† 政治学 †

「企業」が「国家」を動かすということ~corporativist state(企業的国家)について~

Anthon Wellsjo by Milan Vukmirovic

Anthon Wellsjo by Milan Vukmirovic


川崎修の『「政治的なるもの」の行方』(2010)が面白かったので、ここで紹介しておきたい。
本書で紹介されている学者は多数いるのだが、一番著者が依拠していると思われるのはシェルドン・ウォーリン(Sheldon S. Wolin 1922-)の「ポストモダン・ポリティクス」論だった。
これが非常に勉強になる部分で、これを読む前と今では、「政治学」に対するイメージがコペルニクス的に転回した。
まず、ここでざっと最初に前提として記しておきたいのは、「政治」と「政治的なるもの」というウォーリン特有の二つの異なる概念について。

the political(政治的なるもの)

政府の外部、いうなれば非政治的な領域での公共性を有する秩序。
どの社会にも存在し、権力関係が働いている。
社会学や、経済学などでの焦点にもなっている。
もっと簡単にいえば、これまでの「政治学」が扱ってこなかった領域。
例えば「学校」とか「監獄」とか「企業」、「市場」など。

politics(政治)

純粋な政治的な領域。
国家の政府機能と結び付く、純粋な政治形態。
その活動が社会に大きな影響を与える領域。
近代政治学の中心的舞台。



これまでは、政治学といえば「政治」の方を勉強する学問だった。
でも今、政治学というのは「政治的なるもの」の方へシフトしているので、研究対象も広範囲に人文科学全般と化しているといわれている。
いつ頃からこんな変化が起きてきたのかというと、20世紀終盤からだ。
川崎は、こうした見方が少なくとも1980年代のアメリカの新保守主義陣営において始まっていたとしている。
80年代といえば、アメリカではレーガン、イギリスではサッチャー、日本では中曽根がそれぞれ「小さな政府」を目指してネオリベラルな政策を打ち出した時期である。
一体なにがどうなったのかというと、一言でいえば「これまでの政治」が、中心を失ってどちらかというと「経済学」の原理の方へ浸透し始めてきたということだ。

もっと整然と理解するために、川崎が紹介してくれているキーワードを軸に考えてみよう。
それまでの政治は、political body(政治体)が中心だった。
いわば、state(国家)中心だった。
これは近代政治学でも共通していたのだが、1980年代頃からこれがどうにも揺らぎ始めたと考えられるようになった。
政治体、国家は、共にEconomic Polity(経済政体)と化したといわれるようになったのだ。
「経済政体」という訳語には、「経済学」の面と「政治学」の面を併せ持っているような意味が含まれているが、実際、これは政治が経済の中心的な場である「市場」へ移ったことを意味している。
だから、今「政治学を勉強する」ということは、おそらくルソーやホッブズ、マディソンやトクヴィルといった従来の政治学の古典を学ぶことと並行して、経済学者の本を読むことだと思われる。
むしろ、川崎はウォーリンの理論から敷衍して、「経済学」の領域、あるいは「社会学」の領域の中から「政治」の本質が見えてくることの方が可能性として大きいと述べている。
これは、これからの方針として大切なことだ。

ウォーリンは国家ぐるみのこの「政治」+「経済」=「経済政体」の構造原理のことを、system(システム)と呼んでいる。
システムというのは、以下のようなものだ。

system(システム)

イノベーション、テクノロジーを中心にしたpolitical economy(政治経済政体)のこと。
これはグローバル資本主義に適合して出現した政治モデルで、ウォーリンは「資本主義の再規律化」とか、「生産中心主義」などと表現していたようだ。
いうなれば、システムというのはネオリベラリズムを支えた原理である。
システムの行う政治は、「ポストモダン・ポリティクス」などとも呼ばれる。



こうしたことを、もう少し判り易く語ると、きっと以下のようになるだろう。
それまでは「国」主導の政治で動いていた。
けれど、「国」の持つ土地性、領土性を無効化させてくれるグローバルなネットワークが世界全体に形成されていったことで、「国」の政治は世界経済に大きく依存することになった。
そうした中で、その「国」の中で力を持っている「企業」が、逆に「国」の政策を左右するほどになってくる。
「国家権力」よりも、「企業権力」の方が「政治」を動かす力を持つようになったというわけだ。
現代の政治学では、こうした「企業>国家」の権力を「ポストモダンの権力」などとも呼んだりしているようだ。
このようなわけで、80年代以降のアメリカはcorporate economy(企業経済)化したとか、その政治はcorporate political system(企業的政治システム)などと規定される。

ここで、一つ付記しておくべきだ。
これはあくまでも1980年代以降の、新自由主義に対する批判的考察から把捉したアメリカの姿で、2008年のリーマンショック以降の世界経済の同時不況を経験した現在の視点からいうと、当然また違ったものになってきているということだ。
象徴的な本として、一般読者に向けて書かれた『いまこそ、ケインズとシュンペーターに学べ』(2009)という、リーマンショック以後に東大大学院経済学研究科教授の吉川洋が書いた本は、読んでいくべき本の道筋を与えるものだと思う。
今の「政治学」を学ぶためには、不況状況下での資本主義社会の道筋を明確に示してくれた経済学者の本を紐解くことは大切だ。

さて、ここでウォーリンの「ポストモダン・ポリティクス」の話にもう一度戻りたい。
ポストモダン・ポリティクスを推進してきたことによる一つの反動として、今日の世界不況が現前しているという捉え方は可能である。
それは、資本主義それ自体に内在していたエラーとして、既に予測されたものだった。
だとすると、そうしたきっかけを作る種子を蒔いた80年代のアメリカ政治を分析したウォーリンは、著者がいうように今日的な意味を持っていると思われる。
面白いことに、ウォーリンはポストモダン期のアメリカ政治を「反転した全体主義」と表現している。
そこで、以下にナチス・ドイツとアメリカ政治がどういう点で類比性を持っているかを示しておく。

ナチス・ドイツの全体主義(近代の全体主義)

・強い政治的動員力を持っている
・大企業が国家に支配されていた

アメリカの「反転した全体主義」(ポスト近代の全体主義)

・動因解除/脱政治化(政治は中心原理を失っている)
・資本主義の原動力としてのイノベーションを生み出す企業権力こそが、国家の更なる躍進に繋がる



もちろん、これだけの要素でナチスとアメリカを比較するのはやや軽率に思えるのだが、それでもこうした部分だけに特化してみてみると、確かに見事に「反転した全体主義」となっている。
私はアメリカの企業といえば、世代的なものからかGoogleなどのネット企業をイメージするのだが、これらの企業が一体どれほどアメリカの「政治」に影響力を持っているのかはわからない。
Googleは確かにやっている事業の革新性ゆえに、旧体制に属する企業や組織を擁護する識者からやたらと批判されているように思うが(特にフランスの)、アメリカの「国家」がこれと連動しているとすれば確かに怖いものがあると思う。
ウォーリンはそういった点も含めて、アメリカをcorporativist state(企業的国家)と規定したのだろう。

これを書いていて今思ったのだが、実はリーマンショックが起きて世界不況といわれたり、3・11以前と以後ではもう国家モデルを変えるべきだ、といっているような人々が一方でいるのだが、実はそれでも「競争的な資本主義」の「不死性」をあくまでも信じる識者は存在している。
だとすると、なおさらウォーリンのいっている「経済政体」概念や「企業的国家」モデルは現在も有効だということだ。
その証拠に、シュンペーターが提唱した資本主義を導く主要概念としての「企業家」の機能、「イノベーション」、「創造的破壊」、「競争」の重要性などは、そのまま「企業国家」モデルに内包できる概念ばかりである。
そして、今シュンペーターが再評価されているということは、やはりどのような震災や経済ショックが起きても、日本はこうしたモデルを描いていかないと本当に世界経済から「取り残されてしまう」ということを意味している気がしてならないのである。

以上、川崎のウォーリン観を中心にまとめてみた。
この他にも、「政治」の持つ「権力」のレベルで参考になった点などもあって、本書には本当に勉強になる。
「権力」の問題は、フーコーの「権力」論を読んでまとめたノートと共に、少しずつ堆積しているのでいつかまた自分なりにここに掲載してみたいと考えている。


「政治的なるもの」の行方「政治的なるもの」の行方
(2010/07/28)
川崎 修

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