† キリスト教神学 †

テレサ・バーガーの「日常の秘蹟性」について

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私はこれまで、現代のカトリック神学において必要不可欠な課題の最大のものこそが、フェミニズム神学であると主張し続けてきた。
私が洗礼以後も12世紀に活躍した女子修道院長ビンゲンのヒルデガルトの「女性神学」を重視するのは、聖書やヴァチカンの組織に内在するファロゴセントリズム(男根ロゴス中心主義)を徹底的に脱構築するために他ならない。
ファロゴセントリズムとは、神学体系に存在するあらゆる家父長主義的思考によって、「女性性」を余白へと追放し、迫害する一つの「支配状態」(フーコー)のことである。
ヒルデガルトについては、バーバラ・ニューマンの研究書に私は多くを負っている。
フェミニズム神学は、キリスト教神学の中でも最もラディカルかつ最前衛に属する運動であるため、半ば急進的なイメージを持っている方が多いかもしれない。
だが、実際幾つかのフェミニズム神学への寄与論稿を読めば自ずと理解できるが、それらはどちらかというと、「慈愛」に満ち、「穏やかさ」に溢れた恵そのものであることが判るだろう。
このページでは、こうした「女性」と「キリスト教」のテーマにおいて最も重要な見解を提示している一人の研究者を紹介したい。
それは、エール大学神学大学院で典礼学を教えるドイツ生まれのカトリック女性、テレサ・バーガー女史(1956-)である。
バーガーの本書『女性たちが創ったキリスト教の伝統』に対して、私が現在最も注目しているエリザベス・シュスラー・フィオレンツァ女史が、以下のようなそれ自体で注目に値する見事な推薦文を寄せている。

「『女性たちが創ったキリスト教の伝統』は、フェミニストによるカトリック神学の世界を見事に描き出すものである。テレサ・バーガーは、命の源である神(G※d)を垣間見たいと餓え乾く人々、女性と男性(wo/men)が共に典礼と神学に意味を見出す智恵をきめ細かく観察している」



この中で彼女が、Godではなく、(G※d)と表現している点は記憶に値する。
もしもフィオレンツァの女性神学に関心のある方は、邦訳も何冊か出ているので是非そちらを御読みいただきたい。
さて、バーガーは「序章」の中でアメリカにおけるカトリック教会の現状について以下のように語っている。

「アメリカ合衆国では、約2000万のローマ・カトリック教徒がほぼ欠かさず日曜日のミサに与っているということだが、その大多数が女性である。女性はまた、北米とヨーロッパでは、というより実際世界中で行われているほとんどの礼拝のための集会で大多数を占める。クリスチャンを自称する女性は全世界に約10億人いるが、その多くが身をもってこの事実の証となっている」

「興味深いことは、教会と疎遠になったことについて悩んでいる女性は少なくないが、彼女たちも伝統的な典礼や信心業に命を与えられた体験を覚えていることがよくあるのだ」



これらの見解は、どれも我々カトリックの男性信徒にとって、けして忘れてはならないというだけではない。
むしろ、これは「私自身」の問題をも表現しているのである。
私は、そもそも性差は文化的にのみ生産されると考えている。
ジュディス・バトラーが述べたように、文化的性差であるジェンダーが生物学的性差であるセックスに先立つ、と考えている。
つまり、「言語身体」によって性は意味賦与される。
デリダ的に述べれば、私にとって、私が「男性である」ということは、「男性として“存在する”」ことを必ずしも意味しないし、意味する必要もない。
ア・プリオリに言語的に性が獲得される以上、私は常に、「男性である」ことと、「女性である」ことの意味のparergonality(余白性/フェミニズム理論家でデリダに学んだドゥルシラ・コーネル女史の操作子)のはざまを漂うのである。
したがって、貴方のセックスは男性である、と生物学的に規定されようが、私はあくまでも社会学的には「女性である」ことが言語身体として可能である――ここに、フェミニズム理論の最も深い滋養が存在する。
そうした前提を看取した上で、バーガーの本書を読めば、これはまさに男女の性差に関わりなく、全ての読者に開かれた本であることが判る。

「女性の実生活を反映した典礼から信仰生活は生み出され、その信仰生活は教会生活の基礎となっている」


バーガーによれば、「聖体」とは「神の母乳」であり、「十字架上のイエス」とは、「出産の苦しみを味わう女性」と交換可能である。
彼女は、女性に対して差別的だったフランス、ロワーヌ地方の修道院を、女性のために変革したロベール・ダルブリッセル(1047-1117)の言葉を引用している。

「女性も、<神の現存>であるキリストの体を食べ、その血を飲むにも関わらず、その女性が教会に入って自分自身の現存を持ち込むことができないとは、実に馬鹿げた話だ」

 

バーガーの本書における一つの定式として忘れるべきではないのは、「女性の現存=神の現存」という考え方である。
「女性の現存」を脅かす権力として、バーガーは「教会主義的=司祭中心主義的」という構図を導入している。
彼女の最も驚嘆すべき主張は、「女性が日常生活で見るもの」には、全て「聖性」が宿っていると断言している点である。
すなわち、「日常の秘蹟性」である。
「日常の秘蹟性」とは、『神学大全』のようなツリー状の設計主義的な神学体系や、制度化されて硬直化してしまった難解な哲学体系ではなく、「じゃれ遊ぶ猫を観察して生まれる洞察」のような、日常のありふれた光景を最大限に評価する概念である。
つまり、「日常の秘蹟性」とは、実は日常生活の中にこそ、「典礼の本質」が全て内在していると考えるのである。
例えば、「キッチンの料理」や、「ガーデンローズ」、「飼い猫」、休日の柔らかい木漏れ日の中の「カフェテラス」、仕事の合間の「一杯の珈琲」……これらはどれも、従来の厳格な男性司祭や神学者であれば、「余白」へと追放してしまいかねない「神学の欄外=額縁」に相当するものであるが、バーガーにとっては、全て「典礼の本質」の具体化である。
ヒルデガルトの女性神学にせよ、バーガーのこの「日常の秘蹟性」の概念にせよ、全てはこれまで黙殺されてきた女性たちの、普段の日常生活に「神の現存」を見出すという点で共通している。
「神の現存」=「女性の現存」という等式の意味は、まさにここにあるのだ。
それはデリダの脱構築運動が、20世紀における典礼刷新運動と見事に溶け合った最上の例であり、21世紀はこの女性神学の「飛躍的発展」がカトリック教会のみならず、プロテスタント教会、及びその他の全てのキリスト教会からも期待されて然るべきであろう。

「これから重要なことは、典礼の秘蹟性そのものを、女性の生活のために取り戻すことである」


バーガーは「日常の秘蹟性」を、端的に二語で「乳と蜂蜜」と表現している。
「乳」は、まさに子供を授かった女性が母親として我が子に与える恵を意味し、「蜂蜜」とは、家族全員を養うために女性が彼らに与える必要不可欠な糧を意味する。
どれほど「女性性」を排斥するジェンダー・ディバイスを持つファロゴセントリックな聖書の体系といえども、この「乳と蜂蜜」によって養われてきたことだけは否定することができない。
生まれた以上、全ての男性は、母親の乳を受け、彼女に食べ物をスプーンで運んでもらって育つのである。
それは聖トマスも、魔女狩りに躍起になった中世の異端審問官たちも同じなのである。
ちなみに、おそらくバーガーであれば、母親を出産で失った赤子が父親に食べ物を与えてもらう時、この父親の役割に性差を超越した「女性性」を見出すであろう。
全ての人間は、「女性性」の恵を受けているにも関わらず、それをこれまで「神の現存」として評価してこなかった。
ここに、キリスト教の歴史が辿った多くの不幸の根源的な原因があるのではないか、と私は考えている。
バーガーが「乳と蜂蜜」、「女性性」、「日常の秘蹟性」というテーマを語る時に紹介しているのが、20世紀の典礼刷新運動で重要な貢献を果たしたフローレンス・S・バーガー(1909-1983)の『キリストのための料理――台所での典礼暦年』(1949)である。
これは主婦のために記された本で、台所で多くの時間を費やす主婦の生活を、「典礼の模範」として明示したものである。
その中で彼女は、「食べ物をシンボルとして、心を霊的な思考に導くことができる」と述べている。
テレサ・バーガーは『女性たちが創ったキリスト教の伝統』の中で、「女性の日常生活」や、「キッチンでのお料理」、「子猫とのじゃれ合い」といった部分にまで、「神の現存」と結ばれる「女性の現存」、すなわち「典礼の本質」を見出しているのだ。
私が考えるに、こうした戦略でバーガーが主張していることは、「女性性」を一定の枠組みに当てはめる全てのファロゴセントリズムに対する批判としての意義を持ち、同時に「子供を生みたくても生めない女性」や、「結婚よりも素晴らしい価値があると発見した女性」など、全ての「それぞれの女性の姿」に対応し得る概念を提供しているということに他ならない。
彼女はカトリックの女性として、また母親として、確かに「母性」を、女性性を活かすための最大の戦略として導入しているが、「女性性」=「母性性」という位置付けは、クリステヴァ的な新しい「女性の鋳型」を生産する行為となってしまう怖れがある(すなわち、フェミニズム理論内部における母性性優位という新しい支配形態の産出)。
故に、ここでも私はコーネル女史のparergonality――すなわち「女性性」を、特定の意味に当てはめるのではなく、「それぞれ完全に異なる自由な意味を持った女性たち」(生まない女性、男性的に振舞いたい女性など)をも包含しうる、「余白性」として捉えることが、実は最も柔軟に全ての女性性を歓迎することに繋がるのだと考えている。
この「女性性」と「余白性」の関係こそ、私がフェミニズム神学の核心として信じ続けているものであり、それは私のように生物学的には男性であるが、文化的にはむしろ「女性性」に現代的な思考の発火源を見出すタイプの男性にとっても、大きな自信を与えてくれるに十分である。





「参考リスト」

女性たちが創ったキリスト教の伝統―聖母マリア マグダラの聖マリア ビンゲンのヒルデガルト アシジの聖クララ アビラの聖テレサ マザー・テレサ……―女性たちが創ったキリスト教の伝統―聖母マリア マグダラの聖マリア ビンゲンのヒルデガルト アシジの聖クララ アビラの聖テレサ マザー・テレサ……―
(2011/07/01)
テレサ バーガー

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