† 存在論 †

檜垣立哉『瞬間と永遠――ジル・ドゥルーズの時間論』

瞬間と永遠――ジル・ドゥルーズの時間論瞬間と永遠――ジル・ドゥルーズの時間論
(2010/12/15)
檜垣 立哉

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このページでは、ジル・ドゥルーズとホルヘ・ルイス・ボルヘスの時間論に共通してみられる特性である「アイオーン」について考えてみたい。
まず、時間とは何であろうか。
物理学的な時間の定義と、哲学的な時間の定義は無論次元が異なる。
そして合理的なことに、キリスト教神学に見られる「時間」の直線モデルは、物理学的な時間の流れと同一である。
何故なら、仮に「審判」(終局点)と、「創世」(始点)を捨象すれば、それは現在が絶え間なく現在を更新し続ける「アウグスティヌスの矢」のモデルになるからである。
時間は、(過去)→現在→(未来)として図示的に示される。
過去とは現在時点での想起であり、未来とは現在時点での予持である以上、双方は共に「現在」の時間意識の内部に含み込まれる虚構に過ぎないのだ。
未来も過去も存在しない――換言すれば、未来も過去も、現実存在していないのである。
意識が記憶から「構成」されるのだとすれば、未来も過去も、現在所持する記憶情報の形式によってその内実を変容させるのである。
聖アウグスティヌスは、キリスト教的な時間の直線モデルの始原にエデンを、終局に審判を前提的に設置しているが、これらは物理学の学説を象徴的に表現したものとして読むこともできるだろう。
いずれにしても、我々は「過去」に遡行不可能であり、三分後に三年後の世界にシフトしていることは不可能である。
現在は、現在として圧倒的な勢いで生成し続けているからだ。

しかし、ドゥルーズとボルヘス(以下、D&B)は聖アウグスティヌスからみれば、明らかな確信犯的異端者である。
二人とも、時代が時代であれば「魔術師」として火刑台に送られていたであろう。
いうなれば、この二人の時間論は、中世において歴史から抹殺された幾人かの実在した異端神学者たちの教説を再現前化させているとも考えられるのである。
D&Bによれば、時間には二種類存在する。
一つは、「クロノス」(現在的な時間)である。
もう一つが、このページで取り組みたい「アイオーン」(永遠の時間)である。
分析哲学の系列に属する哲学者ジョン・マクタガートによれば、クロノスとは「経験可能な時間」である。
それは換言すれば、我々のこの「主体性」に帰属する時間である。
他方、「経験不可能で超越論的な時間」とはアイオーンである。
これは換言すれば、「神」という「観察者」の視点で全時間を把握した時間である。
前者をマクダカートは「A時間」、後者を「B時間」と呼称している。
ところで、D&Bは、このクロノスに、アイオーンが「織り込まれている」という構造的な関係を共にその著書で記述している。
ボルヘスの、例えば「タデオ・イシドロ・クルスの生涯」という短編小説で記される「人間には、自分が何者であるかを永遠に知る一瞬が存在する」という謎めいた言葉に代表される、その円環的時間(ウロボロス)の概念はクロノス的時間の限界を超越している。
同時に、ドゥルーズはニーチェの「永劫回帰」を、「メタモルフォース(変身)」としての反復として把捉し、「同一なものの反復」であることを否定するのだ。
不思議なことに、ドゥルーズが最初に『差異と反復』で登場させる人物名がボルヘスに他ならないのである。

では、アイオーンとは具体的に何であろうか。
ドゥルーズの時間論に急迫した檜垣の『瞬間と永遠』によれば、
「瞬間は、それ自身が垂直的な方向において永遠と重なる時間の果てを潜在的に含み込んでいる」とされる。
すなわち、クロノスにアイオーンが「絡み付いている」のである。
この時点で、我々は象徴主義的に往々にして表現されるあの奇怪な蛇をイメージしないであろうか。
そう、「ウロボロスの蛇」である。
錬金術的にも、ウロボロスは「円環」を意味し、E・シュレーの言葉を借りれば、「無限というものは、円またはウロボロスによって象徴される」とされる。
アイオーンについての学説には様々なものがあるだろうが、D&Bはそれを「ウロボロス」のモデルとして提示している点で共通するのである。

仏教哲学的な「永劫回帰」とは、「同じことの繰り返し」のモデルである。
それは、いうなれば「閉鎖的なウロボロスの回路」である。
だが、ドゥルーズは「永劫回帰」そのものを「変身」のモデルで更新した。
これは、一匹の蛇が二匹目の蛇の尾を噛む直前に、すなわち一つの回路がそこで閉鎖される直前に、「他の円環を再形成する」新しい時間システムであり、「絶対的に他なるものを常に導きいれる反復」なのである。
よりイメージ的に表現すれば、仏教的永劫回帰の時間モデルこそが、錬金術的時間の象徴的図像としてのウロボロスなのである。
それらは共に、時間のアルファを時間のオメガに接続させてしまうのだ。
しかし、D&Bのウロボロスは、一匹目の蛇が二匹目の尾を噛むまでは同じであるが、二匹目は最初の蛇の尾ではなく、新たな「三匹目の蛇」の尾を噛むのである。
同じ円構造であるが、こちらはツイスター状の、あるいはカタツムリの殻状の「渦状モデル」を展開するのである。

檜垣がいうように、『差異と反復』の最大の結論は、「絶対的な差異化を提示する新しさへ向かう反復」として、「永劫回帰」を提示するという点にこそある。
それは、そのつどなされる一回限りの出来事としてのaura(神秘)を含み込んでいるのだ。
同一の出来事の虚無的な、あるいはコヘレト的な反復ではなく、常に渦状に更新されて拡散分離していく新しい永劫回帰モデルの再提示こそが、ドゥルーズ時間論の核心であり功績である。
ちなみに、ドゥルーズはペギーやキェルケゴールをも「反復」の学者の中に随伴させている。
ボルヘスも『永遠の歴史』の「円環的時間」の中でいみじくも述べていたように、「周期的反復」でありつつ、常にそこから離脱して変身していこうとする「力への意志」を持ったシステムこそが、「永劫回帰」の正体なのだ。
その正体は、二匹の環のような蛇ではなく、無数の連鎖する蛇なのである。
だから、錬金術的図像におけるウロボロスの蛇は、現代思想上における「反復」を吸収した永劫回帰のモデルとして見ると、致命的な弱点を持っているのである。
それは最早、誤謬として忘却されるべきものである。

現在の時間であるクロノスに、永遠の時間であるアイオーンが織り込まれているとすれば、それは「現在」から「永遠」に達することが可能だということだ。
時間という直線的な流れに、垂直に交わる点が「永遠」である。
ボルヘスもそれを「瞬間」であると認める。
「永遠」と「瞬間」は、その感性的な把握形式において同一なのである。

では、「同一のものの反復」としての永劫回帰を「変身」へと変える力の本質とは何であろうか。
ドゥルーズによれば、それは「mauvais Chronos(悪いクロノス)」という概念によって表現される。
「悪いクロノス」とは、「生成」のことである。
「生成」とは、「いつも自己であることを逃れていく、反―実現」という表現に集約できるだろう。
同じような毎日を崩壊させようとする意志が人間には本来的に備わっている。
だから「生成」とは、純粋に人間の「個体化」のプロセスの鍵でもある。
「生成」=「悪いクロノス」の力動的な作用によって、「同一のものの反復」である時間は破壊され、滝のように生成し続ける「メタモルフォース」としての永劫回帰が姿を現すのだ。
「生成」こそが、変身の中枢概念である。
それは「出来事」の開放的なポイエーシス(創出)である。
常に閉鎖的なウロボロスの回路は破壊される定めにある。

以上、みてきたように、D&Bは共に二十世紀後半に位置する人間でありながら、その時間論のモデルとして対決を試みているのは聖アウグスティヌスである。
時間の構造は、「渦状の生成体」であり、聖アウグスティヌスの矢ではない。
「渦状の生成体」はウロボロスではなく、生ける「力への意志」としての、マトリックス(子宮)として新たに概念創出されるべき時である。
それは詩篇46章に見られたように、「神」の本質としての「苦難の時の逃れ場」としての機能を持つ聖なる生成体である。
こうして考えると、エゼキエル書に登場する謎めいた「車輪」の幻視も、古いウロボロスからの転換を迫る啓示として解釈することができるであろう。
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