† キリスト教神学 †

E.S.フィオレンツァ(ハーヴァード大学神学部教授)の主著『彼女を記念して―フェミニスト神学によるキリスト教起源の再構築―』を今こそ読む

fiorenza.gif
Elisabeth Schüssler Fiorenza


 このページでは、ハーヴァード大学神学部でフェミニスト神学を教えるエリザベス・シュスラー・フィオレンツァ女史〔Elisabeth Schüssler Fiorenza (born 17 April 1938, Cenad)〕の主著『彼女を記念して』についての記録を残す。ここで主として対象にするのは、第二部第四章「ユダヤ教内革新運動としてのイエス運動」である。


【初期イエス運動の中核を担っていたユダヤ人女性たち】


 周知のように、イエスはパレスチナ運動の創始者である。パウロ改心以前のミニストリー(宣教活動)では、ユダヤ人女性たちがイエス運動の指導的存在であり、中枢を担っていた。イエスという存在を、父権的なユダヤ教を女性的なキリスト教原理へと解放した存在として把捉することに対して、フィオレンツァは以下のような反論を紹介している。

「ユダヤ教的背景の極端に否定的な叙述に依存している。何故なら彼をラディカルな者として――つまり伝統を覆したとして――叙述する唯一の道は、伝統をできるだけ否定的に叙述することだからである。何故なら、彼はいかなる意味においても父権制を強化しなかったという証拠はあるが、それを覆すためにラディカルな何かをしたという証拠もないからである。そこで自分たちの主張を成り立たせる唯一の道は、ユダヤ教を否定的に叙述することによってのみということになるのである」ジュディス・ブラスカウ



 これは記憶に値するテクストである。キリスト教にフェミニズムが連結するように、ユダヤ教にもフェミニストは存在し、彼女たちはキリスト教的フェミニズムが、ユダヤ教を「父権制」として把握し、その解放者としてイエスを捉えるという「常套的方法」に異議を唱えているのだ。フィオレンツァはこれを重視し、初期キリスト教の中心をパウロなどの初期伝道者の男性中心的な規範ではなく、「ユダヤ教に属するユダヤ人女性」を中心にして再解釈している。

「ユダヤ人自身の文化の父権制的な文脈のうちにある、ユダヤ女性たちの物語、その批判的な衝撃力を放棄することは、ユダヤ教とキリスト教の女性の遺産を放棄することになるであろう。それゆえに、イエス運動を、支配的な父権制文化・宗教構造内でのユダヤ教の運動として再構築することは、ユダヤ教内のフェミニスト的推進力の輪郭を描き出すことである



 我々の今後のユダヤ教→キリスト教というプロセスに対する認識は、常に「ユダヤ教内部の女性」を中心にした「イエス運動」に最大の力点を持たせるものであらねばならない。それは根本的に、現代のファロゴセントリックなキリスト教神学を脱構築するための最大の武器を提供するであろう。彼女の以下の定式はその上で重要である。


 フィオレンツァの提示するフェミニスト神学の基本的視座

(1)「テキストと歴史資料は――ユダヤ教のものもキリスト教のものも同様に――男性中心的なテキストとして読まなければならない」

(2)「ユダヤ教テキストの中の女性の美化も侮辱も周縁化も共に、父権制の観点からのリアリティの社会的構築として、また、男のリアリティの投影として、理解するべきものである」

(3)「編纂された父権制的な法律から成る公式の正典というものは、女性と男性の実際の相互関係や人間関係、そしてその正典によって治められている社会的リアリティよりも、全般的にさらに規制の厳しいものになっている」

(4)「女性の実際の社会的・宗教的身分は、イデオロギー的・規定的言説よりもむしろ、女性の経済的自立と社会的役割の程度によって判断しなければならない」



 聖書はこのように、「女らしさ」の規範を生産することになる。彼女が旧約の中で最も重視するのはユディト記である。

「……賢く強い女性のイメージは、イスラエルの想像力をかきたて、宗教的・民族的闘いの中での希望と忍耐力とを生み出すことができたであろう。一女性のこの物語は、エッセネ派、ファリサイ派、そして革命家的・預言者的グループにも訴えることができた。キリスト教の著者で最初にこの物語に言及したのはローマのクレメンスであるが、彼は“多くの女性たちが神の恩寵によって力づけられた男性に匹敵する行為を遂げてきた”ことを示すために“祝福されたユディト”の例をあげている。それ故に、ユダヤ女性、殊に一世紀のユダヤ女性と、ユダヤ教神学全般を、一方的に否定的な観点から描くことは大きな誤りであると思われる」フィオレンツァ



Salvador Dalí
《Christ of Saint John of the Cross》(1951)Salvador Dalí

【イエス運動とユダヤ教諸派の決定的差異】


 当時存在したユダヤ教諸派における「イエス運動」(ナザレ派)の決定的な特徴とは何であるか? 諸派についての彼女の言及に先に触れよう。

「エッセネ派」

「国中の町や都市に隔離的なコミューンを樹立して、全てのものを共有していた。そして体制と異なった清浄の儀式を採用し、農耕に従事し、律法を大変厳格に解釈していた。例えばクムラン共同体は、エルサレム神殿の神聖さが回復される最後の聖戦でイスラエルが解放されるまで荒野に退去して、承認されていない儀式と祭司制度でもって神殿の代替となる聖なる民を創造しようとしていた」

「シカリ派」

「軍隊的叛乱のために困窮者、公民権剥奪者、ローマとエルサレムとの重税にあえぐ地方の人々を集め、ローマの占領と神聖冒涜からエルサレムとイスラエルを解放しようとしていた」

「ファリサイ派」

「民衆から分離しなかったが、祭儀的な清浄さや祭司的な神聖さを日常生活に持ち込むことによって、聖なる祭司の民のヴィジョンを実現しようとしていた。彼らの主要な関心事は、食卓共同体の祭儀的清浄さの保持、殊に食事律法の遵守にあった。一般の人々とは対照的に、彼らはラビ的・祭司的十分の一税を払うことや安息日の遵守と清浄の律法を守ることに細心の注意を払っていた」

「サドカイ派」

「上流階級、土地所有者、承認の間で最も影響力を持っていた人々で、自分たちがイスラエルの契約の正当な相続人であることを主張した。そして彼らは成文律法のみが啓示の権威を持つがゆえに、これを厳格に固執しなければならないと主張した」

「洗礼者ヨハネの運動」

「ヨセフスによると、西暦70年以前のユダヤ教に出現した黙示文学的・終末待望的預言者は、人々を荒野に導くことによって出エジプトを再演しようとした。洗礼者ヨハネは神の怒りと審きを告知し、悔い改めの洗礼を受けるようにと人々に呼びかけた」

「イエス運動」

「イエスにとってバシレイア(神の国)の現実は、まず第一に聖性ではなくて全体性を意味するので、イエスが悪霊を追い出すとき、病人や儀式上の不浄の者を癒す時、失われていたが今は見出された者についての物語や、招かれなかったが今は招かれている者の物語や、最後の者だが最初になるであろう者の物語を語るときはいつでも、神のバシレイアの救いは現在であり、経験可能なものである。神のバシレイアの力は、貧しい者、罪人、徴税人、売春者――聖なる民に属さない全ての人々、義人の目には何らかの欠陥のある全ての人々との、イエスの食卓共同体において、実現される」



 諸派とイエス運動の決定的差異は、彼が通常のユダヤ教律法では回収し切れなかった「余白」に属する人々を最大限に評価した点である。イエスはまさに、「余白」、「欄外」、「社会の外部性」に属する人々を、最も神聖なる光に包まれた者として規定し、いわば当時の宗教的なパラダイムシフトを企てた。彼は「余白」の回収者である。これがフィオレンツァのいう「全体性」の意味である。

「福音書の最初期層は、イエスが三つの顕著なグループの人々のためにバシレイア(神の国)を宣言したと繰り返し断言している。(1)貧窮者(2)病人と身障者(3)徴税人、罪人、売春者である」



 イエスの眼差しは、常に「中心」ではなく「周縁」に、社会的に光の当たった人物よりも、むしろ日陰に追いやられている人にこそ向けられる。これこそがイエス運動が他のユダヤ教諸派と決定的に異なる点であり、フィオレンツァはイエスを「人間性を快復させた教祖」として認識している。彼女にとって「悪魔」とは、人間を「非人間化」する権能として認識されており、霊的な悪意ある実体などという以前に、まず「人間性」を破壊する存在(それは機械でもあり得るし、無論人間自身でもある)として規定される。
 サタンとは、いわば「非人間的権能」の象徴である。この解釈は、何らかのイメージの閉鎖構造に悪魔一般を規定しない点において、また、人間自身にも悪魔化する作用を認める点において、極めて重要で示唆深いものである。イエス運動は社会的下層、欄外、余白からの運動であり、「孤児」、「娼婦」、「身障者」、「罪人」などがその運動の追従者となった。印象的なことに、初期イエス運動の大半は、女性であったという。

「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちは、あなた方より先に神のバシレイアに入る」(マタイ21:31)


 では、イエスや洗礼者ヨハネ以外に、カリスマ的な預言者は当時存在しなかったのであろうか。我々はどうしてもこの二人のみに注目しがちである。実はイエスの同時代人に近しいもう一人のカリスマ的指導者として、ユダヤ教神学からの独立をガリラヤ人内部から主張した預言者ハニナ・ベン・ドーサも忘却してはならない。彼は律法機能が形骸化していることをイエスとは別に察知し、ガリラヤ人たちにそれを伝えていたと考えられる。おそらく彼はナザレのイエスほど劇的な死を経ることがなかったために、歴史からその名を忽然と消すことになったが、イエスの発言を全て彼の「オリジナル」と規定することは危険である。イエスのパロールにおいてもintertextuality(間テクスト性)は成立可能であり、彼は当時の律法批判を有機的に吸収し、それを判りやすい「喩え」によって社会的下層に広めていたと推測できる。

【ソフィアとしてのイエス】


 ここからが、フィオレンツァのテクストが最も美しく輝く箇所である。彼女は、イエスが神を「女性」としてイメージしていたと考えている。それは生物学的性差としての男性原理を超越した存在としての意味においてである。その上で、彼女はマタイが神の「智恵(ソフィア)」としての女性原理を、イエスと同一視していた点を重視している。ユダヤ教智恵文学の伝統(ソフィアを「智恵の女神」として認識する)に触れた後、フィオレンツァは以下のように述べている。

「神なるソフィアは女神の言語とゲシュタルトによるイスラエルの神である。ソフィアは姉妹、妻、母、愛する者、先生と呼ばれている。彼女は途上の指導者、イスラエルの説教者、監督並びに創造主なる神である」



 ここで驚くべきことに、フィオレンツァはソフィアを「イスラエルの神」と同一視している。それだけでなく、ソフィアには一切、男性原理的な表現「彼」、「父」、「兄弟たち」が見られない。その上で、フィオレンツァはソフィアを「創造主なる神」とまで呼んでいるのである。これは知恵文学について長けた者からは何気ないテクストに映るかもしれないが、フィオレンツァがカトリックの女性であるということを踏まえると、いかに革新的な命題を提示しているかが判るだろう。事実上、このハーヴァード大学神学部の類稀なる女性教授は、聖書における「父=神」の伝統そのものを、「女性原理」化したということができるだろう。
 こうした見解に触れていて、我々はふと思い出さないであろうか? ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの教説について論じたバーバラ・ニューマンの驚くべき論稿を。彼女もまた、神を「女性原理」として把握している。ニューマンによれば、「エクレシア(教会)」、「マリア(聖母)」、「カリタス(聖なる愛)」という「三人の神的女性」の胸元で憩う聖域として、カトリック教会が捉えられているのである。最も先鋭化されたヒルデガルト自身の言葉でいえば、神とは、matrix(子宮)である。ヒルデガルトだけでなく、12世紀というキリスト教神秘主義における「女性の時代」において、神からの恩寵は「イエスの乳房」から溢れ出る恵としても解釈されている。この場合、女性神秘家たちの幻視において出現したのは、いうまでもなく「女性キリスト」である。このようなキリスト教神秘主義の女性的伝統とその価値観は、我々のフィオレンツァにおいても踏襲されている。
 神が「父」であった時代は終幕し、20世紀後半以降、キリスト教は「姉妹」の時代に入ったのである。何故、「母」ではなく「姉妹」とすべきかについては、神を「母性原理」にのみ解釈することで、「子供を生めない女性」を新たに欄外、余白、外部性へ追いやる危険性が生起するからである。神を「慈愛に溢れた姉妹=キリスト」として解釈することで、フェミニズム内部の母性中心主義という新たな権力を回避できる。何故なら、「姉妹」は子を生む「母」としての機能のみに自己閉塞化しないからである。一人一人の女性の「個別性」を重視し、マリアという伝統的な母権性に回収できない「姉妹」として、「キリスト」を再構築する行為は、ファロゴセントリズムに支配されて現在に至っているカトリック教会を、内部から、ディコンストラクトする最大の武器である。フィオレンツァは更に続けている。

「ソフィアは“活力に満ち、理知に富み、唯一である”(智恵の書)として描写されている。彼女は人間を愛する霊であり、神の王座を共有する方である。彼女は神の知識にあずかる者、神の業の共労者、光の神の輝き、神との共生に生きる者、神の善のイメージである」



 フィオレンツァは今や、キリスト教の神を以下のように規定する。

「イエスの生と死についての最初期パレスチナ神学の記憶と解釈は、彼をソフィアの使者として理解し、後にはソフィア自身として理解する。最初期のキリスト教神学はソフィア論なのである。イエスはおそらく自分自身をソフィアの預言者であり子であると理解していたであろうから、イエスのミニストリーと死を神なるソフィアの観点で理解することは可能であった」



 この記念すべきテクストにまで至って、我々は初めてフィオレンツァが原始キリスト教の教えの核心を、「ソフィア」の伝統から解釈していることが理解できるだろう。ナザレのイエスは、男性的身体を持つ、すなわち「男性性」に従属化したような存在だったのではない。それは一般的神学の世俗化されたイメージに過ぎず、フィオレンツァ=ニューマン的な女性神学に基けば、イエスとはソフィアなのである。イエスに洗礼を与えた洗礼者聖ヨハネも、フィオレンツァは「ソフィアの使者たち」の一人として認識している。イエス運動の中核的支持母体が、ユダヤ人女性たちで占められていたという見解も、こうした教義的側面から理解できるだろう。

「ガリラヤの女性たちはイエス運動の異邦人への拡大にあたって決定的な役割を果たしただけでなく、イエスの逮捕と処刑後のこの運動の継続そのものにとってもまさに、決定的な役割を担っていた。ガリラヤからイエスに従ってきた女性弟子たちは、イエス逮捕後も逃げなかった。そしてイエスの処刑と埋葬のためにエルサレムに留まっていた



 フィオレンツァは、イエス運動の担い手であったガリラヤの女性たちの中でも、最も特筆に値する指導的存在者こそが、マグダラの聖マリアであったと考えている。これは『マグダラのマリアによる福音書』で、彼女が弟子たちの中で最もイエス御自身から重要視され、彼の処刑後はその指導的役割を引き継いでいたと解釈できる記述からも裏付けられる。


【女性原理による聖三位一体の書き換え】


 フィオレンツァの女性性の快復を意図した思考は、男女の社会的平等という現代社会においては一般的なコンセンサスが、聖書においては未だにラディカルなテーマであることを再認識させる。聖書を正典とする宗教を信じる限り、我々は女性を「アダム=男性の肋骨から創造された従属的存在」として規定してしまう可能性を常に持っているといえるだろう。彼女はこの創世記的な前提を、新たに「男性と女性は平等に創造されている」という、当然の考えへ結び付けるように促している。

「二人の人――男性と女性――は平等な者として創造されているのであるから、共通の人間生活と社会的人間関係に入るのである」



 教会において司祭は父権的な権能を担う存在である。しかし、フィオレンツァは「誰をも父と呼んではならない。何故ならあなた方の父は一人だからである」というマタイによる福音の“原文に近い形”を引用している。ラビ、司祭、地上の父は存在しないのであり、真の父である神は、常にソフィアとしての女性キリストなのである。「神よ」という意味で用いられる「父よ」という定型句は、このように父権的構造を象徴しているがゆえに、今や解体の対象になる。「父=神」という従来の性差別的図式は、まさにフィオレンツァの本書『彼女を記念して』において更新され、「ソフィア=イエス」を核にした「姉妹」的な超越性の原理へと止揚されるのである。イエスの額に油を注いだ女性のエピソードは、女性による「承認」という象徴的な意味を持っていると解釈されている。洗礼者聖ヨハネが「水」によってイエスを神の子として「承認」したように、この女性預言者は「香油」を注ぐことで、彼を「承認」したと考えることができる。カトリック教会とは、いわばこのヨハネ側の男性原理を基盤にして構築されてきた制度=組織であり、それはこれまで香油を注いだ女性の存在を過小評価してきた。しかし、フィオレンツァは今や「女性の教会」の快復を希求している。それは初期イエス運動に最も近い形式を蘇生させることに他ならないからである。
 繰り返しておかねばならないのは、イエスは男性よりも、むしろ「女性」の方に自己同一化した預言者だったということである。イエスのバシレイア(神の国)の真意とは、社会的外部性へと追い込まれ、「声を奪われた」人々、端的に当時のユダヤ人女性たちに光を当て、彼女たちに神の現存を見出す救いの教説である。それがソフィアの意志であり、聖三位一体の意味とは、「父・子・聖霊」という父権的構造ではなく、むしろ「ソフィア・女性キリスト・聖霊」という言葉にすることで、初期イエス運動の展開した真理により接近するものなのである。





「参考文献」

ab254.jpg

彼女を記念して―フェミニスト神学によるキリスト教起源の再構築
関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(4)



~ Comment ~

幼きイエスの聖テレジアの詩にありました。その時は分かったようで、よく分からなかったのですが。。
今日、違うページの聖ヒルデカルドの幻視の説明を拝見していて、なんとなくそうなんだ〜って思えてきました。
・神の露 〜おとめマリアの乳〜
の抜粋
あなたの露 それは おとめの乳!
あなたの神聖な血 それは マリアの乳!
天使のパンは おとめの乳!
私の白いホスチア それは おとめの乳!

今日その本を見返すと、注釈に、聖女は聖アウグスチヌスの詩篇注釈からヒントを得たと書かれていました。
聖ヒルデガルトも、何かしらについてを啓示されたのでしょうか。それからパパ・フランシスコも、父なる教会から母なる教会へ、みたいに仰っておられました。
やっぱりコヘルトの書にある歴史は繰り返すのですかね(*^^*)こちらにあったTOMOHISAさんの「すべては聖書に内包されている」という感じの解釈に、妙に感動してしまいました。聖霊を通して、これほど豊かに賜物をくださる天の父に感謝しないといけませんね…もちろん、私も感謝します。天の御父は、神様の愛する方々の目や耳や言葉を通して、私を見えるように聞こえるように知るようにしてくださる場合が多いのです。そして神様がお使いになる方々が、TOMOHISAさんが、この世においても天においても神様の幸せで満たされますように!!
聖トマスアクィナスの素敵な祈りがりました。

私の神よ 私があなたを忘れても、
あなたは私を忘れないでください。

私があなたを見捨てても、
あなたは私を見捨てないでください。

私があなたから離れても、
あなたは私から離れないでください。

私が逃げ出しても呼び戻し、
反抗しても引き寄せ、
倒れても起き上がらせてください。


私の神 主よ お願いいたします。

いかなる虚しい考えによっても
あなたから遠ざかることのない目覚めた心を、
いかなる邪まな意向によっても
歪められる事のないまっすぐな心を、
いかなる逆境にもめげず
勇敢に立ち向かう強い心を、
いかなる卑しい情欲によっても
打ち負かされることのない自由な心を、
主よ 私にお授けください。

主よ お願い致します。

あなたを求める意志を、
あなたを見出す希望を、
あなたの望まれる生き方を、
信仰を持ってあなたを待ち望む堅忍を、
そして ついにあなたを所有できるとの信頼心を、
主よ この私にお与えください。
[2013/10/26 02:41]  ミルキー  URL  [ 編集 ]

マリア信仰について

ミルキー様へ

素敵な詩をありがとうございます。
私がカトリックを愛するのは、キリスト教の中では最もマリア様の存在を重視しているからだと思います。
ヴァチカン発行の要理項目には、あくまでもマリア様は「イエス様あってこそ」の存在だという記述があり、それはその通りだと思いますが、カトリックはそれを踏まえてもやはりマリア信仰の勢いが非常に強いと思うのです。
特にヒルデガルトのページでも数年前に書きましたが、12世紀のドイツの女性神秘家たちのテクストには、イエス御自身を「女性」、「知恵の貴婦人」のイメージとして捉える傾向があり、これも極めて重要な点だと思います。
ミルキー様が引用して下さったヒルデガルトの詩に、「おとめの乳」という表現がありますが、これも神の女性原理の一つのレトリックとして重要なものだと思います。
ヒルデガルトはここから、神とは「子宮(羅語:matrix)」のように人間を包摂しているもの、と解釈していました。
実は私が初めて地元の教会に訪れた時、そこで感じたのは「ここは海のようだ……」という感覚です。
凪の、静かな、沢山の人がいるのに誰もいないような、そんな浜辺。
「海(mare)」は、アルベルトゥス・マグヌスの語源学的解釈によれば、聖母様(maria)と深く相関していると知って、私の想いはいよいよ強まりました。

[2013/10/29 01:47]  TOMOHISA  URL  [ 編集 ]

海よ、
僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。

そして母よ、
仏蘭西(フランス)人の言葉では、
あなたの中に海がある。

三好達治の詩の一部です。

そうですね…
私も、マリア様を思います。

それから、わたくしに、☆様☆は、そろそろおよしになってくださいませ〜(≧∇≦)うちのミルキーは、呼び捨てですもの。キッズではないですよ…(笑)

[2013/10/29 23:06]  ミルキー  URL  [ 編集 ]

万が一に備えて

あまり露呈しないておこうと思いましたが、思い直して、やはり書いておくことにします。どなたか何か困ることがあったらダメですから。。
TOMOHISAさんにも、申し訳ごさいません!お伝えすることが下手っぴで、ご迷惑をお掛けしてます。メカに弱いのも原因かと思われます。言い訳に走りそうなので、この辺で。m(_ _)m
私の言葉が多いと混乱するので、今回は必要なのことだけね…(笑)


神の露
~おとめマリアの乳~
「信仰者の夜」


優しいイエズス 御母の胸に抱かれて
あなたは愛に輝いて見えます
愛 これこそ言い表し難い神秘
あなたを天上の住まいから 異郷へ向かわせた神秘・・・
ああ!朽ちるべき者らの目から あなたを隠す
そのヴェールの下に 私も隠れさせてください
そしてあなたの側で おお暁の星よ!
私は見つけるのです 天国の前味を

新しい朝が目覚めて
太陽の曙光が見え始めると
咲き始めた可憐な花は
高みから貴重な香油を待っています
それは 朝の養いの露
やわらかな新鮮さにみちた露
あふれる樹液を造り出して
できたばかりの蕾を花と綻ばせる露

イエズスよ あなたは この わずかに咲き始めた花
あなたの最初の目覚めを 私は見守っています
イエズスよ あなたは この麗しいバラ
やさしい真紅の新しい蕾
あなたが大好きな御母の いと清らかな腕は
あなたのゆりかごとなり 玉座となります
あなたの優しい太陽 それはマリアの胸
あなたの露 それは おとめの乳!

私の愛するお方よ 神なる小さい兄弟よ
あなたの眼差しのなかに
わたしは未来を悉く見ています
わたしのために もうすぐ 御母をお離れになるでしょう
愛はもう あなたを苦しみへと急がせているのです
十字架の上でも おお 咲き切った花よ!
あなたの明けの香りを私は聞き分けます
マリアの露を見分けます
あなたの神聖な血 それは マリアの乳!

この露は聖所に隠れ
天使は心奪われて これを観め
神に その崇高な祈りをささげながら
聖ヨハネのように 言っています
「あの方は ここにおられる」と
そうです あの方は ここに
このみことばは ホスチアとなり
永遠の祭司 司祭的子羊となられました
神の御子はマリアの御子
天使のパンは おとめの乳

セラフィムは 栄光を食物とし
楽園での その幸せは 完全です
弱い子どもの私には 聖体器の中に
乳の色と形しかみえません
けれども 子どもに適うのは乳
そして イエズスの愛に匹敵するものはありません
おお!優しい愛!底知れぬ力!
私の白いホスチア それは おとめの乳!
以上は、
幼きイエズスの聖テレジア作

「人間はこの糧で、天使はあの糧で生きるのではありません。神の真実
神の知恵はあらゆる知性の唯一の食物です。天使も権天使も天上の霊はみなこの食物で養われています。彼らは、この得もいわれぬ食べ物を減らすことなく食べているのです。『はじめにみことばがあった、みことばは神のうちにあった、みことばは神であった』。できるなら、あなたも、食べなさい、これは食べ物です。けれどもあなたは言うでしょう。それは確かに食べ物だ、しかし私は子どもで、私に必要なのはちちなのだ、そうでなければ食べられない、と。ではあなたに必要なのは乳で、しかもこの食物しかあなたの養いにならないのだから、この食物は、あなたの口に適うように『肉』を通ってあなたの口にまでとどくでしょう。何故なら食べ物は肉体を通してしか乳にならないから。母親はそうするのです。母が食べたそのものを子どもが飲むのです。子どもはパンから直接に養いを摂れる程強くはありませんから、母親はパンを自分の肉とし、そこから甘い液体となって子どもに伝わります。子どもは食卓に供されたもの以外のものを受けるわけではありませんが、しかし、子どもには『肉』を通ってくるものがふさわしいのです。『だから、みことばは肉となり、私達のうちにお住みになった。』『人間は天使のパンを食べた』。永遠の知恵は私達にまで来られました。主の肉と血を通して、養いの乳として』
(教会博士であるアウグスチヌス詩編解釈注解)
[2013/10/30 05:22]  ミルキー  URL  [ 編集 ]















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next