† 文学 †

諏訪哲史の世界、深化する表象文化論の「皮膚」のテマティスム――『アサッテの人』、『ロンバルディア遠景』読解


アサッテの人 (講談社文庫)アサッテの人 (講談社文庫)
(2010/07/15)
諏訪 哲史

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 諏訪哲史が群像新人文学賞と芥川賞のダブル受賞に輝いた『アサッテの人』――私にとってこの本は非常に大切な意味を持っている。すでに今回、この書評を書くにあたって私は本作を時間を隔てて、四度再読してきた。この小説は、以下の「叔父」の言葉への「わたし」の応答として成立していると考えられる。

「この世界のすべてが、もう既に書かれてしまったもので、いまさら自分になにができるだろう。できるのはそれを読むことだけだ。その書物から顔を上げること。そしてはるか天空をふり仰ぐこと。天空には、朋子のゆく軽(かる)の道が、のびやかに、果てしもなく横たわっている」(p167)


 いっさいは書かれてしまったという、この自認は本作に強く流れている通奏低音である。いわば諏訪は「書く」行為が本質的に再生産でしかないというintertextualityを認識した上で、新たに今なにが書けるのかと模索している。
 本作は「叔父」の日記を「わたし」が紐解いていくプロセスの小説化である。その上で、「わたし」は叔父のテクストを「小説化」している。主人公は公務員で、冒頭では叔父がかつて暮らしていた廃墟化した団地へ向かう場面が描かれている。これが時間軸での「現在」である。「わたし」が引用を開始する時点はまず六年前であり、叔父の妻朋子の日記からである。ここで注意せねばならないのは、これは「朋子のテクスト」からの直接的引用ではない点だ。すべては「わたし」が巧妙に小説化しているわけである。六年前の叔父(明)は二十九歳、朋子は二十四歳だ。ちなみに、「わたし」は朋子にほのかな恋心を寄せている。叔父はビルエンジニアとして働いている。平穏な家庭だが、夫婦生活の中にはある「異変」が生起する。それが本作の中核的テーマとなる「異言」(ポンパ!、チリパッハ、でちりなきりしたん!、などの言葉)の出現である。叔父は突然、何の前触れもなく「ポンパ」と叫ぶが、朋子の分析によればどうやら「言葉の方からやってくる」、すなわち「降下」してくるようだ。ひとまずこうして、ある若い夫婦生活の中で兆す言語的な「異変」が丁寧に描き出される。
 既に述べたが、「わたし」は「朋子」の文体を模して、彼女の日記を「小説化」している。ここにまず「文体の転移」という第一の重要極まるテーマが露出している。ページを開いて登場する「わたし」は、実は「朋子」ではない。それは「朋子」が書いた「わたし」ではないのだ。彼女は「わたし」=「筆者」が「朋子」のテクストを憑依して書いているわけである。それが「わたし」本来の地文にまで、「朋子」の文体の転移を生起させる(朋子化)。このような、エクリチュールにおける極めて先鋭的かつ細やかな視座がなければ前景化してこないような主題が、諏訪の処女作には胚胎している。
 叔父の異言「チリパッハ」の語源は朋子が解明する。それはロシア語「亀」を意味している。しかし、なぜ彼が突然それを叫び出すのかは判らない。そして、「わたし」の書くテクスト「朋子の家庭スケッチ」には、やはり朋子の日記のオリジナルからの「文体の転移」が起き始めている。このように、小説のテーマは「エクリチュール」と「レクチュール」の交叉配列をめぐって、極めて思弁的なナラティブを見せ始める。「わたし」の考察によれば、叔父の奇々怪々かつ言語明瞭意味不明瞭な記号表現の数々は、「アサッテ」というそれ自体で奇怪な概念の系譜として位置付けられる。「アサッテ」とは何か? それは明後日(あさって)を無論意味していない。これには少なくとも以下の特徴が存在する。

「アサッテ的なるもの」

(1)基本的に意味不明な記号表現(前後のコンテクストからの逸脱・脱落)
(2)発話者に特有の感覚様態があり、それを表示するために用いられる点では、何らかの「こころ」を表示していると推定可能



 アサッテの最たるものとしての「ポンパ」とは何か? それはいうまでもなく叔父の頓語であり、酔語であるが、叔父の父(「わたし」の祖父)が最初に使ったシャーマニズムに由来する言葉であった。この祖父は密教真言の信者であり、いわば「異言」を定期的に発していたという。叔父はそこで最初に「ポンパ」を耳にし、この軽快な響きにどこか共鳴したのだろう。
 叔父の過去のエピソードが、「わたし」のレクチュールと並行して語られていく。彼は吃音に苦しんでおり、「キツツキ」を発音できない。必ず「キ、ツツキ」になる。ここで「わたし」の考察が興味深いのは、「キツツキ」と「キ、ツツキ」を表層として把捉している点である。つまり、前者が正しい発音であり、後者がその劣化・歪曲化したものであると考えていない。「キ、ツツキ」とは、いわば「化け物」のような存在であり、あの鳥類としての「キツツキ」とは完全に異質な、異形の存在なのである。そして、この「キ、ツツキ」は世界中、どの百科全書にも存在していない、シーニュ(記号)の「空隙」にのみ顔を覗かせるような未知の生物である。記号表現には通常、どの言語体系においても「規格」が存在する。いわば、定型化された表現でしか我々は語らないし書かない。しかし、諏訪はその定型化、規格化されたシーニュの外部性を目指している。「吃音」こそ、まさに不可避的に我々が通常話す表現を脱落させてしまうがゆえに、マラルメが『ディヴァガシオン』で求めた「聖なるシーニュ」に近接していく現象なのである。
 諏訪の渾身のメッセージである「アサッテ」は、私の考えによればおそらくベンヤミンのいう「アウラ」や、ルドルフ・オットーのいう「ヌミノーゼ」とも通底している。「アサッテ」はシーニュの系列にのみ見出される現象ではない。その代表例であり、本作のタイトルにもなった重要な事件こそが、名高い「チューリップ男」のエピソードである。以下にその骨格を引用する。

「三度目だか四度目だか定かでないが、彼が箱(エレベーター)のすみにしゃがみ込み、頭の上に両手でチューリップを作って、じっと目を閉じていたことがある。あの、子供が「御遊戯」でやるような、冠のチューリップだ。僕はそれを見て、思わず胸を衝かれるような、世にも美しいものを目の当たりにしたような、なんともいえない息苦しさを覚えた。そして「ああ、これだ」と思った。繁忙を極めるオフィスビルにあって、唯一この箱の中だけは、周囲から隔絶した静かな刻が流れているように思えた。彼を心から賞賛したい気持ちになった」(p120)


 私は、この描写に何か濃密に凝縮された「アウラ」を感じる。それは都市が近代化されるに当たって我々が喪失してきた何か、一回性の神秘と繋がっている。叔父はエレベーター管理会社で働いていて、防犯カメラで乗った社員たちを覗いている。平凡な会社員が、箱の中で奇怪な行動を取る――そして、かすんだモニター画面、そのノイズ混じりのスクリーンに、叔父は会社員が「チューリップ男」へと生成する瞬間を見た。「叔父」は当時の日記で、その出来事を考察している。叔父によると、会社員がチューリップになっていた瞬間、彼は「エレベーターの内部」には存在していない。いわば、世界-内-存在からの「脱去」が生起しているのであり、この世界外の方角、世界そのものの「裂け目」を、「叔父」は「アサッテの方角」と呼称する。それは、明日でも昨日でも、ましてや明後日でもない。カタカナで表記されていることに、おそらく「ポンパ」というカタカナ依存症的な記号の系譜に繋がる作者の戦略がある(実際、諏訪にはどこかカタカナフェティストに近い言語感覚が垣間見える)。アサッテの方向――それは松浦寿輝が『口唇論』で用いた概念を慣用すれば、この世界と「あちら側」とを繋ぐ境界上に存在するものとしての「口唇機械」=「裂け目」である。それは、不意に開く。アウラ――あるいはこの前近代の聖性を司っていた神秘の女性は、現代の都市空間においても、わずかにその「唇を開く」ことがあり得るのだ。叔父はそれを見て、深い感銘を覚えるのである。ここには、我々が生きるこの資本主義社会の機能化されたシステムが、その内部から不可避的に出来させるをえない、一種のシステム自身による「リハビリ」に近いものを感じざるを得ない。換言すれば、普段真面目に働いている会社員が、誰も見ていない場所で、不意に見せる異質な行動(パロールに還元すれば、まさに「吃音」)にこそ、諏訪はおそらくドゥルーズ&ガタリが表題化したキャピタリズムの「分裂症」のプロトタイプを見出しているのである。この日常という「唇」=「裂け目」、すなわち歯と舌が垣間見えるその瞬間――「チューリップ男」が仕事で疲弊すればするほど、この「裂け目」の持つ意味はいっそう「アウラ」へと回帰していくのではないだろうか。公的なわたしと、内的かつ私秘的なわたしとの分裂、その外と内の境界線――これは諏訪が後に問題作『ロンバルディア遠景』で前景化する「皮膚」のテーマへとリンクしている。「聖ヴェロニカの布=キリスト自身」、あるいは「世界の果て=僕の背中」……。
 まとめておこう、諏訪自身のテクストによって。「アサッテ的感性」とは、以下のようなものを指している。

「自分の行動から意味を剥奪すること。通念から身を翻すこと。世を統べる法に対して圧倒的に無関心な位置に至ること…。右の引用中に見られる「アサッテ的感性」とは、つまりこれらの志向を指す言葉であろう」(p146)



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アントナン・アルトー

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サミュエル・ベケット

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谷川渥

 おそらく、アントナン・アルトーとサミュエル・ベケット――この巨大な「アサッテ的巨人」たちこそが、「叔父」の生成に深く関与している。前者の『神経の秤』は本作のパラテクストであるし、ベケットは叔父が「吃音」を快癒させるエピソードにおいて、一日中読み耽っていた作家に他ならない。そして、この「叔父」と同じ吃音に悩んだ過去を持つ諏訪こそ、まさに「叔父」と「わたし」の一体化した「作者」に他ならず、彼は師匠と仰ぐ美学者谷川渥と並んで、この二人からも深い影響を受けてきたと考えられる。
 高校三年生の頃の叔父――彼はショーペンハウアー、シュティルナー、シェストフ、シオラン、そしてヨブ記などに魂を救われてきたという(叔父の日記)。当時の叔父にとって特にショーペンハウアーは「アサッテ男」の筆頭格であり、とりわけ「ヴェルトシュメルツ(世界苦)」の概念に、吃音の苦悩を克服するための救いを見出してきた。後年、会社に入ってもツェランなど、悲劇的な詩人に深い共感を寄せている。
 本作は、間違いなく何度も何度も推敲され、かつ時系列をバラバラに分解した上で再構成されている。この点では、『ロンバルディア遠景』と同じく、皮膚は常に「継ぎ接ぎ」で覆われている。また、地の文は饒舌だが、「したがって」、「だが」、「つまり」などの評論的テクストでの接続詞が目立っている(例えば朝吹真理子の処女作『流跡』には、唐突な場面転換時においてすら接続詞が存在しない場合が見受けられ、これがナラティブの上質さを感じさせる効果を発揮している)。評論的で、思弁的、哲学的である反面、物語性(特に描写力)にはどこか「硬さ」も感じられる。また、あえて難を言えば、作者がまず叔父の日記を「解説」して、事後的にその「小説」を読ませるというプロセスの反復は、「物語自身が見せる新奇さ」を殺ぐという裏面も存在している。文芸理論を意識し、物語そのものを「切片性」の概念に基づいて結合させるという戦略のマイナス面として、これは指摘しておくべきだろう。
 とはいえ、本作は「狂人の発話」が生まれる「場」を知るための一つの手掛かりとして読むこともできる。叔父にとって、「ヨハン・ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ!」という言葉の仰々しい響きは、「でちりなきりしたん!」という言葉と等価である。換言すれば、「ライプニッツ」を指示するために、ある人間の思考回路において「でちりなきりしたん」に置換されるという言語的体制がここで垣間見えるわけである。例えば、「私がウサギを剥ぐ」という言葉があり、この「ウサギ」が発話者の思考の中で「林檎」を意味している(同じ「赤さ」という共通項)場合、容易に記号表現の表層的なレベルで、「交換法則」が成立しているということである。いわば、狂人はその思考において、パース記号論的にいえば、「対象」に対する規格化された「記号表現」に、「交換法則」を滑り込ませるわけだ。「昨日、おれはヴェルサイユ宮殿(学校)で天国(屋上)からダイブ(飛び降りる)しかけた」――このように、記号表現は全て「外皮」である以上、外皮同士で記号同士の「交換」は生起する。

【叔父の二冊目の日記」の謎】

 諏訪は小説に自作の「詩」を有機的に吸収したスタイルでも知られている。『領土』ではこの「詩人」としての彼の性格が全面に押し出され、また今までとは異なる魅力を発揮した。実は、私が『アサッテの人』を読解していて、一番危険だと感じたのもまた「詩」であった。

「叔父の二冊目の日記より(生活スケッチ・3)」

…昨日と同じ時間だ。
当直明けで帰り、風呂屋へ行き、戻ると喇叭が通ってゆく。
朋子が出てくる。
…市場に出かけてね、
デーメートリオス、アミュンタースの店で三匹いわしをもらへ、
そいから小あじを十匹ばかり、
それと芝えびを二十四匹ほどとって、家へ帰ってこい


 私はこのページを読んだとき、思わず総毛立ち身震いするのを禁じ得なかった。実は、これは私自身による意図的な「省略」を伴う引用である。正確にいうと、「市場に出かけてね」から始まる部分は古代ギリシアの詩であると、諏訪の手で注意書きがある。つまり、このテクストは「叔父の日記」と「ギリシア詩」のアマルガムであり、本編では判り易く「  」で境界付けられているが、おそらく諏訪の本来的な戦略は、「日記」と「ギリシア詩」の差異性自体を崩壊させることにあったに相違ない。このページほど、最も衝撃的な「アサッテ」はない。これほど、魂の宿った最も過激な文学は他にない。私がこのページが持つ異様な「魔力」に注目したのは、私自身の「誤読」に由来している。しかし、「誤読」とは実は「吃音」同様、高度に「アサッテ」的な所業ではあるまいか。
 私は諏訪哲史という作家を愛している。彼には、平野啓一郎の陳腐な処女作の如き、ただ表層的に擬古的な文体を用いた生温い「素人のスピリチュアリズム」のような軽率さは微塵もない(この対談だけには時間をかける三流作家は、漫画誌に小説を売るほどにまでチープ化しているが、それはあくまでもこの無能な書き手の底の浅さの一面に過ぎない)。諏訪自身の深い「孤独」が表出している詩は、「鏡について」というテクストである。

「僕は三面鏡の扉を少しだけ開け、自分の顔をその隙間に近付ける。
鏡の内側は、同時に外側へと繋がっている。
僕の存在は無限に反復され広がってゆく。
反復された無限の世界のどれか一つに、時折、僕は朋子の姿を見ることがある。
目線の左側、自分の顔が四回ほど反射を繰り返した辺りの中空の切片に、朋子はひとり身を屈めて座っている」(p176)


 この詩は、ボルヘスにおける「鏡像」的なテーマを感じさせるが、極めて切実な哀愁を帯びている。既に朋子は死去している。いわば、「わたし」は「叔父」の悲哀を憑依させながら、この詩を再び書いているわけだ。この作品もそうだが、『ロンバルディア遠景』でも、私は諏訪が全身の皮膚を剥ぐほどに神経を集中させて一つの作品を産み落としている(削ぎ落す、というべきか)濃密な「魂の履歴」を感じるのである。私は自分の審美眼を過信しているわけではないが、それでも何が本当に優れた小説で、何が三文であるのかを嗅ぎ分けるだけの嗅覚は磨いてきたと自負している。
 本当に、純文学の秘奥にまで踏み込みたい真の狩人のための、最もラディカルな真の文学が、ここにある。

※1
 最後の部屋の間取りの記号的配置、図形などを「説明」したテクストは、無論物語の一部である。そして、これはおそらく記号的な「視覚的効果」を演出するための仕掛けであると考えてまず間違いないだろう。換言すれば、諏訪はこのラストのページで、数学の教科書や、地図記号を説明した本などの「視覚性」を吸収したと考えられる。これは「読む」ページではなく、「見る」ページであるといえるだろう。

※2
 「叔父」が興味を抱いたものとして挙げられているのは、他にギルバート・オサリバン《アローン・アゲイン》、ングーギ・ワ・ジオンゴ(アフリカの作家)、クライストのエッセイ「マリオネット芝居について」などがある。また、表現として、「ローデンバッハ風の憂愁」も具体的な名前を伴っている。



ロンバルディア遠景 (講談社文庫)ロンバルディア遠景 (講談社文庫)
(2012/06/15)
諏訪 哲史

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現代文学において最もラディカルなテーマを持った作家、諏訪哲史の長編小説『ロンバルディア遠景』を読んだので、このページではその記録を残しておきたい。
文学的なスタイルとしては、「スタイル」などという統一的で洗練された形式があるというより、自作への解釈、詩、評論、物語のコードが絡まり合う一種のジャンク小説にも感じられる。
自作への解釈のテクストとしては、例えば「この小説を書いていて気がついたのだが……」などといった執筆途中の経過的な構想まで書き留める箇所である。
一言でいえば、「哲学的散文小説」である。
また、「日記・書簡」という語りの様態は、作者の思想を人物を媒介にして表現し易いスタイルだ。
従来の小説らしい小説の形式を好む読者からすれば、やや雑伐とした印象は否めないが、ヌーヴォー・ロマン以降の過激な「反小説」と比較すれば、十分に現代的な様式で各コードが活かされているようにも思う。
テクストのいたるところに、思考の発酵を感じさせる光ったテクストが存在する。例えば、「寂しい」という感覚を「痕跡」論的に捉える箇所。

「…なぜ私は寂しいのか。それはおそらく、『痕跡』が遺らないためだ。篤と私とが、同じ一つの時間と空間を共有したという事実、その証拠が皆無になるためだ」




【皮膚のテマティスム】


この小説は谷川渥の美学論の圧倒的な影響を受けており、作者も後記で彼に敬意を表しつつ、その事実を認めている。
谷川「渥(アツシ)」と、作中の「篤(アツシ)」への同性愛的な想いも、それを反映したものと解釈できる。
因みに、谷川は名高い『鏡と皮膚』の中でマルシュアス=芸術家、アポロン=芸術の神という斬新な構図を、そのミケランジェロの「聖バルトロマイ」を物語る上で提唱したが、彼もそれにインスピレーションを受けているのだろう、テーマとしては「皮膚」が前景化している。
その一つの象徴はミケランジェロ晩年の詩の引用であるが、この芸術家は同性の恋人カヴァリエリにこの詩を贈っている。

「私の死皮で彼の身体を包み込む、
そんな運命であったならどんなに幸福だろう。
石の中で蛇が脱皮をするごとく、
死と引き換えに私の境遇が変わるも可。
ああ、彼に相応しい毛編みの服、
私の毛深い皮膚だけが、あの美しき身体に
隙間なく巻きつくことを宥され、
世にも冥加なる腰巻として献じられんことを……」



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by Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni

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作者は谷川の講義を受けていたそうなので、本作で展開される表象=皮膚論には、生身の美学者の声を代理しているようなテクストも存在するのだろう。
オマージュの形式として、これは興味深いものである。
ただし、講義メモの露骨な描写とも感じられるテクストも存在しており、やはり全体の有機的統一感の美学という点で、本作が美しいかといえば、必ずしもそうではない。
ただし、テクストの雑居感は、それ自体で一つの皮膚の継ぎ接ぎ、移植後の生々しさ、あるいは皮膚の症例を表現しているとも解釈できるので、なかなか一筋縄ではいかない作品である。
作者は「皮膚」という外面性について規定する際に、目には見えない「脳」という内面性と相関的に把捉し、それらを相互に交換可能な「二襞(Zwiefalt)」と呼称している。

「…脳を拡げて平らにしたものが皮膚であり、逆に皮膚を丸めて畳んだものが脳である。皮膚は、けっして脳の下僕であってはならない」



したがって、表面が目には見えない精神的な内部性を本質的に代理するものとなる。皮膚そのものが、魂と等号で結ばれるわけだ。その印象的な例は、以下の聖ヴェロニカの挿話であろう。

「昔イエス・キリストが茨の冠をかぶせられ、十字架を背負ってゴルゴダに向かう途上、一人の女が、血と汗に塗れたイエスの顔を一枚の布で拭って進ぜた。すると、その布に、キリストの顔がそっくり写し取られていたという。女の名はヴェロニカ。そしてこの布が、世にいう『ヴェロニカの聖顔布』。
 僕は思う。彼女はキリストの魂、キリストの精神を写し取ったのであると」



表面を事物の本質として捉える場合、顔の表面にその人物の持つ精神性が如実に表れることになる。精神の崩壊、或いはこころの中の深い闇は、そのまま人間の顔の皮膚に顕わになる。
8ミリフィルムを回している時に、フィルム自体が擦れて映像が焼け爛れたように見える現象がある。そこで生じる「火傷の穴」を、表象における一種の「皮膚病」として捉える斬新な箇所も存在する。

「人間の魂は皮膚にある……」

「外傷、とくに顔面の傷の深さは、まるで写し絵みたいに、そっくり精神の傷になって残る」



こうした、内面性が外面に特徴として表示されるという説は、なにも身体の現象学のテーマであるばかりでなく、パラケルススの有名なシグナトゥラ説などでも主張されている。
作中で登場する、異端思想に染まった暗黒的なカトリック老司祭「C」が語る以下のテクストは、「皮膚論」と不可避的に結び付く精神病理学的なコードとして印象的である。

「そもそも、自らの皮膚を責め苛む行為は、中世キリスト教においてはその罪を贖う慣例だったのだ。キリキウムといわれる贖罪服があってね。贖罪服とは、山羊の硬い剛毛を、自分の肌に接触させて纏うという、当時のつらい苦行の道具で、皮膚のやわな者などは、その襤褸の中で血だらけ傷だらけになって、神に赦しを請うたのだ。だが、赦しを得ることと、我が身をいたぶることとが、絶妙な連動を形成しているのだから、やがて痛いは快い、快いは痛いとなる」



「皮膚=本質」という原理に基いた場合、書かれた「テクスト」は何を表すのだろうか。これが本書が「皮膚」を思考する上で最も大きなテーマとして捉えるものだ。

「ようやくのこと、こうして目の前に並べられた文字の群れたちは、そして、それら文字たちが織り成す一幅の図柄は、疑いようもない僕自身の肖像だ。肖像であり、僕の外面であり、外面であるからにはそのままで内面ともなり、つまりは僕の自我、僕の全体、僕そのものである」



「文字」はこうして、人間の内面性を最も端的に表出する「外面」となる。
聖ヴェロニカの聖顔布が、キリストの魂をそのまま写し取ったように、「文字」は作者の内面性を表出した「皮膚」であり、この文字という優れたメディウムによって、ようやく作者はこの「皮膚」の奥に存在する「聖性」に向かうことが可能となる。

「……こうした多種の文字によって表面化、外面化された『形象』こそが、人の内面なるものである。…つまるところ、この世の万象はただ一葉の紙面、外面であり内面でもある、一枚の『カミ』に収斂される。……他でもない僕自身が、その一片の紙切れ、外面と内面のアンビヴァレントなのだ」



本書がこうした21世紀の現象学的文脈から注目を集めている「身体論」を前提として看取していることはいうまでもない。身体の現象学の大家としては、メルロ=ポンティからミシェル・アンリ、ヴァルデンフェルス、更に『猿と女とサイボーグ』の著者による「サイボーグ=可変的身体」の視座に至るまで、アクチュアルでメッセージ性の高いテーマであるといえるだろう。
しかし、ここまでの段階の概念的なレベルでいえば、取り立てて真新しい現象学的考察は見受けられない。むしろそれは教科書的なレベルの概念を文学的に応用したものに留まるのである。
注目したいのは、作者が「世界の果て」について皮膚論的に考察している箇所と、皮膚に生じる病理をテクストのレベルだけでなく、物語に登場する「身体」のレベルからも深化させた箇所である。


【皮膚論的次元における「世界の果て」、あるいは、「性的機械」】


「世界の果て」とは、何であるのか?
それが「何処」にあるのか、という問いの策定を捨象する点は、おそらく作者の天才的な側面だと考えられる。
以下のテクストは、極めて突出した思考の輝きを感じさせる。

「突飛な思いつきに過ぎないかもしれないが、『世界の果て』とは、もしかしたら、僕自身の『背中』ではないだろうか。……神父はたしか、こういっていた。“この世の果ては、遠くにあるように見えながら、意外と近くにあったりする。また近くにあるが、それは圧倒的に未知のものなのだよ”」



我々は「背中」を見ることができない。生涯、我々はもしかすると一度も目にしない皮膚上の一点を持つかもしれない。不可視である場所は、そのまま「見える」、「視座を及ばす」という視覚の受動/能動の関係性から解放された“聖域”となる。「皮膚=本質」という身体論的な図式からすれば、「眼には見えない皮膚」は、そのまま主体が認知することができない、超越的な外部性(皮膚の余白)としての意味を帯びることになるだろう。
皮膚の奥、それを作者は「処女膜」として認識している。
即座にここで同時に考察すべきなのは、皮膚=テクストにおける「処女膜」の奥には何があるのか、といったテーマである。
こうして、作者は主人公を「C」神父の驚嘆すべき黒ミサに参加させることになる。彼はある奇妙な娼館の地下で、「体じゅうに夥しい女陰を具した」女性を披露する。それは、一人の女性の全身に、26個の女陰が「移植」されている不気味な怪物的表象である。

「…彼女の五体を構成している女陰の数は片腕につき四つ(両腕で八つ)、片足につき六つ(両足で十二個)、胴体に五つ、頭部に一つで、合計すると二十六個あった。一体の女を形作るのに、総員二十六名の現実の女たちを必要とすることは疑うべくもない」



この整形外科医も卒倒してしまうような禍々しい存在者を、作者は「性的機械」と表現している。
だが、これは作者の局部的なフェティシズムの発露というよりも、むしろ身体論において「聖性」を追い求めた結果、不可避的に到来した“概念的身体”であると考えられるべきではなかろうか。
繰り返すが、この物語は身体論をテーマにしており、身体論的なテーマから導出できるあらゆる異端的側面にも果敢に取り組んだ稀有な作品である。
先述したように、作者は皮膚論的な「世界の果て」を、「背中」とか、「処女膜」として捉えている。
どちらも「皮膚=本質」とした場合、反転して「見えない皮膚」を構成するものであるがゆえに、それは「非―本質」となり、同時に不可視性を属性とする従来の神概念からは「本質」として認識できるものであるので、この目まぐるしい交換可能性の間を揺れ動くことになる。
一言でいえば、「世界の果て=処女膜」とは、「神」の「顔面=皮膚」である。
この女陰の「怪物」は、テクストの奥にあるものとは何かを全身で主張している。彼女は26個の神秘体を、26の処女膜を有し、いわば身体論におけるアルチンボルド的な複合的「女性的身体」を表現している。
しかし、奇妙なことに、これ程の奇想を駆使して「世界の果て=処女膜」を描写しているにも関わらず、作者はその意図に反して依然、“皮膚の外面=テクスト”に滞留し続けている。すなわち、彼はテクスト=皮膚によって、テクストの深奥に存在する「世界の果て」の瀬戸際、その極北にまで急迫しているが、それを文字によって表現することにより、いわばぎりぎりのところで再び表象へと反り返るわけである。これは我々、「書く者」にとって、決定的に重要な意味を持つパラドックスである。
それはすなわち、内面性を表出するはずのテクストが、皮膚の奥にあるものを、あくまでもテクストという皮膚でしか表現できないことの厳然たる証左なのだ。
もっと直観的にいえば、性的なるもの、エロティックなものの極北は、常に「聖性」を担うものであるが、それはテクストにおいて“表現”できても、絶対的に白いページの上の、「膜の存在しない」単調な文字の配列に留まるということである。
テクストは皮膚であり、その奥に「膜」があるという考えは思想上の虚構に過ぎない。我々は「膜」の奥の快楽を想像し、それを皮膚の上に描出できるが、絶対的にそれらは想像的なものとして、依然皮膚の上に留まる――もしかすると、これこそが「テクスト」の真の定義ではなかろうか。
作者はこのメッセージを、「C」神父の口から以下のように語らせている。

「この世の果てが、ヒマラヤの山頂や南極や密林の奥地などであろうものか。そんな『果て』なら金さえ積めば行ける。金をもってしても辿り着けない世界の果ては、我らが崇拝すべき、人智の及ばぬ女神たちの、その遥かなる奥処なのだ。……『かしこには、ただ、序次と、美と、栄耀と、静寂と快楽』……『悪の華』の一編『旅への誘い』だ」



確かにここで、神父は26個の女陰の「膜」を突き破る快楽を味わっている。だが、注意せねばならないのは、それはただ作者がそう表現しているだけのことであって、一切は「文字」という「皮膚」の上で展開されているということだ。「膜」は破られていないのである。したがって、我々はここにおいて、本書から獲得された一つの帰結として、やはり以下の考えを述べておかねばならない。
すなわち、「神」の「皮膚」には、絶対的に到達し得ないがゆえに、それは常に「皮膚」の上で虚構として再演され続ける。

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※諏訪の「C神父の肉慾」の場面と近接したテマティスムを持つアメリカのアーティスト、Jamie McCartneyによる《偉大なるヴァギナの壁》シリーズ

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皮膚論から敷衍して、「世界」や「主体性」について哲学的に問うテクストも印象的である。アントナン・アルトーの『ロデーズからの手紙』にインスピレーションを得たと思しき箇所では、以下のように記されている。

「…俺は、俺自身を破壊することをどこかで欲している。その『俺』、『俺自身』というやつ、それは単純に俺のからだなのか、この肉体が『俺』なのか、それが分からないんだ。でも、絶対に間違いないことがひとつだけある。それは、『俺』が、この『世界』そのものである、っていう事実だよ。ゆえに、『世界』とは破壊されるべきものになる。だが、俺は未だその『世界』とやらを見ていない。そして、俺は『俺自身』さえも、未だ見てはいないんだ……」

「私が世界の内に存在するには、まず世界が私のうちに存在しなければならない。こうした内と外の永劫の反転が、コッホ曲線のように襞を微分、生成し続け、ついにそこに『私』という宇宙が実存することになる。
……スーラの点描も、リキテンシュタインのリトグラフも、今や世界中が覗き込んでいる液晶画面の粒子に至るまで、全てこの世はしかく絶対的な点の集合、そのゲシュタルト(全体)であって、結局のところ、我々は点をしか眼にできず、また点にしか触れ得ないのである」




【遊牧する皮膚の彼方へ】


作者はあくまでも、聖性を「女陰」や「処女膜」といった中世キリスト教社会のパラダイムにおける異端的な道徳的「禁忌」として展開しているが、この考えはいうまでもなく、極めてファロゴセントリック(男根ロゴス中心主義的)な考えに依拠した上で構想されている。
そもそも、作者の本作における「女性」の扱い方は、徹頭徹尾、「人工的」なものであり、玩具的で淫靡なものである。皮膚のキメラ的な結合を一種の「皮膚のリゾーム運動」と捉えた時に、作者が再領土化する対象を常に複数化された「女陰」に限定している点は、描写としては迫真であれ、概念としては狭小である。
むしろ、「植物=皮膚」とか、「腕時計=瘡蓋」、あるいは、「満月の夜=湿疹」などという、「皮膚の疾患/病理学的コード」と、「身体の外部性=無機物」的コードとのカップリングによって、新しい「皮膚」論が誕生するのではないか。ここでもイメージの発火源として活きるのは、やはりあの未曾有の画家アルチンボルドの独特な身体論的構成法である。
ドゥルーズ&ガタリが『アンチ・オイディプス』で述べたように、出来上がったホットケーキのスポンジの、あの小さな丸いツブツブに、「赤子の産声」を聞くことができた症例が存在する以上、人間の思考回路は、人外の無機物(皮膚の余白)に、人間的な「皮膚」の可能性を嗅ぎ取ることができるのだ。従来の皮膚は一度抹消されねばならない。皮膚は脱領土化され、皮膚でもなく、人間でもない、異常なもの、マイノリティなものへと、「生成変化」されねばならないだろう。


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