† 美学 †

G.ドゥルーズ 「カントの美学における発生の観念」




ドゥルーズは『無人島1953-1968』の「カントの美学における発生の観念」(1963)の中で、我々にとって極めて重要な美学の根本概念を提示している。
このページでは、美学における「天才」の概念について、『無人島』という書物のページをはみ出して、ほとんど跳躍を意図しつつ私なりの道筋を提示しておきたい。
ドゥルーズによれば、カントの美学の根本諸問題とは、「天才」をめぐるものである。
「天才」とは何であるか、という概念の解明がドゥルーズがこの論稿においてカントを読解する上で重視しているテーマである。
彼は、天才の作品というのは、たんに外面的に美しい、作品として持つテーマが説得力を持ち普遍的で納得できる、というような美学形式ではない、と考えている。
天才は、むしろ美を剥ぐ。
それは、しかし単なるグロテスクなものの表出というのではない。
そうではなくて、美における「天才」とは、カント的な意味において、「美とは何であるか」を更新するのである。
彼ないし彼女、すなわち「天才」は、新たな「美」を創出する。
これを「創造的破壊」と呼んでも差し支えはない。
ここで我々は、一つの例を提示しておきたい。
冒頭に掲載した映像のフラグメントは、いうまでもなくアカデミー賞に輝いた有名な『アメリカン・ビューティー』の一部である。
この中で青年は、あらゆる事物の背後には大いなるものがあり、そうであるがゆえに、我々は何も怖れる必要はないと断言している。
15分間のビニール袋の浮遊を、彼は撮影している。
彼はこのビニールの空中での戯れに、その事物の背後に、超越を、「崇高」を、明らかに見出している。
これは映画作品として提示されているので、我々にとってこの「崇高」は、まさに「美」として急迫する。
(カントは「崇高」には対象が存在する必要はないが、「美」は何らかの作品として具現化すると述べ、差異化している)。
この映像は、一見すれば、何の変哲もない映像であり、ある種奇怪なものであり、平凡極まるものでもある。
我々は、こうしたありふれた事象を毎日常に見ている。
常に毎日、見えているということは、「崇高」の遍在であり、常にそこにはそれを作品化可能な「美」の契機が潜在するということに他ならない。





この世界には、「美」というものがある。
それはけして視覚的に見事であるとか、忠実に神話を再現しているとか、細密なまでにリアリティーを持って都市を描いているとか、そういう技術性や、対象の均整に帰せられるような狭小なものではない。
むしろ、それは「美」ですらない。
「美」とは、「美とは何であるか」の発露である。
すなわち、アーティストが「これが私の美である」として、その意味論的体系から、対象に「美」を意味賦与する時、それが普遍的なレベルを保ち、なおかつ我々を慄かせ、衝撃させ、傷つけ、涙を流させるのであるならば――それこそが、「美」に他ならない。
美的であるというのは、私の経験論でいえば、むしろグロテスクであることの方が多い。
例えば、私が最も崇敬している17世紀の画家、マティアス・グリューネヴァルトの《イーゼンハイム祭壇画》の磔刑は、明らかに初めて観た少女を衝撃させ、戦慄させ、彼女に大いなる悪夢を与えかねないものである。
この無垢な魂を、我々はグリューネヴァルトによって傷付けられているのであり、ヤン・ファーブルが語ったように、まさにそれが「美」の開始の契機である。
「美」は落雷のように初め、我々を放電、感電、致死に到らせ、そこからじょじょにその「美」が持つ真の意味を蘇生させるに到る。
それは弱々しい商業主義的堕落を被った安っぽい作品が、けして到達不可能な次元である。
イェイツ的なイメージを借りれば、美はレダを襲う「白鳥」なのだ。
おそらく、カントも、そして彼を読んだドゥルーズも、傑出した美意識の持ち主であったのだろう。

天才は、彼が霊感を与える主題が美しい作品を産出するところの質料に注意を注ぐのである。「天才は、豊かな質量を美しい芸術に本質的に提供するのだ」(『判断力批判』)。天才とは、理性的関心と同じ資格を持つメタ-美学の原理である。

天才は、芸術作品に関わる諸能力に発生論的原理を与えるのである。



あるいは、後のベーコン論を予兆させるような以下のテクストが存在する。

正確にいうと、天才における比類なきものとは、理念の破格さ、驚嘆すべき素材、見事な異形さ、といった第一の側面である。



ここで我々は、一つのテーマを提示しておきたい。
例えば、私が愛する女性の首を、彼女を愛しているがゆえに、斬首し、それに花輪を飾って聖堂に設置するという行為は、「美」であろうか?
私はこうした「斬首」の光景が持つ美学に囚われていると仮定せよ。
私にとって、それはたとえ神が批判しようが、「美」なのである。
私の「美」が完成されるためには、私は愛する女性を斬首する必要が絶対的にあるのであり、いわばその聖遺物は、私の創造した作品なのだ。
一体誰が、このような私の美意識を批判できるであろうか?
たとえ私が、殺害の容疑で逮捕され、監獄で生きることが確定したとしても、この時の私の精神の動きは、一つの純然たる「美学」に基いて作動しているのである。
そういう時、我々は初めて、「作品」を世に投げ放つに到る。
真の衝迫する「美」は、本質的に法体系を背反するものであり、またその侵犯行為による圧倒的な「跳躍」を経て、ようやく我々は真の「崇高」の眼差しに触れるのだ。
ハイデッガーがヘルダーリン論で述べたように、「美」とは「稲妻」であり、「雷雨」である。
「全テ偉大ナルモノハ、嵐ノサ中ニ立ツ」(『総長就任演説』)。

天才の作品はすべての者のための実例となりうる。つまり、天才の作品は、模倣者に霊感を与え、趣味を構成する構想力と悟性との無規定的で自由な一致を至るところに生み出すのである。



ドゥルーズが述べる、「天才」は「美の発生論的モデルを与える」という定式は、我々の今後の美学の基礎を形成する。
「美」とは、先行する諸潮流によってあらかじめ規定され、規格化されているような浅薄で無味乾燥なものではない。
全ての先行する諸潮流は、我々の胃に収められるべき食料であるに過ぎない。
「美」が何であるか、それは我々が創造するのである。
それをあらかじめ決定する全ての芸術理論、組織に対して私はフーコーの権力論の観点から批判を展開することもできるが、このページではそうしたことは無用であろう。
むしろ、我々は「美」が、「何であるか」ということを、作品によって独自に創造できるのだということ――他の芸術家はともかく、少なくとも私にはこれこそが「美」であるのだと断言できる何かを発出するということ――これが、カント=ドゥルーズの美学観から導出した、我々の新しい美学の基礎である。
我々のこの考え方は、ドゥルーズの以下のテクストにおいて一つの支柱を見出す。

創造的な芸術家の観点からの芸術美の理念的メタ-美学。美に結び付いた関心が発生を保証するのは、芸術的な美の事例が排除された場合だけである。したがって、天才は芸術において行使される諸能力に固有のメタ-美学的原理として介入するのである。






「参考リスト」

無人島 1953-1968無人島 1953-1968
(2003/08/26)
ジル・ドゥルーズ

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