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鈴村智久の研究室

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神という名の「記号機械」――フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』

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アンチ・オイディプス草稿アンチ・オイディプス草稿
(2010/01/26)
フェリックス・ガタリ

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記号機械とは何であるか?

実は、ドゥルーズよりもガタリの方が重要かもしれない、といっている若い読み手はけっこう存在している。
私もその中の一人かもしれない。
本書は非常に生々しいフロイト、ラカン批判の草稿集成なのだが、ところどころに目を覚まさせるようなインパクトを宿したテクストが存在している。

その前に、少し私が本書を手に取った来歴を若干記しておきたい。
というのは、以下の読みはその来歴にしたがって記されるであろうからだ。
もちろん、私も『千のプラトー』や『差異と反復』、『無人島』から『意味の論理学』、『ベーコン論』、更にガタリ方面でいえば『分裂分析的地図作成法』程度の「初級」の一般理解は彼らについて持っている。
おそらく、今哲学が好きな人間で、ドゥルーズ&ガタリの名前を知らない人間など存在しない。
私としては、彼らの哲学は、ある「領土」について研究し、そこに「閉塞感」を感じ始めた時に、「脱領土化」へと促せる幾つかの操作子を準備してくれる「知のツール」として、彼らを理解している。
そしてまさしく『アンチ・オイディプス草稿』も、その一冊に含まれるだろう。

では、私は何から「脱領土化」したいのか?
このブログの前後の流れに詳しい方々には百も承知だと思われる。
そう、「スピリチュアリズム」と「宗教学」だ。
この二つは研究領域がどうやらかぶっているようなので分けるべきではないかもしれない。
私もキリスト教についての宗教学的、信仰的アプローチを経て、いつの間にか近代スピリチュアリズム方面の研究書を読解していくプロセスにシフトしていた。
キリスト教が世俗化していく過程で、ハイズヴィル事件を象徴的な出発点として開始されたのが近代スピリチュアリズムである。
これについての詳しい記事は、こちらを参照していただきたい。
現代日本にも、数知れないスピリチュアリティーを謳った法人やタレント、新書などが存在する。
こうしたものの根幹にあるものを、私はここで「目に見えないもの」と仮に呼称しておく。
「目に見えないもの」、例えば「霊」である。
「神」や、「他界」、「天使」、「悪魔」などを代入しても良いだろう。
こうした「目に見えないもの」には、不可視であるがゆえに超越性が宿っている。
例えば死んだ母親が夢に現れるという出来事は、文明が開始されるはるか前から存在していたと私は考えている。
死者となって土葬され、この世界においては最早「目に見えないもの」と化した母親が、「夢」の中ではあたかも「世界-内-存在」であるかのようにふるまう。
私はここに「目に見えないもの」への原初的な起源があるように思われる。
「神隠し」や、シャーマニズムにおける脱魂時の「異界飛行」といったものも、主体に何らかの「目に見えないもの(世界)」が現前するということである。
「目に見えないもの」に、救いや癒し、美的なイメージが構成されると、ひとは現世のこの不条理で、生き難い、救いや居場所が見当たらない世界ではなく、この世の「あちら側」の方を信仰したくなる。
つまり、日常世界、現世、現実、といったものが、「目に見えないもの」の側に意味賦与された秩序によって逆に支えられ始めるのだ。

さて、私は先述してある種の異界との通路を穿つ領域として、「夢」をあげたが、ガタリはこの夢について、以下のように記している。

「夢というのは、記号素が力を取り戻す事態だ」。

あるいは、以下のテクスト。

「欲望の主体といったものはない。ただ、<記号機械>にしたがった欲望の<生産>がある」。

ここで登場する「記号機械」――実は私が「目に見えないもの」を解体する一種の操作として注目したのはこの概念なのだ。
ガタリは、「意識」で生産されたものは、「無意識の多声性」において、「既に生産されていたもの」であると記している。
この「無意識」について、ガタリは別のテクストで「欲望する観想の多声的用法」と表現している。

「妄想、夢、ドラッグ、文字、世界の終わり、大いなる夜の力能によって平面は突き崩され、<欲望する観想の多声的用法>へと回帰することが可能となる」。

こうしたテクストから、改めて私は「夢」というものを再定義しておきたい。
それは、「死んだ母親と再会できる唯一の場所」であるが、端的にいって、まさに「記号機械の作動している特異な場」である。
仮に主体の織り成してきた記憶の全てを「テクスト」に還元してみると、「夢」とは、まさにそんな「テクスト」に散りばめられている様々な固有名詞や形容詞、動詞などが、バラバラにされた上で再構成されて領土化した空間だということができる。
「夢」=「記号素が力を取り戻す事態」という定式に従えば、まさに「死んだ母親」が夢枕に立っている姿は、かつての母親の記憶の平面から、任意に「記号素」が抽出されて再構成されたものなのだ。
諸聖人の幻視は、おそらくこのガタリ的な分裂分析的アプローチによる「記号機械」が、「記号素」をニューラルネットワークの接合のように結び合わせたものとして理解できるかもしれない。

興味深いのは、以下のテクストである。

「真理、真理の行使とは、あらゆる水準において欲望する機械の核心にある。つまり、欲望する機械が分解し、解体する場所、他の選択肢である<別の機械>を特異的な仕方で設置する場所、そんな場所にあるのだ」。

だとすれば、宗教学的なアプローチで迫っていく「聖なるもの」、「目に見えないもの」の核心は、宗教学とは全く次元が異なる領域からしか得られない。
内部で「閉塞感」を抱いていた理由は、ここにある。
つまり、スピリチュアリズムが本当にある種の不気味な力を発揮するのは、研究しているうちに「外部」の思考をシャットアウトしてしまう、なにか渦状の吸引力が働くという点である。
これが、領土でツリー状の麻痺的思考回路を構築してしまう最大の要因だ。
こうした閉塞感を打破するためには、「聖なるもの」、「目に見えないもの」の概念を、位置ズラシして、すなわちスピリチュアリズムや宗教学の領土から「脱領土化」して、他の視点からリゾーム状に同じコンセプトを分析してみるべきだろう。

いずれにしても、ガタリ的分析に基けば、「神」は「記号機械」から編成された人類の「無意識」の産物であるに過ぎない。
この一言が、キリスト教神学はおろか、現代スピリチュアリズムの根幹を破壊するだろう。
だが、「信」というのは、精神分析学的な解体によって幕を閉じてしまうようなものではない。
結局のところ、ガタリの拠り所も精神分析学にある以上、彼はそれを「信じて」いるのである。


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