† 政治学 †

関 良徳『フーコーの権力論と自由論―その政治哲学的構成』

画   像 252

by Albrecht Dürer



私は民主主義について考えることは、政治に対する基本的なアプローチの方法を提供するものだと思っている。
そこで得たものは、それこそ「一生もの」の価値を持っていくと考えている。
このページでは、もう一度根本的な部分にまで立ち戻って、民主主義について考えてみたい。
民主主義について基本的な次元で考えるためには、ある学校を仮想的に設置して、そのある「クラス」に、学校運営を任せればどうなるか、という一つの想像的実験をすると判り易くなると思う。
例えば「南校舎は既に古いので取り壊そう」という一つの案が浮上し、これを多数決によって決めるような状況下を想定してみよう。
50人学級のうち、49人がこれに賛同し、新しい校舎に生まれ変わることを希望した。
しかし、たった一人だけ南校舎は古いまま残しておくべきだといった生徒がいたとする。
この時、「多数決の原則」に基いて基本的に彼の、すなわち少数派の意見は切り捨てられる。
だが、もしこの案が、例えば以下のような場合であればどうであろうか。
つまり、「男性は女性と結婚すべきで、女性は男性と結婚すべきである。同性婚は認めない」というような法案が一つの国家によって検討されているような場合である。
この時、先の例と同じように、やはり我々は少数派の意見を切り捨てるべきなのだろうか?
民主主義が最も先鋭的なテーマを帯びてくるのは、こうした「多数者による少数者への専制」が生起する場においてである。
『フーコーの権力論と自由論』の著者である関良徳によれば、現代民主主義の課題とは以下のようなものである。

「現代民主主義の課題は、公共性の追求と多数者による少数者支配の回避とを同時に成し遂げるためのエートスを構想することである」



少数者の意見を無視した、強制的な合意形成は、ランシエールのいう「不和、あるいは了解なき了解」に陥るだろう。
多数決の原則の厳格な遂行によって、少数者の意見が封殺されてしまうことがここで問題となっている。
したがって、いかに少数者の意見に対して多数者が責任を持って応答していくか、ということが民主主義の要になるのだ。
この「多数者による少数者への専制」について、極めて印象深い概念をミシェル・フーコーが提示している。
これは、現時点で私が最も「民主主義」の定義に近い何か、大きな力を感じるものである。
晩期フーコーは、parrhesia(パレーシア)という古代ギリシアの概念を提示している。
これは「自分の信じた事柄を語る権利」を意味し、これを語った者はパレーシアステースと呼ばれた。
代表的なパレーシアステースには、プラトンがいる。
プラトンはシラクサの僭主ディオニュシオスの政治に対して、プラトン自身が信じる真理を告げて、僭主を激怒させ、奴隷身分にまで失墜した。
これについて、フーコー論の著者である関は以下のように記している。

「プラトンは自らの真理を語ることによって、抵抗不可能と思われた支配的言説からの脱却と真理ゲームへの参画とを同時に果たしている」



このプラトンの情熱は、どこか太宰治の名高い『走れメロス』の冒頭を想起させる。
メロスもやはり、暴君の圧政に「激怒」して、王に対して真正面から批判を展開するのである。
ここには、最早「少数者」であるとか、「多数者」であるという区別すらなく、一人の人間が自らの真理を不正に対して主張するという、極めて勇敢な構図が見える。
これは、「アパシー(政治的無関心)」や、「合理的無知(所詮一票なのだから、政治のことは政治家や識者に任せれば良い)」といった現代ポピュリズムの時代の我々に、何か喚起的な力を帯びてはいないだろうか。
誰もがメロスのようになれば良い、というわけではないが、ここには現に一人の少数者が「政治」の不正に対して直言する、というフーコーの「パレーシア」を読み取ることができるわけである。

フーコーの民主主義論について触れているのは、シャピロが彼の権力概念を重視していたことに基く。
フーコーの「権力」論については、また別の機会にするとして、ここでは彼が実際に行った活動についての民主主義的な意義を紹介しておきたい。
これも、「少数者の意見」を可視化させようとする実践として評価される。
フーコーは、監獄に収容されている囚人の生活が社会にとってほとんど闇に包まれていることに注目し、ここにスポットライトを照射させることを要求し、G.I.P(監獄情報グループ)を識者らと結成した。
少数者とは具体的に誰か、というテーマにおいて、囚人はまさに自ら犯した罪によって監獄で声を奪われている存在として、「少数者」に含まれる。

「監獄についての情報はほとんど活字にされていない。それは私たちの社会システムの隠された領域の一つなのであり、私たちの生活の暗部の一つなのだ」
by フーコー



ここで注目せねばならないのは、少数者は往々にして「多数者と価値や問題の基盤を共有していない」ということである。
つまり、彼らは自分たちのマイノリティなメッセージを表明するために必要なだけの状況下にいない可能性がある。
フーコーはこうした「活字」になっていないparergon(余白)に目をつけ、ここに民主主義的な光の照射を見出したものと考えられる。
ここにもやはり、現代の民主主義が向けるべき「声になっていない存在者の声を拾い上げる」という、マディソンの時代から変わらぬ普遍的な課題があると考えられる。
私が「教室」という民主主義の実験の場を想定した時に、常に「不登校」になったり、「49人賛成で、1人反対の場合におけるその少数者」の方に対する「眼差し」を重要視するのも、そもそも民主主義が「多数者による専制」を回避することにその本質を定義付けていることに依拠している。
これは明らかにナザレのイエスが眼差しを向けた、社会からはみ出した者や、病を患った者、罪を犯した者といった「少数者」に対するアプローチとも繋がる点である。




「参考リスト」

フーコーの権力論と自由論―その政治哲学的構成フーコーの権力論と自由論―その政治哲学的構成
(2001/04)
関 良徳

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