† 表象文化論 †

谷川渥『鏡と皮膚』における、マルシュアス=ミケランジェロ論

Bartolomeo-Manfredi---  Apollo-and-Marsyas

by Bartolomeo Manfredi


ニーチェはアポロンを調和と均整の取れた神であるとし、酒と舞踏の神ディオニュソスと対比的に描き出したが、実はアポロンはホメロスが『イリアス』でいみじくも述べているように、「その歩く姿は、まるで夜のようであった」とされるほどの、怖ろしく残酷な神でもある。
アポロンの戦慄すべき性格を如実に表したギリシア神話の代表的な挿話に、「マルシュアスの皮剥ぎ」がある。
マルシュアスはプリュギアのサテュロスの一人で、芸術の神アポロンに音楽の勝負を仕掛けた。
勝者は敗者にどんなことをしても良いという掟に従い、マルシュアスは木に吊るされた挙句、全身の皮膚を剥がされたと伝えられる。
ペルジーノやホセ・デ・リベラなどが「アポロンとマルシュアス」をテーマにした絵を描いているが、これらが共通して持っているテーマは単なる皮剥ぎという拷問の恐怖ではなく、「神」とそうではない存在の厳格な「差異性」を侵犯しようとする者への「処罰の必然性」を象徴的に描写しているとされている。
アポロンが持つ楽器である「竪琴」は、意味論的には「都市」=「中心」のコードと繋がり、マルシュアスの楽器である「笛」は、より素朴な「田舎」=「周縁」と繋がっている。

richard     willenbrink

by richard willenbrink

マルシュアスの皮剥ぎを芸術論として読解する上で、谷川渥が実に卓越した論文を書いている。
彼はアルベルティが15世紀に芸術家をalter deus(第二の神)と呼んだことに注目する。
16世紀以降、芸術家はdivino artista(神の如き芸術家)となり、神はまたdeus artifex(芸術家としての神)の性格を帯びた。
神と芸術家は、このように時に支えあい、時に対立する存在として捉えられるようになったのである。
オウィディウスによれば、マルシュアスはアポロンに対して皮を剥がれるに際して、《Quid me mihi detrahis?(なぜ、あなたは私を私自身から引き裂くのですか?)》と問うたらしい。
谷川は、これをアポロン=芸術、マルシュアス=芸術家として意味論的に還元した上で、マルシュアスの皮剥ぎ全体の構造を芸術論として提示している。
すなわち、アポロンは芸術家を創造へと駆り立てる芸術家の内的な神としての性格を帯び、マルシュアスの皮剥ぎは創造行為によってすっかり魂を使い果たして抜殻のようになった芸術家の姿を象徴するというわけだ。
つまり、アポロンもマルシュアスも、一人の人間が持つ二つの側面なのである。
一方が芸術へと駆り立て、もう一方は芸術の魔にすっかり敗北して、皮となる。
しかしながら、「剥がれた身体」は「死」ではなく、「新しい生」を得ると解釈する信仰も存在する。
皮剥ぎには、前提としてまず「再生」信仰も結合しているのだ。
谷川がマルシュアスの皮剥ぎを、「創造行為」のアレゴリーとして読解している点は傑出して刺激的で深い印象を与える。

Giovanni  Francesco Barbieri

by Giovanni Francesco Barbieri

ハイデッガーは『芸術作品の根源』の中で、あらゆる芸術は「衝撃」でなければならない、と述べている。
プラトンの「全て偉大なるものは嵐のさ中に立つ」という言葉も、一つの芸術的信念として捉えることができるだろう。
これをマルシュアス論と接合させて考えてみよう。
芸術は、ハイデッガーがいうように「衝撃」的なものとして我々に到来するが、その創造者は常にアポロンに闘いを挑み、偉大な敗北によって皮を剥がれなければならないだろう。
皮とは、まさに作品を意味しているのだ。
魂を使い果たした結果、抜殻のようになった芸術家自身を、マルシュアスの皮として認めることが谷川の主張であった。
芸術家は、まさに自分の創造した作品に宿した「衝撃」によって、翻って「衝撃」され、まさにアポロン=芸術の神に、身体の皮膚を剥がれる経験をせねばならない。
この意味で、アポロンが行った「皮剥ぎ」という儀式は、ようやくディオニュソス的な性格を帯びるのだ。

flaying_  marsyas ティティアン

by Tiziano Vecellio

perugino_ apollo00

by Perugino

イタリアの学者フランチェスコ・カーヴァの説によると、1536年~1541年に制作されたミケランジェロの大作《最後の審判》には、画家自身の自画像が、聖バルトロマイの手にする「皮」として描かれているという。
谷川も、これを定説として受容している。
時代背景として重要なのは、解剖学の勃興期に属している点である。
1543年には、アンドレアス・ヴェサリウスが『人体解剖学体系』を刊行している。
解剖学的知識の習得は当時の画家の仕事でもあり、ミケランジェロがこれに盲目であったとは考えられない。
彼が自分を「皮」として、半ば遊び心を込めて描く土壌は用意されているのである。
マルシュアス論としてミケランジェロの自画像を読解すると、彼はまさにシスティナ礼拝堂の天井に描かれたこの大作に、全身全霊を込めた。
つまり、ミケランジェロというマルシュアスは、芸術の神アポロンに、まさに皮を剥がれたのである。

20100730_   564511

by Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni

img_234958  _2001021_3

Juan Valverde de  Amusco

by  Juan Valverde de Amusco

マルシュアス=ミケランジェロの皮剥ぎについて考えることは、「芸術」を生み出すということがどのような行為であるのかという、その本質を改めて我々に認識させるのに寄与する。
それは、やはり何らかの殉教なのだ。
キリストへの信仰のために皮を剥がれた聖バルトロマイのように、現代でも芸術家は総じて作品を生み出すために、殉教せねばならないのである。
ミケランジェロの皮としての自画像は、それがどれほどの大仕事であるかを強く感じさせるに十分である。




「参考リスト」

鏡と皮膚―芸術のミュトロギア (ちくま学芸文庫)鏡と皮膚―芸術のミュトロギア (ちくま学芸文庫)
(2001/04)
谷川 渥

商品詳細を見る


芸術作品の根源 (平凡社ライブラリー)芸術作品の根源 (平凡社ライブラリー)
(2008/07)
マルティン ハイデッガー

商品詳細を見る




関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next