FC2ブログ

鈴村智久の研究室

表象文化論、美学の研究者鈴村智久です。哲学・思想ブログランキング総合2位。

01/29のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

メイヤスーの来たるべき神やドゥルーズの潜在性について考えたテクストも、おそらくこの方向線において有機的な連関を与えられると思う。何よりもまず、史的イエスと同年代である今、洗礼を受けて十年以上経過した今だからこそ、書けるものがあると思う。
01-29 22:30

私は目下、ベンスーサンやデリダが考察したメシア性、ブーバーが練り上げたナービー性という二つの鍵概念から、来たるべき者としてのキリストへ繋げるような宗教論に可能性を感じている(書いてみたい)。それは同時に、旧約と新約のあいだに位置する私の洗礼名について考えることでもあるだろう。
01-29 22:21

私は二十代全般を通じて、実はブーバーを熱心に読むことはなかった。哲学よりもユダヤ教寄り、レヴィナスやデリダと較べるとやや単純な関係概念に収まっている気配がして近寄り難かった。だが今、三十二歳になってようやく彼を旧約のテクストのラディカルな読み手として再評価しつつある。 https://t.co/Pliwr8cMk7
01-29 22:14

少年時代のマルティン・ブーバーは、ある夏に祖父母邸で一頭の馬と強い絆で結ばれる体験をした。後日、彼は悪戯心で馬の頭を叩いてしまった。それ以後、馬の瞳はもうあの時のような種を越えた友愛の念を宿すことはなかったという。この時、彼はその瞳に「裁かれていた」と表現している(『対話』)。 https://t.co/y8teI9u46W
01-29 22:00

スポンサーサイト



01/28のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

ギュスターヴ・モローの《モーセ》(1893)に至ると、ブーバーも指摘していた、エジプト側から見たモーセの「不気味さ」(ヤハウェのいわゆる「魔神的性質」の反映)を湛えていて興味深い。「敵」として見るなら、モーセという男はいわゆる「占い師(魔術師)」よりも得体の知れない存在。 https://t.co/0qwcUweaaV
01-28 23:35

エクス・アン・プロヴァンスの聖救世主大聖堂にあるニコラス・フロマンによるトリプティク《燃える柴》(1476)。モーセ、羊、天使(使者)まではお馴染みだが、燃える柴の上にいるのは聖母マリア。この伝承の出典は前掲論文に記載されていたが、以前訪れた南仏のエクスに実際にあるようだ。 https://t.co/KSTqpac5lD
01-28 23:23

初期フランドル派のディルク・ボウツによる《モーセと燃える柴》(1465-70)。直前の場面(草履を脱ぐ)を右側に描き込んで観者の視線を導く手法はボッティチェリと同様。 https://t.co/6pEWRtoJ3F
01-28 23:09

01/27のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

現実的には、終末期における医療チームとの人間関係や、ターミナルケア専門の施設を確保できるかといった点も「穏やかな死」を迎える上で重要だと気付かされた。ただ、日本では下記リンク先の厚労省のデータにあるように、ケア病棟で死を迎えられるのは8%に留まっている。https://t.co/rRXVm23PSZ
01-27 13:21

特に第四章「命の終わりに人は何を必要とするか」でエックハルトの「放下」(Gelassenheit)を代表とするキリスト教神秘主義の黙想の伝統が言及される点は特筆に値する。ドイツ国内の統計によれば、五十代から人生上の価値の比重が健康、自然、利他主義、霊性にシフトする人が増加していく。
01-27 13:05

ドイツの終末期医療研究の権威であるG・D・ボラージオ『死ぬとはどのようなことか』読了。医療現場からの生の声が響いてくる。人間は死を意識して初めて人生で本当に大切なものが何かを悟る。近年日本でも議論されるターミナルケアから、スピリチュアルケアと医療実践の可能性まで、極めて有益な一冊。
01-27 12:52

01/24のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

『対話』の中でブーバーは、自分が神との恍惚に満ちた神秘主義を捨てるきっかけとなった、ある特別な出来事について語っている。この作品自体、論述に個人的な内省的散文が混じっていて極めて味わい深いものだ。彼の著述には内在的な砂漠で流した血と汗と涙が感じられる。
01-24 22:51

日本語でも読めるようになった比較的新しい現代のユダヤ系哲学の本としては、ベンスーサン『メシア的時間』は特筆に値する。ここで展開される「メシア的現在」の概念も実はタルムードに由来している。いわばユダヤ系哲学を通して、旧約聖書は新たに神の息を吹き込まれ続けている。
01-24 22:45

ブーバーはカトリックの私にとっても重要な存在で、彼はレヴィナスがユダヤ教の遺産から「顔」、「il y a」、「可傷性」を、デリダが「メシア的なもの」、「責任と秘密」などの概念を錬成してきたように、古いものに光を当てて現代に蘇らせる。彼らの思索の営為はキリスト教への架け橋にもなってきた。
01-24 22:40

ブーバーというと『我と汝』は最も認知度が高いが、この「我」と「汝」の概念もその祖型は一人称としての「ヤハウェ」と、呼びかけられる二人称としての「イスラエル」にこそある(『預言者の信仰』)。そして「我」(神)とイスラエルの民の媒介項となるのが神の通訳である「ナービー」(預言者)。
01-24 22:30

@kyodo_official 生まれてきたすべての命に神の豊かな祝福がありますように。イエスは今から二千年前の夜、貧しく不衛生な馬小屋で御生まれになりました。この新生児の方が十分な保護を受けて安全に育つよう、神に祈りを捧げます。
01-24 21:01

ブーバーの『モーセ』によれば、モーセは山火事に近い何らの理由で偶発的に火がつき、炎の中でも形態をなかなか崩さない植物を見ただけであったが、その自然現象に「使者」(神とは表記されない)からの内的なメッセージを受け取った。この対象への解釈(誤認)のダイナミズムこそが決定的に重要。
01-24 12:39

システィーナ礼拝堂の《モーセの試練》(ボッティチェリ工房、1481年)について、『フレスコ画の身体学』収録論稿「モーセ伝とキリスト伝」では、モーセは燃える柴の茂みで神と「対面」したと述べているが、該当箇所(出エジ3:1~4)ではモーセが目にしたのは実は「燃えているが無傷な柴」のみである。 https://t.co/U1lnH1uebP
01-24 12:32

01/19のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

ここは以前、B所有の土地だった。その前はAの土地だった。ABは敵対関係にあったため、Bはその土地の歴史に関する記録からAの存在もろとも削除した(起源の抹消)。しかし、削除のために必要な諸々の手続きは痕跡として残っている。失われたものは次の形式で亡霊的に再現前する。
01-19 17:22

仮にフロイトのユダヤ史観にみるアテン信仰の代替物形成としてのユダヤ一神教の成立という観点が事実だとしても、出エジプトにおける「典拠の隠蔽」と同じ構造が、カール・アブラハムへの出典明記の意図的不在によっても言える以上、フロイトはまさにモーセと同じ操作をしたことになるだろう。
01-19 17:12

ヘルメス・トリスメギストスに帰せられてきた『㉔人の哲学者の書』(12世紀)についてのクルト・フラッシュの解説によれば、エックハルトが神の本質を「無」に設定する議論の影響源の一つは、本書の㉔ある神の定義のうちの定義6が特に重要なようだ。
01-19 16:43

01/17のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

私が火に出会う時、これまで形成してきた全思想、全信仰が息絶えるまでのわずか数秒に縮約される。複雑な理論も火により神聖なる単一に達する。その瞬間、息絶えるまでの痛みの中で、なおも何が私を理性に繋ぎ止めるか。エックハルトの唯一の失策は、彼が火刑台に立つ直前に召されたことであろう。
01-17 22:49

エックハルトが仮に異端宣告後も生きていた場合、最悪の可能性としてフスの最期に似た火刑が待っていたと想像される。彼は火炎の中で何を言うだろうか。むしろ彼は火炎に焼かれることを内心では願っていたのではないか──この時、私の肉体と火は一つの本質へと合一するからである(肉即火)。
01-17 22:42

『地理と代数の書』の「聖アドルフの磔刑」にはキリストへの自己同一化、『揺り籠から墓場まで』の楕円状の装飾帯にはヒルデガルト・フォン・ビンゲンの幻視した「神の子宮」と構造的に類似した図像が反復される。画家ヴェルフリは、いわば神学を忘却し絵筆を握ったエックハルトその人である。
01-17 22:17

エックハルトとヴェルフリは内在における超越との一体化を志向する点、つまり「神は私にならねばならない」という点において記述の最高の高揚を見せる点で、同質的な精神病質の可能性を指摘できる。前者は「永遠の単一な現在」において、後者は「聖ヴェルフリ」による新しい創世記の展開において。
01-17 22:09

01/13のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

https://t.co/k1XHC3N8Yu
01-13 18:26

ペギー・カムフの『コーラ』論「冒頭へ到来する」(別冊『環』デリダ特集)も、メシア性概念を深める上で示唆的。「来る」という出来事は同時に「言葉」でもあり、他の言葉を次々と発生させる原初的な力動性を持つという観点は、明らかにメシアの到来(受肉)を意識したものだろう。
01-13 12:48

「デリダ以後の宗教論」を模索する上で、やはりハイデガーとデリダが共に注目せざるを得なかったエックハルトの遺産は計り知れない意義を持っているだろう。仏教とキリスト教を繋ぐ架け橋としてだけでなく、SR以後の思想地図への寄与という側面においても。
01-13 12:42

鵜飼哲『ジャッキー・デリダの墓』所収の「祈りと無神論」は、デリダのいわゆる「ラディカル無神論」がいかにエックハルトの「放下」に接近しているかを示す小論ながら非常に重要なテクスト。実際、デリダがシレジウス経由で愛用した「神の砂漠」のメタファー自体はエックハルトの説教録にも見られる。
01-13 12:35

01/11のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

「名人伝」を緩用すれば、弓を極めた名人は最終的に「弓とは何か」さえ失念するに至る。器用に動く指の延長のように弓を扱い矢を放つ名人は、もはや大会で競ったり弟子を募ることもない。これはユダヤ的メシアニズムにも言えるのだが、待ち続けつつそれを忘れる者とは、メシア自身に他ならない。
01-11 23:57

おそらく逆立ちをしたマイスター・エックハルトでも「神はまだ存在しない」とは言わない。彼なら「神は無である」と言うはずだから。まだいないとは、今はまだ扉を叩かないがいつ彼が現れるかわからない、ということであるから、前提として潜勢態の概念と結びつかざるを得ない。
01-11 23:48

聖三位一体、受肉、復活、贖罪などといった概念は神学的に構成されたものであり、意味を剥奪すると空虚な記号のみが残る。受肉の意味には誰もがアクセス可能だが、その出来事としての露出した生の受肉それ自体はおそらく誰も語り得ない。だからこそラリュエルは概念の自己神秘化を糾弾したわけだ。
01-11 23:42

タイプ/トークンの議論においてメイヤスーが行うケノタイプへの還元については、「神」という語それ自体も単なる空虚な記号であるから、「ネ申」、「♪」、「§」その他いかなる記号で表現しても本質としての神を表現したことにはならない、という文脈で否定神学化される可能性があるのではないか。
01-11 23:25

01/09のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

私が惹かれたのは「天使Ⅱ」における、「閉じた瞼の隙間から雄蕊のような睫毛が反りかえっている」という極めて秀逸な審美的文彩。これはおそらく私が人物表現の中で最も植物的な繊細さを感じさせる「睫毛」(ロマン主義では髪は水流)に注目するためだろう。
01-09 18:26

須永朝彦『天使』所収の表題作を気分転換に読んでいて、どうやら著者が描いているのはギリシア神話の悪戯好きな恋神エロースであって、『天上位階論』にあるキリスト教的な天使ではないことに気付いた。柘榴を好んだり、喜怒哀楽を知らない無垢な微笑を浮かべる描写はなかなか興味深かった。
01-09 18:18

近藤氏の一連の補足を踏まえると、やはり両者には『メシア的時間』のベンスーサン的な時間意識に通底するものが流れている気がしてならない。ただ、未来に準拠する不確定な超越の到来への期待がある一方、エックハルト的な「永遠の一なる現在」に準拠する系譜もあることは指摘しておこうと思う。
01-09 13:52

RT @kakond3: そういえば一月号の現代思想で一つ書き忘れたことがあった。メイヤスーは亡霊的バディウ主義という形で、バディウの展開が引き起こす否定しきれない「可能なもの」として自らの立場を位置づける。そこで賭けられているもののひとつは、バディウが言うように、革命がおきて…
01-09 13:46

いずれにしても、多に空性を見出すバディウの仏教的親和性とは違い、メイヤスーには『啓示の哲学』の後期シェリングに近い、「奇跡を待ち望む」ような独特なメシアニズムが感じられてならない。しかもそれはユダヤ教を意識したレヴィナスや後期デリダとも異質な、何か不穏でもあるものなのだ...。
01-09 13:27

私はこれまで、「亡霊のジレンマ」はユダヤ的メシアニズムにアリストテレス的な潜勢態を接続させた復古形態であり、神学的には神義論的な意義しか持たないと考えてきたのだが、これは近藤論文にあるように事実論性の原理が要請する「来たるべき数学」として捉える観点もあるのだなと思う。
01-09 13:21

バディウが一と多のような古典的なペア概念を配置し、一からの「解放」を志向してマルチチュード(多)をそれ自体で承認するという流れには、コミュ二ズムとの対応も感じられる。一方、メイヤスーにはそうした政治的な含みは希薄で、純粋にXSF的な想像世界を擁護しているようにも見えてきた。
01-09 13:13

小説や映画で「未来の数学」を想像する機会は多々ある昨今だが、近藤論文を読んでいると、メイヤスーはそれらを歴史的な出来事に還元したくないのではないかと感じる。無論、新たな定理の到来は出来事として位置付けられるが、最終的にはそこから時間性も消滅していくのではないか。
01-09 13:07

近藤和敬「メイヤスーとバディウ」読了。初期メイヤスーの「新規性」論文における「小説家バディウ」への歩み寄り、とりわけ来たるべき新たな数学が有するであろう「巨大な全体」という視座が「亡霊のジレンマ」と結び付く議論は非常に興味深い。
01-09 13:01

01/08のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

メイヤスーが本論で「再演」概念の具体例として言及しているフランスのコンセプチュアルアーティストのダニエル・ビュレンの作品。確かに最初の赤と次の赤は同じ赤ではなく、有限回の中で示差効果を生み出すことに成功していると思う。一言でいえば非常にリズミカル。 https://t.co/Ms21voXWxD
01-08 18:32

私が一番面白い、というかメイヤスーらしいと感じたのは、物理法則それ自体が記号論的に変換可能であるという、③重複論以後の議論だ。これは言うまでもなく根源的偶然性=永遠=メイヤスー的絶対者によって法則それ自体がいつでもリセットされたり切り替えられたりする、ということを含意する。
01-08 17:51

メイヤスーの「回帰」概念の三様態としての①再演②反復はフッサールの表現と意味論からも帰結されたもので古典的だと思う。肝心の③重複はもはや記号論ではなく事実論性そのままの議論による記号概念の包摂であり、『有限性の後で』第三章の既視感は否めない。
01-08 17:44

ヘグルンドよりもメイヤスーの方が明らかに興味深いデリダ派ではないだろうか。90年代以降のデリダは無神論ではなくユダヤ的観念が濃厚であり、この点はオーソドックスな神学を刷新しようとするメイヤスーの「来たるべき復活の神」(キリスト教とは別様化された)とも深く関与してくる。
01-08 17:37

言語の物質性ないし恣意性についてはイェール学派でもド・マンの影響が見られるし、「原化石」に対するデリダからの隠れた影響を指摘するマラブー、及び立花氏も指摘するエクリチュール、グラフィック概念、更に「来たるべき民主主義」に通底した神論への応用など、デリダ派の遺産が顕著。
01-08 17:33

本論は従来の記号論への批判と事実論性の原理のDrマン的(インターステラーに擬えるのは彼の宇宙観から見ても正当だろう)な「ドッキングの失敗」として印象付けられる。ただし問題はその失敗の美しさ──というより二つの主要議論の独立した濃密さが際立つ点である。
01-08 17:23

メイヤスー「反復・重複・再演」(『現代思想』2019.01)読了。相変わらず圧倒的に面白く濃密な議論で夢中にさせてくれた。執筆中の論文(六割がた新しいメイヤスー論なのだが)でも改めてじっくり考察するつもりなので、ここではほんの触りとして気になった部分や考えたことをメモしておこう。
01-08 17:18

01/07のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

石粉粘土のシスター像もそろそろ色を塗って完成させておかねば。これには天橋立の波打際で採取した砂をちりばめている。背中には騎士会の紋章を刻んである。曾孫の曾孫くらいの世代の誰かが偶然のように発見してくれたら楽しい。
01-07 22:46

猫といえば、去年は母に樹脂粘土で招き猫を作ってあげたのだった。玄関に小さな座布団つきで飾られていた。 https://t.co/22N9Tc2LXO
01-07 22:39

RT @0anamnesis1: もふもふだった💖🎀 https://t.co/42GJsmPi0u
01-07 22:34

去年撮影したアルバムを眺めていて、やはりこれは......そろそろスマホから消しておこうと思う。エレベーターで8階まで上がってきてわざわざ手を降って笑う動作までしてくれたのだが、ホラー以外の何ものでもなかった(コスモスクエアにて)。 https://t.co/2lnmkKaun5
01-07 22:23

猫を眺めながらリビングで、「生まれ変わるなら飼い猫か野良猫かどっちがいい?」みたいな話題になったのだが、母が即座に「野良猫」と答えるあたり、やはり気質的に似ているのかもしれない。
01-07 22:07

そういえばデリダの飼い猫の名はルクレティウスだった。 https://t.co/7KkbqzGOrA
01-07 21:59

https://t.co/qLb1duB8Nw
01-07 21:56

https://t.co/1TvN7Bb16Y
01-07 21:54

https://t.co/YDzg1OmtKv
01-07 21:52

大晦日に見た最後の夕暮 https://t.co/tQ10vNlhza
01-07 21:51

01/06のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

詳しい情報は二月以降に告知できるだろうが、私は様々なレベルで居場所がないと感じるすべての人が自由に信仰を分かち合い、その中から新しい救済の形が生まれることを期待する。それはキリスト教、仏教、イスラム教、無神論など宗派、思想に関わりなく形成される真の家族的な場であることを願う。
01-06 23:10

年末年始を通して、ブーバーの『モーセ』を読み終えた経験は、現在のマンションを離れて来月から一軒家でより多くの仲間を迎え入れるための新しい信仰生活を始める私にとって、まさに希望の松明だった。私はこの家を、私と同じように聖書を学び、新しい教会の形を模索するすべての人に自由に解放する。
01-06 23:00

周知のように、モーセには多くの敵対者がいた。内在において神の言葉を受け取れる彼とは違い、占師バラムは外側からしか神を見ようとしない。最大の反乱者コラは多くの点でモーセに類似するが、神がモーセただ一人を選んだという事実のみを容認できない。ゆえに彼はバアルの信徒と言われる。
01-06 22:43

逆に言えば、モーセの律法に真に忠実な者たちは、最初から約束の地さえもが自分たちの所有物にはならないこと──一切は神のものであることを予め理解していた。ここには自民族に不足しているものへの執着はない。私はこうしたブーバーのさりげない解釈は倫理的にも信頼に足るものであると考える。
01-06 22:37

ユダヤ人はエジプトで寄留者として苦しい日々を経験したのだが、モーセはその土地法において、すべての土地は本来神のものであるから誰の所有物でもなく、寄留している他民族にも苦しみを与えてはならないと規定する。彼らは土地喪失の苦しみを肌身で痛感してきたからこそ、異民族の苦を共有できた。
01-06 22:32

私はこの最も信頼に値した特別な神政的原理の体現者(モーセは厳密には預言者の類型に属さない)に対して、自らの手で土を掘削するヤハウェのめくるめく姿を想像する。土と若葉の薫りを指先に残すヤハウェ──一度は死を与えたいと望むほど愛した男の亡骸を埋葬する、無言の微笑みを浮かべる彼を。
01-06 13:59

モーセの墓はヤハウェ自らが掘ったので墓の所在はイスラエルの民も知り得ないという伝承は、モーセがヤハウェに死を贈与されたことを「栄光」として捉える巨大な精神史的背景の所産ではないか。こうした態度は間違いなくイエスからスヒーダムの聖女に至るまで連綿と続いている。
01-06 13:46

『預言者の信仰』における、恩寵の最古の形態は「血による婚約」すなわち「死の恩寵」である(出エジプト4:24)という言及に触れて、デリダが『死を与える』においてなぜアケダー論にフォーカスしたのか、その関心の謎の一端を垣間見たような気がした。
01-06 13:36

01/03のツイートまとめ

Posted by 鈴村智久 on   0 comments   0 trackback

afterfinitude01

ベンスーサンはユダヤ教徒が遡行する起源としての出エジプトに言及していたが、モーセが四十年もの長きに渡って荒野を流浪し、約束の地の一歩手前で天に召されたこと自体、イエスの御受難に匹敵するものだろう。モーセは故郷を喪失した人々、精神的な居場所のない人々の導きとして現代に生きている。
01-03 21:41

興味深いのは『モーセ』の中にブーバー自身の「奇跡」体験がさり気なく含まれている点だ。そして彼はラビではなく哲学者なので、前提として出来事とそれに賦与される意味を明晰に区別する。その上で、科学的に何が起きたかよりも「経験されたもの」としての出エジプトを前景化している。
01-03 21:33

ブーバーは基本的にユダヤ教の伝統的解釈をベースにしているため、当然ながらアスマンによるモーセ=エジプト人仮説にも批判的な立場である。彼が強調するのはユダヤ教の成立において出エジプトが決定的に重要であり、その時に「歴史」が創設されたということだ。
01-03 21:26

ブーバーは『モーセ』、『預言者の信仰』のいずれにおいても、ヤハウェは元々ケニ人たちの山の神(シナイ山の自然神)だったとする解釈を仮説として退け、その根拠を何点か示している。私の記憶では『一神教の起源』でもこの仮説に似た説が採用されていた。
01-03 21:19

実家の書庫から高校時代に耽溺していたニーチェ関連の本を何冊か気分転換に再読していたが、やはりニーチェ/マイゼンブークの往復書簡には感動的な下りが見られる。まず何より、この時点でニーチェの運命はおろか彼のショーペンハウアー論の価値を逸早く悟っていた彼女の先見の明に驚かされる。
01-03 21:02

ミッシェル・アールの『ツァラトゥストラ』論において特権的に扱われる動物たちは、今ここにおいて至高の幸福の状態に達している存在(超人の分身)として規定される。これはエックハルトの永遠=現在論と通底する。換言すれば、ニーチェを経由してキリスト教と仏教が接続する回路というものがある。
01-03 20:53