† 政治学 †

資本主義を生んだキリスト教の禁欲主義とその矛盾

Lindsey Wixson by Jan Welters
Lindsey Wixson by Jan Welters

資本主義は、一体どこから生まれてきたのか、というテーマはマックス・ヴェーバーの理論も含めて常に興味の尽きない点である。
これについて、東京大学先端科学技術研究センターの研究員である宗教学者、島田裕巳の『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(2009)は、我々にとって参考になる知識を与えるものである。
本書で興味深いのは三章「資本主義を生んだキリスト教の禁欲主義とその矛盾」である。
著者によると、リーマンショック以降、アメリカではキリスト教勢力が勃興しているとされる。
地理的情勢図でいえば、アメリカ中西部はキリスト教原理主義であり、保守的、右派的な傾向を持っている。
彼らは主としてレーガン、ブッシュ父子といった「共和党」の支持基盤となっていることも見逃せない点だ。
反対に、アメリカ西海岸、東海岸では、逆に「宗教離れ」が進み、全体的に世俗化が進行している。
ヨーロッパもまた、宗教離れが進んでいるが、グローバル資本主義を牽引していたアメリカの中西部で、キリスト教原理主義が勢力を拡大している、というのは二十一世紀を生きる我々が記憶に留めるべき現象であろう。
では、論題である資本主義はいかなる思想から生まれてきたのであろうか?
それは何を資本主義の原理とみなすかによって当然変化するだろう。
交換経済の原始的モデルは、極めて古い時代から見出すことも可能であろう。
だが、一般的に初期資本主義はヴェーバーが『プロ倫』で述べたように、プロテスタンティズムから発展してきたと認識されている。
これについて考える上で重要なのは、プロテスタンティズムにおける「禁欲」に対する二つの在り方である。
一つは、聖職者の禁欲ともいえるが、世俗の外部で実践される「世俗外的禁欲」である。
教会や修道院での決められた生活空間で果たされる神との慎ましい祈りの日々は、まさにこの世俗外的禁欲に相当する。
二つ目は、一般信者が実社会の中で実践していく「世俗内的禁欲」であり、後の資本主義を担う階級が持つ内的原理はこれに相当する。
因みに、世俗内的禁欲を重視するプロテスタンティズムには四つあり、カルヴィニズム、パイエティズム(敬虔派)、メソジスト派、洗礼派運動がそうである。
特に初期資本主義を生み出した原理として特筆に価するのが、カルヴィニズムの「予定説」である。
では、予定説とは何であろうか?
それは、人間の行為、言動、職業、生死は全て神によってあらかじめ予定されているというものである。
職業までもが神によってあらかじめ予定されている、ということはすなわち、各個人には神より賦与された「天職」が存在するということに他ならない。
実は、この「天職」という神学的な職業観念は、ルターが明確に概念化したものが最初であって、カルヴァンはそれを発展させたといわれている。
このようなカルヴィニズムの予定説における「天職」概念は、リチャード・バクスターの『聖徒の永遠の憩い』において結晶化する。
カルヴィニズムの信徒であった彼は、以下のように初期資本主義の理念を記している。

「ひとは生きるために労働するだけでなく、労働するために生きているのだ」

「神のためにあなた方が労働し、富裕になるというのはよいことなのだ」



カルヴァンから影響を受けているバクスターのこのテクストには、はっきりと「神の恩恵に与るための労働」という概念が浮上している。
神から「天職」を与えられている以上、労働によって得た金が増すことは、神の恵みに他ならないのである。
カルヴィニズムにおいて、初めて「労働」と神学的な「恩寵」の概念が相関項になったのだ。
これらを受けて、島田は以下のように説明している。

「ここにおいて、金儲けということが宗教的に正当化された。それが、資本主義の精神の成立に結び付いていくのである」



ここで重要なのは、けして神学に背反する理念として「金儲け」が概念化されたのではなく、キリスト教神学の「恩寵」に寄与するための行為として、それが認可されたということである。
よって、「金儲け」は悪徳どころか、より神に近付くための「禁欲」の象徴である。
何故なら、我々は仕事に熱心に打ち込むことで、まさに「禁欲」を実践しているからである。
その結果として、神から賦与される給与は、いわば我々の禁欲の結晶であり、善の象徴である。
このようにして、まさに「利潤の追求の合法化」と、「享楽的消費の忌避による資本の形成」という二つの神学的基盤が用意された。
やがてここから、「資本の蓄積が目的化」されるということが、先述した「世俗内的禁欲」に曝されている一般信徒の中から起こり始める。
こうして、「資本家」が誕生していくのである。
資本蓄積が自己目的化していくのと並行して、ヴェーバーはプロテスタンティズムの「倫理」が衰退していったと分析した。
島田の考察は主としてヴェーバーの読解に依拠しているが、ここでもう一人、ヴェルナー・ゾンバルトの『近代資本主義』(1902)についても言及している。
ゾンバルトによれば、資本主義の起源は実はプロテスタンティズムではなく、中世以来のユダヤ人の商業活動にあるとされる。
というのは、これは『ヴェニスの商人』でも明示されていたように、ユダヤ人は本来キリスト者の非ユダヤ人が担うことを忌避するような職業にしかありつくことができなかった。
中世から、多くの人々がユダヤ人を一般的な職業から追放してしまっていたために、彼らはキリスト者が忌避する「高利貸し」などをして生計を立てざるをえなかったのである。
「高利貸し」とは、今でいえば資本主義の根幹を担う銀行業務の原形態であり、こうした活動をしていたグループはなにもユダヤ人だけではなく、例えば名高いメディチ家もそうであった。
ゾンバルトによれば、中世以来、資本主義的領域はユダヤ人が担っており、イギリス、オランダなどのカルヴィニズムの地に彼らが流入したことで展開されていったと考えられている。
ゾンバルトは、以下のように記している。

「資本主義の精神の形成にとって実際に意味があったように思われるピューリタンの教義の構成要素の全てが、ユダヤ教の理念圏からの借物であった」



いずれにしても、資本主義の思想的土壌がユダヤ・キリスト教神学の「労働」観、「恩寵」観から発出しているということは既に定説となっている。
だとすると、現在資本主義についての理念の中でも、様々な分派(例えばノージックの最小国家論や、D.フリードマンのアナルコ・キャピタリズムなど)が登場しているのは、さながらかつてキリスト教において幾多のセクトが出現した時の状態を再現前している、と捉えることもまた可能ではないだろうか。





「参考リスト」

金融恐慌とユダヤ・キリスト教 (文春新書)金融恐慌とユダヤ・キリスト教 (文春新書)
(2009/12/15)
島田 裕巳

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