fc2ブログ

レオン・バッティスタ アルベルティ『絵画論』


絵画論絵画論
(1992/10)
レオン・バッティスタ アルベルティ

商品詳細を見る


アルベルティにとって、「美」とは、「何物も加えたり、取り除いたり、直すことの出来ないようなあらゆる部分の整然とした調和体」である。したがって「美」は、各部分が統一された調和である。定められた数、定められた関係、一定の秩序にしたがって構成されているが故に、それは眼に至上の快を齎す。
アルベルティの『絵画論』は、ルネサンス絵画の指導的見解であった。
レオナルドも、彼のプログラムに則り、そこに自らの体験を織り込んで彼自身の絵画論を展開した。
また彼は、アリストテレスに依拠して「白と黒」は色彩ではないと考えていた。
原色は「赤・緑・空色・灰色」の四色で、「白」とは最も強い光、「黒」とは最も強い影である。
そして原色をこれら光と影に混合させることで、無限に豊かな色彩が生まれる。

<絵画とは何か>

「絵画は、友情がそうであると同様、不在の人を出現させるばかりでなく、死んだ人を、ほとんど生きているかのようにする神のような力を持っている」

「絵画があらゆる芸術の主人であることを、また少なくとも、ささいな装飾だけではないということを誰が疑おうか」

「絵画が全ての芸術の花であるとすれば、ナルキッソスの物語こそ、そっくりそのまま、これにあてはまるのである。絵画を、泉の水面に映ったものと同様に、芸術的なものでないとどうしていうことが出来ようか」

<絵画と優美さについて>

「絵画は、そこに描かれている対象に適った和やかで優雅な動きを有することが望ましい。処女たちの動きや姿勢は軽やかで簡素に満ちているものであり、強壮さよりむしろ穏やかな甘美さがほしいものである」

<光と影の力について>

「私は、あらゆる面におけるあらゆる光と影の力をよく理解していない画家を、ほとんど常にぼんくら画家と考えている」

「というのは、光と影とは物を浮き上がったように見せるからである」

<幾何学的画家について>

「画家ができるだけ全ての学芸に通じているのは好ましいことであるが、まず第一に幾何学を知ることを私は望んでやまない」

<美の探究について>

「完成された美というものは、ただ一つの身体のうちに見出されるものではなく、数多くの身体のうちに分散して、稀少なものである。したがって、美を発見し探究するためにはあらゆる労力を注がねばならない」

<歴史画について>

「歴史画こそ画家の至高究極の仕事である以上、その中には万物における内容の豊富さ、優美さがあるべきである」

「絵画の最高の仕事は、巨像を描くことではなく、歴史画を描くことにある。歴史画こそ、いかなる巨像より天才に大きな賞賛を与えるものである。歴史画の一部分は人体であり、人体の部分は肢体であり、肢体の部分は面である。したがって、描くことの最初の部分は面である。我々が美と呼んでいる人体における優雅さは、面の構図から生まれる」

「どんな歴史画でも、慎み深さと真実性とが保たれることが望ましい。そして、他のものと同じ身ぶり、またはポーズを繰り返さぬように努めることに注意しなければならない」

「絵画でも賑やかさや、多様性は快いものである。私は歴史画は最も賑やかであるべきだと主張する」


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アルベルティ像(ロレンツォ・バルトリーニ作)レオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti、1404年2月14日 - 1472年4月25日)は、初期ルネサンスの人文主義者、建築理論家、建築家である。専攻分野は法学、古典学、数学、劇作、詩作であり、また絵画、彫刻については実作だけでなく理論の構築にも寄与する。音楽と運動競技にも秀で、両足を揃えた状態で人を飛び越したと伝えられる。

彼は多方面に才能を発揮し、ルネサンス期に理想とされた「万能の人」の最初の典型と言われた天才。確実に彼に帰属するとされる絵画、彫刻は現在のところ伝わっておらず、建築作品についても少数ではあるが、芸術理論は様々な分野で後世に影響を与えた。


生涯

アルベルティ家はフィレンツェにおいて銀行を営む有力商人貴族であったが、グエルファ党に属していたため、ギベリン党との抗争によって1387年に国外追放された。レオンはロレンツォ・アルベルティの庶子として亡命先のジェノヴァに生まれ、1414年にはヴェネツィアに移住した。早くから英才教育を受け、パドヴァで古典学と数学を学んだ後、1421年にボローニャ大学に進んだ。彼はそこで教会法で学位を取得し、1428年に卒業。以後は1432年に教皇庁の書記官となるまでヨーロッパを歴訪した。 1428年には、アルベルティ家への追放命令が解除されたためフィレンツェを訪れ、1434年にはエウゲニウス4世とともに再訪するが、そこでフィリッポ・ブルネレスキ、ドナテッロ、マザッチョと親交を結んだ。1436年には、彼らに『絵画論(Della pittura)』を献呈している。

1432年頃、ローマに移住し、親友であったフラーヴィオ・ビヨンドの仲介により、教皇庁の記念物監督官となった。エウゲニウス4世は、すでに建築事業顧問であったベルナルド・ロッセリーノにアルベルティの助言を仰ぐことを指示し、1453年から断続的にアクア・ヴァルジネの水路修復とトレヴィの泉の造営を行った。しかし、トレヴィの泉は1732年から全面的に改修されたため、彼らの作品をみることはできない。教皇庁において、アルベルティはキケロなどの古代ローマ時代の人文学に傾倒した。特に彼の目を引いたのは、ウィトルウィウスの『建築について』であったと考えられる。アルベルティは、そこに書かれている人体比例と建築比例の理論に着目し、これを基礎として、1451年までに著書『建築論(De re aedificatoria)』を完成させた。彼は、この論考に死ぬまで手を入れており、1485年になってフィレンツェで刊行された(原本・初版ともにラテン語である。イタリア語訳のものは、1546年にヴェネツィアで発刊された)。

アルベルティは、フィレンツェの有力な商人であったジョヴァンニ・ディ・パオロ・ルチェッライと親しく、1446年に起工されたパラッツォ・ルチェライの設計を行っている。これは全面的にオーダーを用いた最初の例で、ファサードは明らかにローマのコロッセウムを参考にしている。その後、彼はルーカ・デッラ・ロッビアとともにリミニのシジズモンド・マラテスタ公に召喚され、1446年10月31日に、サン・フランチェスコ聖堂を改装してテンピオ・マラテスティアーノとする工事が起工する(これはシジズモンド・マラテスタ公の失脚と死により未完に終わった)。 フィレンツェに戻った彼は、パオロ・ルチェッライからサンタ・マリア・ノヴェッラ教会正面の設計を委託された。アルベルティは、正方形の組み合わせと単純な比例関係を構築し、総大理石のファサードを設計したが、これが完成したのは彼の死後、1477年である。フィレンツェでは、1460年、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオの設計によるサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂の建築を引き継ぎ、後陣部分の設計にも携わっている。

1459年、ピウス2世に従ってマントヴァを訪れたアルベルティは、1470年に再びここを訪れ、二つの教会、サン・セバスティアーノ聖堂とサンタンドレタ聖堂の設計を請け負った。前者の設計は1460年に構想されており、1470年に修正、起工された。後者は1470年に構想された、彼の最も影響力の大きい建築である。ラテン十字の平面を持つこの教会堂には、古代ローマ神殿と凱旋門のデザインを適用しており、内部はブルネレスキのデザインしたトスカーナのロマネスク的バシリカ型とは異なる、堂々としたトンネル型ヴォールトを用いた。

1471年にもマントヴァに滞在するが、ローマに戻った1472年に死去した。彼は、親切で礼儀正しく、紳士的であったため、生涯を通じて尊敬された。


影響

彼は芸術のみならず、科学的分野においても足跡を残している。暗号アルファベットを交互に使用する多アルファベット換字式暗号(Polyalphabet substitution cipher)(ヴィジュネル暗号の原型)を発明したことはよく知られているが、その思考は数学論だけではなく、力学、家庭経済にも及ぶ。

アルベルティの『絵画論(De pictura)』は、西洋絵画を確立したものであると言っても過言ではない。彼は遠近法の手法を構築し、絵画は遠近法と構成と物語の三つの要素が調和したものであると考え、これによって絵画の空間を秩序づけた。彼は、芸術作品について常に調和を重んじ、それを文法化することに腐心した。そのため、彼の芸術論は非常に優れたテキストであった。

ルネサンス最初の建築理論となる『建築論』は、ウィトルウィウスの『建築十書』と、ローマ建築の遺構を調査して書き上げられたものであるが、ウィトルウィウスのラテン語能力の低さと、用いられているギリシャ建築の用語が全く知られていなかったため、『建築について』の理解は多難を極めた。しかし、彼は建築比例と5種類のオーダーを再発見し、その要素を『建築論』にまとめた。アルベルティの紹介した人体比例は、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名なスケッチ、『ウィトルウィウスによる人体比例図』に図式されている。建築論を書いた後に設計をはじめたという点が独特であるが、その建築作品は教条的ではなく、自らの『建築論』にしたがわない部分もしばしば見受けられる。また、ローマ建築を懐古的に処理することもなく、むしろ自由に、実験的に操作した。


主要作品

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサード『重量・挺・牽引法(Trattato sui pondi,leve e tirari)』
『数学的遊戯(Ludi matematici)』
『家族論(Della famiglia)』
『市民生活論(Teogenio)』
1435年に執筆 『絵画論(De pictura)』
1443年から1451年に執筆 『建築論(De re aedificatoria)』(初版は1485年)
1446年頃起工・1451年完成 パラッツォ・ルチェッライ(フィレンツェ)
1446年起工・1468年中断(未完) テンピオ・マラテスティアーノのファサード(リミニ)
1456年起工・1470年完成 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサード(フィレンツェ)
1460年頃設計 サン・セバスティアーノ教会(マントヴァ)
1472年起工・1494年完成 サンタンドレア教会(マントヴァ)

関連記事
スポンサーサイト



コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する