† 政治学 †

近未来の日本社会としての、minimal welfarestate(最小福祉国家)の可能性

Andrej Pejic by Mert  Marcus        Rive Gauche et Libre

Andrej Pejic by Mert Marcus


古典的自由主義の理論は、現代の政治を分析する上で極めて有効な力を持っていると考える。
ハイエクの記事でも述べたように、基本的に古典的自由主義は政府の権力を最小限に抑え、市場の競争原理を活性化させることを重視する。
福祉政策については、ハイエクはどうしても救済が必要な衣食住すら確保されていない貧しい人々への支援は必要だが、体制そのものが「福祉国家」化することを危険視する。
この、古典的自由主義と「福祉」というテーマは、おそらく極めてラディカルな議論の可能性を孕んでおり、なおかつ未来の日本社会を考える上で重要だと思われる。
このテーマについて重要な示唆を与える本に、橋本裕子の『リバタリアニズムと最小福祉国家』がある。
本書は現在、私が最も信頼を寄せている本であり、これを出発点にして私は今後の政治動向を眺めていくつもりでいる。
ハイエクの『自由の条件』を読んで、私はハイエクが最もラディカルに見えるのは彼の「社会保障制度」に対する批判部分(例えば累進課税批判など)であると強く感じていた。
語弊を招かずに述べれば、ハイエクの思考はどちらかというと現状の国家システムに対する徹底的な批判を核にして進められている感が強く、当然そのメス捌きが鋭い箇所ほど読解がスリリングになる。
『リバタリアニズムと最小福祉国家』も、政府の現状を見据える上で透徹した「理論」を用意する点で極めて有効な本であり、ハイエク全集と並んで重要である。

この本でテーマになっている内容は、実はハイエクが『自由の条件』で提示していた各章ごとのそれぞれのコンセプトと類似している。
著者も実際に古典的自由主義の立場から福祉政策のあり方について迫る、というアプローチを取っている。
つまり、ハイエクが理論を厳密に用意したとすれば、彼女はそれを今の日本に適用できるテーマに先鋭化させ、尚且つそのために必要な理論的背景を読者に提示したといえるだろう。
ハイエクを「理論」、本書を「実践」と考えても良いだろう。
それでは、『リバタリアニズムと最小福祉国家』では一体どのようなことが主張されているのか、極めて有益なので是非このブログの読者の方々に紹介しておきたい。


1 R・エプステインの「制限された政府」


R・エプステインは、ハイエクの「進化論的合理主義」(デカルト的な理性主義を批判する)に立脚している。
つまり、「自生的秩序は様々な目的を持つ諸個人の自由な目的追求活動の中から自ずと形成される」としている。
エプステインが提示している「制限された政府」の基礎コンセプトは、以下の二つである。

・最小限の福祉供給のみを認める(累進課税→比例課税)
・自由市場は放置していると上手く機能しなくなるので、法的枠組による保護が必要である



実はこれは、ハイエクが『自由の条件』で述べていたことの通奏低音としてあるものだ。
ここから、エプステインの「制限された政府」の構想はハイエクに大きな影響を受けていることが判る。
エプステインが現代の福祉国家をエラーだとみなすのは、それによって国家の介入が経済、社会領域にまで強く及ぶ点と、様々な福祉サービスの提供のために必要な法が「複雑化」する点である。
これは個人の自由を侵害する「法化」を招くとして批判されている。
エプステインは、法が十全に機能するためにはシンプルで単純なルールが必要だと考えている(Simple Rules for a Complex World)。
法がシンプルで単純化することで、政府の介入を最小限に留め、権力の集中を防止できるのである。
本書のタイトルにもなっているminimal welfarestateは、この「制限された政府」に依拠している。

制限された政府」とは?

「政府の活動を限られた範囲内においてのみ認め、可能な限りどの領野でも市場における民間企業との競争にさらすことを通じて、その効率性を確保しようとする」



これはまさにハイエクが主張していた政府のあり方そのものである。
ハイエクは社会保障制度を認めているが、政府の権力が肥大化して中央集権化を招く福祉国家型「大きな政府」を回避する。
「制限された政府」では、累進課税ではなく一定の税率をかける「比例課税」を重視するという点でも、ハイエクが『自由の条件』の社会保障制度について述べていたことと一致する。
また、公共財の配備についても、別にそれが政府の仕事と決まったわけではない。
政府の公的部門を私的部門の民間で供給するという手段も存在するのである。
政府が担っている仕事を、可能な限り民間に譲渡することで、民間の競争力を向上させ、市場を活発化させる狙いがここには働いている。
ここでも理論的な支柱になっているのが、ハイエクの「公共心は政府行動に対する要求やその支持を必ずしも意味する必要は無い」という考えである。
公共財を民間でも配給できるようにする、というコンセプトは小泉内閣の「郵政民営化」のように「官から民へ」権力を譲渡させる「小さな政府」作りのために必要な課題である。

「効率的な公共財の供給を追求するなら、政府も一つのサービス供給主体となって市場で民間企業と競争しなければならない」




エプステインの「制限された政府」という考え方は、このようにハイエクの問題化したテーマを内包している。
主としてあるのは先述してきたように、累進課税から比例課税へ変革すること、国家の介入を回避するための法律の単純化、そして公共財を「独立部門」に譲渡するということである。


2 福祉国家が依拠する平等主義の誤り
 

次に、著者が規定する「福祉国家」の定義を以下に引用しておく。

「所得の再分配と完全雇用の達成を通じて、社会における実質的平等の実現を目指す国家介入を不可欠な要素とし、かつそれを自明のこととする政治的・社会的コンセンサスを獲得してきた国家」



この時点で、既に二つの重要な注目点が存在する。
一つは、「実質的平等の実現を目指す」ということ。
もう一つは、「国家介入を不可欠な要素」とするということ。
ハイエクは特に国家介入によって「個人的自由」が侵害されるリスクが高まることを最大の危険と捉えていたが、著者は福祉国家が依拠するegalitarianism(平等主義)という理念そのものの問題点を指摘している。
これは、政治思想の根本部分に関わる重要な点だ。
平等主義とは、「大きな政府」を掲げる政治思想が依拠する理念である。
無論、これには多義があるが、政治理念としては「福祉国家」と結び付く。
一言でいえば、「法の下の平等」と、「分配における平等」を目指す「財の分配」に基いている。
実は、平等主義には二通りある。

平等主義の二類型

目的論的平等主義 … 人々の暮らしが全てのレベルで等しく同一化されるべきである。
義務論的平等主義 … 何らかの人為的な原因から生じた不平等な出来事のみが問題になる。



この中で古典的自由主義の立場から批判されているのは、特に目的論的平等主義である。
全ての人間の暮らしを等しく同一化する(そのようなことはロボットの組織した国家でない限り不可能ではないだろうか)、これに福祉国家賛成派の論客は依拠することが多い。
目的論的平等主義はいわゆるLevelling Down Dbjection(レヴェリング・ダウン批判)を招いている。
これは、優位の能力を持つ者まで平均的な水準にまで劣化させる危険を持つという批判である。
目的論的平等主義は、明らかに所得再分配による平等主義を正当化するための理念として結び付く傾向を持ち、上記のように火を見るよりも明らかな致命的な本質的欠陥を孕んでいる。
続いて、義務論的平等主義だが、これは何らかの不正が起きた時にある人が依拠する平等主義の立場であって、福祉国家の依拠する理念としてはあまりにも弱すぎるのは明白である。
このように、福祉国家の理念的な背景として描かれてきた「平等主義」は、どれも著しく有効性に欠けていることが判る。
では、仮に福祉国家を認めるとして、それは一体どのような理念に依拠すれば良いのだろうか?
D・パーフィットは、ここで平等主義を排して、prioritarianism(優先性主義)を提示している。
優先性主義とは、「より暮らしの悪い人々に対する利益には、より大きなウェイトが与えられて優先されるべき」という立場であり、衣食住の危ぶまれる絶対的貧困を対象にしている。
そういう極端に貧しい人々を優先すべきで、全ての人の平等ではない、という点で従来の平等主義とは一線を画する。
同時に、優先性主義に基けば、レヴェリング・ダウン批判を回避することが可能である。
ここで著者が指摘しているのは、実は多くの人は「平等主義」を「優先性主義」の意味で用いているということである。
確かに、絶対的貧困に喘ぐ者を優先して救済すべきとする意見には正当性がある。
それは平等主義ではなく、あくまでも優先性主義であり、彼らは万人の同一化を目指しているわけではないのだ。
だとすると、ここで福祉国家の依拠する平等主義は、実質的には優先性主義によって代理されているという構造が露となる。
優先性主義は、繰り返すが極端に貧しい人に対する救済を否定しないハイエクの古典的自由主義の態度とも接点を持つ。
すなわち、実は「福祉国家」の基礎理念である「平等主義」は、それが「優先性主義」の持つ実践的な有効性によって賄えると国民に納得された時点で、最早何の意味もなさなくなるのだ。
何故なら、古典的自由主義的な「制限された政府」でも、「優先性主義」は取り入れられるからだ。
こうして、福祉国家が土台にしていた平等主義の幻想が崩壊したことで、実は福祉「国家」が、「小さな政府」の福祉「制度」として十全に機能すれば、それで賄われるという構図が立ち現れるのである。

しかし、著者はハイエクの「個人的自由」の概念により近接したdoctrine of sufficiency(充足性のドクトリン)を提示している。
これはH・フランクファートの唱えた概念で、「優先性主義」よりも根源的なレベルで「自由」とは何かに急迫している。
充足性のドクトリン、あるいは充足性主義とは、以下のようなものである。

「全ての人々が同じ額の所得や金銭を持つことが、望ましいとするeconomic egalitarianism(経済的平等主義)を批判し、経済的平等それ自体は道徳的に重要な価値ではないと主張する」


sufficiency(充足性)とは何であるか?
それは以下のように規定されている。

「他人との比較によることなく、自分がどういう人間であり、何が重要なのかを見極めることの価値を表現する」



これはつまり、どれほど貧しくても「自由」な人間もいるし、どれほど富裕でも「不自由」な人間は存在するといった、ハイエクの『自由の条件』の前半基礎部分と重なる。
重要なのは、その人それぞれが「選択」したり、あるいは偶然性によって(神の導きによって)獲得したり失ったりした全てのものを認め、それで自分を立てるということであって、経済的平等それ自体は問題化されない。
この充足性のドクトリンに依拠すれば、最早「福祉国家」でなければならない理由などどこにもないことに気付くはずだ。
フランクファートは、「優先性主義」を提示したパーフィットと共通する以下のような考えを持っていた。

「問題とされるべきなのは、絶対的な貧困レベルであり、所得格差の是正は道徳的に重要ではない



これはA・バーリンの「消極的自由」の概念ともリンクしている。
バーリンについては、既に研究書を二冊読解して基礎コンセプトを掴んでいるので、またページを改めて焦点を当てたいところであるが、ここで概略程度にバーリンの「消極的自由」の概念にも触れておきたい。
バーリンが重視し強調する「消極的自由」とは、「共通尺度のない自由の多様性からなっている」ものであって、選択による自己創造性という意味合いを含んでいる。
一つの、何か自由のメヤスになるようなものが存在する時代は終わったのであり、現代はそれぞれのマルチチュード化された主体がそれぞれの「個別的自由」(ハイエク)を選択的に掴み取っていく時代なのである。
そう考えると、まさに現代は「消極的自由」がテーマとなる時代として規定される。
このバーリンの自由概念を裏付けているのが、彼のこれも名高い「価値多元論」である。
価値多元論とは、複数の善が同じ世界に共立していることを認める立場であり、いわば「good with good(善と善)の衝突」(ヘーゲル)を当たり前の前提として容認する考え方である。
「一なるものとしての善」の時代は終わり、現代は「多くの善が競合しつつ、合理性に達することもなくむしろ善同士が結合し得ない」ことを前提にしている、価値が多中心化された時代なのである。
バーリンと思想面で共通点が多いジョゼフ・ラズの言説を借りれば、「共通尺度が欠如しているところには、究極の真理がある」。
あるいは、より端的に以下のようにも示されよう。

「価値ある選択肢に直面し、その一つを選択するのに成功した時、ひとは他のものではなく一つの生き方を選んだに過ぎない。両方とも良いし、どれだけ良いかを比較できるものではない」 by ラズ



ハイエクの「個別的自由」、フランクファートの「充足性のドクトリン」、バーリンの「消極的自由」は、どれも本質的には極めて近い概念を述べている異表現としても受け取れる。
バーリンが重視した消極的自由は、そこに経済的条件を付帯させることをシャットアウトした上でしか成立しない。
何故なら、バーリンが述べているように、「自由である時にひとは何のために生きるのか? といった問いを発する必要はない」からである。

以上、見てきたように現代世界にとっての「自由」の概念は、けしてかつての社会主義体制のような「平等主義」に根差したものであるべきではない。
それは所得格差といった経済的次元に還元できないからこそ深遠な伝統を構成してきたのであって、これに基礎を置く限り、「福祉国家」という体制に思考が繋がる、ということなどそもそも生起する余地がない。
ハイエクの全集の新装版、更にバーリンの研究書の刊行が最近増え始めていることを鑑みると、彼らはまさに「今の世界」を読み解く鍵となる人物たちとして再評価されているのである。

著者は、結果的に「優先性主義」を重視しつつも、ハイエクが「個別的自由」の概念の伝統、すなわち古典的自由主義から外れなかったように、やはり「充足性のドクトリン」が、ソーシャル・ミニマムを保障する福祉国家の基礎付けとして最も有効だと主張する。
ソーシャル・ミニマム――つまり制度的にシンプルな「小さな政府」が立脚する基礎付けとして、「充足性のドクトリン」が位置付けられているわけだ。
換言すると、著者がいう「最小福祉国家」とは、まさに「充足性のドクトリン」に基いた、市場の競争原理を重視する「制限された政府」(小さな政府)なのである。
無論、これは救済が必要な人間を優先する、パーフィットの「優先性主義」と両立しないものではない。
本書にはまだまだ有益な操作子が存在するが、このページでは最後に「最小福祉国家」の意味について記しておく。
これは著者である橋本裕子女史がハイエク、フランクファートなどを吸収して古典的自由主義の立場から「福祉政策」のあり方について考察した上で導出された国家モデルである。
これは、「人が生存するために必要な最小限の福祉のみを与える国家」である。
それ以上の過度な福祉政策を許容すると、政府が大きくなって弊害が生じることを説いたハイエクと、それでもやはり「福祉政策」は見過ごせないという著者の女性的な「寛容」の精神が、まさに結晶化されたモデルであると私は考える。

「minimal welfarestateの基礎コンセプト」

・自由市場原理の優先(政府の介入は最小に制限して可能な限り競争を活発化)

・福祉政策の基礎理念としては、フランクファートの「充足性のドクトリン」を用いる。
絶対的貧困レベルにある人には、パーフィットの「優先性主義」によって優先的に支援する。
つまり、この二つの枠内での移動のみを許容し、「目的論的平等主義」を常に回避する。

・累進課税→比例課税へ







リバタリアニズムと最小福祉国家―制度的ミニマリズムをめざしてリバタリアニズムと最小福祉国家―制度的ミニマリズムをめざして
(2008/01/24)
橋本 祐子

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