† 神秘主義 †

「霊は鉱物、植物、動物にも宿る」という見解についてーーニコラ・カミーユ・フラマリオンの霊魂論の再評価



フランスの近代スピリチュアリズムを捉える上で、カルデックやユゴーと並んで重要なニコラ・カミーユ・フラマリオンの転生論は特筆に価する。
このページでは、輪廻をポジティブなサイクルとして捉えるヨーロッパ的な神秘主義と、それを迷妄としてネガティブに把握し、積極的に解脱への道を説く古代インド思想を比較的に分析する。

フラマリオンは、イタリア人女性霊媒師エウサピア・パラディーノを対象にして1907年に『未知なる自然の力』を刊行した。
そこで彼は、「自然界には、各種の働きをする心的要素」としての、「未知なる第五の元素」が存在すると述べている。
古代においては四大元素として、「土」、「火」、「水」、「空気」が設定されていたが、これに加えて彼は第五元素として「世界霊魂=生命原理=エーテル」を新たに考えた。
この「世界霊魂」が、おそらくフラマリオンの想定していた「輪廻」における循環の「主体」である。
すなわち、我々の人格や個性が輪廻するのではなく、彼は「世界霊魂」が輪廻の主体として循環していると考えていた。
フラマリオンは、その人生の前期においてカルデックのサークルに入会して神秘主義的な研究を積んでいたが、じょじょにカルデシズムと袂を分かつようになり、合理的かつ科学的実証主義に基いた「天文学」へ向かっていった。
彼は数多くの天文学書を刊行している。
その頃に彼はヴィルヘルム・オズワルド(1853-1932)の「エネルギー論」を吸収している。
オズワルドは、「物理現象の全てが、エネルギーを支配する法則によって説明できる」と考えていた。
これに倣って、フラマリオンもまた「物質は本質的にエネルギーが取る一つの形式に過ぎない」と想定するようになっていった。
ここで彼が「エネルギー」という時、先の「世界霊魂」が想定されていたことは想像に難くない。
キリスト教が脱中心化され、これまで周縁に追いやられていた数知れない異教の教えが蘇生しつつあったこの時代において、彼は天文学と転生論をミックスさせたような思想を形成し始める。
「天体の世界における霊魂の不滅は、必然的に天文学を仕上げる」。(フラマリオン)
興味深いのは、初期にはカルデックを批判した彼が、後期思想を仕上げるにつれてカルデシズムを再現前させている点である。
愕くべきことに、彼は若い頃に考えていた神秘主義的な思想に、老いて学識を深めていくにつれて遡行していくのだ。
このフラマリオンの思想プロセスは、それ自体が既にして神秘的ではなかろうか。
フラマリオンは、一体何を「神秘」であると感じていたのだろうか?
それは、端的に「死」である。
霊魂は、肉体が朽ちても「霊魂不滅の最終定理」(プラトン)に基いて天界へと上昇していく。
だとすれば、まさに肉体が朽ちるその瞬間――「死」の瞬間――を解明することに、「霊魂」とは何であるかを、ひいては「輪廻」とは何であるかを解明する核心が存在する、フラマリオンはそう考えた。
こうした経緯を経て、彼は『死とその神秘』を刊行する。
その中でフラマリオンは最終的に「ドッペルゲンガー(心霊シネマトグラフィー)」を容認することになるのだが、それ以前に重要なのは彼の更新された「霊魂論」である。
以下に、その重要な九つの基礎コンセプトを掲載しておこう。
これらは、フラマリオンが霊媒師を用いて長い時間をかけた実証主義的アプローチによって導出した一つの結論でもある。

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※ 『未知なる自然の光』(1907)の中の回転式自動機構


1 幻覚や空想とは別の次元として「霊」は必然的に存在する。

2 霊は集団から目撃された例も存在する。

3 ある者が死んだ直後に、その者の霊は出現し易い。

4 霊は自ら積極的に出現することは比較的少ない。

5 霊は生前の心的傾向を痕跡化させている。

6 霊は、五感ではない「魂の目」でのみ把握されているといえる。

7 霊は生者とは存在様態が完全に異なっているといえる。

8 「魂の目」とは、すなわち「第六感」といわれるものである。

9 以上の帰結として、肉体が滅んでも死者たちは存続するといえる。



ここで、更に以下のようにまとめ直すこともできるだろう。
後期フラマリオンのいう「霊魂」とは、「記憶を持った、考える主体としてのアイデンティティーの永続性を備えた消滅することのない霊的原子」とでも呼べるべきものであり、「記憶の永続性を持った、転生を繰り返すもの」である。
カルデシズムに接近して、フラマリオンは更にいかなる根拠もなく「直観」と「詩的原理」に促されて「転生先が地球に限定されることはない」といった考えや、「霊は鉱物、植物、動物にも宿る」という考えを表明する。
『世界の終わり』というタイトルの黙示録的小説も刊行している彼にとって、おそらく思想形成には多分に「イマジネーションの力」が作動している。
実は、これはある主体の神話体系を形成する上で中心となる原理である。
というのは、多くの神話素が示唆しているように、超越的な内実を含む記述はイマジネーションによって物語化されているのだから。
晩年に近付くにつれて、フラマリオンはある奇妙なテーマのみの研究に心血を注ごうと考える。
それは、ウスペンスキーも信仰していたと思われる「物質の記憶」というテーマである。
フラマリオンは、最後の著作となる『取り憑かれた家』(1923)の中で、以下のように語っている。
これは昨今の、「怪談」や「都市伝説」における、「物に宿る霊」の理論的背景としても有効であると考えられる。
「人間の身体、生命から発散されるものを、無生物の物質が潜在的に記録し、保持している」。
これは物質にも、霊魂が宿るという見解である。
例えば『創世記』において、神は土塊からアダムを創造した。
その時、神は土塊に「息吹」を吹きかけたとされている。
この時の神の行為は、まさに「物質」に「霊=息吹」を宿さしめる行為といえるだろう。
これに類縁性を持つユダヤ神秘主義にまつわる「ゴーレム」神話も、やはり物質に宿る霊をテーマにしていると読み直すことができるだろう。

さて、ここまできて判然となるように、フランスの近代スピリチュアリストたちは「輪廻」をネガティブに把握してなどいない。
それは「存在」の原理であり、輪廻それ自体が神秘なのである。
ピュタゴラス派はオルフェウス教の影響を受けながら思想を発展させた来歴を持ち、このオルフェウス教は転生論を展開していたことで名高いが、実は彼らはその教えを「エジプトの神官」から耳にしたとされている。
研究によれば、起源はしかしエジプトではない。
インドなのである。
しかし、古代インド思想では輪廻はフランス近代スピリチュアリズムにおけるような、それ自体で神秘的なサイクルとしては受け止められていなかった。
そもそも、「転生」論のアーカイヴとして存在している象徴的人物とは一体誰なのであろうか?
すなわち、インド→エジプト→ギリシア→という、転生論の「思想地図」的な動線において、最初の「始点」として輝いている人物とは、誰か?
ブッダより数百年も前に生まれ、ウパニシャッド最大の哲人であり、「仏教を用意した」とされる思想家が存在するのである。
私は今のところ、それが初期ウパニシャッド哲学を代表する、先述して紹介したヤージュニャヴァルキヤであると考えている。

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「याज्ञवल्क्य(Yājnavalkya)」

彼の功績は主として二つある。
一つは、人間は生前に積んだその善悪の多寡に応じて転生先を高貴なものから卑小なものまで変化させるということ(=因果応報、業報輪廻)の提唱である。
輪廻の教えが、「植物」の再生や、「月」の満ち欠けなどに根差した自然の循環サイクルから着想されたものであるという説は、イエンゼンなどが提唱していた。
こうした「再生再死」思想は、古代日本も含めて実は世界中に存在している。
しかし、「人は死に、再び魂が別の人間に宿り、また死に、再び魂が別の人間に……」という、この絶え間ない「循環」を思想として持った地域は、実はインドとギリシアだけであるといわれている。
仮に、ギリシアにおける「輪廻転生」のアーカイヴを、オルフェウス教とピュタゴラス派に帰属させるのであれば、それ以前に、インドで活躍したヤージュニャヴァルキヤはまさに「アジア」における最大のアーカイヴである。
彼が現在でもインド哲学者から高く評価されているのは、こうした「輪廻」のループ構造を切断する「解脱」の方法を展開したからである。
この解脱の道が、彼の最大の功績の二つ目である。
それは端的に、「知」と「欲望の消尽」である。
「知」とは、「輪廻する主体」や「自己自身」と定義される「アートマン」に対する知を意味している。
ヤージュニャヴァルキヤは、「輪廻」の循環だけでは、人間は「苦」から解放されることはないと考え、その環から脱却する道を説いたわけだ。
ここで重要なのは、「輪廻」=迷妄、「輪廻からの脱却」=涅槃と位置付けている点である。
涅槃は輪廻を否定し、そこから抜け出さねばならないという言説に依存している。
換言すれば、輪廻は涅槃にまで至るまでに必要な概念的な必要条件である。
涅槃は輪廻を切断することによってのみ達成される以上、それは常に輪廻に弁証法的に依存することになる。
だとすると、完全な悟りであるはずの「涅槃」は、「輪廻の否定」に立脚しているということができるだろう。
すなわち、涅槃とは、「輪廻」を「迷妄」として棄却することでのみ成立する弁証法的な運動なのである。
何故、「輪廻の肯定」が、「知」と「欲望の消尽」に結び付かないのであろうか?
フラマリオン、カルデックは、輪廻を「神的超越」へと合一していくために人間が取っていく霊的な進化のプロセスであると考えていた。
輪廻は、そこでは「欲望」や「迷妄」などと結合していないのである。
ヤージュニャヴァルキヤは、輪廻を人間存在のなにか醜いもの、悪しきものが無限に繰り返していく象徴としてみなしているようだが、それは彼の「意味賦与」に過ぎない。
一度、意味を全て消尽し、現象学的還元(エポケー)を遂行してみよう。
そうすると、「輪廻」とは、まずただ霊魂が回転している、という極めて幾何学的で神秘的なイメージとしてのみ存在することになるのである。
「三角形」には、「善悪」は存在しない。
それを与えるのは、人間の意味賦与作業の結果、より正確には心的システムの作用である。
同様に、「輪廻」にも「善悪」など存在しない。
ただ、私は仏教を含めたインド思想が、輪廻に「迷妄」というネガティブな意味を担わせることに、非合理的な思考フレームを感じるのである。
したがって、ピュタゴラスのように純粋に「数」によって「輪廻」のプロセスを説明しようとした者に、私はより合理的で理に適った、近未来型の「救済」の教説の可能性を感じるのである。
何かを否定するということは、別の何かを肯定することである。
その時、その肯定されたものは、否定したものに依存している。
涅槃は輪廻を否定し、切断することで存在する。
だとすれば、涅槃とはまさにどこまでも輪廻と一体化したものとして存在していかざるをえなくなるのである。
この時、思考を変換して、まず「輪廻を肯定」し、かつそこに「欲望」や「迷妄」という意味を付与せずに、神秘主義的な美しい魂のメカニズムとしてのみ位置付けることはできるはずである。
ナーガールジュナが『中論』で述べたように、「涅槃とは輪廻であり、輪廻とは涅槃である」ことを肯定し、「輪廻」をイメージ的に美化させていくことは昨今のスピリチュアリズムの課題ではないだろうか。
それは、「存在の薔薇」と形容されるような、美的な神話的構造として存在すべきではないだろうか。


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