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ラース・フォン・トリアー『アンチ・クライスト』における、神学の不在

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(2011/09/07)
ウィレム・デフォー、シャルロット・ゲンズブール

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ラース・フォン・トリアー(Lars von Trier, 1956年4月30日 - )の『アンチ・クライスト』を観た。
本作は、セラピストの壮年の男性が妻をカウンセリングするために引き起こしてしまった不幸を描いている。
断片的に語られているが、妻はおそらく精神医学に関するある論文を執筆していた。
そのテーマの内容は、本作で彼女自身が体現するものを論題としたものだったのだろう。
本作はこの女性のイメージ世界を幻想的に描写している。
だが、本作には表題に相当するようなキリスト教神学に対する敵対的な野心を感じられなかった。
当然、「アンチ・クライスト」というタイトルが掲げられている以上、私はニーチェの『反キリスト』や、ヨアキム・デ・フィオーレの終末論におけるアンチ・キリスト到来のビジョンを想起したのだが、本作は主人公が神学とは無縁な「精神医学」の専門家であって、タイトル負けしている感はどうしても否めない。
妻は夫に、「森が怖い」と訴えている。
本作にはキリスト教以前にヨーロッパに根差していた「自然崇拝」的なビジョンが、「カオスを支配する狼」などの具体的イメージによって丁寧に描写されている。
だが、この時点ではアンチ・キリストの概念として弱い。
ある概念に敵対する場合、しかもそれが神である場合、私は最も効果的な冒涜の手段として主人公が「修道士」や「司祭」などの聖職者であることが前提であり、だからこそ監督が伝えたいのであろう「アンチ・クライスト」のメッセージ性も増すものと思われるのだが――本作ではそうした設定上の効果が微塵も存在しない。
いうなれば、キリスト教とは何の関係もない夫婦が、森へ行ってそこで一方の精神状態が悪化し、結果的に森の中で不思議な幻視を見ることになり、最終的に凄惨な事件に発展してしまうという経緯を描いている、というだけの作品であるに過ぎない。
「自然は悪魔の教会」であるという主張が登場するが、これはいうまでもなく中世キリスト教社会において正統派の異端審問官たちが、キリスト教以前のゲルマン神話に基いて古来の民間信仰を信じていた人々を糾弾する時に用いた常套句であり、あくまでも神学的な背景があってのみ成立する表現である。
繰り返すが、本作のヒロインには、何ら瀆神的な、アンチ・キリスト的な「動機」を見出せない。
また、話題になった過激な性描写であるが、これも作品の質を大幅に損ねる結果になってしまっている。
それは著しく醜く酷い有り様で、冒頭では様々な画像加工を施して美しく仕立て上げようとしているものの、正直いって俳優と女優がそうした描写に適当な人材であるとは思えなかった。
本作における「性」は私にとってエロティシズムとはかけ離れたもので、むしろ何故あれ程執拗に裸体の描写を入れようとしたのか、不思議なほどである。
悪魔的なテーマとしての失敗、性描写での素朴過ぎる演出――そして何より、妻が執筆していた「論文」の内容自体に関する言及の少なさによって、本作は大きなメッセージ性を訴える力を喪失してしまっている。
そもそも、「反キリスト」=「邪淫」という作品の演出それ自体が、我々正統派ローマ・カトリック信徒からすれば幼稚な素人の一般的発想という他ないのだが。


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