† 政治学 †

ドゥルーズのリゾーム、ハイエクのカタラクシー、そしてアリストテレスの「ポリス的動物」へーーアリストテレス『政治学』読解

政治学 (中公クラシックス)政治学 (中公クラシックス)
(2009/11/11)
アリストテレス

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アリストテレスの『政治学』を読んだので、ここに記録を残しておきたい。
いうまでもなく、この古典は我々にとってこれからも何度も再読されるべき価値を持っているものである。
ここでの記録は、現時点での私の読解と考えてもらいたい。
私がアリストテレスの『政治学』を読む上で依拠する政治的な理論を先に概略程度に紹介しておく。
私は現代政治を確固たる視座で分析するための「理論」を必要としていた。
そうした希求の中で、読書を通じて橋本和子の『リバタリアニズムと最小福祉国家』や、ハイエク全集などに出会った。
自分の政治信条を語る上で、一体それがいかなる理論に基いているかあらかじめ明記しておいた方が親切だろう。
私が、このブログの「政治学」のカテゴリーで、ハイエク全集を読解して以後取っている立場はいうまでもなく古典的自由主義であり、これはリバタリアニズムの潮流の中の一つである。

Libertarianism(リバタリアニズム)について、デイヴィッド・アスキューの有名な三つの分類方法を先に紹介しておきたい。
理論の右側に示すのは、その代表的論客である。

古典的自由主義……F.A.ハイエク、J.M.ブキャナン、M.フリードマン

最小国家論……R.ノージック、A.ランド

無政府資本主義……D.フリードマン、M.ロズバード



現時点で、私はハイエク全集を集中的に読解しており、主として彼の古典的自由主義に依拠している。
私がリバタリアニズムに関心があり、しかもハイエク的な古典的自由主義の理論を重視している以上、アリストテレスの『政治学』に対する私の読解方法は、それに基いたものになるだろう。

まず、興味深いのは第三巻「寡頭制と民主制」の中で述べられている以下のテクストである。

「貧乏な者たちが多数を頼んで裕福な人たちの財産を自分たちの間で分配するとしたらどうだろう。これは不正ではないだろうか。……これが不正の極みでないとしたら、不正の極みとは一体何というべきか」


ここは、アリストテレスの「所得再分配」批判として注目に値する箇所である。
所得再分配は、ハイエク、フリードマン、ノージックなどのリバタリアニズムに属する論客から、共通して批判されている最たるものである。
ハイエクは『隷属への道』で、いわゆる「目的論的平等主義」(生活面などあらゆる次元での国民の画一化)に立脚する所得再分配制度を批判し、それが集産主義体制に繋がると警告していた。
実際、歴史がこれをナチスの国家社会主義として、或いはソ連の社会主義体制として証明している。
では、アリストテレスは、集産主義体制に繋がるから所得再分配を批判したのであろうか?
そうではなく、彼は明らかに「民主主義」の見地からこの考えを表明している。
その例は、幾つかあげることができる。

「独裁者は自分が強者であることを盾にとって、無理無体な振る舞いをするわけだが、大衆が裕福な人たちに対してするのも、これと同じようなことになるからである」

「この種の法律(すなわち富裕層からの財産没収の法)も、正しいものではありえない」



ハイエクは、所得再分配を主として国家の中央集権化に繋がる道を用意するものであるとして批判した。
アリストテレスは、より根源的に「多数の大衆」、「少数の富裕層」という社会的分布図を描き出し、その上で「多数の専制」を回避しようとする思考に立っていると考えられる。
この考え方は、実は極めて重要である。
そもそも、私がこのブログで何度も所得再分配を批判しているのは、古典的自由主義が「小さな政府」を目指すことにおいて一致しているからである。
アリストテレスが、民主主義的な観点から、「少数の富裕層」の意見を蔑ろにする政治を批判しているという点は、今後も記憶に値するだろう。
同時にそれは、実際にアリストテレスが記しているように、「所得再分配」批判なのである。

四巻では「民主主義」がテーマになっているが、その中でやはり注目すべき箇所が存在する。
アリストテレスは、まず「人民」が担う政治というものに対する不信感を表明している。

「大衆の表決はどんなものでもけして一般性を持つものではありえない」



「大衆の表決」が信じられないとすれば、アリストテレスは一体何を政治において信じていたのだろうか?
以下は、決定的に重要なテクストである。

「法律が支配していないところには、国家の体制は存在しない。何故なら法律が一般的事柄を支配し、政府が個々の事柄を支配するというのでなければならず、このようなものこそ国家体制であると判断しなければならないから」



訳文では「法律」となっているが、「一般的事柄を支配する」ルールを、ハイエクが『法と立法と自由』の第一部で展開した基礎概念である「コスモス」に、「政府が個々の事柄を支配する」ルールを「タクシス」に置き換えることができるだろう。
改めてまた述べるつもりであるが、cosmosというのはハイエクのカタラクシーの基礎である自生的秩序(中川八洋の『保守主義の哲学』でいう「法」に相当する)のことであり、taxisとは、政府が作った抽象性を許さない「法律」のことである。
アリストテレスの意味を解せば、「一般的事柄」という点でこれは「抽象の優位」を重視するコスモスを意味すると考えられる。
他方、繰り返しになるが、「政府」が担当するルールとは具体的な「法律」であるタクシスである。
こうしたコスモス、タクシスが一体となっているものをアリストテレスは「国家体制」と規定している。
もう少し付記すれば、ハイエクが依拠するコスモスというのは、進化論的合理主義に基いた法概念である。
これと対立するのが、デカルト的な設計主義的合理主義であるタクシスである。
この二つを最も明晰に区別、判断するために、我々はここでドゥルーズ・ガタリが提唱したrhizome(リゾーム)の概念と、tree(ツリー)の概念の差異について類比的に紹介しておきたい。
いうまでもなく、リゾームの概念はデカルト的な理性の設計主義的なスタイルに対する批判として生起したと把捉することができる。
物事を秩序立てて具体的に「設計」する思考回路――これがツリーである。
他方、常に領土から逃走し、遊牧する機械となり、中心を持たずに絶え間ない変身を受容する「進化」的な思考回路――これがリゾームである。
ハイエクの「市場の自生的秩序」とは、彼自身が述べているようにサイバネティクスによる自己創出性(オートポイエーシス)そのものであり、これは反デカルト=ルソー的な理論に立脚している点で、ドゥルーズのリゾームと類縁的なのである。
このタクシス/ツリーと、コスモス/リゾームの差異については、今後も忘れないようにしよう。

そこで、我々は再びアリストテレスのテクストに戻ろう。
まさに「大衆の表決」(=デカルト的な設計主義的合理主義の系譜に位置するルソーの「一般意志」)ではなく、この「法の下の支配」にこそアリストテレスは信頼を見出しているのである。
この点は、ハイエクの思考と政治学の元祖でもあるアリストテレスの見解が一致する点として、極めて重要なテクストであると考えられる。
また、今後何かの経済的状況によって古典的自由主義の見地が少数派にまで減少してしまったとしても、アリストテレスがその代表的論客と考えを同じにしているということは、常に復活の兆しを持ち続けているということを証明する。
アリストテレスが彼の「国家」観について端的にまとめているテクストは、以下である。

「国家体制というのは、国家における様々な支配と統治の役職に関して、これらを秩序付ける一定の仕方であり、それら役職がどんな風に人々の間に配分されるか、何がその国家体制の中で最高の権力を握るものか、またそれぞれの共同関係の目的は何であるかを定めるのに対して、法律の方は、国家体制を明らかにする原理とは別のものであって、統治と支配の役職についた者が、その役目を果たすにしても、またこの法律を踏み外す者が出ないように防ぐにしても、それに基いてしなければならないという規則なのである」



アリストテレスはここで、「法」というのは、「統治」を担った者、すなわち政治家が、それを必ず守らねばならないものであると述べている。
また、「国家体制」については、それがたとえ共同関係の「目的」といった半ば集産主義に通じかねない表現を用いつつも、明らかに「統治を秩序付ける一定の仕方」という概念に当てはめて捉えていることが判る。
繰り返すが、ここで我々が抑えておきたい最大のポイントは、アリストテレスが「人民主権」ではなく、「法主権」にこそ理想的な「国家」概念の神髄を見出している点であり、これはハイエクの法観念と一致するということである。

アリストテレスは、三巻の中で更に重大なメッセージを発していた。
彼によれば、「人間はその自然本性においてポリス(国家)的な動物である」。
これは、彼が人間を「ポリス的動物」と規定した名高い箇所である。
それでは、そのポリスの仕事とはアリストテレスにとって何であったのか?
これについて、彼は二つの重要な理念を提示している。

ポリスの仕事

�「法的な秩序を保ち、正義を行うこと」

�「法的秩序はポリスの秩序付けであり、それを保つことは、正邪を判別することに他ならない」


ここで、彼は「正義」という抽象的な概念を用いているが、その前提として「法的な秩序を保つ」ことを重視している。
以上、見てきたように、アリストテレスの「国家」観は、その「法主権」と相関的である。


しかし、我々がむしろ吟味しなければならないのは、アリストテレスの「福祉」観である。
彼は、例えば「公共の福利を顧みない国の構成員を、我々は市民の名で呼ぶべきではない」とか、「彼らに市民の名が与えられるべきなら、利益を他と共有すべきである」とか、「多数者が公共の福利に留意して国事を行う」といった、明らかに「大きな政府」を前提にした福祉国家を是認するようなテクストを残している。
彼は、こうした「福利」の必要性を「市民」の条件であるばかりか、「ポリーテイアー(国制)」の条件にまで規定していた。
これは、資本主義社会の基礎である「私有財産制」を侵害しかねない部分である。
ここで私が焦点にしているのは、「公共財」をどの程度民営化させるべきか、というテーマともリンクしている。
例えば、道路標識や下水道のように、明らかに民間企業に任せるとかえって混乱を招くために、政府かそれに委託された機関が一括して整備した方が効率的であるようなものも存在する。
こうした、政府主導で行った方が効率性の高い公的部門は確かに存在している。
問題は、アリストテレスが「福祉」の重視や、「利益を他と共有する」ことで、「個人的自由」がどのように制限されてしまうかを視野に入れていたかどうかである。
一方、ハイエクは、衣食住すら確保されていない最低ラインの貧困層に対する福祉政策は容認していたが、だからといって「福祉国家」化すれば政府の中央集権化を招き、市場介入に到って個人的自由を侵害することを常に警告していた。
この自由主義的な理念からすれば、アリストテレスの福祉精神は、明らかに社会主義の温床になりかねない部分である。
彼が「ポリス」の仕事を、「法に基いて正義を行うこと」と規定することには賛成であるが、問題はその「正義」とは何であるかということであって、アリストテレスはどうも社会主義的である気がしてならない。
もしも、彼が「利益を他と共有すること」に社会の条件を見ていたとするならば、自由主義の立場からしてこれは容認できるものではない。
既にノージックの「ジョゼフ・チェンバレン」の挿話でも紹介したように、我々に与えられているのは「結果の平等」ではなく、「機会の平等」だからである。
(とはいえ、「機会の平等」というのは、両親の所得が大きい家庭とそうでない家庭では当然、受ける教育の質や家庭的恩恵に決定的な差異が生じてくるので、実際には我々は生まれながらにして社会学的にも各自のハビトゥスによって差異化されているといえる)。
個人的な才能や能力の差異によって生じる所得格差を、それが不平等だとして「富裕層の富を再分配する」ことに繋げるために、アリストテレスが福祉について言及していたとするならば、これは彼が本書で述べていた以下のテクストと矛盾する。
すなわち、「大衆が裕福な人たちに対してする」、財産没収は、「独裁者の振る舞い」と同じであるという箇所である。
彼は、そのようなことを是認する法は許されない、とも述べている。
だとすれば、ここで述べられている「利益を他と共有すべきである」という、いかにも組織中心の集産主義的な言及は何なのだろうか?
それは、時と場合によるのであろうか?
例えば、現在の3・11以後の復興支援政策のように、どうしても必要な支援政策は推進されて然るべきであるが、それによって日本が福祉国家化してしまうということには反対であるということなのであろうか。

これは私の感触であるが、アリストテレスの『政治学』は、おそらく自由主義者からも、社会主義者からも支持され得る両面価値的なテクストを多く備えていると思われる。
彼が「国家は徳に由来すれば幸福になる」といって、「徳」に即した生活を「最善の生活」にしていた辺り、この「徳」の意義を第一のものとしていたと考えることは正統的であろう。
人間の徳性の根拠とは、アリストテレスにとって「神」に基いている。
こうした「徳」と「神」を「国家」理念に結び付ける発想は、今日の資本主義社会からして、どれほど有効な示唆を与えるものなのであろうか。
私には、アリストテレスが結局のところ、「資本主義」における「市場の競争」を否定してしまっているようにしか見えないのである。
その最大の理由は、以下で見事に表明されている。

「幸福に生きるということは、外部的な善(富や金銭や権力や名誉やそういう類のもの)を必要以上に所有しながら、徳において欠けている人々よりも、品性と知性を高度に練磨して外部的な善の所有は、ほどほどにしている人々にこそ、よりいっそう備わっているのである」



このあまりにもカトリックの司祭が説教で語るようなテクストを、アリストテレスも記しているということは、意味深長である。
結局のところ、彼はこうした見かけだけは正論であるようなテクストを綴り、「外部的な善」のみを追及できる「企業」的存在の概念を全く所持していない時代の申し子であった、といわざるをえない。
我々は「徳」を重視して生きることも、「富」を重視して生きることも可能であり、それらは個人の自由な裁量に基いている。
アリストテレスが「人民」ではなく、「法」にこそ信頼を置いた視座は普遍的な価値を有する。
しかしながら、ここで彼は富を批判し、平均的な富を持つ素朴な「徳」の高い哲学者の生活を支持しているようにしか見えないのである。
暫時的ではあろうが、現在の私の読後感として、アリストテレスの『政治学』は、「市場の競争」や、「個人的な自由」についての概念の欠如により、明らかに「資本主義」を支える聖典にはなりえない。
両面価値的なテクストを多く持ち過ぎるということは、自身の政治理念を語る上で典拠として弱いといわざるをえない。



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