† 映画 †

想像的私小説としての、エリア・スレイマンの『D.I.』について

D.I. [DVD]D.I. [DVD]
(2003/10/25)
エリア・スレイマン、マナル・ハーデル 他

商品詳細を見る


不思議な私小説がここにある。
作品の中で、作者は一言も言葉を発しない。
でも作者は登場人物の一人として、明らかに恋人のことを想っている。
エリア・スレイマンの『D.I.』には、静かな想像的私小説の力が漂っている。
スレイマン自身もナザレ出身のパレスチナ系イスラエルの監督だ。
Divine Intervention(神の仲裁)の頭文字がタイトルにあって、舞台としていかにも重々しい雰囲気かもしれないが、コメディ映画である。
コメディといっても、それは静謐で知的な雰囲気のユーモラスな作品という意味だ。
カトリックの私としては、舞台でナザレの平凡な生活が描かれていることが何よりも興味深かった。
イエスが生まれた土地の二千年後の姿は、コンクリートの白い壁の下に、無造作に雑草が生えていたりしてどこか無味乾燥としている。
大阪という忙しい都市で暮らしている私にとって、本作で舞台の一つとなるナザレはもっとゆったりしている。
といっても、少し自動車で街を離れれば、道路沿いの草むらに戦車が置かれていたりする。
シュヴァンクマイエルの撮影方法には人物のアップが多いけれど、こちらは全体的に人物が風景画の中に吸収されているようでどこか叙情的だ。
主人公の一人であるスレイマンは検問所の駐車場で彼女と会っている。
静かに無言で手を握り合うだけで、互いにキスを交わしたりできないのは、周囲を兵士たちが監視しているためだ。
作品には随所にコミカルなハリウッド的演出が引用されている。
それは明らかに舞台とは異質なコードで、強い「引用性」を感じさせる点でもある。
シリアスな恋愛劇を期待すれば間違いなく裏切られるが、私たちがイスラエルの映画に期待している型どおりのイメージを打ち破っているような躍動感も宿している。
展開が予想できない。
描かれているのは、謎の恋人を除いてイスラエルのごく普通の市民の日常生活である。
象徴的なのは、主人公が自動車の中で食べていたアプリコットの種を戦車に投げ捨てた時、それが大爆発するシーンだ。
この箇所は、どんなハリウッドの爆発シーンにも存在しない迫力で包まれている。
そして奇妙なことに、スレイマンはまるで空耳とでもいうかのようにそのまま振り返ることもなく走り去っていく。
仮に、この大爆発という大袈裟な演出を「ハリウッド的なもの」として位置付けると、それを「引用」しつつも冷静に「無視」していく監督の姿には、この作品全体の通奏低音に近いところがあるかもしれない。
というのは、作品では引用されたハリウッド的演出が、どれも「滑っていく」からだ。
それはストーリーとは何の脈絡も無く、明らかに浮いているし、不必要ですらある。
それをあえて縦横無尽に引用することで、もしかすると「映画」という領域が不可避的に辿るハリウッド式の誇張的な演出をパロディ化しているのかもしれない。
映画では、絶対にイスラエルの本当の実像には急迫できない――この不可能性を、あえてハリウッドというシステムを引用することで強烈に示唆しているとも受け取れるだろう。
いずれにしても、スレイマンは現在も国際的に極めて高い評価を受けている監督で、ゴダールやタルコフスキーと同じくこれからの映画史を牽引していく存在とみなされている。

関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next