撃は、「言語の起源」に位置しているテーマである。ヨハネのいう「はじめに言葉があった」の言葉とはエクリチュールでも、パロールでも、身振りでもない、或いはその全てでもあった、一つの「恋愛」の究極形態であったと策定できる。

「棒の動きは、可視的なあらゆるディスクールに満ちているが、いかなるディスクールもそれを再現すると必ずそれを貧弱にし、歪めてしまう。書かれた記号は身体には不在であるが、この不在は、身体の摂食と運動を模倣することのできぬパロールという不可視的な大気の境位の中に、既に予告されていた。…身振りは、パロールに先立たぬ場合には、パロールを代補し、その欠陥を訂正し、その欠如を埋めるのである。棒の動きはあらゆるディスクールを代補するが、距離がもっとずっと遠い場合にはディスクールが棒の代わりをするであろう。…より自然的でより表情豊かな視覚的身振りは、それ自身身振りの代替物であるパロールに一つの代補として付加されることができる。この代補性の書法が諸言語の起源である」p180

「彼らは声の抑揚を増やし、それに身振りを付け加えた。身振りはその本性上いっそう表現的であって、その意味はそれ以前の決定に依存することがいっそう少ない」ルソー p180

「身振りは、距離と空間化、ある可視性の環境を前提する以上、疎隔や媒介の過剰が可視性を妨害する場合には有効であることをやめる。その時、パロールが身振りを代補する。言語活動においては全てが代替物であり、この代替物の概念は自然と文化との対立に先立つ。代補は自然的でもあり得る――身振り――し、また人工的でもあり得る――パロール――のだ」p181



言語の起源が差延運動としての代補である以上、「はじめに歌があった」、「はじめに詩があった」、「はじめに言葉があった」、「はじめに愛し合う行為があった」――これらは全てその意味を失効する。どれか一つに起源を策定することは主体の意味賦与作用に過ぎないからである。歌は何らかの相思相愛の情念を代補しているし、その愛は何らかの文字に来歴を持つ可能性もある。つまり、「起源」とは常に「仮説」に過ぎない。だからこそ、「世界の起源には一冊の本がある」といえるのである。その本の文字が、何らかの身振り、或いは声と交叉配列的な位相を持っていると認めた限りで。

「エクリチュールはパロールに先立ち、またその後に従う。それはパロールを包括する。…エクリチュールはパロールとその情念的起源が問題となる以前に、既に出現していたはずであった。棒の動きと象形文字は、最初の声を引き出す情念以前のある情念を表現していた。…エクリチュールはパロールの目覚めである」p187


ゆえに、世界の起源に一篇の詩が存在した、ということは正しい。何故なら、その詩は身振りの代補であり、その身振りは声の代補だからである。詩とは身振りにおいて表現され、身振りは歌においても表現されうる。これら三位一体の癒合した螺旋の核心に位置している一切の初源こそ、神話的な「恋愛」なのである。世界の初めに存在したのは、「恋愛」を代補している何らかの「言葉」である。イエスの到来を、神、世界、人間をめぐる一つの恋愛運動の主体として位置付けることができる。

「それは、の=代わり=にやって来る、あるいは挿入される。それが補足するのは、ある空隙を埋め合わせるが如くにである。それが代理をし、代わりになるのは、現前の先立つ欠如のせいである。補足し、代理するものとして、代補は一つの付加物であり、代わりとなる下級審である。それは代替物としてたんに現前の積極性に付加されるのではない。それはいかなる起伏対立をも生み出さず、その場合ある空隙の刻印によって構造の中に割り当てられている。あるところでは、あるものは記号と代理委任で補われて初めて自ずから満たされることができ、自らを実現することができる。記号は常に事物そのものの代補(代理)である」下巻p8



パロールとエクリチュールは「代補」的関係にあり、その起源は「差延」運動を生じさせる。

「エクリチュールの代補的脅威は、パロールの名の下に称揚されると思われているものに先立つのである。このときから、形而上学とは、代補をたんなる外在性、純粋な付加あるいは不在と規定することによって非―現前を排除するということである」下巻p50

「根源的差延作用は、構造としての代補である。…エクリチュールは痕跡一般の代表であり、痕跡そのものではない。痕跡そのものは存在しないのだ(実在するとは、一つの存在者、一つの現前的=存在者、ト・オンだということである)」下巻p51

「表現されえないもの、それは再現前化といわゆる根源的な現前との関連である。再現前化は、またdé-présentation(脱現前化)でもある。それは間=化の働きと結び付いている。…このような間は、ルソーが規定するような、芸術の根源によって命じられている。ここで相変わらず泰然自若としている一つの伝統に従って、ルソーは芸術の本質はミメーシスであると確信している」下巻p121

「絵画と歌とは、相互の差異がいかなるものであれ、複製である。内部と外部は共に複製を持つ。…彼がそれを称揚するのは複製としてだけであり、この複製は再現前化されるものに付加されるけれども、それに何ものも付加しない、つまりたんなる代役なのである。…ミメーシスと芸術とを代補として告発せざるをえず、また同時にそこに人間の幸運、情念の描写、生命無きものからの脱出を認めざるを得ないのである」下巻p121-122



現前している「私」は、先行する「他者」によって構成されている。これを芸術運動の核心としてデリダは規定している。

「芸術活動は記号を経由し、その効力は模倣を経由するとすれば、芸術は文化の体系の中でしか活動し得ないし、また芸術理論は一つの風俗理論でもある」下巻p127

「我々が心を動かされ、感動するのは、再現されるものによってであり再現するものによってではなく、描写されるものによってであり、描写によってではなく、また提示された内部によってであり、提示の外部によってではない。絵画においてさえ、再現はそれが一つの対象を模倣するのでなければ、更に言えばそれが一つの情念を描写するのでなければ生きてはおらず、人を感動させもしない。…芸術のモデルを写す版画は、それでもなお芸術のモデルである。芸術の根源が版画の可能性だとすれば、芸術の死は、また死としての芸術は、作品の誕生以来既に定められているのだ。生命の原理は、一度ならず死の原理と一つになる。…版画の役に立つ輪郭、自らを模倣する線は、あらゆる芸術に属し、空間の芸術にも持続の芸術にも、絵画にもまた音楽にも属している。それぞれにおいて、それは模倣の空間と空間の模倣を素描する」下巻p130-131




【世界の起源としての「原―痕跡」】


「世界の始まり」、「世界の果て」とは何であるのか? 

「いつそこで……は始まるのか。これは起源(根源)の問いである。ところで、起源つまり単純な起源は存在しないということ、また起源の問いは現前の形而上学と抱き合わせになっているということ、こういったことこそ疑いもなく痕跡についての省察が我々に教えるはずのものであろう」上巻p154

「痕跡とは何ものでもない。それは一つの存在者ではない。それは<とは何か>という問いを越えており、時としてはそれを可能にするものである」上巻p155



「痕跡」についはデリダは以下のように述べる。

「存在者以前に痕跡を考えねばならない。しかし、痕跡の運動は必然的に隠蔽されており、それは自身の隠蔽として生み出される。他者が自己自身をそのものとして告知する時、それは自身の蔽いの中に現れる。この定式化は性急にも神学的なものだと考えられるかもしれないが、そうではない。神学的なものは痕跡の全体的運動の特定の一契機である。…一つの<自然>を指し示すこともなしに、痕跡の無根拠化は常に生成している。実を言えば、無根拠な痕跡など存在しないのだ。痕跡は、無限に自己自身のdevenir-immotivé(無根拠化)である。ソシュールが語っていないことを、ソシュール的ランガージュで語らねばなるまい。つまり象徴も記号も存在せず、ただdevenir-signe du symbole(象徴の記号化)が存在するだけなのだ、と」上巻p99



痕跡は、根源の消失ではなく、根源の根源である。つまり、痕跡が到来することによって初めて根源が構成され始めるのである。痕跡が起源なのだ。痕跡は、例えば愛欲ゆえの歯型が我々の首筋に刻印されるような経験的刻印ではない。痕跡は常に時間軸を遡及する――その歯型が存在することによって初めて刻印した存在者が到来するのだ。「痕跡は根源の根源である」。
こうしたデリダ的痕跡は一般的な意味での痕跡ではない。彼は「アルシ・トラス(原―痕跡)」(或いはarchie-transcendantale/超越論的原型)と呼称する。痕跡から更に痕跡へと遡及していく運動は、「原―痕跡」という言葉それ自体を欺瞞の名のもとに追放する。正確にいえば、「原―痕跡」すら存在しないというのがデリダの本意である。存在しているのは「運動」であり、それは常に起源へと遡及していくものである。
聖書に登場する起源の場である「エデン」は、デリダ的な代補を空間的に応用すれば、起源の楽園ではない。エデンは第二の楽園に過ぎない。第一の楽園とは、おそらく「ノド」である。何故なら、ノドはエデンの後に現前するのだから。この時、ノドはエデンの痕跡である点で、「原―痕跡」に相当し、時間を遡及して「エデン」の前に仮設される。ノドとは第二のエデンにして、アダムの起源の土地である。同様の差延運動により、我々は「バベルの塔」を「エデン」に先立つモニュメントとして規定することも可能であろう。
より過激なことを述べることを赦されるならば、「カルワリオの丘」は、「エデン」の直前に位置している。何故なら、イエスの十字架上の昇天によって贖罪が行われ、人間の罪が失効した状態が「エデン」におけるイノセントなアダムとイブとして解釈できるからである。アダムとイヴは、イエスの後の人物なのである。リクワートも『アダムの家』で述べているが、「アダムの顔」と「イエスの顔」は同一である。これは一体、何の「痕跡」であろうか?
神学的にもイエスとは第二のアダムである、というが、この「第二」はイエスがアダムに先立つ証左である。サタンは傲慢のゆえに天空から失墜したのではない。そうではなく、失墜したことが彼の罪を後天的に位置付けるのである。神はサタンを無垢のまま失墜させ、その理由として「傲慢」を意味賦与する。我々が聖書を読む時の神話的な時系列は全て脱構築されねばならない。

「実際、痕跡は意味一般の絶対的根源である。ということは、また意味一般の絶対的根源は存在しないということでもある。痕跡とは差延作用であって、現れと意味作用とを開始する。それはあらゆる反復とイデア性の根源であり、生物を無生物一般の上に分節するが、それ自身イデア的でも実在的でも、叡智的でも感覚的でもなく、また透明な意味作用でも不透明なエネルギーでもない。形而上学のいかなる概念も、それを記述することはできない」上巻p128



I mperfectfiction
by observando

『死を与える』の序盤でも類似した思考の軌跡は窺えるが、ここで考えたいのはキリスト教の神のテマティスムである。我々ローマ・カトリックの信徒は世界の起源に愛を位置付け、その愛が神の異表現であることを認める。だが、この神は、キリスト教以前に存在した宗教システムの「痕跡」によって成立している。端的にユダヤ教であるが、そればかりではない。
例えば初期バジリカ聖堂の「バジリカ」とは、古代ローマにおける単なる「多目的施設」を意味している。古代ゲルマン信仰やローマの諸神信仰を「抑圧」することによってオルギアを体内化している点で、キリスト教は先行する宗教システムの「痕跡」である。

「痕跡が一つの絶対的過去を指し示すということは、それがある過去を思惟することを我々に強制するということであって、その過去は<変容された現前>というような形では、つまり<過ぎ去った=現在>としては、最早理解することができないのだ。ところで、過去は常に<過ぎ去った=現在>を意味してきたがゆえに、痕跡の中に保有される絶対的過去は、最早厳密には<過去>という名称に値しない。…」上巻p136-137


注意深く読めば、デリダはここでアウグスティヌスの矢的な直線的時間モデルを粉砕していることが判然とする。「痕跡の中に保有される絶対的過去は、最早厳密には<過去>という名称に値しない」ということは、「エデン」の園を起源の物語の場として位置付けることそれ自体を破壊する。

「現在、過去、未来という概念は、そして時間と歴史の概念においてその古典的明証性――時間一般という形而上学的概念――を前提する全てのものは、痕跡の構造を適切に記述することができない」上巻p136-137

「時空経験の根源、差異のこのエクリチュール、痕跡のこの織物によって、時空の差異は分節され、そのものとして一つの経験の(同一の固有の身体から出発した同一の体験の)統一の中に現れることができる」上巻p135



ナザレのイエスは、三時間前に磔刑に処されたばかりであり、我々はボルヘスが三日前に『伝奇集』を出版したばかりの時間系列に位置しているのである。

「ルソーのあらゆるテクストは根源の終りの始まり、最初の頽廃として記述している。…悪は善い根源に後から=到来するかのような具合になっている」下巻p113



こうした直線的時間のズレを、デリダはespacement(エスパスマン/休止、余白、句読法、間一般、等)と呼ぶ。エスパスマンの説明は、以下である。

「ロゴス(言葉)がまず刻跡であり、この刻跡が言語活動の登録手段だということは、確かにロゴスが創造的活動性、神的音声言語の連続的で充溢的な境位、などではないということである。しかし、そういったものから有限性の還帰、神の死などという新たな一契機を引き出すだけだとすれば、形而上学から一歩も外へ踏み出したことにはなるまい。解体すべきは、まさにこういった概念性、こういった問題設定である。それらは、自身が異議を唱える存在論=神学に属している。差延作用は、また有限性とも別物なのである。ソシュールによれば、パロールの受動性はまずそのラングへの関係である。受動性と差異との関係は、言語活動の根本的無意識と意味作用の根源を構成する間=化(espacement/エスパスマン/休止、余白、句読法、間一般、等)との関係から区別されない。“ラングは形式であって実体ではない”(ソシュール)がゆえに、逆説的ではあるが、パロールの能動性は常にそこから引き出すことができるし、またそうせざるをえない。…ここで我々はまさしく現象学の限界を通り抜けているのだから。間=化としての原=エクリチュールが、現前の現象学的経験においてそのものとして与えられていることはありえない。それは生きた現在の現前の中に、またあらゆる現前の一般的形式の中に、死せる時間を刻み込む」上巻p139



エスパスマンとは、時空の分節、時間の空間化、空間の時間化を意味するとされる。
本書でのデリダの分析はルソーに向けられ、「原―痕跡」、「差延」、「エスパスマン」などの重要概念は、基本的にルソーの『言語起源論』の綿密な読解から産出している。言語の起源へのアプローチにせよ、世界の起源にせよ、デリダには一貫した態度がある。

「<自然的なもの>は最初価値を認められ、ついで失格させられる。<本源的なもの>はまた、<より優れたもの>の中に保有されている<より劣ったもの>でもある。身振りの言語と声の言語、視覚と聴覚は同じように自然的なものなのである」下巻p177



彼は常に「~から…が始まった」という場合の、「~」に集中していく「権力」を解体しているのである。このデリダのスタイルは、私にはどこか権威的な父親の敷いたレールから、常にはみ出していく「少女」の逃走を髣髴とさせる。デリダが批判しているのは、形而上学的言説における、作者の無意識にまで染み込んでいるロゴス中心主義である。それは男性中心主義の系譜でもあり、自民族中心主義でもある





「新しいミサ」、あるいはMaurizio Cattelan (マウリツィオ・カテラン)の世界

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Maurizio Cattelanとは何者か?

1960年生まれの、このイタリア出身の現代アーティストの作品は、神学的な一定の効果を持っている。
彼は衝撃的な人形アートで観客を震撼させるのを得意とするが、通奏低音としてあるのは「グロテスクリアリズム」とでもいうべき不気味な世界観である。



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例えば、近隣の並木道を散歩がてらに歩いていたとしよう。
その時、突然このような光景に遭遇したとすれば、我々は何を感じるべきであろうか?
倫理的な次元からいうと、我々は即座に警察に通報するだろう。
だが、重要なのはこれが「作品」だということである。
作品とは「観られる」ものである以上、「観察」の対象である。
すなわち、この子供らの集団自殺は、「観察」の対象として、「ゆっくり味わって」眺められるべきものと化す。

これが彼の最大の創意点ではないか。


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私はこの作品の持つ雰囲気が極めて重要であると感じる。
それは、「子供」という無垢な存在が、無表情で首を吊る、しかも同時に集団で首吊りをするという光景への、ある種の「美学」に他ならない。

これは最も危険な「ミサ」の光景なのだ。


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これは、ありふれた子供の「人形」が机に向かっている姿に過ぎない。
だが、人形が何かに狂熱している、静かに何かを計画しているような気配を我々は感じないか?

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彼は何かを祈っている。
祈っている、ということはまず間違いない。
何を祈っているのかは問題ではない。

この作品において卓越化しているのは、祈っている本人が「誰か」という問題だ。
これは第二次世界大戦を巻き起こした象徴的人物、歴史的に極めて問題的だといわざるをえないある特異な政治家の祈りの姿である。



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彼が祈る、ということはカトリック的に見て何を意味するか?
彼は何を今更祈るのか?


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ローマ・カトリック教会がかつての「中心的権力」を喪失していることはこの作品にも象徴的に表象されている。
本場イタリアは、現代の教皇の姿をこのように捉えるわけだ。
我々が、どうして中世の堅苦しい修道士どもを模倣して祈ることができようか?


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これも教皇のパロディの一つであろう。
このシネマ的表象は、我々にとって何を意味するのだろうか?
このような司祭がいる教会が、真の教会、残された最後の真の教会であるのか?

我々の真の心の司祭とは、我々自身でしかないのか?
我々には何故、これほどの孤独が襲撃し続けているのか?
この獣は答えを知らない。
この獣は祈ることしかなさらない。



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この滑稽な道化は、中世の「阿呆舟」から姿を現したのだろうか?
否、これはおそらく、現代のカトリック信徒の真の姿のパロディに相違ない。
我々は迷いを隠し、新たな衣服で己の滑稽かつ貧しい思想を披瀝するが、それは現代人からは「道化」として認識されない。
我々は、自分が道化であることを失念した直後の道化なのである。



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新しい真のミサは、常に「衝撃的なるもの」でなければならない。
司祭が人間である必要性がどこにあろう?

人間は聖堂から後退し、動物が聖堂に「再び」上るべきではないか?



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我々は、常に「隠れ場」を探して生きている。
教会と職場を往復する中で、我々は「心の隠れ場」を「教会」として確定してきた。
だが、「教会」と「冷蔵庫」とでは、何が違うのであろうか?


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この独創的なアーティストは、未だ日本ではほとんど紹介されていない。
我々は、このような最先端の海外の新しい芸術家を、インスパイアの発火源にし続けなければならない。




Maurizio Cattelan

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Maurizio Cattelan is an Italian artist born in Padova, Italy, in 1960. He is probably best known for his satirical and controversial sculptures, particularly La Nona Ora (The Ninth Hour), depicting the Pope John Paul II struck down by a meteorite.

Contents [hide]
1 Biography
2 Exhibition history
3 Artistic style
4 Works
5 Prizes
6 Bibliography
7 References
8 External links


[edit] Biography
Cattelan did not attend art school but taught himself. He did many odd jobs, including one at a mortuary, which some credit for his macabre taste. He started his career in Forlì (Italy) making wooden furniture in the eighties where he came to know some designers like Ettore Sottsass. He made a catalogue of his work which he sent to galleries. This promotion gave him an opening in design and contemporary art. He created a sculpture of an ostrich with its head buried in the ground, wore a costume of a figurine with a giant head of Picasso, and affixed a Milanese gallerist to a wall with tape. During this period, he also created the Oblomov Foundation.

Most recently, Cattelan has taken on the role of curator. He resides in the East Village of New York City, but maintains a foothold in Milan. He created a magazine called Permanent Food which includes images stolen from other magazines.

[edit] Exhibition history
Cattelan has shown work internationally in many exhibitions including in Manifesta 2, 1998, Luxembourg, Melbourne International Biennial 1999 "Signs of live", 2004 Whitney Biennal [1] in New York, “Apocalypse: Beauty and Horror in Contemporary Art” at the Royal Academy of Art [2] in London, “Partners” at Haus der Kunst [3] in Munich, “Home is Where the Heart Is” at Museum van Loon [4] in Amsterdam and the 2004 Seville International Biennale [5]. In 2004 Cattelan exhibited the controversial sculpture Untitled featuring 3 hanging kids for the Nicola Trussardi Foundation. He is represented by Emmanuel Perrotin [6] in Paris, Massimo de Carlo [7] in Milan and Marian Goodman Gallery in New York[8].

[edit] Artistic style
Maurizio Cattelan along with long-term collaborators Ali Subotnick and Massimiliano Gioni, curated the 2006 Berlin Biennale [9], ran the Wrong Gallery [10], a glass door in New York attracting many highly accomplished artists to exhibit and published Charley: an occasional slightly satirical arts journal. He frequently submits articles to international publications such as Flash Art [11].

Cattelan’s personal art practice has led to him gaining a reputation as an art scene’s joker. One of his best known sculptures, ‘La Nona Ora’ consists of an effigy of Pope John Paul II in full ceremonial dress being crushed by a meteor and is a good example of his typically humorous approach to work. Another of Cattelan’s quirks is his use of a ‘stand-in’ in media interviews equipped with a stock of evasive answers and non-sensical explanations. Cattelan’s art makes fun of various systems of order – be it social niceties or his regular digs at the art world – and he often utilises themes and motifs from art of the past and other cultural sectors in order to get his point across. Cattelan sees no reason why contemporary art should be excluded from the critical spotlight it shines on other areas of life and his work seeks to highlight the incongruous nature of the world and our interventions within it no matter where they may lie. His work is often based on simple puns or subverts clichéd situations by, for example, substituting animals for people in sculptural tableaux. Frequently morbidly fascinating, Cattelan’s dark humour sets his work above the simple pleasures of well-made visual one-liners.[citation needed]

He has been described by Jonathan P. Binstock, curator of contemporary art at the Corcoran Gallery of Art "as one of the great post-Duchampian artists and a smartass, too".[1]

[edit] Works
One of his most famous artworks is a sculpture of Pope John Paul II hit by a meteorite, titled La Nona Ora (The Ninth Hour), made in 1999. It was exhibited at the Royal Academy in London as part of the prestigious Apocalypse show, and was sold at Christie's for $3 million.
In 2000 he persuaded his gallerist Emmanuel Perrotin to spend a month dressed as a giant pink phallus.
As part of the 2001 Venice Biennale, he erected a full sized HOLLYWOOD sign over the largest rubbish tip on Palermo, Sicily.
Par Peur de l'Amour, a sculpture of an elephant in a Ku Klux Klan uniform, sold at Christie's in 2004 for $2.7 million.
[edit] Prizes
A career prize (a gold medal) was awarded to Maurizio Cattelan by the 15th Rome Quadriennale.[2] On 24 March 2009, at the MAXXI Museum of Rome,[3] the singer Elio[4] of the Elio e le Storie Tese, who announced that he was the real Cattelan, came to receive the prize, making witty remarks and answering questions from Francesco Prosperetti, Anna Mattirolo, Gino Agnese, Stefano Chiodi, Andrea Cortellessa, Cornelia Lauf and the public that was present.[5]

[edit] Bibliography
6th Caribbean Biennal - A Project by Maurizio Cattelan , Dijon, Les presses du réel, 2001, ISBN 978-2-84066-050-7
Maurizio Cattelan , London, Phaidon Press, 2003, ISBN 978-0-71484-306-3
[edit] References
^ A Head of His Time: Exploring the commodious nature of art, Gene Weingarten, reprint at Jewish World Review, Jan 21, 2005
^ Cattelan Wins Career Award from Quadriennale di Roma «Artinfo» 27 March 2009. URL referred on 31 May 2009.
^ (Italian) Maurizio Cattelan conquista la XV Quadriennale d'arte di Roma. «Libero»/«adnkronos». 24 March 2009. URL referred at «liberonews.it» on May 31, 2009..
^ (Italian) Premio a Cattelan, ma si presenta Elio «Il Tempo», 25 March 2009. URL referred at «iltempo.ilsole24ore.com» on 31 May 2009.
^ (Italian) Cattelan receive the prize at MAXXI, Rome. (swf). 24 March 2009. Video at Rome Quadriennale website. URL referred on 31 May 2009..
[edit] External links
Cattelan at Emmanuel Perrotin
Maurizio Cattelan – Saatchi Gallery
Cattelan at Massimo de Carlo
La Nona Ora
Maurizio Cattelan on the Italian webzine
Guardian Unlimited interview with Maurizio Cattelan
Contemporary interview with Maurizio Cattelan and Massimiliano Gioni
Feature about Maurizio Cattelan. Ben Lewis. (Video)
Maurizio Cattelan at Fondazione Nicola Trussardi
http://www.fundacionnmac.org/english/coleccion.php?id=68 [Maurizio Cattelan at NMAC Foundation]


06/21のツイートまとめ

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tomoichiro0001

これだ。彼女も好きで、私も惹かれる。グループ名も可愛くて、ちょっとゴス系なところが良いですね。STRAWBERRY SWITCH BLADE《DEEP WATER》 https://t.co/dOb50nEc6O
06-21 23:28

そういえば浅田彰はメイヤスーの神論はシャルダンの思想と通底するところがあると言っていたそうです。
06-21 22:49

『永遠に女性的なるもの』で展開されるマリア神学、予想以上に素晴らしい内容です。特にカトリック男性にはお勧め。巻末のシャルダンの詩は必読でしょう。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの教説と通じるところもあって、もっと早くに出会っておけば良かったと思います。
06-21 22:43

RT @rob_art: 西村清和『プラスチックの木でなにが悪いのか』、ゲルハルト・リヒターのフォトペインティング論がすっきりと問題が整理されていて良かった。
06-21 22:09

RT @smasuda: 最近の日本語では「アート」と「芸術」が異なる範疇を指すようになってきている、といち早く指摘したのは西村清和だが、芸術はArtと同じく包括概念として音楽や演劇も含むけど「アート」は造形芸術(日本語の「美術」)に特化して用いられる傾向がある事実はもう少し掘…
06-21 22:08

RT @H_YOSHIDA_1973: 西村清和『フィクションの美学』を読み、イギリス人アディソンが「崇高なる自然美」の発見者の一人であることを知る。アディソンといえば、私の文脈では「民謡」の発見者である。もちろんロマン主義という大きな括りでは自然美と民謡はつながるが、両者の内…
06-21 22:07

RT @nekonoizumi: 「現代の美学の論争の出発点となった代表的な論文を収録。分析美学でどのような議論が展開されているのか、その主要トピックを網羅し、コンパクトにつかむ基本論文集。入門者必携。」⇒西村清和編/西村清和監訳『分析美学基本論文集』勁草書房http://t…
06-21 22:05

RT @oxyfunk: 西村清和(監修)『分析美学基本論文集』。「アーサー・ダントー「アートワールド」、ジョージ・ディッキー「芸術とはなにか?」、フランク・シブリー「美的概念」…現代の美学の論争の出発点となった代表的な論文…分析美学でどのような議論が展開…」http://t.…
06-21 22:05

RT @toudai_bunken: 【通信販売】当会の文芸誌『駒場文学』最新83号の通信販売を開始しました。第二十回文学フリマ東京、東京大学五月祭にて販売したものです。他に既刊号も販売中。会員の小説・詩・評論を掲載。是非一度ご確認ください。http://t.co/vC4Ot
06-21 19:32

着実に最新作の執筆が捗っています。400字詰め換算で現在120枚。
06-21 19:31

06/20のツイートまとめ

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tomoichiro0001

RT @deja_lu: ただ、余計なことだけれど、カインへの神の仕打ちのことを思うとき、自分はいつも何となくマルタとマリアの話を思い出してしまう。マルタへのキリストの態度は、中学生の頃から心に引っかかって気になるものだった。世俗的な場面でも結構あてはまりそうな話で、わかるだけ…
06-20 19:56

RT @deja_lu: ちなみに、デリダは触れていないが、この観点を大胆に物語化したのがトゥルニエの「アダム一家」。数年前に授業で取り上げたが、秀逸だった。ともあれ、デリダの一貫した問題意識は、人間の固有性とみなされてきたものはみなこうした根源的な欠乏に拠っているということ。…
06-20 19:56

RT @deja_lu: アダムによる動物の命名さえ、神に肉を捧げさせるためだったのかもしれないとデリダは言う。そして神がカインに保護と復讐を約束するとき、神はまるで恥じているかのようだと、自分が動物の捧げものの方を好んだことを恥じているかのようだとデリダは言う(「動物ゆえに~…
06-20 19:56

RT @simoneweil_bot: 脱創造、造られたものを、造られずにいるものの中へと移して行くこと。ほろぼすこと、造られたものを、無へと移して行くこと。脱創造の罪深い代用品。
06-20 19:52

RT @BaddieBeagle: ジェレミー・リード/大鷹俊一 日本版監修/本田佐良 訳『ワイルド・サイドの歩き方 ルー・リード伝』 http://t.co/QBZawzEciV
06-20 19:37

RT @BaddieBeagle: "ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとしてデビューするまでの生い立ちをはじめ、アルバム・リリースの流れに沿って、ドラマチックに生きた男、ルー・リードの生涯に迫る。思索に富んだ曲や詩についても分析する"
06-20 19:37

06/19のツイートまとめ

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tomoichiro0001

久々にストイキツァが読みたくなったのは、一昨日の渋谷での「幻想耽美」で感じた私のある種の違和感、洗練されていない閉域化した作品群への批判的アプローチのヒントを探る意味合いも兼ねております。
06-19 20:49

ちなみにカトリック神学者として名高いアンリ・ド・リュバクのこの本はテイヤール・ド・シャルダンの詩篇読解で構成されている模様。
06-19 20:46

執筆のための参考文献として予約していたアンリ・ド・リュバクの『永遠に女性的なるもの』や、話題の『日時に侵入する自己啓発』、ブルデュー『写真論』、ストイキツァ『絵画をいかに味わうか』などが届きました。
06-19 20:40

RT @BaddieBeagle: "マイケル・サンデル氏の教育実践「ハーバード白熱教室」で謳われる「対話」。しかしそれは学生が自由に考えることを禁じている「対話」であり、根源まで考え抜く力を鍛えるべき哲学の授業として適切なのだろうか":宇佐美寛,池田久美子『対話の害』 htt…
06-19 20:26

RT @dessinatrice001: 「映画界のみならずオペラ、演劇界に決定的な影響を及ぼし、後世の文化人に未だ深い感銘と陶酔を与え続けるイタリアの名門貴族の血を引くルキノ・ヴィスコンティ。その美的原理を最新の美学によって徹底的に分析する」鈴村智久『ヴィスコンティの美学』h…
06-19 15:57

RT @dessinatrice001: Dieu n'existe pas encore(神はまだ存在しない)――現代思想において世界的注目を集めるQ・メイヤスーの神論に真正面から文学的応答を試みた表題作を含む、これからの時代の新しい文学。鈴村智久 『私たちの存在の墓で』 h…
06-19 15:57

三島由紀夫の身長の低さは大江健三郎も題材にしていましたが、実は「幻想耽美」展にいたアーティストの男性陣も平均以下のサイズの方が多かったのが妙に印象的でした。肉体的コンプレックスが美学的には閉鎖されたシステムとしての「耽美主義」に反転衝動の如く向かっていく発火源になっている可能性。
06-19 15:20

現在、Amazonでは鈴村智久の作品を御購入して頂いた購読者様からのレビューを御待ちしております。

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皆様の御支援もあって、このたびAmazon上に鈴村智久の著者ページが開設されました。
一冊ごとの本について、より整然とディスプレイされています。
また、Amazonでは御購入して頂いた購読者様からの御感想を御待ちしております。
御書きいただいた御感想は著者の次作へと活かされたり、貴重な参考とさせていただく予定です。
これからも、鈴村智久の活躍をどうぞよろしく御願い致します。



これだ

【祝/売上増加御礼!】初めてカトリックのタブーを描出した鈴村智久による渾身の性愛文学『黒アゲハ』、売上好調です。

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〜「露出症」的エクリチュールの極北〜
東京大学総合文化研究科准教授でデフォーやスウィフトなど十八世紀英文学研究で名高い武田将明先生が鈴村智久の小説『黒アゲハ』をTwitter上で「お気に入り」に入れて下さいました!


内容紹介

飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の日常がポップに描かれた《BUTTERFLY SEX》。
名門カトリック女子高を素行不良から退学し、初めてポルノに出演することになった少女の卑俗な言語を媒介にして描出される性の宴《BLACK SWALLOWTAIL》。
性愛にのみ聖性の回復を企てる青年が出会った女との忘れられない一夜《LINGERIE HEART》の三篇を収録。
卑俗かつ挑発的な言語を大胆に駆使した「露出症」的エクリチュールの極北。
【装訂/門倉ユカ】

【目次】

1《BLACK SWALLOWTAIL》
2《BUTTERFLY SEX》
3《LINGERIE HEART》


06/18のツイートまとめ

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tomoichiro0001

ブルデューの研究にもありますが、恋愛市場から売れ残った結婚願望の高い中年男性の出身や趣味の統計調査をすると、けっこう面白いかも。ルックス偏差値との相関もあるでしょうし。
06-18 20:42

最近、私よりも世代的に上の中年男性で、結婚したくても色々な理由でできない方がいるようです。彼らにはまず、女性と知り合う機会がなく、仕方なく結婚願望のあるイベントに出かけたりするようです。私には無縁な世界なのでよく分からないのですが、あまり自己主張し過ぎると女性が逃げちゃう気も。
06-18 20:35

例えば東京で開催中のイベントやお店に訪れる場合でも、彼女の方が東京全域の地理について大阪育ちの私より圧倒的にプロフェッショナルなので、とても助かることが多いです。
06-18 20:26

東京での新しい職場もそろそろ一年。最近は多少のストレスも含めて、けっこう余裕を持って楽しめるようになってきたかな。やっぱり好きなものを扱える仕事は執筆にも良い影響を与える場合が多いです。人も大阪より上品だし、本当に彼女と二人暮しし始めて良かった。
06-18 20:18

彼女は表参道の美容院へ。
06-18 20:12

昨日彼女と出し合って800円で購入したベストセラーの『絶歌』(定価1600円ほど)ですが、Amazonでは現在3450円。中古品は更に高い。にも関わらず大型書店ではPOPさえ貼られていなかったのが世論への配慮を感じさせます。 http://t.co/KQU3EDJ3NI
06-18 15:33

RT @lunar_shirayuki: ユリイカ『金子國義の世界』入手しました♫ http://t.co/Rq8M6Awrb3
06-18 02:07

RT @lunar_shirayuki: 森口裕二さんのタコが脚に絡み合う「縁側」よかったなぁ。
06-18 02:07

渋谷の大型書店で彼女と購入した『絶歌』と、読書中の「新しい唯物論」特集。Amazonでは価格が高騰して画面上在庫無しの書店が続出しておりますが、実は書棚の面陳にさり気なく陳列されている場合があります。 http://t.co/JJtT8XqpGB
06-18 02:06

顔中に蠅や蜘蛛が群がってグロテスクかと思えば、次の場面では笑顔のカーニバルが描かれる。「笑い」と「醜」が見事に溶け合う美学的な「フーモア」が前景化する点で、ラブレーから大江健三郎に繋がる「グロテスク・リアリズム」に近い映画的文法を採用しているとも解釈できます。
06-18 00:36

不倫と経済資本の相関性についてーーヴァレリー・アノテル、マリー・ロール・ドゥ・レオタール『フランス上流階級のスタイル事典ーー私たち、ブルジョワ』

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 Paul Laurenzi
ポール・ラウレンティ

 恋愛はその行為者の社会的地位とどのような関係にあるのだろうか?
 歴史家アンヌ・マルタン=フィジェの興味深い調査によれば、「不貞」への態度は彼女の夫の社会的地位によって異なっている。換言すれば、夫以外の男性と贅沢な不倫関係を結ぶためには、それだけの経済的ゆとりが前提なのである。このテーマについて、19世紀の作家J・P・ダルティーグの以下のテクストが示唆深い。

「女性が身を任させれば任せるほどに、男性の目には彼女の価値が薄れてゆく。彼女が愛情行為の限りを尽くして愛を上昇気流に乗せようと思えば思うほど、彼女への尊敬の念が男性から薄れてゆく。なぜならば、男性はその女性が冷たくすればするほど、彼女により愛着を感じることがよくあるからだ。あらゆる事柄において稀少性が徳の価値を作り上げるのと同様に、恋愛もその喪失と犠牲によってますます研ぎ澄まされる。プチ・ブルジョワの妻がもう一つ別の役割を演じるのを受け入れ、そうすることで家庭の支出を節約するためには、メンタリティの研究をする必要があったのである」(p265)


 夫婦円満に過ごすためには、往々にして我々には「愛人」が必要である。これは本書の著者のみならず、例えば日本でも幅広い女性層から支持を受けている江國香織の『スイートリトルライズ』などでもテーマにされている。本書での恋愛論で登場する地方のブルジョワ女性ジスレーヌの体験談を紹介する。

「彼女のご主人が出張に出かけるとすぐ、私は一目散に出かけていきます。彼女も子供を自分の母親に預けて、私たちは毎晩出かけるんです。狂ったように、楽しむの。“エキゾチックな”ナイトクラブに踊りに行って、ハントして……何でもしてしまうの。ある夜、素晴らしい体格のイカしたブラジル人シンガーと出会ったわ。その晩、いっしょに過ごしました。情熱的でした。彼は私の隠れた部分を引き出してくれた気がしたわ。三日三晩、離れずにいました。お互い相手にのぼせ上がっていて、私の"休暇許可”が金曜の朝で終了したとき、彼は私を放したがらなかったんです。根負けした私は、私を危険に巻き込まないよう誓わせて、彼に家の電話番号を渡しました。そして私は帰宅しました。少し疲れていたけれど、素晴らしい気分。月曜日、愁いに沈むハンサムボーイが電話をしてきて、もう私なしでは生きられない。今、駅に着いたから、これから迎えに行く、と媚びた声でいわれた時は冷や汗が出ました。そこから動かないようにと彼に言って、私は駅にかけつけ、いっしょにいるのを見られはしないかと怯えながら、彼をパリ行きの列車に乗せたんです。あの男は狂っていたわ。……短いほど、アヴァンチュールは最高よ。最近では、誰に対しても偽名と嘘の電話番号を教えるようにしているわ」(p267)


 この短い告白には、恋愛小説で盛り上がる劇的な場面が凝集している。クラブで出会ったハンサムな男とのアヴァンチュール、離れられなくなった(懐いてしまった)男が駅まで会いに来ているが、不安げにパリへ送り返す……ここには「不安」もあるし、同時に官能の余韻が、そして終わるひとつの愛への郷愁が感じられる。アントニオーニのシリアスな映画のワンシーンを髣髴とさせるようだ。
 この女性ジスレーヌは、以下のようにも告白している。「ちょっと気晴らしが必要なだけ、それにアラン(夫)も気付かないうちに、それを利用しているの。私はいつも熱意をこめて“許して”もらうの。もし私が浮気をしなくなったら、私たち夫婦がセックスをしなくなるのは確かだわ」ーー我々はこの告白に、やはり内心では同意するところがあるのではないだろうか。実際、男性は付き合っている彼女、あるいは結婚した妻以外の女性と非常に深い関係にある時に限って、妻の女性としての魅力を感じているものである。男性は妻、彼女以外の女性と付き合うことによって、いわば二人の女性を相対化する。これと同様のことが、おそらくジスレーヌにも起こっているのではないだろうか。つまり、彼女は夫を愛しているという「土台」があって、そこから尚かつ「冒険」をしているのである。この「冒険」が、パラドキシカルなことだが「土台」に潤いと与えるのだ。ただし、冒険には危険が付き物で、わずかの落ち度が「土台」を揺るがすことになることも知っておかねばならない。ジスレーヌの体験談は、こうした教訓を我々に見事に伝えている点で重要である。

 Paul Laurenzi2
ポール・ラウレンティ

 本書の調査によれば、フランスでは結婚後の女性の七割が「不貞」を働いていたことがあるという。ジスレーヌと共に興味深いドラマ性を帯びて我々に迫ってくるのが、カトリックのボン・シックの女性エレーヌ(四十代)の体験談だ。

「ねえ、あなたの顔色、とても生き生きしてるわよ」
「私もあなたに同じこと、言おうとしてたのよ」
 エレーヌが吹き出します。
「じゃ私は? 私はどうかしら?」
「特別元気そうよ」(皮肉まじりの微笑)。
「私、愛人がいるの」
 エレーヌが淡々と語ります。
「え、何、あなたに愛人ですって?」
 アンヌとマリ・シルヴィは信じられません。エレーヌは三人の中でも最も真面目なカトリック教徒なのですから。
「ご主人、知っているの?」
「ばかね、もちろん知るわけないでしょ」
 アンヌは心から賛同します。
「あなたは正しいわ。死刑台まで否定しなくてはね」
 エレーヌとマリ・シルヴィは、即財に疑いを持って彼女を見つめました。
「あなたもそうとは、まさか言わないでしょうね?」
 アンヌは大笑いで、「私、困ってしまうわ」と。
 物思いに耽っていたマリ・シルヴィが「信じられない」と言いました。
「私一人だけがそうだと思っていたのに」(p270)



 ここで大切なのは、女性にとって「愛人を持つこと」は何歳になっても、いつまでも楽しい「秘密の幸せ」であるという真理である。「危険性」と「秘密」、この二つの要素が、単なる相思相愛に過ぎない夫婦関係により潤いをもたらすことになる。エレーヌがカトリックであることに、我々はさほど驚くべきではないだろう。なにせ、フランスはカトリック国であり、ボン・シックの女性の多くはカトリックの名門女子校の卒業生である。既に述べたように、「夫(付き合って長い彼氏)がいること」は前提なのだ。それが最初の出発点である。そこから「愛人」を作れるかに至るまでには、冒頭で述べられていたように夫婦の「経済資本」の高さが相関するのである。
 私が本書の恋愛論で最も存在論的な「不安」を感じたのは、インテリア業界で働く四十代の女性イネスのケースである。

「二年前、私には愛人がいました。既婚者、ですから確かな相手だったんです。彼は私の好みでした。何よりも、色っぽいデートをするのは楽しいことでした。数ヶ月間、週に二回会っていました。完全なおしのびデートでした。私たち、とても気が合ったのよ。でも、彼なしでは生きられないと感じ始めたときに、やめにした方がいいと思いました。危険になっていたのです。それが、彼の気に障ったのでしょう。私の家に彼は時間にかまわず電話をかけてきて、私に仕返しをしました。幸いにも、電話に出るのはいつも私です。彼と女友達のように話をしました。その後、彼があまりに私をいらいらさせるので、しまいには番号違いですと彼に答えるようになりました。夫が感づくのではないかと心配でした。匿名電話あるいは電話魔に悩まされていることを夫に話し、電話番号を変えました。それが恋物語の終わりです。それにしても、なんて怖かったことでしょう」(p272)


 ひどく抽象的だが、私にはこれがハイデッガーが展開した基礎存在論における現存在の実存様態としての「不安」を象徴したテクストにも感じられる。このケースでは、彼が具体的にどんな復讐をしたのかは語られていないし、彼女にもそれを話すつもりはなかったのだろう。最初は気の合う「愛人」関係に始まり、秘密裡に逢瀬を重ね、そして最終的には関係に亀裂が入って「恐怖」で終わるーーいかにも映画的で“月並みな”印象さえするが、ここに私は何か奥深い人間社会の本質のようなものを感じるのである。我々は聖書や哲学書を読んで「真理」を理解したつもりになっているが、実際のところ、私にはこの平凡であるが明らかに悲哀と刺激と冒険に満ちたエピソードに、そして残り香として漂う独特なメランコリアにこそ、現存在の本質の開示を見出す。
 本書によれば、現代のブルジョワ女性には「チャタレイ・シンドローム」(ロレンスの小説のヒロイン的な物語への憧憬)が、それもどこかで“堕落してみたい”という意志が存在するという。彼女たちは文化資本、経済資本が高いゆえに、むしろそれらが低い肉体労働者の庶民階級(がっしりしてハンサムな若い男)をお気に入りにする傾向がある。
 この章の最後にはフレデリック・ドゥ・Hという37歳のブルジョワ男性が登場する。彼の父親は貴族階級で、母親はブルジョワ階級であるようだ。彼はカサノヴァで、これまでに多くの女性たちを口説き、関係を持ってきた。我々が彼の余裕たっぷりの告白から分析できるのは、ブルジョワ女性はやはり「de」が付いた苗字に弱いという事実である。このプレイボーイはまた、基本的に相手の女性には多大な敬意を払い、“身を屈める”作法を知っている。発言からして、文化資本も経済資本もさほど高いようには思えないのだが、女性に対する礼儀作法を知っているという点と、貴族としての一般的な証明書を名前に刻んでいるということは、一定の女性たちから評価の対象になるようだ。
 いずれにしても、人間が味わうヴァカンスの中で、「愛人」と過ごす時間ほど贅沢なものはないという点でブルジョワ女性たちは共通しているようだ。彼女たちはそれを求め、手に入れ、快楽と悲哀を与えられる。そこには現存在の本質が滲み出ている気がしてならない。





私たち、ブルジョワ―フランス上流階級のスタイル事典 (光文社文庫)私たち、ブルジョワ―フランス上流階級のスタイル事典 (光文社文庫)
(1999/11)
ヴァレリー アノテル、マリー・ロール ドゥ・レオタール 他

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06/17のツイートまとめ

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tomoichiro0001

人形展示は東京に来てから定期的に目に付くのですが、開催されるフロアが国立の施設ではない商業施設の狭いスペースな場合も多いです。写真撮影する上でこうしたフロア背景が人形にとって果たして真に審美的価値を持つのか、疑問ではあります。
06-17 23:25

とはいえ、彼女が好きなアーティスト(金子國義や森口裕二)の作品に幾つか出会えたようなので、今回はこれで良しとしましょう。
06-17 22:52

このような人形展示の問題点には私も気付くことができましたが、それでも谷川先生の著作や松井冬子の絵が表紙の『夜想』バックナンバーなどを揃えていたのは良かったでしょう(この号のラインナップは質が高かった)。これから足を運ばれる方は、美術館のような「展覧会」を期待しませんように。
06-17 22:38

芸術作品としての人形の場合、個体が属する「空間」も含めて観者はその総体となる世界に浸透していくものなので、人形のみを単体で椅子に座らせても、実は「耽美」にはなりません。耽美的な人形には最低でもヴィスコンティ版の「ヴィルパリジの邸宅」案くらいの麗しいインテリアは必要でしょう。
06-17 22:29

ただ、同施設の「ボッティチェリとルネサンス」展とは違い展示販売でしたので、純粋に観覧する上では、説明パネルや展示リスト用紙の不在など、やや観者に不親切な点が目立ちました。アーティストや関係者が狭い画廊で立ち話してしまい、困っている方の存在に気付いていなかった点も残念。
06-17 22:14

Bunkamuraの「幻想耽美」ギャラリーは、桑原聖美さんの屏風のような幽冥を匂わせる絵と、森馨さんの人形、そして彼女が好きな金子國義さんの黒い背景から浮かび上がる野生的な女性画が最も印象的でした。
06-17 22:09

RT @lunar_shirayuki: 幻想耽美展 http://t.co/XDnV5uA7Oa
06-17 21:41

本日開催。彼女と渋谷に来ています。「幻想耽美 ―現在進行形のジャパニーズエロチシズム」 | 展覧会情報 | ギャラリー | Bunkamura http://t.co/5tgWrx5wS5
06-17 17:47

私も今、執筆資料の一系列としてバタイユを読んでいますが、確かに手が届く範囲の思考が展開されていて物足りない(デリダのような迫真性や意外性に満ちたレクチュールではない)点はあるとして、それでも「性愛」をテーマに本格的に小説を書く場合、やはり読んでみると一定の賦活剤にはなりますね。
06-17 11:38

RT @lunar_shirayuki: Ministry - Effigy (I'm not an)http://t.co/9PDfaB1jUt
06-17 11:29

06/16のツイートまとめ

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tomoichiro0001

猫に学ぶ、「人生において必要な、たった10のこと」 : カラパイア http://t.co/xJrETy629V
06-16 19:57

カラパイアっていうサイト、仕事の休憩中に眺めていると良い息抜きになりますね。
06-16 19:49

超悪人ヅラ。だがそれがいい。シベリアンハスキーの面構えが相当ヤバイ : カラパイア http://t.co/QUzY4zC2Gn
06-16 19:47

世界最小の鹿、プーズーの赤ちゃんが生まれたよ!(米ニューヨーク) : カラパイア http://t.co/r2MvLTkVKs
06-16 19:40

ストレスを悪いものと考えなければ、むしろストレスがある方が健康でいられる。ストレスとの正しい付き合い方とは?(米研究) : カラパイア http://t.co/dFjORFSowd
06-16 19:37

キアヌ・リーブスのこの新作映画《Knock Knock》、彼女と予告編を観ていたのですがけっこう面白そう。ハネケの『ファニーゲーム』や日本公開されなかった《The Loved Ones》に近い気がします。 https://t.co/xfzZBhUGxX
06-16 14:38

RT @dessinatrice001: 「飽くことなき女色に耽った十八世紀英国の放蕩貴族ロチェスターに我が身を仮託しつつ、果てしなくセックスを繰り返す青年の物語《BUTTERFLY SEX》等、 挑発的言語を大胆に駆使した性愛文学」 鈴村智久『黒アゲハ』(装訂/門倉ユカ)
06-16 14:23

陰と陽が互いに補完し合うように、最新作では『私たちの存在の墓で』では描出できなかった〈聖なるもの〉とエロティシズムの密接な関わりを、物語を編み上げつつ探っています。おそらく『黒アゲハ』よりもいっそう刺激的で、これまでの私の全作品で最も性愛描写の多い問題作になると思われます。
06-16 02:40

『私たちの存在の墓で』以後の企画は、実は幾つかあって、その一つは原稿が既に400字詰め換算で100枚になっております。前作がカトリックの厳粛な神学校に通う少年の成長物語だとすると、最新作は、全く異質な「恐るべき神」を崇拝するコミュニティからの少年の「脱出の物語」。
06-16 02:33

彼女が新宿のライブハウスで歌っていた時の写真

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6568

彼女が新宿のライブハウスで歌っていた時の写真をディスプレイしてみました。
最近は、彼女の歌にインスパイアされた小説を作るのが私の夢のひとつです。

(2015.2.27)





06/15のツイートまとめ

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tomoichiro0001

RT @dessinatrice001: 「ドライブ中に辿り着いた地図上には存在しない海辺、神父には姿の見えない奇怪な少年の姿など、平穏な日常に侵入する〈不気味なもの〉をテーマにした、八つの野心的な幻想小説を収録」鈴村智久『ある奇妙な地理学的試論』(装訂/門倉ユカ)。 htt…
06-15 22:39

RT @dessinatrice001: Dieu n'existe pas encore(神はまだ存在しない)――現代思想において世界的注目を集めるQ・メイヤスーの神論に真正面から文学的応答を試みた表題作を含む、これからの時代の新しい文学。鈴村智久 『私たちの存在の墓で』 h…
06-15 22:39

RT @dessinatrice001: 【お知らせ】現在、S/K Studioでは鈴村智久の著書を御購入いただいた読者様からのレビュー(御意見、御感想、批評など)を募集しております。どなたでもお気軽にお寄せ下さい。以下のリンク先から販売中の全ての作品リストが表示されます。h…
06-15 22:39

【お知らせ】Amazonで発売中の小説の販売数が、6月中旬現在の段階で先月を更に越えました。心から感謝いたします。これで『有限性の後で』が翻訳されてメイヤスーへの関心が国内でもっと高まれば、発売中の『私たちの存在の墓で』が持つ意味を理解して下さる方も増えてくるかもしれません。
06-15 11:37

どんな作家にも、描かせると非常に巧みな登場人物の類型というものがあって、例えば私が敬愛する松浦寿輝は「老いの境地」を自覚したシニカルな男が上手かったりします(『半島』や『不可能』)。カヴァンの場合は、世界の最中で当てもなく彷徨う、孤独な「永遠の少女」のイメージが結び付きます。
06-15 00:26

私の場合、書いていないと不安や自己厭悪の感覚に陥る(特に東京に来てからは、「小説を書く」ことにこそ自分の存在意義を感じます)のですが、カヴァンのような作家ならば読んでいる時も、エクリチュールに伴う特異な「孤独」が共有できて、逆説的にも癒されたり満たされることが多いです。
06-15 00:17

単行本サイズにしては文字が大きくて読み易いな、と思っているとやはり『われはラザロ』も文遊社。最近、私はここから刊行される海外文学作品に非常に注目しています。グラックの『陰欝な美青年』も然り。
06-15 00:10

カヴァンの作中の「人はどこまでも途切れずに続く霧の中を生きているようなものだ」という言葉は、人間存在の「居場所」の曖昧性、捉え難さを暗示させますが、個人的には私の故郷である大阪という都市も、暗喩的に一語で表現すれば「霧」になる気がします。
06-15 00:07

図書館から帰宅して仮眠、その後寝覚めに読んだカヴァンの短編集『われはラザロ』収録の「わたしの居場所」が素晴らしい。過去に滞在したはずの海辺のホテルの記憶、でも他の誰もが知らないという。〈わたし〉を主語にした一人称で、カヴァン自身をそのままイメージできる作品群が一番しっくりきます。
06-15 00:03

06/14のツイートまとめ

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tomoichiro0001

RT @lunar_shirayuki: おじいちゃんみたいな顔のワンコだったなぁ^^
06-14 19:10

本日は彼女と近隣の緑豊かな中央図書館へ。ナボコフの『セバスチャン・ナイト』や『プニン』、カヴァン『われはラザロ』、岩波文庫の『マラルメ詩集』、プルースト『楽しみと日々』、千葉雅也『動きすぎてはいけない』など10冊を借りました。
06-14 18:39

ユイスマンスが黒ミサを描いた『彼方』も借りたので、気分転換にでも読んでいこう。
06-14 18:38

『動きすぎてはいけない』第2章「関係の外在性」4節にメイヤスーとハーマンについて言及している箇所があります。「亡霊のジレンマ」とも何か繋がりがないか探ってみよう。
06-14 18:30

去年の夏、私は彼女と稲村ヶ崎の海岸を訪れました。彼女が誘ってくれなければ、この静謐な美しい場所を知ることもなかった。あの子犬、元気にしてるかな。 http://t.co/j7obDk1Cn6
06-14 12:03

RT @dessinatrice001: なぜ愛は詩の形式に至るのか? 〈貴族〉、〈薔薇〉、〈輪廻転生〉、〈オペラ〉など様々な詩的概念を駆使して愛の迷宮を生成させた、鈴村智久による二十三篇の魔術的な恋愛詩集『薔薇苑』。ドゥギー、デリダ、ヴァレリーについての詩論を併録。 htt…
06-14 11:46

RT @dessinatrice001: Dieu n'existe pas encore(神はまだ存在しない)――現代思想において世界的注目を集めるQ・メイヤスーの神論に真正面から文学的応答を試みた表題作を含む、これからの時代の新しい文学。鈴村智久 『私たちの存在の墓で』 h…
06-14 11:46

RT @lunar_shirayuki: と寝しなによく言ってくれる彼氏がめんこい(*ˇωˇ*)
06-14 00:48

RT @lunar_shirayuki: 「おじいちゃんとおばあちゃんになるまでずぅ〜っと一緒にいようね!!」
06-14 00:48

06/13のツイートまとめ

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tomoichiro0001

RT @tmaita77: 県民所得マップ。東京がずば抜けている。 http://t.co/qCo8JLNjC4
06-13 19:47

RT @tmaita77: 東京の年齢層別の転入超過率(2014年)。なるほど,女性のほうが転入超過率が高い。 http://t.co/Oc3JicwgEL
06-13 19:45

例えばカトリック同士の結婚、傍目から見ると聖家族的な慎ましさで溢れていますが、実際は夫婦間で「信仰の多寡」をめぐる複雑な心理的駆け引きが展開されるはずです。それがやがて、地方の教会の組織運営にも往々にして見られる「派閥間対立」(大阪にもありましたが)に近い亀裂へ繋がっていく。
06-13 11:16

シルヴィア・プラスを例にするまでもなく、作家同士の恋愛関係が常に閉鎖的で窒息するような雰囲気を放つのは、単純に同一の〈界〉に属して無意識に競合的関係に入ってしまうからでしょう。愛し合う以上に傷つけ合い、崩壊する。恋愛においては異なる〈界〉とのカップリングがベストだと思います。
06-13 11:04

精神的な疾患を抱えている方の文体には、たとえわずか140字程度であっても何か特有の「臭い」がありますよね。本人はおそらく自覚していないのでしょうが、洗っても落ちない汚れのようにその人をいつまでも拘束し、限界付けてしまっている特有の「臭い」が。
06-13 10:54

「自己啓発本」が売れるのは、分厚い本を読むよりも比較的簡単かつ安価に、その系統の表層的な知識が獲得できるからですが、換言すればこの現象は逆に「自己啓発本を買ってしまう読者」の文化資本や学歴資本、読書に対する姿勢などを可視化させもするでしょう。
06-13 10:42

最近全国的に「自己啓発本」に対する批判的関心が高まっているようですね。ネット上でも地方在住者中心に見受けられますが、圧倒的多数が雑学的教養程度の自己流人生哲学、ハイブリッド的な精神世界を背景にした一方的な文体(私は...して成長したので貴方も...しましょう)を特徴にしています。
06-13 10:35

Yves Saint Laurentでニットを買いました。

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Yves Saint Laurentでニットを買いました。

eyesyheuhya.gif


自分で服についての課題を色々決めていこうと思う。
ニットは買ったので、次はカーディガンだ。

イヴ・サンローランのカーディガンがガラージュ・D・エディットに幾つか並べられていたけれど、丈が長かった。
ガラージュだと、私はサンローランにしか関心がなく、あとはガラッと見回す程度だったが、やはり突出して素晴らしかったと思う(リック・オウエンスも素晴らしいレザーやニットがあったけれど)。

マックイーンの店員さんと多少の会話をしていて、ジャケット+カーディガン+シャツというスタイルで合わせるとベストだということを極めて親切に教えてくださった。
ただ、マックイーンにはデザイナーの死の影響もあって関心が強かったものの、カーディガンにも「スカル」模様が入っていたので、スカルにあまり関心のない私としては買うまでに至れなかった。
繰り返すが、イヴのカーディガンはディオールのジャケと合わせられないと思う(おそらく、カーディガンだけジャケからはみ出す)。
2010AWのディオールにはカーディガンが無かった気がするし、正直なところ今期のディオールにあまり惹かれないというのも相俟って、たぶん別のブランドで買うと思う。
その時は、ディオールジャケを着ていって、中に着ておかしくないカーディガンを選ばねば。

気になるのは、ヴィトンのカーディガンだ。
たぶんあると思うし、来月になると売り切れというようなことはない気がする。



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サンローランのコレクションをGQでチェックしているが、スタイルとして「腰のラインで巻く」のが多いと思う。
私が買った↑のニットも、ほとんどコートくらいの長さになっている。
念のために2011SSシーズンのコレクションを見ても、やはりジャケでさえ腰のラインより下までの長さだ。

今、なんとなく予感したが、たぶんイヴで買い始めたら、イヴ以外では必然的に着丈の問題で合わしにくくなるのではないか。
ディオールジャケ+マックイーンカーディガンとかなら、まだしも。


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服選びは難しい。
私の買ったこれも、最後の一着で、サイズは少し大きめだ。
本当ならぴったりサイズにしたかったが、店員さんがいうには、ニットなのでインナーの厚みを考えると少し大きいくらいがベストらしい。
元々、グッチでUOMO特集のVネックニットを買う予定だったが、私のサイズが完売+再生産見込み無しという人気ぶりだったのだ。
諦めきれずにガラージュでうろうろしていて、自然と足はサンローランに向かったわけだが、そこでもやはりカーディガンとニットの展開だった。

生まれて初めてサンローランで買った洋服なので、一生大事にしていきたい。
それにしても、カーディガンとニットがノンノやジョーカーでも目立つ季節になってきた。
私はジレ+シャツではなく、カーディガン+シャツへシフトしたい。


そういうわけで、次に必要なのはディオールのお気に入りジャケに合うカーディガンだ。
できればシャツは白で、カーディガンは黒、ジャケが黒、という組み合わせが良いとマックイーンの店員さんは教えてくれた。
カーディガンが白系統だと、そこだけかなり浮くからだ。

今のところ、カーディガン以外に必要なのは、新しい靴くらいしか思い当たらない。
サンローランのブーツを見たが、魔法がかかったように光り輝いていた(本当に輝いているのだ)。
あと、私以外の男性客も立ち止まって評価していたが、サンローランのメンズバッグが、やはり信じられないほど美しかった。
光り輝いているのだ。
一体、どういう加工をしたのだろうか。
雨が降って水がついたら一瞬で普通の色合いになるというなら、そこらのファストファッションと同じだが、サンローランなのでそのようなことは絶対にありえない。

足元と、バッグにおいて卓越化したければ、サンローランが最高峰だと思う。
あと、ガラージュでアンドメを少し探したが、見つけられなかった。
アンドメの小物を少し見てみたかったのだが。








Yves Saint-Laurent

イヴ・サン=ローラン(Yves Saint-Laurent、1936年8月1日 - 2008年6月1日)はフランス領アルジェリア出身のファッションデザイナー。または、彼の名を冠したファッションブランド。フランスが誇る世界的ブランドとなっている。

ココ・シャネル、クリスチャン・ディオール、ポール・ポワレらとともに20世紀のファッション業界をリードした。2002年の引退まで、トップデザイナーとして40年にわたり活躍し、「モードの帝王」と呼ばれた[1][2]。


プロフィール

生い立ち

イヴはフランスの植民地のオラン(アルジェリア)で、保険会社で働く中産階級の両親の家庭に、1936年8月1日11時15分に生まれた。

子供の頃パリに引越し、1953年17歳の時にパリのChambre Syndicale de la Haute Couture ファッションデザイン学校に入学。IWS主催のデザインコンクールのドレス部門においてカクテルドレスを発表し最優秀賞を受賞。 そのカクテルドレスの縫製はユーベル・ド・ジバンシーで、またその時の毛皮部門の受賞者はシャネルのデザイナーであるカール・ラガーフェルドであった。

ディオールとの出会い

この時の審査員であったVOGUEのディレクター、ミッシェル・デブリュノフは、無名の若い少年のポートフォリオを初めて見た時、新作として発表している友人のクリスチャン・ディオールと同じA-ラインの線を描くイヴに驚き、すぐディオールに紹介した。そして、独創的かつ想像力に富んだ彼のデザインは、ディオールに非常に強い感銘を与えることになる。

1957年10月、ディオールは自身のスタッフに「ここにある30のデザインはイヴの仕事に基づく私の最新のデザインであります。彼は特別な才能です。私は彼に認められたい」と言い、次のコレクションでイヴを連れ出すと言い出したという。彼のスタッフはイヴがまだ若かったので、「もう少し待たなければならない」と言った。

だが、それが同年のディオールの死によって現実のものとなる。イヴは21歳でディオールブランドを財政的な破滅から救うために主任デザイナーとなり、大きな力で仕事を始める。

「トラペーズライン」

1958年の、イヴのディオールにおける最初のコレクションにトラペーズライン(ブランコ線)と呼ばれるデザインを発表した。より広くより短く、裾の線がちょうど膝をカバーするくらいの台形のデザインを。秋のパリ・コレクションにはこのラインを採り入れたデザインの服を発表した。

新聞はその日一番大きな見出しに「イヴ・サンローランはフランスを救った。偉大なるディオールの伝統は続きます」と書いた。若いデザイナーのイヴがショーの最後にバルコニーに現れた時、群集から大きな歓声が上がった。イヴはディオールの為に6つのデザインを発表した。顧客は既に彼のデザインを崇拝していた。当時彼の多くの作品を買う顧客の中には、62歳のイギリスのウィンザー公爵夫人の名前もあった。

しかし1960年、アルジェリア独立戦争で戦っていたフランス軍に徴兵され、20日後に戦友の影響でストレスを被ったイヴはフランスの精神病院施設に収容される。そして神経衰弱のために、電気ショック療法を含む精神医学的な治療を受けた。

独立

1962年、神経衰弱の完治とともにディオールを去ったイヴは、芸術後援者で恋人のピエール・ベルジェ(Pierre Bergé)の出資により自身のレーベル「イヴ・サンローラン(YSL)」を設立、活動を開始する。


イヴ・サンローランのブティック(アメリカ・ビバリーヒルズ店)1966年、「イヴ・サンローラン」のプレタポルテ(既製服)ラインである「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ」のブティックをパリに開設。イヴの最初のコレクションのミューズとしてフランス公爵の娘、ルル・ド・ラ・ファレーズ(Loulou de la Falaise)がモデルとして出演。その他にもアングロ・アイリッシュのモデル、ベティ・カトルー(Betty Catroux)やブラジル系でアメリカ外交官の父とフランスの装飾家の母を持つタリタ・ポル(Talitha Pol)、フランスの代表的な女優カトリーヌ・ドヌーブもランウェーに立った。

同年、カトリーヌ・ドヌーブの出演映画『昼顔』の衣装もデザイン。彼女は現在でもサンローランの香水や化粧品のイメージ広告モデルになっている。

1970年代後半から1980年代初期までブランドの紹介役を務めたのはイギリス・ロンドン社交界の名士であり資産家であったダイアン・キャサリー・ヴァンデッリ(Diane Casserley Vandelli)であり、ヨーロッパのジェット族(余暇を持て余す有閑階級)と上流階級に絶大な人気を得た。

1989年、ファッションブランドとしては初となる、パリ証券取引所に株の公開をする。1993年にパリで「デ・ドール賞」を受賞(デ・ドールとはフランス語で「金の指ぬき」を意味する)。

2001年には、フランスのジャック・シラク大統領よりレジオンドヌール勲章(Légion d'Honneur)三等勲章を授与される。 しかし同年には、自ら展開するプレタポルテ「イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ」がグッチ・グループによって買収される。

引退

翌2002年の1月22日に、パリでのオートクチュールコレクションを最後に引退。その後はマラケシュ(モロッコ)の家で殆どの時間を過ごしている。

同年10月31日にパリ・アヴェニューマルソーのアトリエが閉店。「イヴ・サンローランのオートクチュールメゾンは、彼以上の才能を持つデザイナー後継者を将来にも見つけることは不可能とし、歴史に幕を閉じた」とも言われた。しかし2004年3月10日、デザイナーがトム・フォードになって初めてのプレタポルテ「リヴ・ゴーシュ」のパリ・コレクションが発表された。

2007年、イヴは彼のF「utureSex/LoveShow」の為のジャスティン・バレーク旅行衣服をデザインした。同年12月6日、ニコラ・サルコジ大統領からレジオン・ド・ヌール勲章オフィシエ章を授与された。

死去

2008年6月1日、ガンのため逝去。71歳没。6月5日にパリで告別式が行われ、カトリーヌ・ドヌーブやサルコジ大統領夫妻ら800人が参列し、フランスだけでなく世界中のマスコミで大きく取り上げられた。

略歴(ブランド・会社組織)

1962年:オートクチュールメゾン「イヴ・サンローラン」ができる。
1966年:「イヴ・サンローラン」のプレタポルテラインである「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ」のブティックをパリに開設。
1993年:サノフィ・ボーテ社に買収される。
1997年:男性服のディレクターにエディ・スリマンが就任。
1998年:ジーンズのブランド・サンローランを発表。デザイナーはエディ・スリマン。
1999年:ピノー・プランタン・ルドゥート(PPR)社がサノフィ社を買収。PPR社は、イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ及び香水部門をGUCCI社に売却。ただし、イヴ本人とオートクチュール部門はPPR傘下として残る。
2000年:リヴ・ゴーシュの婦人服デザイナーであったイスラエル人アルベール・エルバス(Alber Elbaz)が辞任。続いて、男性服のディレクターであったエディ・スリマンが辞任。
2001年:2001年S/Sよりリヴ・ゴーシュのデザイナーにトム・フォードが就任。
2002年:イヴ引退。これによりオートクチュール部門は閉鎖。リヴ・ゴーシュのみの展開となっている。
2004年:フォード辞任。
2005年:ステファノ・ピラーティがクリエイティブ・ディレクターに就任。

主なブランド名

Yves Saint Laurent rive gauche

評価

有色人種のモデルの起用

生前、親交の深かったナオミ・キャンベルは「彼はファッションの王様だった」と語っている。また、イブが亡くなった際に「私が彼に『イヴ、私は仏版ヴォーグ誌の表紙になれないわ。黒人の女の子を起用しないみたいなの』って言ったら、彼は『僕にまかせておいて』って答えてくれたの」というエピソードを明かしている。実際に後日、ナオミは黒人モデルとして初めて仏版ヴォーグ誌の表紙を飾った。

このことから、「彼はプレタポルテを生みだし、初めてランウェイに有色人種を起用した。私のキャリアにおいて、極めて重要な人物よ。初期の仕事のひとつを与えてくれた人でもあるの」と感謝の言葉を述べている[3]。

ナオミ以外にも初期の黒人スーパーモデル、ムーニアはフランスのラジオ局のインタビューに対し「彼のおかげで、肌の色に対する誇りをもつことができた」とコメント。アフリカ出身のダイヤ・グェイェもイブの協力によって国際的なキャリアをスタートすることのできたモデルの1人であり、「彼は天才だった。世界全体にとって大きな損失よ。兄というよりも、父のようだったわ」と死を悼んだ[3]。

脚注・出典

^ MODE PRESS (2008年6月2日). “仏ファッション界の巨匠イヴ・サンローラン氏、死去”. 2009年1月16日閲覧。
^ MODE PRESS (2008年6月2日). “「モードの帝王」サンローラン氏死去、各社トップのコメント”. 2009年1月16日閲覧。
^ a b MODE PRESS (2008年6月3日). “モデルのナオミ、サンローラン氏は「有色人種を支えてくれた」と感謝”. 2009年1月16日閲覧。


※ 出典/ウィキペディア

06/12のツイートまとめ

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tomoichiro0001

RT @dessinatrice001: 「ボルヘス文学の遺産を受け継いだ著者が〈来るべき文学の可能性〉を提示した恐るべき恋愛小説。都市で生きる男と女の偶然の出会いを通して、緩やかに〈存在〉の迷宮が可視化していく」鈴村智久の最新作『アニエールの水浴』(装訂/門倉ユカ)http…
06-12 23:41

RT @dessinatrice001: Dieu n'existe pas encore(神はまだ存在しない)――現代思想において世界的注目を集めるQ・メイヤスーの神論に真正面から文学的応答を試みた表題作を含む、これからの時代の新しい文学。鈴村智久 『私たちの存在の墓で』 h…
06-12 23:41

RT @dessinatrice001: なぜ愛は詩の形式に至るのか? 〈貴族〉、〈薔薇〉、〈輪廻転生〉、〈オペラ〉など様々な詩的概念を駆使して愛の迷宮を生成させた、鈴村智久による二十三篇の魔術的な恋愛詩集『薔薇苑』。ドゥギー、デリダ、ヴァレリーについての詩論を併録。 htt…
06-12 23:41

RT @Russian_arts_: Тимофей Нефф «Ангел» ティモフェイ・ネフ『天使』(1830年代?) http://t.co/Rtgkhy2nru
06-12 21:54

ド・マンが述べたように、「主体とはレトリックの与える効果に過ぎない」のであり、主体=主語は、それぞれのテクストのブロックごとに常に差異化される。「主体性」とは、「言語の絶対的なランダム性の、常軌を逸したメタフォリカルな相関物」である。
06-12 13:37

パロールはエクリチュールを内に秘め、互いに「接ぎ木」し合っている。どちらが起源かを問うことに意味はない。デリダが絵画論『盲者の記憶』で述べた定式をここで引用すれば、「起源は常に廃墟化されている」のだ。
06-12 13:33

ソレルスのテクストに、詩的かつ哲学的なテクストを積極的に接ぎ木していくデリダは、まさにソレルスというsemence(種、精液)を使って、新しい農地に種子を蒔いている(semer)。では、接ぎ木とは意図的な行為なのだろうか? 我々は何かを書く際、常に既に接ぎ木しているのだろうか?
06-12 13:21

鉢植えで形、色彩が微妙に異なる別の植物をexportation(移植)したとしよう。その時、この植物は「接ぎ木」されたことになり、成長する上で付け足された新しい植物から影響を受ける。それは既に元の植物ではなく、双方の主体間の「縁」に位置する新たな再生である。
06-12 13:16

全ての書物にはsemence(種、精液)が存在する。真っ白なページを「農地」に見立てた場合、作家は農夫だ。農夫は土地に芽を蒔く。この幾つかの「種」が、やがて農地を豊かに実らせることになる。したがって、どのような「書物」にもまた、「種」となるべき文が存在する。
06-12 13:11

巽孝之氏が円城塔氏の文学空間に適用しているParergonとは、デリダの『絵画における真理』で提示される戦略素であり、これは「額縁」、「作品の外」、「余白」を意味している。これまで「文学外」として排除されてきたテクストたちは、今や「内」に折り込まれつつある。
06-12 13:06

06/11のツイートまとめ

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tomoichiro0001

ヴェルフリンによれば、全ての芸術的直観は常に何らかの認識論的「形式」に拘束される。絵画を「観る」とは、ある何らかの「形式」によって「観る」こと、すなわち「制度的な眼」を媒介にすることを意味する。同様に、あらゆる芸術作品は例外なく何らかの「様式」の枠内に帰属される。
06-11 22:46

ブルデューは文化的なlégitimité(正統性)を、「自然的差異として誤認されるに至った社会的差異、無根拠な根拠」として定義する。ノブレス・オブリーシュやナショナリズムは「正統化」された「ドクサ(臆見)」、すなわちortho-doxie(正統ドクサ)であり、本質的に幻想である。
06-11 22:41

ブルデューは『美術愛好』で「眼は文化的産物である」という定式を提示しているが、これは「視点が対象を創造する」というソシュールのテクストを敷衍したものである。同様の見解は、ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』結論部の認識論とも一致する。
06-11 22:36

modus operandi(作り出す方法)をハビトゥスとした場合、opus operatum(作り出された作品)とは行為者の諸特性、生活様式である。ハビトゥスが我々行為者の慣習行動を生み出す〈生成母胎〉=〈方法論〉であり、いわば行為者は〈ハビトゥスの作品〉という図式が成立する。
06-11 22:31

フランス語の有名な諺“Chassez le naturel, il reviendra au galop.”(本性を追い払ってみよ、すぐさま舞い戻ってくるであろう➡人の本性は容易に変えられない)は、「ハビトゥス」が「存在」にいかに決定的な影響を与えるかを如実に物語っている。
06-11 22:26

現代文学の通奏低音たる「書くことの不可能性」について、ド・マンはlinguistic predicament(言語的な苦境)と表現している。「ポール・ド・マン・ルネサンス」である現在、その思想的営為は、今後新しい文学の可能性を開く全ての書き手にとって豊穣な収穫を齎すだろう。
06-11 22:21

文化的に何が「正統的」であるかというこの問題は、常に〈界〉内でのclassement(分類=階級付け)の操作を通して行われる。「R・シュトラウスは世俗的だがバッハは正統的である」、「P・ハイスミスは大衆的だがH・ジェイムズは純文学的である」などの「印象/効果」はここから生まれる。
06-11 22:16

distinguerの過去分詞であるdistinguéが形容詞になると、「上品な、気品ある」という意味になる。différences(差異)、différenciation(差異化)、discrimination(差別)もdistinctionの概念的な射程範囲にある。
06-11 22:11

ブルデュー社会学の基礎概念であるdistinctionは「他者から自己を区別して〈際立たせる〉こと」を意味する。「区別、弁別、識別」、AとBの差異、その差異の認識である。これは元々、フランス語特有の代名動詞であるse distinguer(自分を他者と区別する)の名詞形である。
06-11 22:06

六つの特徴は「読書のスタイル」や「絵画の審美眼」などの「美的性向」においても共通するため、行為者の「ハビトゥス」を顕在化させる。goûtが「趣味」だけでなく「味覚」を意味するのはこのためである。生活上の必要性から最も距離を置く行為者はより「ゆとり」があり、貴族的である。
06-11 22:01

【祝/Version up完成版】続々と御購入いただいております! イタリアの名門貴族にして20世紀を代表する映画監督ルキノ・ヴィスコンティ研究の決定的集大成『ヴィスコンティの美学』、今なら安心価格で入手可能です

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ヴィスコンティの美学ヴィスコンティの美学
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鈴村智久

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 ヨーロッパ貴族の「美」の神髄を知りたい、そんなあなたのために……

内容紹介

「あらゆる芸術家の中で、およそ彼ほど“貴族的な頽廃”を見事に描出した人間はいない」――すべての芸術愛好者に捧げられたヴィスコンティ研究の集大成が、お求め易いKindle版で初登場。

20世紀ヨーロッパ映画界のみならずオペラ、演劇界に決定的な影響を及ぼし、後世の文化人に未だ深い感銘と陶酔を与え続けるイタリアの名門貴族の血を引くルキノ・ヴィスコンティ。その美的原理は、実はヴィスコンティが重視していた「ギリシア悲劇」にこそあった。
最重要作品八作を、近年世界的な注目が高まる現代ドイツを代表する美学者ヴィンフリート・メニングハウスや、「芸術の皮膚論」で名高い谷川渥、更にワーグナーのオペラなどとの相関を探りながら分析し、ギリシア悲劇の構造を示したアリストテレスの『詩学』へと結び付ける刺激的なヴィスコンティ論。
Niedlich(優美)、Tragisch(悲愴)、metabasis(メタバシス)など、本書によって初めてヴィスコンティの美学がダイナミックに暴き出される。
ヴィスコンティ愛好者のみならず、ヨーロッパ貴族階級の「美意識」、「恋愛観」の本質について学びたい読者に必携の書。

【目次】
 
・前書き――アリストテレスの『詩学』から始める
・一章――ヴィスコンティ家の歴史、あるいはルキノ・ヴィスコンティ評伝 
・二章――『ベニスに死す』に関する美学的考察
・三章――『ルートヴィヒ』から、初期ワーグナーの『さまよえるオランダ人』へ
・四章――『白夜』にみる愛のアモルフ
・五章――愛の甘美と不毛の極地を描いた『夏の嵐』
・六章――『家族の肖像』における「家族神話の崩壊」
・七章――『イノセント』における「永遠」と地上的な愛憎の計り知れぬ距離
・八章――「我を守りし星よ、その永遠なる領域へいつの日に、我を迎えるか」/『山猫』
・九章――現代のオレステスとエレクトラの「禁断の愛」/『熊座の淡き星影』
・最終章――ヴィスコンティ美学における二つの定式


芸術制作における「アダプテーション」の現在ーーリンダ・ハッチオン『アダプテーションの理論』

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Mikus Lasmanis  by Bell Soto
Mikus Lasmanis by Bell Soto

物語制作の方法論としてのadaptationに注目している。カナダの文芸評論家リンダ・ハッチオンによれば、アダプテーション(適応)とは、多くの場合「異なるメディアへの移し変え」を意味している。例えば小説の映画化、あるいは映画のノベライズ。または映画のゲーム化、ゲームの映画化、ノベライズ。こうした他ジャンルへの移動も含めた「作品」の微分的差異を孕んだ「反復」のテーマが、ハッチオンの思考対象である。小説が映画化される場合で、具体的に何が捨象され、逆に何が付加されたのか――そこには双方のメディア形態を活かした、同じ作品に依拠しながらも全く新しい様態が見出される。
文芸理論の系譜としては、クリステヴァのIntertextuality(間テクスト性)論、デリダのディコンストラクト、フーコーの「統合された主体性」への挑戦、ナラトロジー、カルチュラル・スタディーズなどとアダプテーションの理論は袂を一つにしている。

【Adaptationの定義】

(1) ひとつ、もしくは複数の認識可能な別作品の承認された置換。換言すれば、プロダクト(記号変換)。
(2) 私的使用/回収という創造的かつ解釈的行為
(3) 翻案元作品との広範な間テクスト的繋がり(ひとつの記号体系[たとえば言語]から別の記号体系[たとえば映像]へ間記号的に置き換えられる形態での翻訳)。この点でアダプテーションはPalimpsestuous intertexuality(パリンプセスト的インターテクスチュアリティ)の一形態である。


【Adaptationの概念規定】

ハッチオンが本書の第一章の理論篇で強調しているのは、芸術作品の様々なジャンルを越えて互いに「相互交通」することの大切である。文学から映画という従来の流れだけでなく、映画のワンシーンから文学へ、あるいは詩から演劇へ、更には彼女がいうように漫画、ゲームの中の印象的な場面から文学へ、あるいは映画へ――などといった幾つもネットワークで間テクスト的関係性を深めていくことが可能なのである。これによって可視化される新しい地平においては、芸術の制作はより自由度の高いものになるだろう。

「いずれかの形態が、本質的にあることに適していて、別のことには適していないというのではなく、それぞれが自由に利用できる異なった表現手段(メディアやジャンル)を有しており、そのため別の形態よりもうまく、特定のことを目標とし達成することが可能であるということだ」(p30)


したがって、映画から先に入って後でその原作に関心を持つに至るという、往々にしてベクトルとしては“あまり高尚とはいえない接触方法”も、アダプテーションの観点からすれば正当化され得る。何故なら、映画には「映画」というメディアに適した、映画でしか表象し得ないものがあり、それは原作の内実の「残余」を、有機的に吸収して発展させていることすら考えられ得るからである。この点について最高の例こそ、ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』と、マンの『ヴェニスの死す』の「差異」の問題である。
マンの作品では、映画のラストにおけるほど光り輝く美しい海辺での神話的な指の仕草を想像することはできない。ヴィスコンティはこの海辺の、急迫する「死」と「美」の切実な感覚を見事に描き出しており、原作者マンはむしろアシェンバッハの「意識」の内部で沸き起こる真理的なドラマ、神話的なイメージ力をダイナミックに表出することに成功している――双方には映画ならではの美と、文学ならではの美がある。どちらもが傑出した作品であり、どちらか一方をもし「下位」に位置づけるとすれば、マンがそもそも『ヴェニスに死す』を執筆する上で影響を受けた過去の作品とのインターテクスチュアリティを想定せねばならないだろう。
ここで浮上しているのは「映画」と「文学」の根本的差異であるが、ハッチオンは以下のように双方を的確に把捉している。

「興味深いことに、語る形態で不可能で、見せる形態で可能なことは、ベートーベンの曲をわたしたちに実際に聞かせることだ。しかしながら、登場人物たちが聞いているときに、私たちは彼らの精神の内部に入ることはできない」(p32)


「本を読んでいる人」を描写するのであれば、映画でも可能である。だが、それを読んでいる人物が過去を想起し、ある懐かしい言葉を意識し、ページを捲り、今度はまた新たに別のことを意識する――こうした細やかなプルースト的文体をシネマ化することは原理的に不可能である(映画が2時間弱の長さという制限下にある限り、この差異性は今後も保存され続ける)。
他方、文学ではベートーベンの音楽を流すことができない。プルーストは数知れない絵画、音楽について引用しているが、どれ一つ「視覚化」、「音声化」されていない。全ては文字を読み解く人の「記憶」に委ねられているのである。しかし、映画では音楽や絵画を実際に観る者に与えることができる。ここには差異があり、文学が数年後に読むと同じ人物でも変容して感じられることがあるのに対して、映画では常に同一の表象が直接的に、いわば“生のもの”として発信されている。文学のテクストには、読むたびごとに意味を更新させる“襞”があるが、映画においてはそれは直線的であり続ける。

「ストーリー(あるいはファーブラ)の個々の構成部分についても、要約版にまとめられたり、別の言語に翻訳されたりできるように、メディアを越えて移し換えることが可能である。…プロットでの順序だけでなく、語りの速度も、時間を圧縮したり拡大したりして変えることができる。翻案した物語で焦点や視点が変更されることは、大きな相違を生み出すだろう」(p15)

「動機が何であれ、翻案者の観点から見ると、アダプテーションは私的使用あるいは回収の行為であり、そこには解釈とそれから新しいものの創造という二重のプロセスが常に存在している」(p25)

「ロラン・バルトがいうように、アダプテーションとは、“作品”ではなく“テクスト”として扱うこと、複数の“模倣、引用、言及の立体音響”として扱うことに等しい。アダプテーションはそれ自体で独立した美的存在でもあるが、アダプテーションとして理論化できるのは、本質的に二重(または多重)の層からなる作品として見られる場合のみなのである」(p8)

リメイクは、コンテクストが変更されるので、どんなものでもアダプテーションだ。したがって、変更されることが多いが、必ずしも全てのアダプテーションでメディアや関与形態の変更が起こるわけではない」(p211)

「アダプテーションは、機械的にせよそうでないにせよ、いかなる形での再生産によるコピーではない。それは反復だが、複写ではない反復だ。定まった儀式の安心感と、驚きや目新しさを見つけたときの喜びとを一つにするものである。アダプテーションとして、アダプテーションには記憶と変化、持続と変形が含まれている」(p214)



ハッチオンのアダプテーションは、クリステヴァがバフチンから抽出して理論化したIntertextuality(間テクスト性)の一形態である。ハッチオンはバフチン、クリステヴァ、バルトの理論を看取して、全てのテクストは常に既に「引用のモザイク」であるという、帰結的には「作者の死」の概念を前提にしている。

「たとえばカレル・ライス監督の映画『フランス軍中尉の女』でのハロルド・ピンターの脚本は、ジョン・ファウルズの小説の物語を、まったく映画的なコードに置き換えている。小説では現代の語り手とヴィクトリア朝のストーリーとが並置される。同様に自己投影的な映画版では、ヴィクトリア朝のシナリオを現代の映画にするように変更されており、それ自体が19世紀の物語を映画にすることの映画となっている」(p21)


とはいえ、アダプテーションが「想起の親しみ」だけでなく、「落胆」をも与えかねない点はハッチオンも顧慮している。

【ルキノ・ヴィスコンティの映画手法としてのアダプテーション】

「翻案には、、私的使用のプロセス、つまり他人のストーリーを我が物として、ある意味で自分の感性、関心、そして才能というフィルターを通すプロセスが入りうる。それゆえに翻案者は、まず解釈者でありそれから創造者である。このことは、トーマス・マンの1911年の中編小説『ヴェニスに死す』を、ルキノ・ヴィスコンティが1971年に製作、監督をした同じタイトルのイタリア映画が、そのすぐ二年後に初演されたベンジャミン・ブリテン作曲、ミファンウィー・パイパー台本による同名のイギリスのオペラと、焦点の面でも衝撃の面でもまったく異なっている理由のひとつだ。もうひとつの理由は、当然ながら翻案者が選んだメディアの相違である」(p23)


ヴィスコンティの映画は基本的に小説の翻案であり、(ランペドゥーサ『山猫』、ダヌンツィオ『イノセント』、ソフォクレス『エレクトラ』など)これは彼だけに顕著ではなくむしろ映画全般において一般的に見出されうる傾向に他ならない。「1992年の統計でさえ、アカデミー最優秀作品賞に選ばれた全作品の85パーセントがアダプテーションであるのは何故なのか」(p5)。この点では、ハッチオンの本書は「文学」から「映画」への翻案という従来のプロセスを、その逆のベクトルの可能性も理論的に示すことで「翻案」それ自体の意味の外延の拡張を目指すものである。

【アダプテーション理論によって何が可能か?】

ハッチオンのアダプテーション理論だけでは、単にあるジャンルから別のジャンルに「内実」を同一にしつつ「翻案」するという可能性しか見えてこない。しかし、ここに『熊座の淡き星影』においてヴィスコンティが実践した制作スタイルを鑑みて再度考察してみよう。ヴィスコンティはこの映画をソフォクレスの『エレクトラ』のアダプテーションとして制作しているが、タイトルはダヌンツィオの詩からの引用であり、けして単数の作品だけからの翻案を意味しない。いわば、この映画には彼が見聞きし、読解し、解釈してきた様々な作品の「断片」からのアダプテーションが生起しているとみなすことも可能なのである。
アダプテーションの理論に、ガタリがバフチンを看取して『分裂分析的地図作成法』で展開した「異質生成」の概念を融合させると、より「制作の自由度」は増すと筆者は考える。何故なら、一つ、あるいは幾つかのの作品の私的翻案に、他の様々な作品の「断片」を吸収させ、可能な限りその「引用の織り目」の縫い後を抹消するという作業は、基本的に多くの芸術作品においても見出され得るからである。「アダプテーション(クリステヴァ、ハッチオン)+ハイブリット(バフチン、ガタリ)」=芸術作品という、一つの抽象化された制作における定式がここに現前する。(因みに、ハッチオンは「ハイブリット」を、「異なる種の集結点」と規定している)。

【ミームとしてのアダプテーション】

一章理論篇でのラストで、ハッチオンはドーキンスの名高い「ミーム」を「テクスト」の問題として解釈している。

ミーム――それは文化伝達の単位、あるいは複写の単位であり、遺伝子と同様に“複製子”である。しかしながら、遺伝子的伝達とは異なり、ミームは伝達される際に必ず変化する。というのもミーム(=アダプテーション)は、ひとつには“ミーム・プール”の中での生存に適応するために、“継続的な変更と混合”を免れないからだ。ドーキンスはミームのことを書いたときに、それを観念として想定していた。だとすればストーリーも観念である以上、同じように作用するといえるだろう。…遺伝子と同様に、変異のおかげで、その子孫あるいはアダプテーションにおいて、ストーリーは新しい環境に適応する」(p39-40)


この末尾の結論は、ドゥルーズが『差異と反復』で展開していた「変身としての永劫回帰」(微分的差異を含む反復)と接続する。また、同じことであるが、ドゥルーズが愛したボルヘスのエッセイ『永遠の歴史』で展開されていた、「異なるものの永劫回帰」とも相関する――「反復」には「差異」が滑り込むのである。
この観点を更に発展させるためには、我々は本書よりも厳密に「引用」の問題を考究した、コレージュ・ド・フランスでフランス文学を教えるアントワーヌ・コンパニョンの処女作に向かわねばならないだろう。




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(2012/04)
リンダ ハッチオン

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06/10のツイートまとめ

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tomoichiro0001

RT @dessinatrice001: 「映画界のみならずオペラ、演劇界に決定的な影響を及ぼし、後世の文化人に未だ深い感銘と陶酔を与え続けるイタリアの名門貴族の血を引くルキノ・ヴィスコンティ。その美的原理を最新の美学によって徹底的に分析する」鈴村智久『ヴィスコンティの美学』h…
06-10 18:25

RT @dessinatrice001: 【お知らせ】現在、S/K Studioでは鈴村智久の著書を御購入いただいた読者様からのレビュー(御意見、御感想、批評など)を募集しております。どなたでもお気軽にお寄せ下さい。以下のリンク先から販売中の全ての作品リストが表示されます。h…
06-10 18:25

RT @dessinatrice001: Dieu n'existe pas encore(神はまだ存在しない)――現代思想において世界的注目を集めるQ・メイヤスーの神論に真正面から文学的応答を試みた表題作を含む、これからの時代の新しい文学。鈴村智久 『私たちの存在の墓で』 h…
06-10 18:25

他方、松浦寿輝が『官能の哲学』で提示した「究極のエロス」=「コギトの明証性の破砕」(自我の蕩尽)という点は、『エロティシズム』序論での「存在の〈溶解〉」を肯定的にパラフレーズしたものとして読めなくもない。松浦先生の文学にはバタイユに対する独特な「遠さ」を維持した「近付き」がある。
06-10 10:47

ただ、松浦寿輝が『不可能』でシニカルに言及したように、「一介の図書館の役人」が趣味で書いている程度の本であるという「距離」を保っておきたいところではあります。瀆神を演じる上で最も下卑た身振りとして、洗礼を受ける前から「棄教」を前提していた可能性もあるでしょうから。
06-10 10:39

執筆の資料として今まで敬遠していたバタイユの『宗教の理論』、『エロティシズム』を読み始めたのですが、特に後者の「序論」はカトリックの私にとってもなかなか興味深い内容ですね。筆致も厳格な論文形式ではなくエッセイ感覚なので異様に読み易い。
06-10 10:30