† 政治学 †

福祉国家の罠ーーF.A.ハイエク『自由の条件』読解(1)

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by Steven Klein


私は以前まで、ただ単純に福祉国家的な体制にシフトすれば、多くの人の暮らしは少なくとも改善され、公共施設も充実し、より豊かで、高齢者にも出産を控えた女性にも優しい社会になるのだろうな、と楽観的に考えていた。
これがどれほど無謀で、致命的なほど浅薄な考えであったのかということを、私は今ハイエク全集や、古典的自由主義の見地から福祉制度について論じた本などを読む過程で、実感している。
私は現在、福祉国家は極めて危険である、という考えに至っている。
世界不況や、3・11以後の復興支援政策などで、「福祉精神」が美化されているきらいがある現在の日本だが、これがもしこのまま「福祉国家」にまで至れば、一体どれほど危険であるかということを私はこれまで考えてもみなかった。
ハイエクも述べているが、福祉制度は必要である。
不必要なのは福祉国家であって、つまり「大きな政府」になって中央集権化し、市場に大きく政府が介入してくることをハイエクは危険視している。

ハイエク全集は、2000年代になって新装版として刊行が開始され、今でも続いている。
今年八月には、「蘇るハイエク」的な紹介本も出るようだ。
私はこのブログの「政治学」のカテゴリーで、これまで「民主主義」の観点からできるだけ、読んで下さっている方に私が「重要だ」と感じたポイントを巧く伝えるように努力してきた。
読まねばならない本は沢山あるが、少なくともハイエクとの出会いは、私にとって極めて重要な収穫であり、この良さはどうしてもブログで報告せねばならない。
ハイエクは今、改めて再評価されつつあるばかりでなく、『自由の条件』を読んだ私の感想でいえば、これからの未来社会を考える上でも朽ちることのない思想を与えてくれる。
ハイエクやM・フリードマンについては、市場原理主義の権化のように敵視する人々は今でもいるだろうし、私もつい最近まで彼の著作すら読まずに勝手にそう決め付けていた。
このまま知らない状態でハイエクを「ネオリベ理論家」のように安直に規定していく自分がいたかと思うと、怖ろしい。
ハイエクはそもそも、市場原理主義者ではない。
彼はレッセフェールを批判しているし、市場が十分な競争をすることを重視しているが、暴走を制御するために一定の介入は必要だと考えている。
また、福祉にしても、福祉「国家」を批判しているのであって、福祉「制度」まで批判していない。
福祉国家が批判されている理由については、以下に書いていきたい。
いずれにしても、私はハイエク全集に出会ったことで、今後の政治や経済を見る上での視座を提供されたと考えている。

例えば、今ここにAとBという二人の成功者がいる。
Aは貧困層の出身で、苦学の末に医者になった。
一方、Bの家は家系が医師で、病院を継ぐという形式で医者になった。
どちらも素晴らしい医師であるが、一般的な傾向として、我々はエピソード面ではAにより同情する傾向にある。
ハイエクも『自由の条件』でこの点を何度も例にしている。
生まれながらに貴族階級に属し、ほとんど働く必要もなく生涯芸術に身を捧げた人間は世界史にいくらでもいる。
他方、働きながらこつこつ創作し、生前は認められなかったが死後になって名声を高めたようなタイプの芸術家もいる。
我々は、ただ彼らの「作品」を評価するのであって、貴族の芸術家が「贅沢」であるという理由で憎まれることは不条理である。
というのは、生まれながらに資産を持っているひとは、生まれてくる時にそれを勝ち取って生まれてきたのではないのだ。
これはM・フリードマンも『資本主義と自由』の中でわかりやすく説明しているが、例えば今広大な海原の上に三つの島が浮かんでいるとしよう。
一つの島は大きくて、食べ物も自然になっている豊かな場所だ。
残り二つの島は小さくて、食べ物は少なく環境も砂漠が多く厳しい。
A、B、Cという人間が、それぞれこれらの島で生まれたとする。
Aは大きな豊かな島で生まれたので、十分食べていける。
しかし、BとCは必死で食べ物を探さないといけない。
この時、Aには二つの選択肢がある。
一つは、自分の豊かな島にBとCを招くことだ。
Aは大変立派な人物で、「福祉精神」に溢れている。
しかし、はっきり書いておくが、Aは別に豊かな島を勝ち取って生まれてきたのではない。
たまたま生まれたら他の貧しい島に較べて豊かというだけの話である。
Aには、当然BとCに何も分け与えない選択肢も存在する。
分け与えないからといって、一体誰がAを批判できるだろうか?
どちらもAの「自由」であり、そこにはいかなる「強制」も「権力」も働くべきではない。

これと同じことが、実際の社会にもいえる。
資産を多く持って生まれた人間と、貧困層で生まれた人間を経済格差面で強制的に「平等」にしてしまう論理は絶対的に民主主義に反している。
もっと別の例でも考えてみよう。
今、私とあなたは同じ教室で期末試験のために勉強しようとしている。
私は限りなく怠惰で、あなたは極めて優等で勉強熱心だ。
テストの結果は、私が5点で、あなたが98点で学年首位であった。
あなたは勉強した結果を噛み締める、「努力して成果を出したこと」の素晴らしさを実感する。
一方、同じ機会を与えられながら無為に時間を過ごした怠惰でのんきな私は糾弾に値する。
だが、あなたは翌日衝撃的なことを担任教師から報告される。
「この学校では、平等主義の教育理念に基き、優等生も落第生も皆、同じ成績にします。つまり、98点だったあなたと、落第生の彼の点数を足して2で割りそれぞれに均等に再分配することで、平等で自由な素晴らしい学級にしていきたいと思います」。

ハイエクの「平等主義」批判は、おそらく上記の説明で一番大切な根幹の部分は言い尽くされていると思う。
同時に、これはハイエクの「累進課税」批判でもある。
累進課税では、多くの収入がある人から多くの税を取る。
他方、比例課税では一律の税率を全てのひとにかける。
累進課税では、一見「平等主義」が実現されている「かのように」見える。
社会制度は、本来助けを求めるほど貧しい人を救済するためにある。
ハイエクはこういう貧しい人には、確かに支援制度が必要だといっているし、見殺しにはしないと考えている。
だが、危ぶまれているのは、こうした社会保障が、いつの間にか「万人平等主義」を支持する人々の、「所得再分配」を正当化するための手段にすりかわっていくプロセスである。
本当に貧しい人を助けるための支援制度と、単なる平等主義者の「格差是正」主義には厳密な差異がある。
ハイエクは、私が読んで実感することであるが、そもそも「格差」を尊重している。
人間は生まれながらに個性も才能も能力もそれぞれ異なっているので、当然社会においてもそれに起因した様々な格差が出てくる。
悪しき平等主義は、全ての個性を均等化し、必死で頑張って「結果」に結び付けた人の「競争意欲」を殺ぐ。
競争に負けて、自分を敗者だと決め込むような人間は、ただ彼がその環境に適合していなかったというだけの話であり、彼は新しい競争のフィールドで自分を試すべきである。
資本主義社会では、適者適存でかつ成果・実力主義であり、消費者が「買う必要なし」と判断すれば売れないように、その環境に合っていなければ淘汰されるだけである。
「所得再分配」は、ハイエクがいうように、豊かな一部の貴族階級から乱暴に税をかすめとり、大多数の人々と足並みを揃えさせようとする、悪しき平等主義に染まっている。
ハイエクから影響を受けつつ福祉制度との接点も摸索した橋本裕子の『リバタリアニズムと最小福祉国家』にあるように、どの階層にも一律の税率をかける「比例課税」にすべきである。
そうでなければ、民主主義の原則である「少数派の意見の尊重」が侵害される。
富裕層は、ただ資産を多く持つという理由だけで一般市民から妬まれ、富裕層の子息が成功したりすると「どうせ二世だ」などと揶揄するのが常であるが、これらは著しく反民主主義的で、まさに「平等主義の帝国」のような印象を与える。
十分な教育に恵まれ、何不自由なく上位のポジションについた人間も、結果的には社会的な利益のために還元されていく。
先の無人島の挿話にもあったように、「生まれ」の良さにまで平等主義で切り込むことは、どのような場合であってもけして許されるものではない。
ハイエクは適切に以下のように断言している。

「大切なことは、窮乏を防ぎ福祉の最低水準を用意する義務を社会が受け入れるという事態と、あらゆる人の公正な地位を決定する権力を想定して一人一人にその相応しいと考えるものを割り当てるという事態とを、区別する線に明確に気付くようになることである」



つまり、本当に貧しい人のための「福祉制度」と、全ての人をただ均質化するだけの平等主義的な「福祉国家体制」とは、全く異なるということである。
ハイエクが福祉国家を批判するのは、それが必然的に「大きな政府」を前提にせざるをえないからだ。
福祉国家では、当然社会福祉制度のサービスが質的に極めて充実していて、皆が快適にユートピアのように暮らせるだろうと我々はよくイメージする。
だが、こうした高福祉は、一般的に社会でよく使われるハイリスク・ハイリターンを前提にしている。
つまり、それだけ巨額の税金を国民が負担することで社会福祉は実現されるのだ。
その税金はどこへ集まるのか?
当然、公共財などを配備する力を持つ政府である。
社会福祉の質を高めるためには、できるだけ格差を是正する必要があるので政府は自由市場にも強力な規制を行うようになる。
すなわち、「大きな政府」は中央集権化していく。
同時に、社会制度の実現のために必要な法案は膨大なものになっていく。
法の複雑化は、個人の自由を侵害する「法化」に繋がるとして避けるのが基本である。
このように、「大きな政府」の問題点は、自由な市場に介入することで企業の競争に規制をかけることである。
また、競争しても国家がどうせ福祉政策を実施するという理由でインセンティブを減退させる市民も続出するだろう。
これらは全て、ハイエクが基礎とする「個人的自由」を侵害する。
すなわち、「福祉制度」は最小限度であれば許されるが、もしそれが「国家体制」にまで至れば、間違いなく政府の力は肥大化し、個別的な自由を求める権利を侵害してしまうのである。
以上のようなコンテキストから、ハイエクは「福祉国家」、「社会主義国家」、「全体主義国家」、一言でいえば「大きくなり過ぎた政府」を徹底的に人類の恥ずべき敵として危険視する。

このようなハイエクの主張は、3・11以後の文脈で「復興支援」と称して政府に「福祉国家」体制的な力が宿ることを未然に防ぐためにも極めて重要である。
ハイエクの思想からすれば、前回私が紹介した『資本主義はなぜ自壊したのか』などの本が記している内容、つまり「大きな政府」にして資本主義とは別の国家体制へシフトしていくべきだとするような主張は、到底容認されるものではない。
私は、ハイエクの『自由の条件』を読んで、「福祉制度」や「福祉国家」という言葉が持つ魔法に近い「誘惑」に、簡単に乗せられないための視座を獲得した。
これは今後、私にとって強力な武器になると確信する。
「自由」は、資本主義において最も効率よく万人に与えられると私も考える。
そのためには「市場」の活性化、つまり「競争」と「イノベーション」を基礎にした「起業家」の役割が重要だというシュンペーターの概念は常にその根幹を支えるものである。
平等主義は、貧しい人にパンを与えよというイエスの教えに忠実である。
しかし、必死で他の人より頑張った人に、全く働かない無能な人間と同じ量のパンしか与えない。
これこそ、最大の悪である。
神は全ての人に「平等な機会」を与えるのであって、「平等な結果」まで与えない。
ハイエクを代表とする古典的自由主義者たちは、「平等な結果」まで与えることに発展しかねない全ての社会制度を木端微塵に解体することで、現代人に真の「自由」とは何かを力強く語ってくれる。
ハイエクの『自由の条件』は、かつて精神的な自由を聖書の教えが与えたとするならば、これからの人間の精神的な、及び物質的な自由の条件を教えてくれる最大の「福音」である。
それは字義通り、真の福音であり、司祭が甘言で惑わして信徒を盲目にさせる全てのヴェールを剥がし、この世界には「平等」など存在しないことを衝撃的に告知する。






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