† 政治学 †

「一般意志2・0」を成立させる熟議空間についての意見

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by Edward Steichen


現代の民主主義を考える上で、基本的な視点を与えてくれる考え方に、「鏡」と「濾過」という重要なキーワードがある(フィシュキン)。
根本的な次元で、極めて単純に思考するために、ここで「一つの教室」を仮想的に設置する。
教師が、あることを考える。
それは、「この教室にいる生徒に、学校の運営を任せよう」というものであり、それは無論、民主主義の実験のためである。
クラスメイトは50人存在するため、全員が執行委員になることはできない。
一部の、投票によって選ばれた生徒がその教室の意見を「代表」することになる。
当然、この代表は他の生徒よりも学校運営について関心を持っており、なおかつ支持されるだけの信任を得ていなければならないだろう。
このようにして、50人の意見を代表する5人の生徒が選出されたとしよう。
これが「代表制民主主義」である。
代表制民主主義では、選ばれた代表同士がいわば生徒の意見を「濾過」している。
ゆえに、これは「鏡」ではない。
「鏡」というのは、生徒50人全員の声であって、「集約」されていない状態である。

熟議民主主義は、教室を代表する生徒が、なおかつ代表同士で「熟議」することで、共通した見解にまで結晶化していく方法を取る。
フィシュキンは、このプロセスでは、例えば学校に「通えていない生徒」の声を「聞き漏らす」可能性が生じると考えて、50人全員の声を集めつつ、「熟議」にまで至ることはできないか、という立場を取っている。
つまり、代表制では「濾過」にならざるをえない生徒の声に、どのようにして「鏡」となるシステムを吸収させるか、これが現代熟議民主主義の権威であるフィシュキンの立場である。
例えば、世論調査式に、単純に生徒全員の声を集めるだけでは、単なる「鏡」の反射に過ぎない。
「鏡」であることと、「濾過」すること、これを両立させるべきなのである。
そこでフィシュキンは、「無作為選出」によって選び出した「市民陪審員」によって、定められた日に「熟議」を行わせるというdeliberative poll(討論型世論調査)という新しい方法論を提案している。
これは「論」より「証拠」を出そうとする学者からの提案で、非常に生産的だと思う。
頭文字をとって、「DP」ともいわれるが、これについての詳しい内容はここで私が典拠にしている彼の著作『人々の声が響きあう時』では理解しづらい。
訳者が解説で記しているように、映像によって解説していくとスムーズに理解されると思われる。
ここでは、ひとまずフィシュキンの提案した内容が、「鏡」と「濾過」の双方の性質を併せ持つ方法だったということに注目しておきたい。
「鏡」とは、「無作為選出」によって任意に選び出した市民のことである。
本来なら、世論調査で終わってしまうはずの彼らの声に、「討論型」という「熟議」の要素を入れることで、いわば「濾過」の機能を持たせるわけだ。
これによって、バラバラに全国各地から集まった見知らぬ人々が、互いに討論する時間を持つことで、何らかの「共通意見」を醸成させる――フィシュキンは民主主義の理想をここに見出している。
これは原理的には正しいのかもしれないが、その実現に当たってはイアン・シャピロから具体性に欠けるとして批判されてもいる(シャピロ『民主主義理論の現在』)。

しかし、フィシュキンの唱える熟議民主主義の理念は、我々を政治における「合理的無知」に至らせないようにするための解決策を提示しているとも考えられる。
私が注目しているのはまさにそこであり、仮に全国民がフィシュキンのいう「熟議の日」に市民陪審員として駆り出されるような状況になれば(その時は謝礼金が出る制度を作るというが)、政治に対する日頃の見解にも変化が起きてくるように思われる。
ちなみにオーストラリアでは、投票率低下を防ぐために、「強制投票制」が取られていて無投票者には罰金を課すというが、これによって国民の「政治に対する関心」が高まったわけではないという。
以下に記すのは、熟議空間を民主主義的に推進するために必要な五箇条である。
この五つは、今後ウェブ上に東のいう「一般意志2・0」を醸成させるような「熟議空間」が生成された時に、そのスペースがどれほど民主主義的であるかを知るためのリトマス試験紙になるだろう。




「 熟議空間のための五つの条件 」

ここでは、フィシュキンが述べている「熟議民主主義」の基礎としての「熟議」のポイントを紹介しておきたい。

① インフォームド・コンセント(informed concent)

熟議するためには、人々が政治や現状の問題についての情報を高めた上で見解を表明しなければならない。

② 実質的バランス

この考え方に、私は熟議民主主義の一つの美意識を感じる。
そして、これは一般的なディベートでも十分に応用可能である。
実質的バランスというのは、ある意見の提示に対して、その賛同意見だけでなく、十分な反対意見も提示されることである。
いわば、相対的なバランスだ。
例えば、ある政治的内容について具体的な批判が展開されたとせよ。
この時、批判された者が怒って、全く無関係な、その批判者の立場や性格について批判したとする。
これは、同じ批判であっても「実質的バランス」を著しく欠損しており、反民主主義的であるといわざるをえない。
政策内容についての批判には、政策内容についての反論を提示すべきである。
そうでなければ同じ天秤に乗っていない。
deliberation(熟議)の語源は、「天秤などで重さをはかること」なのである。

③ 見解の多様性

これは②と類比的な要素で、いわばある一つの意見だけがスムーズに通ってしまうということに「危険」を見出すべきだということである。
熟議のためには、ある政策について多用な視点から多用な批判が展開されねばならない。
これは、いわば「実質的バランス」のための条件である。

④ 誠実性

ある法案を通すために賄賂を送るとか、政治献金が取り沙汰されるとか、このようなレベルでは熟議民主主義の本質は歪められてしまう。
クリーンな条件下で、誠実な熟議が展開されるべきである。

⑤ 考慮の平等

これも、熟議民主主義が「エリート熟議」とは一線を画する点である。
我々は、往々にして政治のことは政治学者や政治家に任せておけば良いと考える。
仮に我々が発言しても、政治家たちは「素人」を扱うように捉えてしまう傾向にある。
しかし、政治家を動かせるのは民主主義の原理からいって本来的に我々「国民」である。
よって、何か政策が提案されている時に、それぞれの人間の学歴資本、社会資本などによって個人の発言権の多寡がはかられてしまうのは反民主主義的であるといえる。
重要なのは、国民一人一人が自分で検討してみることであり、そのためにそれぞれの人の肩書きや社会的地位などであらかじめ判断されてしまうことを熟議民主主義は批判するのである。


以上である。
この五つは、熟議民主主義の基礎というより、むしろ民主主義の基礎でもある。
ゆえに、「一般意志2・0」を醸成させるための今後の政治学的なコンテキストで、こうした五つの条件を正常にクリアできるか、ということは一つの分析の材料になるだろう。
東は「政府の外部」に、インターネットを前提にした「非コミュニケーションによる熟慮」(ルソー)が成立することを予言し、これを「一般意志2・0」と呼称しているが、私が今取り上げたフィシュキンの「五つの条件」は、まさにそうしたウェブ上の「熟議空間」の根幹を支えるようなものでなければならない。
それは、ネット文化につき物の「ローグアイランド化」といった悪しき現象を生起させないためにも必要である。





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