† 神秘主義 †

パラケルススの妖精論、薬草論、シグナトゥラ説、あるいは魔術論について

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○ イタリア・ルネサンスの時代


パラケルススが活躍した時代はヘルメス学が興隆したルネサンス期である。しかし、彼はフェラーラ大学で博士号を取得した後、九年間もかけて時計回りにヨーロッパを遍歴する旅に出る。いわば在野の思想家であり、アカデミズムの外部から思想を構築した“野性的思考”の持ち主である。彼が植物、動物、妖精、鉱物などに類稀なる知識を深めたのも、こうした大学の外部での学習が源泉となっているのだろう。
パラケルススの父親はオーストリアのフィラッハという町の医師であり、鉱山学校の教師でもあった。鉱物、医術についてのその知識は秘教的側面を持つ「アデプタ・フィロソフィア(賢者の哲学)」と呼ばれる学派に属していたといわれている。幼少の頃からパラケルススはこの優れた父のもとで、実学的な知識や作業工程を学んだと考えられる。


○ 薬草学


パラケルススは『本草学』や『自然の事物について』などで、「ヨハネ草(St.Johanniskraut)」という「魔除け」の薬草を紹介している。この草には悪霊を追い払う力が宿っており、悪魔によって引き起こされる狂気、幻覚、妄想に対して大きな効果があると信じられていた。この草は中世以来、「鬼やらい草(fuga daemonum)」の異名を持ち、玄関に十字型にして置くと、魔女や黒魔術師、悪魔といった超自然的な力を持つ存在を追い払えると考えられた。

「クリスマスローズ(Schwarze Nieswurz)」も、彼から特別な関心を注がれていた植物である。この薬草には「不老長寿」の力が存在し、いかなる病を患うこともなく服用していれば120年はこの世で生活できると考えられていた。この薬草は彼の『長生の書』で紹介されている。


○ 妖精論


後期パラケルススには『ニンフの書』と呼ばれる興味深い書物が存在する。それによれば、「妖精」とは、悪魔や天使などの霊的存在、動物、人間の性質を併せ持った、しかしそれらとは別個の独立した被造物である。霊のように神出鬼没であるが身体を持ち、人間と同じように家庭を営み、飲み食いをしたり、子を育て、病気を患い、薬を処方し、言葉を操り、仕事を持つ。彼らなりの道徳があり、社会があり、階層性を有する。地下資源の管理、自然界の秩序維持が主たる仕事であるが、ある種族は災害や人間の未来を予言する職務を持つ。妖精は一般的に百年、千年単位で生きる長寿を誇るが、死ねば四つの元素(地・水・火・風)に戻るので、跡形も残らない。妖精は各元素ごとに差異化しており、地の妖精と風の妖精では性質が異なる。動物と同じく妖精は魂を持たないので、人間とはやはり異なる存在である。重要なことは、彼がこれらを「御伽噺」ではなく、「実在」として認識していた点である。


○ シグナトゥラ説


パラケルススは、目に見えない内的な性質や力は必ず外側の形や身体性に可視的なしるし、記号を刻印すると考え、これをシグナトゥラ説と呼んだ。自然界には、「しるしを持たぬものは何一つ存在せず、……自然が書き入れた……しるしから自然万象の中に潜む力が何であるかが認識できる」。物質は霊的なものに浸透され得るし、霊的なものもまた必ず身体性を宿りとする。シグナトゥラ説は、「内と外」、「霊と物質」、といった本質的に相反するもの同士の「相互浸透性」についての概念であり、それは今日的な意味では“身体の現象学”と明らかに接点を持ったテーマ系である。


○ 魔術論


パラケルススの定義によれば、「魔術とは、自然の神秘的事象全てを解き明かす母」である。或いは、「天の力をメディウム、すなわち媒体の中に引き入れ、その媒体の中で天の働きを発揮させる術」である。
彼は、魔術を知るためには聖書を読解せねばならないと考えていた。モーセやアロンはエジプトの地で魔術を学んだと解釈されており、預言者ダニエルも夢解きの術をカルデア人に教えられた。こうした聖書に登場する預言者たちの聖なる魔術は、「神の魔術」と呼ばれている。新約において幼子イエスの誕生を祝福するために訪問した「東方三博士」について、「博士」とはギリシア語でマーゴイ、ラテン語でマギ=「魔術師」であり、キリストの周辺には常に「魔術」が存在し、共存していたと認識されている。こうした魔術師は明らかにペルシャ、古代エジプトの魔術師たちの流れを汲んでいる。
イエスの数知れない神秘的な奇蹟も、パラケルススにとっては「魔術」に他ならない。イエスの用いた魔術とは、超自然の魔術であり、それは「神の支配」の賜物である。超自然的な魔術が生起する場は、実は「神学」から発出しているのである。このように、魔術と神学という本来対立する二つの体系は、本質において同一であるというシグナトゥラ説が、ここにおいても現前するわけである。「魔術師」となる資格を有する者とは、そういうわけで「キリストにおいて新たに生まれた者」に他ならない。神学と魔術は姉妹であり、それらは共通の本質である「神」に向かっているのである。
パラケルススの神学に対する視座は一貫しており、彼の思想の根幹を担っている。錬金術の礎は、やはり神学なのである。何故なら、「真理は、神学からこそ現れる。神学が欠けているならば、真理は見出されない」のであるから。彼にとっては、哲学も魔術も、神学という根が存在してこそ育つ幹なのである。


○ 宇宙論的身体論


パラケルススによれば、人間の身体には三つの層が存在する。
一つ目は可視的で死すべき「エレメントの身体」。
二つ目は不可視であるものの不滅ではない「アストラルな身体」。
(通常、人間にはこの二つの身体が重なっており、現代社会においては「アストラルな身体」が限りなく感覚し辛い状態となっている)。
三つ目は不可視であり且つ永遠である「神の身体」。
人間存在は、万象の精髄である「地の塵」から創造された「ミクロコスモス」であると同時に、「生命の息」、つまり神の霊を吹き込まれた「神の似姿」である。第二のアダムである「キリスト」において新たに生まれた人間は、「マクロコスモス」の神秘に触れて、森羅万象を統治する神の「魔術師」、「神において自然万象の力を自在に使いこなす聖者」となる。
パラケルススの究極目的とは、物質の霊化であり、「霊的身体性」の顕在化であり、錬金術的作業によって完成される「万物の完成」である。
人間は現世において、二つ目の身体である「アストラルな身体」にまで到達することは可能である。しかし、最後の「神の身体」だけは、「審判」によるキリストの「再臨」によって彼と合一することを通してのみ果たされると解釈されている。「合一」とは、「審判」の後に現前する「神の国」において、キリストの身体に人間の永遠の身体が合一、収斂し、一体化された身体を形成することを意味する。ヨハネによる福音10:16の言葉を借りれば、「復活の後にただ一人の羊飼いに、すなわち羊の群れ全てを牧するキリストに養われることになる。そして、羊の群れは一つにまとまる」。これによって、アダムの原罪から始まりキリストの贖罪は真の完成を見せ、宇宙史=救済史はその円環を閉じるとされる。
では、パラケルススの歴史観によれば、「審判」以後、宇宙は終わってしまうのだろうか? 実は、世の終わりにおいて現宇宙に内包されている永遠の「神の身体」が「新たな宇宙」として顕現するという。つまり、キリストに結ばれた「アストラルな身体」たちは、ここにおいて合一を果たして「神の身体」となり、その集合体が霊的な一つの「新しい楽園」、「新たな宇宙」として開闢するというのである。このように、パラケルススの錬金術的思想体系は、その本質において宇宙論なのである。
また、人間というミクロコスモスは、シグナトゥラ説から考えると、外なるマクロコスモスと本質を同じくしている。結局のところ、宇宙とは何であるかという根源的問いは、人間とは何であるかを究明することで即応的に解明できるとパラケルススは考えていた。換言すれば、自然、宇宙を知ることで人間を構成する諸要素を知ることも可能なのである。このように、彼の中では「身体」と「宇宙」は、思考回路において“相互浸透”しており、いわばネットワークにおいて直通したものである。

パラケルススの「世の終わり」(終末論)の観念をもう少し読解してみよう。「審判」の日、宇宙は全てを焼き尽くす大いなる「火」によって燃え上がり、宇宙全体が「新しい楽園」に変容するとされる。「神の身体」と合一した「新しい人間」は、かつての原罪とはいかなる関係もない無垢な存在であり、それは「女からではなく乙女から生まれた者」という神秘的な表現を与えられている。
無論、我々には「審判」の日において、キリストと「合一」しない道も残されている。しかし、パラケルススは「永遠の中にこそ、つまり神の本体と営みの中にこそ憩うべきである」と確信していた。以上、概観してきたように、錬金術の父祖であるパラケルススの思想は、徹頭徹尾、「神学」に根差した体系であり、その究極目的は「アストラルな身体」を持つ人間をキリストとの合一によって、「神の身体」に一致させることだったのである。




「参考文献」

ドイツ神秘思想の水脈ドイツ神秘思想の水脈
(2011/06)
岡部 雄三

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