† 文学 †

「わたくし率100パーセント」の美しい「宇宙」ーー川上未映子『わたくし率 イン 歯―、または世界』の魅力

Madonna by Mert  Marcus                       Interview May 2010

Madonna by Mert & Marcus


自分自身のリズム、言葉によって書いている作家がいる。
川上未映子の『わたくし率 イン 歯―、または世界』を読んだので、ここに感想を残しておきたい。
私は文学作品を読んでいて、これまで本当に読みながら涙を流したことがあまりなかった。
高校時代に出会ったニーチェの『ツァラトゥストラ』には、何度も何度も勇気を与えられ、彼の生涯の悲運を思うと涙が頬を伝うこともあった。
けれど、ニーチェ以後、私はおそらく本当の意味で、つまり知識とか、思想とか、卓越した思考の輝きとか、そういうカッコ良さではなく、本当に胸に迫ってくる意味で、衝迫された経験がなかった。
川上さんのこの本が、私にとって彼女の作品を読んだ最初の経験だったのだが、それは私を「あの頃」に連れ戻してくれるような力を持っていた。
私が大阪人で、作家も大阪生まれで関西弁だということに親近感を持ったというのもある。
だが、この軽妙なタイトルがついた作品には、非常に根源的な、いかなる神学、存在論、神秘主義が作り出した「造語」では太刀打ちできないような、本当に読む人を無垢にさせるような力があるのを感じた。
だから、私がこれを読んで、この本の主人公の女性が物凄い勢いと形相で、夜に想っていた男の家まで行って、魂の叫びを聞かせる描写で「泣く」ことができたという経験は、私にとって本当に貴重な時間だった。

主人公は歯科衛生助手の女性で、学生時代から想っている男性がいる。
苛められていた頃に、図書室で彼から教えてもらったある「言葉」が、ずっと彼女に印象的に残っていて、それが彼女の今を支え、彼にいつか御礼をしたいと考えていた。
彼女は関西人なら誰もが微笑みを浮かべるような関西弁で語り、まだ生まれていない自分の子供に手紙を書いている。
随所に書簡が入るのは、このまだ生まれていない存在しない子供に向けられたものだ。
彼から聞いた「言葉」というのは、川端康成の『雪国』の冒頭のセンテンスの主語は誰か、という素朴な問いかけだった。

「この文章の主語は、トンネルをくぐってゆく列車でも主人公の島村という男でも、ないよ。青木はそう云いました。その話を聞いてから、お母さんはなんだかよくわからない、不思議というような気分になって、でもなにか、そこには、お母さんが知りたい秘密のようなものが、いつでもあるような気がしているのです。今でもずっとしているのです。ねえ、おまえの主語はなんですか? お母さんの主語は、こうして手紙を書いているたった今は、お母さん、でいられるのです。お母さん。お母さん。とても素敵。このたった今ならお母さんはお母さん以外ではないのだもの」



文章の雰囲気を読んでもらうと伝わるように、非常に優しい語りかけだ。
この小説が非常に文学的で、象徴的なのは、タイトルにもある「歯」だ。
女性は歯科医院でアルバイトをしている。
そのきっかけというか、彼女には「歯」に対する強い思い入れがあるのだ。
特に、「奥歯」。
私はこの感覚が非常に好きなのだが、実はこの「奥歯」というのは、ヴァージニア・ウルフがかつて「わたしの部屋」という言葉で表現していた観念に近いような気がする。
色々な哀しいこと、苦しいことが起きた時に、自分の感情は荒れたり、ひどく落ち込んだりするわけだけれど、そして表情にもそういう変化が起きるわけだけれど、一つだけ身体の中で恒常的な場所がある。
一種の聖域で、それは「奥歯」だ。
奥歯は、どんなに私たちが哀しい目にあっている時でも、「わたし」として、確固たる「奥歯=わたし!」としてある。
「わたし」ではなく、エクスクラメーションマークが何十個もついた、どんな逆境にも負けない強い「わたし!」があるのだ。
世界に対する「わたし!」の存在の比率は、常にここでは100パーセントだ。
変化しないもの、強いところ、硬いところ、めげないところ、泣かないところ、そして、白くて清潔で無垢なところ、一種の聖性――それが「奥歯=わたし!」の意味だ。
だから、歯の穴というのは、メタファーとしての「心の空隙」を表現しているのだと私は考えたりした。
無論、川上さんの原文を読む人それぞれの「歯」があるだろうし、これは私が捉えた一つの読み方に過ぎない。
とはいえ、歯科衛生助手という仕事は、やはり「心のケア」にも携わっているという意味を担っている気がしてならないのだ。

私が涙なしには読めなかったところ、それは私の浅学非才で味気ない文章では絶対的に到達できないような力強い言葉で記されている。
ここを読んでいる時、私は自分の母親に怒られているような気がした。
本当にそういう気持ちにさせられたのだ。
それが読んでいる私には、「言葉」という書かれた記号に過ぎないと頭では完全に認識されているにも関わらず、である。
いわば、彼女は私が「俺はカトリックだから」とか、そういう「わたし」に貼り付いている様々なもの、属性、自信などを一度、全て洗い落とした。
これを読んでいる時の私は、おそらく宗教とか、哲学とか、頭が良さそうに見える専門的な言葉とか、そういう「衣服」たちを全て剥ぎ取って、完全に無垢な状態になっていた。

「青木くんわたしにゆうたやろ、わたしに話してくれたやろ、なあなんで知らんふりするねんな、なんでごまかしするねんな、わたしは大事なこと云いに来たんや、青木くんに云いに来たんや、それを知らんてゆわれたらわたしどないしたらええのんじゃ、ここまできたのにここまできたのに、青木くんがゆうたんじゃ、雪国のあそこをゆうたんじゃ、なんであれがあんな大事な秘密のにおいがするのんか、わたしとおんなじこの問いを、わたしとおんなじ問いを持っているくせに、なんで知らんふりしてんのや、なんでそんな女と一緒におるんじゃ、そんな女なんやねん、化粧ばっかりしやがって、人の目ばっかり気にしやがって、そんなんちゃうで、そんなもんちゃうんじゃほんまのことは、自分が何かゆうてみい、人間が、一人称が、何で出来てるかゆうてみい、一人称なあ、あんたらなにげに使うてるけどなこれはどえらいもんなんや、おっとろしいほど終りがのうて孤独すぎるもんなんや、これが私、と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私!! これが死ぬまでいいつづけても終りがないんや、終りには着かんのや……」



私はここを本当に深く考えたい。
作者の意図に反して、存在論的コンテキストから説明すれば、「わたし」とは、すなわち「存在」に投げ込まれて存在している「現―存在」とは、常に「存在」と相対するものであり、この存在了解を持って初めて、人間は動物のように「存在」するのではなく、「存在」に自らを投げ返すものとして存在する。
これは「存在」了解を持つことを前提にする点で、本質的に「純粋意識」という主観性原理を導入しなければ成立しないものであり、だからこそ初期ハイデッガーの出発点は師フッサールの現象学だったのである。
一言でいえば、「現―存在」は、「わたし」というこの個によって、まず了解されるものである。
「共同現存在」の概念は、まず「わたし」が、「存在」に自らを投げ込まれ、同時に、投げ返しつつ(いわゆる、被投/企投)、個として、孤独に出発されることが前提にならなければ成立しない。
これを神学的に換言すれば、「神」認識とは、徹頭徹尾、「わたし」によって意識されるものである。
したがって、「神」に対する「わたし」の認識が、客観的に証明される必要は存在しない。
神の属性である全知、全能、遍在、全善、有、一と、「わたし」が意識において合一する時、その時の「わたし」は「無私」になる。
それは主観性原理が、「神」という絶対的客体へと収斂するポイントであり、神秘主義的にいえば、これは宗教的エクスタシーを伴う啓示的経験などとして現前する。
「奥歯」とは、いわば「神」であり、「奥歯になる」とは、すなわち「わたし」が、この主観性原理が、超越性へと回収されることを意味する。
「奥歯」の存在は、「わたし」という主観性、この感性的に流動性の高い主体を、限りなく「無私」へと接近させるものである。
我々カトリックは、それを「キリストのまねび(イミタチオ・クリスティ)」などと呼んだりすることがある。

「私をどこに置いてもええんじゃ、置いても置かんでもそんなもんはたから見たらおんなじなんや、そやけどな、私からは誰ひとり逃げられへん、逃げる必要もないかもしれんけど、逃げられへんのや私からは、これいったいなにがどうなってるんかこんな無茶苦茶なもんほかにあらへんやろが、世界に一個のなんでかこれが、なんでか生まれてぜったい死ぬてこんな阿呆なことあらへんやろうが、こんな最大珍事もあれへんやろが、なあ、なんでかこれのこの一致! わたしと私となんでかこの体、この視点、この現在に一緒ごたに成立させておるこのわたくし! ああこの形而上が私であって形而下がわたしであるのなら、つまりここ! この形而中であることのこのわたくし!! このこれのなんやかや! あんたら人間の死亡率。うんぬんにうっわあうっわあびびるまえに人間のわたくし率百パーセントであるすごさ! ああ! わたしはいまや、なんでか不快であったわたくし率がなんでか愉快でたまらん気持ちになって来た! 」



彼女が劇的な口調で激しく語っているこの独特なメッセージ――それは明らかに「一人称を越えること」を意図したものとして解釈できる。
一人称を越える、とは、一人称として存在している「わたし」が、この宇宙を構成している一つの確たる「存在」であり、そして、その宇宙の視点を持つことによって、「わたし」そのものを滅却させることで生起する。
つまり、「存在」そのものへと自ら合一することである。
これは文学的に表明されている一種の自己滅却、「わたし=宇宙」という視座の獲得である。
「奥歯」とは「宇宙」そのものである。
パラケルススは、人間的主体性としての「ミクロコスモス」を、宇宙原理としての全世界である「マクロコスモス」と“同一”のものとして思考した。
彼女がいっている「わたくし率100パーセント」の状態とは、「わたし」が全宇宙と同化した状態であり、それはユダヤの諺にある、「我々は母の胎にいる時全知であり、生まれると一切を忘却する」という箴言と連関しているだろう。

「……舌のうえにわたしが寝て、んでわたしの口の中の舌のうえにながいあいだ私でおってくれた奥歯が抜かれてそっと置かれて、それを、いま、誰かが見てる、何かが見てる、何かわからへんけど、それをずっとずっとうえのほうから、これを見てる、これをしてる、寝転んでる私をわたしを、この治療室を、この入れ子を、経験してるものがあって、私をこえて、わたしをぬけて、してるものがあって、それがきっと、雪国のあのはじまりの、わたくし率が、限りなく無いに近づいて同時に宇宙に膨らんでゆくこのことじたい、愉快も不快もないこれじたい、青木がわたしに教えてくれた、何の主語のない場所、それがそれじたいであるだけでいい世界、それじたいでしかない世界、純粋経験、思うものが思うもの、思うゆえに思うがあって、私もわたしもおらん一瞬だけのこの世界、思う、それ」



私にはこの言葉が、12世紀に活躍したキリスト教の女性神秘家のテクストに近いものとして感じられもする。
そういった宗教的解釈、宗教哲学的なコードによって本書を読むことはできるかもしれない。
だが、繰り返すが、私が惹かれたのは作者のオリジナルな、独特のリズム、独特な文章の歯切れの妙なのである。
一人の女性が書いた、個別的な、特別な、作品なのだ。
「言葉」によって伝えられるものは存在する。
それを今、私は一つの信仰のように考え始めつつある。
言葉は空虚な記号ではない。
そこには『ツァラトゥストラ』や『わたくし率 イン 歯―、または世界』のように、「血の涙」が宿るのだ。
「いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は知るであろう、血が精神であることを」(ニーチェ)





わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)
(2010/07/15)
川上 未映子

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