† ホルヘ・ルイス・ボルヘス †

ピュタゴラス学派とボルヘスの関係

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「Vogue Italia July 2003」


J・L・ボルヘスは彼自身が告白したように、単数ではなく常に複数化された書き手だった。
彼はかつて、おそらくピュタゴラスであった。
ピュタゴラス学派の可能性が高いポルピュリオスが記した『ピュタゴラス伝』には、「生成する存在は一定期間を経たのちに再生する」と記されている。
同様のことは、ケルソスも『ケルソン論駁』の中で以下のように記している。
「ピュタゴラスによれば、星辰が長い周期を経てソクラテス時代にあったのと同じ相互関係になった時には、ソクラテスが同じ親から新しく生まれ、同じ仕打ちを受け、アニュトスとメレトスに告発され、アテナイ高等法院から断罪されることになろう」。
プラトンは『ティマイオス』の中で、世界を襲う「周期的破壊」について言及している。
このページでは、ボルヘスの思想の中核に位置する「永劫回帰」説、正確には「時間のアイオーン論」に対して、私なりに現段階での一定の「解決」を試みておきたい。
というのは、我々はいつまでもボルヘスの謎を追い求めるべきではなく、研究した分だけの成果から、彼を解体すべきだからである。
ボルヘスを脅威に感じるのは、古今東西の神秘主義思想について何も知らない読者だけであって、彼らもボルヘスが引用する様々な書物に触れるに及んで、じょじょにボルヘスにある共通した輪郭があることを認め得るのである。
それは「永劫回帰説」をおいて他に無い。
彼の持つ「原型と変奏(一と多、ユニタスとマルチチュード)」、「現実と夢」といった仕掛けも、究極的には全て「永劫回帰説」に帰属する諸コードの展開に過ぎない。
おそらく、このページをもって私の中でボルヘスの思想は終幕するだろう。
それはボルヘスが他の思想家に浸透し、顔を消す瞬間でもあるのだ。
あのシェイクスピアをテーマにした詩のように、ボルヘスもまた顔のない匿名化された普遍的存在なのだ。

輪廻にまつわる伝承、宗教形態は探し出せば本当にきりがない。
しかしここで、私はAd・E・イエンゼンによるニューギニア島のマリンド・アニム族についての研究から例証しておきたい。
アニム族は共通して創造神である「デマ」という名の特異な神を崇拝している。
このデマ神は、大江健三郎の「村=国家=小宇宙」(by 『同時代ゲーム』)に登場する神話的超越としての「壊す人」と同じく、「創造すると同時に壊す」存在である。
しかも、デマ神は自己破壊を行うのだ。
究極的な自己破壊とはすなわち「神による神の殺害」である。
デマ神は、彼自らの固有の神的原理に基いて自己を創造し、また自己を殺すのである。
重要なのは、イエンゼンがこのデマ神の宗教形態を、「古代農業文明の世界観の中心思想」だと規定している点である。
実は、デマ神は死ぬとその頭部から「ヤシ」の木を生やすと伝えられている。
死んだ神の死体から、新しい命が芽吹くのである。
これはペッタゾーニの『神秘主義』における基礎コンセプトである「植物の周期的再生」を「生と死」のサイクルに重ね合わせたものとして読解できる。
輪廻の思想とは、無論自然界に対する人間の「意味付与」であり、パース記号論的にいえば、自然という「対象」に対する人間の「解釈項」が添付された「記号表現」として成立していることは今更いうまでもない。
植物の死と再生の循環サイクルを見て、人間は自らの出生と旅立ちをその円環構造に見出したのである。
これこそが、「輪廻」の「アーカイブ(起源)」である。
先のイエンゼンの報告に話を戻せば、アニム族の行う収穫祭では、一人の処女が「斉女」として選別され、殺されて食べられるという記録が存在している。
この祭儀が現存するか私は知らないが、少なくともイエンゼンの報告は祭儀のテーマをデマ神の死の再現とみなしているのである。
デマ神は自己を世界として創造し、また死ぬのであるが、その頭部からヤシが生えるということは、原初的な植物のイメージを直接継ぎ接ぎさせた神話体系だということができるだろう。
こうしたイエンゼン=ペッタゾーニの貴重な報告を看取すれば、例えばカルキディウスの『ティマイオス註解』に見られる以下のような記述にも、比較的理解が得られ易いのではあるまいか。
「八度の循環運動全てが常に同一で斉一な動きをする他の循環運動のいわば始原に向かって回帰するまさにその瞬間に、時間の完全数が完全年を完成する」。
あるいは、以下のほうがより正確だろうか。
「天上地上に生起する森羅万象は完全無欠に達すれば以前の状態に回帰せざるをえない。現状における星辰の配列は長大な時系列の後で、後続のものがこれと常に同一であるように寸分たがわず復元されると考えられる」。
こうしたテクストは、極めてボルヘス的であり、実際にボルヘスがブエノスアイレスやハーバードで講義として用いていてもおかしくはないものばかりである(実際に用いたかもしれないが)。
後期フラマリオンは『死とその神秘』の中で、やはりボルヘス的なテクストを残している。
「霊魂は記憶の永続性をもった個としての存在であり、転生を繰り返す」。
人間だけの輪廻しか認めなかったアラン・カルデックにせよ、動物や植物との輪廻も認めたユゴー、フラマリオン、ピュタゴラス学派にせよ、彼らは皆共通してボルヘスの目に留まったはずである。
ボルヘスとは、いうなればこういった「輪廻」のジェネアロジーを収斂させた一つの結節点なのだ。
その起源は農耕文明や、月の満ち欠けなどに意味付与された「死と再生」思想である。
土俗宗教レベルでも輪廻は散見されるし、高度に理論化された神秘主義的体系としても輪廻説は展開されている。
ボルヘスがテーマにした「夢」や、「鏡」、「すべてを包含する書物」、「不死」、「永遠」なども、全て神秘主義的なテーマである。
例えばシャーマニズムにおける「夢」が果たす霊的なイニシエーションの役割は重要である。
「すべてを包含する書物」についても、スワヒリ語族に属するケニア、タンザニア系のイスラム教的創造神話に類型的なコンセプトが既に懐胎している。
これはあらゆる意味で「バベルの図書館」のテーマ全てを包含する創造神話である。
概略すれば、彼らは神が「書物の母」を創造したと信ずる。
それは彼女自身の魂が宿った一冊の書物であり、神の智恵と神秘が全て包含されている。
神は同時に「ペン」を創造し、現在も余すところなく人類の歴史を綴り続けている。
ボルヘスはもしかすると、アレスター・クロウリーの『魔術』に記された異様に衝撃的かつ平凡なテクスト「全ての意図的行為は魔術的行為である」を「書く」という作業において実践したのかもしれない。
私は、今にして思うのだが、むしろ最も神秘的で未解明なのはボルヘスの単純な場面描写「鏡が私を見つめていた」(「トレーン・ウクバール・オルヴィス・テルティウス」)とか、「プラットホームには誰もいなかった」(「八岐の園」)であるような気がしてならない。
そして、これらの極度に幾何学的で無機質な場面描写は、私にデ・キリコの初期の実存的な孤独を感じさせる光景として到来するのである。

ボルヘスは他の誰でもなかった。
彼はボルヘスですらなかった。
それは、ピュタゴラスがかつてそうであったように。
ピュタゴラスは文字を一切残さなかったが、ボルヘスはまるでかつての自分の誤謬を正すかのように、そして語り損ねた何かを思い出すかのように、文字を後世に残す道を選んだ。
ピュタゴラスの教説はボルヘスが集め、具体的に展開した。
二人はおそらく共通して同じ病を患っていた。
「鏡に自己の顔が映らない」という、大いなる美的陶酔を秘めた病を……。





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