† キリスト教神学 †

ジャン・パウル「天堂より神の不在を告げる死せるキリストの言葉」から、E・シオランのEssence de l'abandon(遺棄の本質)へ

Cestello Annunciation 1489-90
Sandro Botticelli 《Cestello Annunciation》(1489-90)


【ジャン・パウル「天堂より神の不在を告げる死せるキリストの言葉」について】

 ジャン・パウルが1790年の夏に記した「天堂より神の不在を告げる死せるキリストの言葉」ほど、痛切に人間が神から追放された「孤絶」を表出した作品が存在するだろうか。この作品はパウルが見た悪夢という設定であり、掌編の最後には全てが夢であったことが明かされる。だが、その悪夢で語られる「死せるキリスト」の内的独白は途方も無いほど痛ましいものである。私はカトリックの信徒として、この作品が宿す現代的なテーマの深さに思わず嘆息した。隠喩的に語られているが、これは明らかに現代人に向けられた、「聖性の喪失」、「救いの根絶」を主題化した作品であると解釈できる。
 例えば、以下の「死せるキリスト」の声に耳を傾けてみよう。

「わたしは幾つもの世界を経巡り、幾つもの太陽へ昇ってゆき、また天の河に沿って天の荒野を過って天翔った。しかし、神はいないのである。わたしはおよそ存在が影を落としているかぎりどこまでも下へ降りていって、奈落の底を覗き込み、大声で呼ばわった。『父上、どこにおられるのです?』と。だが私の聞いたものはただ誰に支配されるのでもない永劫の嵐の吹きすさぶ音だけであり、存在の作り上げた仄光る虹が、二児の作り手である太陽もないのに、奈落の上にかかって、滴をしたたらせているのだった。わたしが神の眼を捜し求めて、無窮の宇宙を見上げると、宇宙は虚ろな深淵のような眼窩の奥からわたしを見つめていた。「永遠」は「混沌」の上に横たわり、「混沌」を貪り喰っては反芻していた。――不協和音よ吼え猛るが良い、その叫び声で影らを霧散させるが良い、父上はいないのだから!」(東雅夫編『幻想小説神髄』ちくま文庫、p16)


 ここで告知されているのは、「神はいないのである」という極めて悲劇的な哀しみである。鞭打たれ、もうすぐ絶命しようとしていたナザレのイエスの失意と絶望を、これ程深く表現したものはないだろう。この「死せるキリスト」は、いわば「復活のキリスト」と好対照である。復活したキリストは、いわば悪夢から目覚めて祈りの悦びと信仰を回復した語り手の鑑である。「死せるキリスト」は信仰上での様々な苦難を象徴しているだけでなく、何かに見放されたような名状し難い孤独感(それを忘れるために、我々は休日になると都会の喧噪に自ら駆り出されていくのではなかったか)を表現している。救いはなく、信じるべきものはなく、たとえ信じたとしても、「救われている」という確固たる確信までは絶対に得られないというこの状態を、パウルは以下のように語っている。

「わたしたちは、わたしもお前たちもみんな孤児なのだよ、わたしたちに御父様はないのだよ」(p17)

「この万有の墓穴の中で、誰もがなんと寂しい存在であることか! わたしにはこのわたしより他の連れはいないのだ――おお、父上よ! おお、父上よ! わたしが憩うことのできるあなたの広大無辺な御胸はどこにあるのです?――ああ、仮にすべての自我が自身の父であり創造主であるとしたら、どうしてそれが同時に自身の死の天使でありえないはずがあろうか?……」(p18)


 我々はいつか必ず死ぬ。その時は、必ず「一人」である。つまり、単独者として生まれたように、世界においては単独者として死ぬのが我々の定めである。それを「寂しい」と素朴に表現するキリストは、むしろ我々の感覚に近い。キリストは人間的な感情によって死の恐怖を、神から見放された孤独を、誰も家族がいないという失意を、代弁しているのだろう。だが、それにしても何という恐ろしい悪夢だろうか。

教会の丸天井の天辺には「永遠」の時計の文字盤が取り付けられていたが、そこには数字は記されておらず、その文字盤自体がその時計の指針になっていた。ただ一本の黒い指がその文字盤を指し示しており、死者たちはその盤面から「時間」を読み取ろうとするのだった。(p15)


 この「時間」を読み取ろうとしている「死者たち」こそ、日々慌ただしく都会に駆り出されていく現代人のアレゴリーではないだろうか。「永遠」という時計には、そもそも時刻を示す数字など記されていないのだ。それは我々が作り出したものであり、時間の本質ではないのである。「死せるキリスト」は我々に何かを、日常では忘れている何か最も大切なことを呼び覚まそうとしている。そして、その声が誰にも届かず、自分一人だけが悩み苦しんでいるこの状態に絶望してすらいる。いったい誰が、これほど痛ましい彼に共感しないなどということがあろう。「死せるキリスト」こそ我々の姿であり、この有限なる肉体が滅ぶ瞬間の、老いたる最期の嘆きなのである。
 では、神から見放された「孤絶」の感覚について、我々はどのように克服していくべきなのだろうか。少なくとも、この恐ろしい感覚について極めて深く考察した者は存在する。そう、エミール・シオランである。

Cestello Annunciation (detail) 1489-90
Sandro Botticelli 《Cestello Annunciation》(detail)(1489-90)


【E・シオランにおけるEssence de l'abandon(遺棄の本質)について】

エミール・シオラン(Emil Cioran 1911-1995)の「孤独」についての考え方に、我々の「木漏れ日」になるような重要な言葉を見出したので、ここでこのブログを閲覧して下さっている方に、是非紹介しておきたい。
我々は毎日生きているのだが、何故生きているのか、何故私が存在しているのか、といったことは私の経験ではこれまで、どの本にも根本的に記されていないのである。
確かに、新約ではイエスの口から、「神を愛しなさい」、「隣人を神と同じように愛しなさい」ということが、普遍の真理として伝えられる。
だが、ここで我々は見落としてはならないテーマを見出さねばならない。
「隣人」がいない状態である場合、我々はどうすべきなのかということだ。
「隣人」がいない、というのはすなわち、そこに人がいても自分の「居場所」がない、という状態であり、物理的な「ひとの無さ」ではなく、存在論的な孤独を意味している。
このような苦しみ、このような哀しみに、自ら、立ち向かうということが旧約を通して多くの「預言者」に見出される。
例えば、私の洗礼名である「洗礼者聖ヨハネ」は、教会には属さず、それはおろか、都市にさえ属していなかった。
ヨハネは確かに、「クムラン」の洞窟に属していたとされており、すなわちこれはユダヤ教において最も当時先鋭的であったはずのエッセネ派という「共同体」に属していた。
このエッセネ派が、教義的には「ナザレ派」などと当時呼ばれていた原始キリスト教の原形質になったのである。
ところで、私は洗礼名がその人間に与える力というものに対してこれまで無知であった。
私が「孤独」を感じる時、私は時空を超越して「ヨハネ」に立ち返っていくのである。
すなわち、ここにおいて、初めて私は「ヨハネ」の実像に迫るための何か、非常に禍々しくもあるが豊かな霊性と、対面するのである。

以下に引用するテクストは、シオランの思想として重要な、いわゆるEssence de l'abandon(遺棄の本質)についてのものである。

「何か至高なるもの、例えば神へのbesoin physipue(生理的欲求)は、深いdésolation(哀しみ)に見舞われた時だけ真に現れる。これが、Essence de l'abandon(遺棄の本質)である。私たちが本当に遺棄されるのは、ただ神によってだけだ。人間はせいぜい、私たちを見放すだけである」



このテクストは極めて印象的であると同時に、おそらく荒野に存在していたヨハネの「孤独」を代理的に現出しているとみなすことができる。
「神への欲求」といわず、より根本的な食欲にも匹敵する「神への生理的欲求」とは、tristesse métaphysique(形而上学的哀しみ)によってのみ、真に現れるのだという。
これをシオランは「遺棄」と呼んでいる。
確かに、これは経験すれば、あるいは、そのさ中にいれば感じられるはずだが、実はひとは真の孤独、真の哀しみにいる時、「でも私は神には愛されてる」であるとか、あるいは「でも私は他のあの人には愛されてる」などという発想に、到達「できない」のである。
これが、まさに「遺棄」である。
遺棄というのは、「今は無理だけれど後で使う」とか、そういう物的なレベルにおけるものではない。
遺棄とは、本来、物を捨てること、「不要なので焼却すること」なのである。
例えば、我々は破壊された眼鏡を目にして、それを往々にして遺棄するであろう。
この時、我々を「神」とみなせば、「遺棄」されているのが、「人間」なのである。
シオランの孤独の本質とはまさにこれであり、「神に遺棄されること」とは、極めて突出した、卓越した表現である。

このような、私のことを「遺棄」した神、私を捨てた神に対して、当然のことながら我々は「怒り」や「不満」を抱くのである。
シオランも、以下のように「怒り」を表明していた。

「神への憎しみは、己自身への嫌悪に発する。つまり、私たちは己自身の失墜を覆い隠すために、神を殺すのだ」



ここで注意したいのは、ニーチェ的コンテキストにおける「神の死」と、シオランにおける個人的な宗教的感情としての「神を殺すこと」とは、全く次元が異なるという点である。
ニーチェの「神の死」は、西洋形而上学が終焉に達したということ、すなわちキリスト教的価値規範と結託していた形而上学の歴史が、終わったということを告げるために表現されているのである。
これは、ニーチェの個人的な単なる叫び、なのではない。
そうではなくて、これはいわばロゴスを中心にして構築されてきた西洋の哲学の歴史、及び神学が、終わったということである。
マルティン・ハイデッガーも、ニーチェを「誤って解釈した」として名高い大著『ニーチェ』において、確かに彼を形而上学の「最後のひと」として把握していたのである。
ところで、シオランは「神の死」を、アブラハム・マズローの大文字のReligion、小文字のreligionで表現すれば、まさに個人的、内面的宗教としての、religionの問題を扱っているのである。
ゆえに、シオランにとって「神の死」は、それを殺した個人に跳ね返ってくるのである。
「神の死」とは、すなわち内在平面においては「反射」である。
我々が「神を殺す」ことは、実は極めて容易いが、それによって陥る「無関心」、「無感動」、「霊性の減退」といった事態は、まさに殺した殺害者としての我々に、神の死が「反射」している状態として規定される。
これによって、我々はシオランのいう「神を殺すこと」が、現代世界にとってどれほど重要であるかを理解するのである。
まさに、ニーチェの「神の死」が、「当たり前」となったポスト近代の現代世界において、重要なのは「神を殺した」ことによって、我々が「神に遺棄された」と感じることなのである。
これは、パラドキシカルであるが、実質的に我々の方が、「神を遺棄した」代償なのである。
すなわち、「神に遺棄される」ためには、我々が「神を遺棄する」という、能作が必要である。
シオランは、ここに「哀しみ」を見出し、いよいよ「孤独」の本質に急迫する。

シオランの語彙を用いて彼の考えを端的に示せば、神にl'abandonné(遺棄された者)は、一人で、abandonnement(孤絶)に落ち込む。こうして、神へのbesoin physique(生理的欲求)が起こるのだ。

孤独の極北、極限状態を、シオランは「孤絶」と呼んでいる。
「遺棄」とは、まさに「孤絶」を伴うのだ。
「遺棄」されることで、新たに神への「生理的欲求」が湧き起こる。
しかし、我々は既に「遺棄」されているので、最早どうすることもできない。
だから、我々は「神」を何か「他なるもの」に代理するか、あるいは、いっそう「神」を欲望するか、である。
「孤絶」は、シオランによれば、「自動的にcrée Dieu(神を生み出す)」とされている。
「自動的に神を生み出す」ためには、「孤絶」が必要なのであり、そのためには、「遺棄」されている存在論的な困窮状態が、伴われる。

このような、神と私の関係性を、シオランは深い意味でNiveau spirutuel(霊的水準)と呼称する。
霊的水準とは、私が逆に「神を遺棄する」ことで、神が「孤絶」された超越と化してしまうことも含意している。
すなわち、これは神と私の存在論的な関係性、「持ちつ持たれつ」の関係性であり、「絆」なのである。
最高度の孤独においては、ひとは、最早「わたし」と「あなた」という二つの関係性しか持たない。
この「あなた」は「神」であり、世界には私と神しか存在しないという地平が現前するのである。
シオランのこのような思想は、人間とは何であるかを本質的に問う、真に重要な、多くの現代人が「忘却」している問題であるが、もう一つ重要なのは、シオランが「光」を見出している点である。
彼は一体何に光を見ていたのか?

「書くことは、それがどんなに取るに足りぬものであれ、一年また一年と生きながらえる助けになったからであり、様々な妄執も表現されてしまえば弱められ、ほとんど克服されてしまうからである。書くことは途方もない救済だ」



ここで、シオランはエクリチュールに明らかに「光」を見出している。
書くことは、実はシオランの「孤独」を表出させる空間でもあり、それを書くこと、外化させることで、彼はある種の第三者的な視座に立って自己を読むことができるようになるのである。
書くことで、彼は外化された己を知り、そこで剥離した今の自分との「差異」を見出せるのだ。
神への生理的欲求も、このような作業を媒介にして生起し得ると考える。




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~ Comment ~

☆親愛なる智さま☆

九月から新作を執筆しております。自分の為だけに書くという行為をしている気がいたします。
神というもの魂というもの己というものを 今一度 思考しております。
結局 行き着く場所は 同じ場所でありまして
永劫回帰の夢を何度もくり返しているに過ぎないのだと
思う今日この頃です。
過去も未来も今 存在していて 同じ様な今も 無数に
存在していて 時は動じることなく同じ場所にいて 私たちが
時空をジャンプしているにすぎないのだと考えるようになりました。
[2013/10/10 19:49]  聡子  URL  [ 編集 ]

Re: ☆親愛なる智さま☆

聡子様、コメントどうもありがとうございます。
プルーストはいかがでしょうか?
私も公募に向けて構想を練っています。
聡子様の考えは永劫回帰をテーマにしたボルヘスの詩と通底するような部分があると思います。
これからも御活動頑張って下さいね。
[2013/10/15 08:08]  TOMOHISA  URL  [ 編集 ]















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