† 政治学 †

「所得の再分配」はなぜproperty(所有権)の侵害に相当するか?――ロバート・ノージックの代表作『アナーキー・国家・ユートピア』を今こそ読み直す

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ロバート・ノージック(Robert Nozick, 1938年11月16日 - 2002年1月23日)ハーバード大学哲学教授


⑴【「所得の再分配」は本当に必要か?】


このページでは、「所得の再分配」について、ジョン・ロック、及びロバート・ノージックの理論から考察しておきたい。
まず、最初に言及するのはロックの不朽の古典『統治二論』の後編「政治的統治について」、第五章「所有権について」である。
ロックの「所有権」の原語は、property(プロパティ)である。
以下、今後もずっと記憶しておくべきテクストを引用しておこう。

「ひとは誰でも、自分自身の身体に対する固有権を持つ」

「彼の身体の労働と手の働きは、彼に固有のものであるといってよい。従って、自然から彼が取り出すのは何であれ、彼はそれに自分の労働を混合し、それに彼自身のものである何ものかを加えたのであって、そのことにより、それを彼自身の所有物とするのである」

「労働は労働した人間の疑い得ない所有物である」

「私が他人と共同の権利を持っている場所で、私の馬が食む草、私の家僕が刈った芝、私が掘り出した鉱石は、他人の割り当てや同意なしに、私の所有物となる。それらを共有状態から取り去る私自身の労働が、それらに対する私の所有権を定めるのである」



ロックは、「所有への権限」が開始されるためには、「労働」が必要であると述べている。
つまり、同じ無人島に上陸したA、Bという二人の人物のうち、Aが森の樹木を伐採して小屋を建てたとき、自然の樹木から「小屋」という資本財を生産したAが、同時に消費する権利を持つ――プロパティを有するのである。
AはBを小屋に誘えるが、小屋はBとの共同財産ではない。
仮にBが樹木から「斧」を作れば、この斧のプロパティを有するのは無論Bである。
すなわち、自然に手を加えて何かを生み出す行為によって、初めて単なる自然であったものが「資本財」に変わり、消費されるに至る。
無人島においては、生産者が同時にその財の消費者でもある。
ロックによれば、private possession(私有財産)の始まりとは、このプロパティを成立させる「労働」(それは原始的な採集、狩猟なども含めて)なのだ。

判り易く述べると、働いて得た給与は誰のものでもない、全て働いた本人のものである。
これを更に発展させた内容が、十一章「立法権力の範囲について」で展開されている。
ここにおいて、ロックのプロパティは以下のように重みを増す。

「最高権力といえども、いかなる人間からも、その人自身の同意なしには所有物の一部なりとも奪うことはできない」

「何故ならば、(資産の所有権を含む)プロパティの保全こそが統治の目的であり、そのためにこそ人々は社会に入るのだから、国民がプロパティを持つべきであるということは必然的に想定され、また要請されることであって、そうでなければ、彼らは社会に入る目的であったものを社会に入ることによって失うことになると考えなければならず、そんなことは誰であっても認めない著しく不合理なことであるからである」



ここは特に記憶すべきテクストであり、本章を何度も読み返してその意義を咀嚼する必要さえあるだろう。
ロックは、確かにここで「最高権力といえども……」と記しているのである。

「君主や議会は、たしかに国民相互間のプロパティの規制のために法を作る権力を持つことはできるとはいえ、国民自身の同意なしに国民の所有物の全部、あるいはその一部を勝手に取り上げる権力を持つことはできない



繰り返すが、愕くべきことにこれはロックが活躍した17世紀に彼自身の手で記されているのである。
これと全く同一の内容を、ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』(1974)で以下のように繰り返している。

「個々人は目的なのであって、単なる手段ではない。それ故、個人を同意なくほかの目的達成のために犠牲にしたり利用したりすることは許されない。個々人は不可侵である

「自身の善のためにある犠牲を忍ぶというような、善を伴う社会的実体などというものは存在しない。存在するのは個々の人々、彼ら自身の個々の命をもった、各々異なった個々の人々のみである



要するに、ノージックがここで述べているのはロックのプロパティに立脚した「他者の人格の不可侵性」である。
この「他者の人格の不可侵性」を、ノージックは「カント的原理」とか、「付随制約」などと呼称しているが、基礎にあるのはノージック自身が本書第二章「自然状態」の中でロックを引用している以下のテクストで言い尽くされる。

「自然法の制度内で、許可を求めたり他人の意志に依存したりすることなく自分が相応しいと思う通りに、行動を律し財産と一身を処分することについて、我々は完全に自由である」



一言でいえば、「他者の生命・健康・自由・財産を侵害してはならない」のである。
我々はここまで読んで、「何故そんな当たり前のことをそれほどまでに君は強調するのか?」と問うかもしれない。
だが、彼は果たして本当にそれを「当たり前」だと考えているだろうか?
もしそうなら、政府が「所得の再分配」強制するのは何故か?
富裕層から多くを徴税し、貧困層には相対的に「より多く」分配することを我々に「強制」する行為は、我々のプロパティへの原理的な侵犯ではないのか?
もし彼が「それは貧しい人の生命を社会的に救済するためだ」というなら、素朴な生活を自発的に実行している原始的な市民(例えばアーミッシュ)を政府が「救済」するのはおかしいのではないか?
これについて、ノージックは「所得の再分配」を、「強制的分配」と呼び、『アナーキー・国家・ユートピア』五章「国家」において、以下のように述べている。

もしあなたの家の通りで、毎日別の人が通り全部を清掃するなら、あなたは自分の番が来た時にそれをしなければならないのだろうか

「あなたの選好とは関係なく、他人が先行してプログラムを自分たちで始めることによって、あなたの義務を生じさせることができるのだろうか」



「所得の再分配」を正当化する理論的大家として、ノージックは同じハーヴァード大学のライバルであったロールズを念頭に置いている。
ノージックがここで特に批判しているのは、同じ一派に属するハーバート・ハートの「公正原理」である。

「この原理の主張するところは、複数の人々がルールに従って正統で互恵的な共同事業に携わり、こうして全員のために利益を生み出すのに必要な形で自分たちの自由を制限する場合、これらの制限に従った人々は、彼らの順法によって利益を得た側の人々に対して、同様の黙従を要求する権利を有するのだということにある。この原理に従えば、利益の需要のみで、(それが明示または黙示の参加約束により与えられる利益でない時でさえ)、人を拘束するに十分なのである」



これらの言及はどれも、ノージックの「権限理論」を基礎にしている。
「権限理論」とは、以下の二つをコンセプトにしている。

⑴獲得の正義の原理

クルーソーは無人島で自然から小屋を作るなどして、プロパティを発生させることができる。すなわち、保有物を獲得する者は、その保有物に対する権限(=資格)を持つ。

⑵移転の正義の原理

本人の意志に従って、クルーソーはフライデーに小屋に対するプロパティを移転させることができる。すなわち、その保有物を得た者は他者に移転させる権限を持つ。

⑶ 論理的帰結

上記の⑴と⑵の適用以外で、保有物に対する権限を持つ者は存在しない。



ここまで来れば、我々は先述したロックが『統治二論』において展開したプロパティ論が、ノージックにおいては「権限理論」として再現前しているのを理解するだろう。
つまり、ノージックはロックのプロパティの概念を、徹底的に先鋭化させているわけである。
彼のminimal stateにまで至るプロセスとして決定的な重要性を持っていた「賠償原理」も、根源的にはこの「権限理論」=「プロパティ」を守るために存在していると解釈できる。
以上から、ノージックは最小国家における一つの帰結を展開する。
それは、国家は貧困状態にある人々を扶助する「義務」を持たない、という論理的帰結である。
したがって、ノージックの理論に基けば、現在の日本において政府に福祉支援を求める全ての人間は、そのいかなる権利も所有してなどいない。
何故なら、それは一部の貧しい人間のために、或いは一部の困惑した人間のために、他の人間が労働して稼いだ所得を「強制」的に奪う行為だからである。
既に見たように、ロックは明白に『統治二論』十一章「立法権力の範囲について」の中で、「最高権力といえども、いかなる人間からも、その人自身の同意なしには所有物の一部なりとも奪うことはできない」と断言している。
これを基礎に置く限り、たとえいかなる苦境にある人間であれ、彼らのために国家が他の構成員の「所有物の一部なりとも奪うことはできない」のである。
すなわち、どれほど貧しくて明日の命の保障もないような人間であっても、圧倒的に富裕な恵まれた人間の富を政府による「強制的分配」によって掠め取る行為は、論理的にプロパティの侵害に相当するのである。

では、何故ノージックの主張するminimal stateは、「再分配」を容認するのだろうか?
これは注意しておかねばならないが、ノージックが認める再分配は、福祉のための再分配ではなく、あくまでも「警察」的機能を持った「保護のための再分配」である。
それは、何びとも個人の生命を奪ってはならない、ということを守らせるために必要な最低限の「再分配」である。
だが、多くの人間は「再分配」に社会福祉政策としての機能まで含ませることを「当然」とみなしている。
この「当然」であるという認識に対して、原理的にはプロパティの侵害に相当するという反論が存在することを忘却すべきではない。
そして、この反論に論理的に対抗し、反駁できた人間は存在しない。
何故なら、「再分配」は、本当は50万しか寄付するつもりのない人間に、100万寄付するよう「強制」するような構造をどうしても持ってしまうからである。
それでは、ノージックのいうminimal stateは、隣人に対して冷淡な怖ろしい世界なのであろうか?
答えは、逆だ。
このような社会であるからこそ、市民同士の「自発的な相互扶助」のためのインセンティブが飛躍的に向上するのである。
政府が「慈善」を強制するような社会よりも、逆に政府が福祉政策を何もしない方が、我々は所有することの重みを、市場において創造的破壊を繰り返すことの大切さを、そしてボランティアや慈善団体などの重要性を今まで以上に認識するはずだ。


⑵【「所得の再分配」の論理的欠陥性の証明方法――「ウォルト・チェンバレンのケース」】


「所得の再分配」がなぜ論理的なエラーを持つのか、それをノージックの名高い「ウォルト・チェンバレン」の喩え話を紹介しながら証明してみよう。
ある国家で所得の再分配が行われたとする。
全ての国民に、ある日一律の3万円が支給された。
当然、この国の国民であるAもそれを受け取ったので、彼はその3万円で自分の敬愛しているヴァイオリニストBのコンサートへ向かったとしよう。
ヴァイオリニストのBも、無論同じ国家に属しているので一律に3万円を受け取っている。
この時点で、確かに再分配は公平に行われている。(この時の状態をD1とする)
Aには、無論この3万円で他にも様々なことをする機会があっただろうが、彼は自分の「自由」な意志に基いて、コンサートへ行くという行為を「選択」した。
一方、ヴァイオリニストのBのコンサート入場料は3万円であり(あくまでも喩えなので、価格に特に意味はない)、この入場料がそのままBの取り分になるということでプロデューサーと契約していたとする。
コンサートには、10万人が集まった。
よって、Bの取り分は単純計算で、チケット代3万×動員数10万=30億である。
断っておくが、Aは自分の意志でBに3万を支払うだけの価値があると判断したからこそ、チケットを購入したのであり、他の観客も同様である。
所得再分配の初期の時点で、D1が平等であったという点に誰も異論はない。
だが、今、Aの財布の中はチケット代に消費した結果、ゼロであり、Bの口座には30億存在する。(この時の状態をD2とする)
さて、このD2は不平等であろうか?
ここが、実は最もノージックの例が強力な魅力を発揮する点である。
彼は以下のように述べている。

「もしD1が公正な分配であれば、またその分配の下で彼らに与えられていた取り分の一部を移転すること(すなわち消費すること)によって、D1からD2に自発的に移行したのであれば、D2もまた正当ではないだろうか。人々がD1の下での資源を処分する権限を有しているのならば、ヴァイオリニストB(原文はチェンバレン)に譲渡したり、交換したりする権限もまた有していることにならないだろうか。他の誰が正義に基いて批難がましいことをいえるだろうか」

 

この見解が示しているのは、仮に初期状態として所得を均等化したとしても、個人の自由な裁量によって消費が行われることを認める限り、論理的必然として所得格差が生起するという決定的事実である。
何故、その結果までを「不平等」だといえるのだろうか、とノージックは述べている。
初期設定は皆、同じはずである。
Aには、より所得が増す別の何かにその3万円を使ってスキルアップを目指すなどの道も存在していたはずだ。
Bの30億円は、Bが稼いだ以上、彼、彼女のものなのである。
たとえAがBの才能に嫉妬し、その口実に更に所得の分配を望んだとしても、Bは自分の才能を社会に認められたからこそ、すなわちBの演奏には確実に3万円以上の至上の価値が存在すると認められたからこそ、Bの下には結果的に30億が集まったのである。
どうして、これが不平等なのであろうか?
何故、平等主義者はこの30億を、貧しい者に分配せよというのか?
ここで重要なのは、ノージックが「自己所有権」の概念に立脚している点である。
これは、「所有する主体と所有される対象は同一である」という理念に基いている。
多くを稼いだ人間からはより多くを掠め取るという累進課税は、Bの「才能」を社会全員のための「資源」として把握し、再びそれを分配することに繋げる。
ノージックは、「自己所有権として人々を承認することは、人々を平等者として処遇するために決定的に重要である」と考えていた。
ノージックは、たとえ生まれつき目が見えない人であれ、両親が貧しくて学校にすら行けない者であれ、なにびとも個人の「自己所有権」を侵害することは絶対的に許されるものではないと考えていた。
ゆえに、一部の貧困層がたとえ死の危機に瀕していたとしても、彼らが他者から所得再分配によって救済されて然るべきだと考えるような余地はないのである。
ここで強調しておきたいのは、いかなる状況下であれ、それが「法」に違反しないのであれば、我々は市場の競争ゲームを自由に振舞う権利を持つということである。
我々は基本的に自分の所有物を守り最優先させる権利を持っている。
貧者に富を「分配しない」からといって、彼ないし彼女を批判するような権力は全て自由社会の基礎に違反している。
ハイエクも述べるように、「強制された善」など、何の価値もないからである。
ノージックは、このようなリバタリアニズムの見地から、自己所有権を侵害する政府による強制的な所得の再分配政策は批判されるべきであると考えている。
平等主義者は「貧しい人への分配」を説くが、それを「強制」するのは完全に誤っている。
フーコーの権力論によれば、そもそも「真理」とはあくまでも人間によって生産されるものであるに過ぎない。
貧者への施しを人間性の条件にしたり、真理概念に帰属させることで、それをしなかったり拒んだりした者を余白へ追放することは、民主主義の原則である「少数派の意見の尊重」に背反する。
我々には、貧者へ施す自由も、施さずに自己利益を追求する自由も、等しく用意され、全ては自由な裁量によるのである。
これを侵害する時、そしてそのようなイデオロギーが国家体制と化す時、ハイエクがいみじくも述べた「隷属への道」が始まるのだ。


⑶【マイケル・サンデルのノージック批判に対する論駁】


さて、ここで興味深い問題を紹介しよう。
ノージックの後輩に当たるマイケル・サンデルはハーヴァード大学の講義の中で、彼に対して非常に重要な批判を展開している。
ここでは、サンデルがノージックの理論のどの点に対して問題を投げかけているのかを分析することで、その欠陥を克服することを企てたい。
サンデルはまず、リバタリアニズムそのものの特徴を以下の三つの「拒否」で表現している。

① パターナリズムの拒否
② 道徳的法律の拒否
③ 再分配の拒否



②については留保すべきだが、残る二つは確かにハイエク、M.フリードマン、ノージック、ロスバードなどリバタリアニズムの論客の主要な特徴である。
サンデルは、「リバタリアニズムの主張が孕む道徳的難問」として、「自己所有権」をあげている。
つまり、彼はロックのプロパティ(所有権)に立脚するリバタリアニズムの根幹そのものが、道徳的なエラーを招く危険性を指摘しているのだ。
その上で、サンデルはリバタリアニズムの考え方を伝える上で非常に有名なノージックのあの「ウィルト・チェンバレンのたとえ」を紹介している。
このたとえから、彼はリバタリアニズムの中核に存在するテクストとして、ノージックの以下のテクストを引用している。

「Xに対する所有権という概念の中核をなすのは……Xを用いて何をなすべきかを決定する権利である」


では、何故この所有権=プロパティが道徳的難問を招くのだろうか。
それを立証するために、サンデルは一つの実在の犯罪事件を取り上げる。
ノージックの「ウィルト・チェンバレン」がリバタリアニズムの代表的な「たとえ」だとすれば、サンデルの「アルミン・マイヴェス(食人鬼)」は、その反論として有益な「たとえ」といえるだろう。
アルミン・マイヴェスはドイツのプログラマーで、ある日、ネット上において「殺された後に食べられたい人」を募集した。
一人が名乗り上げ、マイヴェスは彼を殺し、食べたという。
この『地獄篇』のウゴリーノ伯を彷彿とさせる忌むべき事件は、被害者が「殺される」ことを希求していた点、かつ「食べられる」ことにも同意していた点で、確かに「交渉の随意的な成立」が働いている。
ノージックは、ある人間が所有物の移転に同意してさえいれば(何らかの強制ではなしに)、彼はそれを他者に移転させることができると考えていた。
この「移転の正義の原理」の中核に存在するのは、「本人が自分の意志に基く場合」、すなわち「随意的な成立」が認められる場合のみである。
この所有物は、ロックに依拠するノージックの場合、「命・健康・自由・財産」に相当する。
すなわち、ある人間が自分の所有する「命」を、他の人間に移転させても良い(彼に生かすか殺すかを選択させる所有権を与える)という「移転の正義の原理」が、ノージックにおいては働くのである。
サンデルがメスを入れるのはまさにここであり、彼は以下のようにノージックに反論している。

「リバタリアンの主張が正しいとすれば、同意の上での食人を禁止することは公正ではなく、自由に対する権利の侵害である」



サンデルの反論が正しいとすれば、minimal stateでは同意の上での食人だけでなく、「自由」に殺し合える権利までをも容認することになるだろう。
だが、これは「自然法」に明らかに悖る。
サンデルは、おそらくノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』の第二章「自然状態」で、ロックの「自然法」についての見解を引用していることを失念している。
自然法は、明文化されていない神の法であって、そこには「汝殺すなかれ」が言語化されずとも刻み込まれている、というのが前提である。
だとすれば、たとえ「随意的な自殺幇助」が成立したとしても、ノージックはそれを「他者の所有物であり不可侵である生命を、たとえ合意の上でも奪った行為は自然法に背反する」と、ロック的に主張することは常に可能である。
サンデルがリバタリアニズムの特徴の二つ目に掲げた「道徳的法律の拒否」というのは、あまりにも極端なリバタリアニズムの一派の見解を全体へと拡大解釈しただけのものであると考えることができる。
私が読んだ限り、ノージックが「食人の随意的な成立」を「自由」の名のもとに容認していたとは考えられない。
また、リバタリアニズム全体を『アナーキー・国家・ユートピア』を代表例にして語るというサンデルの論駁方法は、どこか狭小である。
仮に百歩譲ってサンデルの批判が正しいとしても、minimal stateを核にして「ミニマルな法」の中核に、「自然法」を明記してさえいれば、そもそもサンデルが食人鬼のたとえを出す余地はない。
よって、サンデルの批判はリバタリニアズムに対する根源的な批判であるとはいえない。
むしろそれは、「ミニマルな法」が道徳的なものでありさえすれば、minimal stateでも社会は正常に機能し得る、という点を認めているということになる。
つまり、サンデルはノージックの理論に対して、原理的な「補強」を与えていると、我々には発展的に把握できるのである。


⑷【「所得の再分配」はいかなる場合に必要なのか?】



さて、ここでそもそもノージックがどういう国家を目指しているかについて言及しておきたい。
彼の政治理論の骨格である「最小国家(minimal state)」の理論についてである。
ノージックはハイエクやM.フリードマンらと同じく、基本的に「制限された政府」を目指すということでは一致するが、目指し方が根本的に異なる。
彼はまず、完全な「自然状態」を想定する。
いわば、西部劇における無法状態をイメージして欲しい。
たとえ西部劇的な状態であっても、常に何らかの法は暗黙裡に存在している。
いわば、法文化されていない法のことである。
この「神の法」(ロック)である「自然法」は、「自然状態」においても働くと考えられる。
この前提を批判する者は、そもそもリバタリアニズムの基礎概念である「個人的自由」を保護するためのいかなる要因も見出せないことになり、カオスに身を置くことになりかねない――因みに、このような人物的類型こそ、ノージックの最小国家論を成立させるための分析対象であることが後に明かされる。
無論、自然法を守らずに一生ギャングとして生きるのも彼、彼女の自由である。
しかし、人間は彼らだけが全てではない。
ギャングの活動に危険を感じ、自発的に彼らから近親者や仲間を保護するようなグループも必然的に出現する。
現実的な歴史を鑑みても、自然状態においては、公共精神が自然に芽生え、相互扶助の原理が作動すると考えるべきである。
こうした中で、自然状態から創出されるのが、「相互保護協会」である。
これは合理的な要請に基いて自発的に組織化されたものであり、おそらくこの段階ではマフィアによる一種の浄化機能に近い役割も具備していると考えられる。
しかし、この協会は他の協会との競争関係に身を置くことにより、じょじょに「企業的側面」を前景化し、高度に効率化していく。
すなわち、「相互保護協会」から、「商業的協会」が生成する。
この「商業的協会」が、合併、吸収合併、カルテル、会員パターンの変更などを繰り返す内に、やがて自然状態であったはずの領土内に、人間たちによる一つの「支配的保護機関」が生成する。
無法状態を愛するギャングたちは、当然この「支配的保護機関」と何らかの衝突を起こすことになるだろうが、少なくとも大多数の人間はこの機関から保護を受け、その代わりに一定の額を寄付するだろう。
さて、この「支配的保護機関」は国家か否か?
ノージックは、「否」と答える。
ここで、「国家」とはそもそも何であるか? という本質的な問い――哲学史における最も根源的な「問いの中の問い」――が浮上する。
「自然状態」から出発して生成された「支配的保護機関」は、国家ではない。
何故なら、この機関は一定の額を寄付してくれた人にしか保護を与えないからである。
また、この世界においては、未だに私的な処罰を行うような一匹狼の無法者なども存在しているからである。
彼らは何らかの仕打ちを受けた報復を、「支配的保護機関」に依頼せずに、自分自身で処罰しようとする。
こうした状況が許されてしまう限り、それは「国家」の条件を満たしてはいないのだ。
「支配的保護機関」が「国家」化するためには、まず、許可された実力行使を行う権限をこの機関が完全に「独占」する必要がある。
これが成功すると、実力行使による保護は全て「支配的保護機関」が担当するようになる。
これを、ノージックはultra minimal state(超最小国家)と呼ぶ。
しかし、これもまだ完全な「国家」となるためのもう一つの条件を備えていない。
何故なら、この段階でもまだ、「家族を奪われて復讐心に燃えるマフィア的存在者」を満足させるだけの機能を備えてはいないからである。
何が足りないのだろうか?
それは、彼が家族を奪われたことに対して、「支配的保護機関」が犯人に制裁を加え、この不幸な男性のために「賠償」するという約束である。
「賠償」は、彼が自分の意志に基いて自由に犯人を処罰する権利(自然権)の行使を「支配的保護機関」が許さないということに対して支払われる。
つまり、機関が彼に哀れみを覚えて賠償してやるのではなく、あくまでも機関が彼の私的制裁をする権利を奪うという見返りに、賠償するのである。
ノージックの論理によると、賠償するために機関が取る行動は、端的に彼に「保護サービス」を提供することである。
当然、全ての人間に「保護サービス」を提供する場合、我々の社会のように「支配的保護機関」は全ての人から一定の金額を徴収せねばならない。
「保護」を与えるためには、それだけ人件費や諸々の保護費用がかかるからである。
すなわち、彼らは「所得の再分配」を許さねばならない。

ノージックの国家生成のプロセスには、このような「賠償原理」が一つの核心として機能している。
これについて我々はより詳しく言及しておかねばならない。
というのは、D.フリードマンらのアナルコ・キャピタリズムが何故理論として不完全であるのかを、いわばノージックがこの原理によって論駁しているからである。
例えば、癲癇症のAが自動車を運転したがっているとせよ。
我々は、その行為を他者の安全の為に禁止する権限を持つ。
しかし、現代の自動車中心の社会にあって運転を禁止されることは、その人に深刻な「差別的不利益」を与える。
Aの運転を禁止する見返りに、たとえ金銭的コストがかかろうとも、我々はAのためにタクシーを手配させるなどの別の手段を考えねばならないだろう。
ゆえに、Aにはこの「差別的不利益」に対し、「賠償」を受ける権利があるとノージックは考える。
これが「賠償原理」の本質である。
こうした「賠償」をしてくれない「無政府」状態で、果たして治安は真に維持されるだろうか?
これこそ、本書で「アナーキー」が批判される最大の理由なのだ。
ここまで来て、ようやく我々の前に一つの極めて重要な点が浮上する。
それは、全ての人間に与える保護サービスを可能にするための「再分配」が、けして「福祉」や「平等」によって成立しているわけではないということである。
「再分配」というのは、全ての人間に対する保護サービスの提供を行い、「賠償原理」を完全なものとするために必要な手段なのだ。
「平等主義」ではなく、「賠償原理」の論理的一貫性のために、「再分配」は正当化できるのである。
今、まさに自分たちで私的な制裁を加えていた無法者たちも「保護」することで、原理的にその領土内の全ての人間に対する保護サービスを提供するに至り、そのための実力行使の権限を「支配的保護機関」が「独占」したとせよ。
これこそが、ノージックの名高い、「minimal state (最小国家)」である。
ここにおいて、ようやくultra minimal stateは、minimal stateへ――すなわちノージックが認める「国家」条件を満たす次元まで――到達した。
ノージックのこの「最小国家」生成のプロセスは、以下の三つの魅力を少なくとも今後も持続し得る。

⑴アナルコ・キャピタリズムを正当化する全ての論客(D.フリードマン、M.ロスバードなど)に対する最も強靭な批判を展開可能

⑵F.ハイエクやM.フリードマンら、「穏健なリバタリアン(古典的自由主義者)」が目指した「制限された政府」を、原理的な「機能最小限」のレベルにまで削ぎ落とした国家形態を提示可能

⑶ノージックの理論的な礎であり師であるジョン・ロックの「プロパティ(所有権)」の概念を、極限まで追求した国家の在り方を提示可能



故に、私はここでロバート・ノージックのminimal stateこそ、無政府資本主義者の目指す「自然状態」と、古典的自由主義者が目指す「制限された政府」の双方が持つ「曖昧さ」を、論理的に克服したリバタリアニズムの国家論的帰結であると考える。
私がノージックの国家理論に、これまで読解してきた自由主義文献の中で、最も先鋭的かつ合理的なモデルを見出すのは、上記の三つに由来している。
もしも仮に、必要最小限の機能だけでは問題を解決できないとして、政府の権力を増大させることがあったとしても、我々はこの時、ノージックのminimal stateと、ハイエクのリベラルな国家のちょうど中間の軸上を移動するに留まるだろう。
いわば、「ノージックとハイエク」――この双方がリバタリアニズムにおける「政府の大きさ」を測る上での決定的な、二つの基準点に相当する。
自由主義者であれば、ハイエクが認めた「明日の生活も保障されないほど貧しい人々への福祉支援制度」以上の、パターナリスティックないかなる政策も認めないはずであるので、「福祉の枠」の大きさを考える上でも、ノージックとハイエクは、リベラル派にとってまさに二つの基準点を提供しているといえるだろう。
真の自由主義者(すなわち、アクトン卿の系譜に連なる真のリバタリアン)なら、ノージックの最小国家「よりも大きいが」、ハイエクの制限された政府「よりも小さい」国家の枠内に留まるだろうということを、我々は今ここで明確に記しておかねばならない。
したがって、ハイエクが容認した大きさの政府「より大きい」全ての政府は、それがどれほどポピュリズムに幻惑された一般大衆から支持されていようとも、「競争的資本主義」(M.フリードマン)を妨害する「拡張国家」であると我々は強力に主張していかねばならない。






「参考文献」


アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界
(1995/01)
ロバート・ノージック

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