† フランツ・カフカ †

カフカの『城』の主人にまつわるジェネアロジー



カフカの「城」はどこにあったのか?
これは、実は文学の内部で生起しているある神秘主義の系譜に位置している。
これについての国内における最も前衛的な作品は、円城塔の『つぎの著者に続く』の本編テクストと、その重要な「註釈」のテクストである。
我々はこれまで多用な形式で『城』を読んできたはずだが、ここで一度、改めて問わねばならない原初的な問いに立ち返る。
「主人とは誰か?」
すなわち、カフカの「城」の城主であり、不在であるがゆえに強烈な存在感を発揮するあの謎めいた貴族は。
このページでは、この人物をめぐる私なりのアプローチを紹介しておく。

実は、多くの作家が「隠された方法」によって、カフカの『城』の「主人」について記している。
例えば、モーリス・ブランショは『私についてこなかった者』の中で、以下のように「主人」についての、捉えがたい残像を記している。

「私はどんな動きもしようがなかった。
私は振り向くことなく、自分のいる場所に階段があるのに気付いた。
6、7段あって、低く、力強い印象を与える丸天井へと続いており、その下で階段が旋回していた。
いまや私の見たものは私の同伴者に答をもたらした。
その姿が、そこにあった。
それは動かず、ほどんと目を逸らしているように私には見えた。
そして私が見つめたとき、それは階段の最後の段をのぼりつめ、姿を消す準備をしているような感じがした。
最後まで成し遂げられないその動きは、その存在に新しい真実を与えていた。

そして私たちを隔てる何歩かの距離は、それを驚くほど近いものにしていた。
常軌を逸したほどの近さとみえたものが、遠ざかりの恐慌状態だったことに気付いた先ほどよりも近いものに」



このテクストで記されている「おぼろげな影」が、『城』の「主人」であるという記述に私はこれまで出会っていない。
これは、いわば私がイメージを連結した結果なのだ。
私は今、カフカの『城』の「主人」の不在を、ブランショの『私についてこなかった者』に登場する「おぼろげな影」のような存在に、代理させて記述しているのである。
ブランショの作中の建造物が持っている「城」的な感覚だけでなく、どことなく双方の作家には似た気質があるからである。
ここで、「主人」についてこの作品から判る特徴を記しておこう。

・あるべき大きさから外れた大きな人間。
・私の視線を狂わせ、ものをしっかり把握するのを妨げる。
・主人が私に残した会話には、「御存知のように、誰もいません」がある。この言葉を贈られた私は、非常に強い感銘を抱く。



主人はやがて私の前から姿を消すが、その時のことについて、ブランショは「消滅に向かっての滑りゆき」と表現している。
おそらく、幽霊のように影に同化して消えたのだろう。
これを目にしたわたしは、「切迫するほどの強い現実感」を抱くのである。





不思議なことだが、ブランショは目の前にいた人物の影が消滅したことで強い現実感、いわば「リアリティー」を復元している。これはどういうことなのだろうか。
ヒントは、デリダの名高い『パ』にある。

来ることへと到来せず、来るとしても到来せず、或いは来ることにも来ることにおいて来るものにも到来せず、“おいで”にも到来しないのだが……」



この部分は、実は極めて重層的な意味を帯びている。
主人は測量士の前にいつまでも現前しない、「おいで」と呼んでもおそらく来ない。
しかしそれは非存在を意味しているのではなく、あくまでも「不在」であり、そうである限りはガブリエル・マルセルがいみじくも語っていたように、「不在であることの現前」の形式なのだ。
城主は現前している、不在というスタイルによって。
まことに幽霊的な存在ではなかろうか。


デリダはブランショの作品について、それを「どのテクストを取っても、その全ての縁は到達不可能な住むことのできない岸辺なのだ」と述べ、そのような物語を「境域」と呼んでいる。
これはカフカの『城』についての最も端的な紹介文でもあるだろう。
地図は用意されている。
だが、目的地がわからない。
資格は持っている。
だが、職場がどこにも現前しない。
このような「不条理」という感覚でこれまで表現されてきた文学は、おしなべて「境域」(デリダ)を形成する。

「物語とは何か?
それは起こる(場所をもつ)のだろうか?
どこで?
いつ?
物語における“起こる”こと、あるいは出来事とは何なのだろうか?」






主人とは、神のアレゴリーなのであろうか?
だとすると、測量士はさながら、神に「遺棄」(E・シオラン)されたかのような存在である。
つまり、彼は仕事の依頼主との対面を内心では求めているはずが、いつまで経っても彼は現前しない。
しかし、測量士のこの共同体内での「孤独」の感情を、実は城主も共有していると考えることもできる。
何故なら、主体性が「孤絶」のさ中にある時、「遺棄」した神は彼と同じような「孤絶」を担っているから。
神は孤独な人間と鏡像的な関係性を有するのである。
だとすれば、おそらく城主も呼んだはずの測量士との対面を望みながら、城の論理に従って彼を可視化することができないという苦悩を担っているのではないか。


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