† キリスト教神学 †

現代思想としてのトマス・アクィナス『神学大全』の可能性

Madonna of the Magnificat (detail)
サンドロ・ボッティチェリ《マグニフィカート》(1480-81)


 このページではトマス・アクィナスの『神学大全』を読み返すことで、キリスト教神学の基礎を復習してみよう。トマスは自らの神学に対する位置付けを、doctor catholicae veritatis(カトリック真理の教師)と表現している。『神学大全』とは、理論である前にまずsacra doctrina(聖なる教え)であり、humana salus(人間の救い)である。


【神学とは何か?】


 そもそも、「神学(theologia)」とは何であろうか? トマスはそれを、scientia divinitus inspirata(神感に基く学)だと考えていた。聖書を真に深く理解するためには、聖なる教えとしての「神学」が必要である。聖書の中においては、我々はそれを読むことで神の教えを認識することができるわけだが、それは学としての聖なる教えではない。神学においては、教える神自身の中に入り、神に近づくことが試みられる。よって、真に神を理解しようとする者は、不可避的に聖書のみならず、「神学」とも対面することになる。それは「信仰」があって成立する教えであり、神の恵みとは何であるかを理解するための、聖なる教えなのである。したがって、トマスは「聖なる教えにおいては、全てが神の視点のもとに、神を根拠にして取り扱われる」と述べることができた。これこそ、神学の最良にして最大の「入門書」である『神学大全』の根本性格に他ならない。
 「神学」には「信仰」が前提として必要であると述べたが、それは独占的、特権的な「体験」に帰されるようなものではない。神学はscientia(学)なのであり、体系的に理解すれば万人が理解し、自ずと「信仰」に達するものである。
 トマスの『神学大全』について、グラープマンの『聖トマス・アクィナス《神学大全》入門』には以下のように記されている。

「…現世における神への絶対的な忠実さを通じて、永遠に、喪失のおそれなしに、神と顔と顔を合わせて直視し、所有するに至る、という目標こそ彼(トマス)の知的生命の中核そのものを構成するのである」


 『神学大全』はそれゆえに、単なる神学の入門書を越えて、「人生地図」としての役割を果たす。トマスによれば、人間とは探究する存在である。この探究には、終りがないものであり、その彼方に垣間見える光こそが、「神」である。換言すれば、「神」への探究に向かわない知的な営みは、不完全な探究であるに過ぎない。全ての学問は、「神」を目指して構成されているのであり、その目的は「幸福」である。何故なら、「神」こそが真の「幸福」だからである。
 現代思想においても、神学は存在論との関係性から大きな注目を集め続けているラディカルな分野である。しかし、ハイデッガー的な存在論は、「神」の本質である「智恵と愛」を捨象した上で成立したものであるので、トマス的に見れば無味乾燥な学に過ぎない。「存在」をテーマにする点で存在論と神学は共通するが、「存在」の本質とは「知恵と愛」という神のペルソナなのである。この前提なくしては、存在論は無機質で実践的要素の少ない孤独な閉じた学問に終始するであろう。
 トマスがいう「神」は、「信仰をもって肯定された神」である。彼は、「神が存在するということの認識は本性的に我々に植え付けられている」という前提のもとに論を進めている。先述したように、神とは「幸福」を求める者が信じるものであり、「信仰」によって認識できるものである。「信仰」によって神が認識される以上、哲学的な「存在証明」という理性的手段は、そもそも的外れである。これは神に対する一般的な「躓き」の最たるものであり、多くの現代人は未だに「神が、“存在”するか?」という問いの策定を好む傾向にある。しかし、「存在」を本質として有する「神」の問いを、「神が存在するか?」と表現するのは稚拙なトートロジーであるし、何よりも神学は「証明」の根拠に力点を与えてなどいない。「信仰」と、「幸福」を求める無垢な魂があれば、「神」の「存在証明」など必要ないのである。これはいわば、人間である限り、感性的に希求される根本的な「学」なのである。
 パウル・ティリッヒのいう、ultimate concern(究極的関心)こそが「神」である。人間は、誰しも自らの人間としての「生」の全体を成立させ、方向付け、つき動かしている「究極的関心」があることを認めるはずである。これに真正面から応答する準備ができている学問体系こそが、神学に他ならない。
 トマス学者の中には、トマスが「神の存在証明」を行っていると解釈する者が多く存在する。彼は確かに「五つの道」という方法で、論理的に神の存在を証明しようと試みているが、これは厳密なレベルで「証明」なのではない。いわば神の性質を展開したものであって、先にも述べたとおり、トマスにとって神が存在することは「論証」するほどのこともない前提なのである。何故なら、トマスは神を「信仰」しているのであるから。神学が「信仰」の対象としての神を扱うのである以上、哲学的な「神」概念への異議申し立ては、全く取るに足らない瑣末なミスリーディングに過ぎないのだ。
 トマスにとって、神の基本的な属性とは「一」である。すなわち、「多」ではないのであり、「多くの神」は存在できない。神は神である以上、常に「一」なる神である。また、トマスは以下のようにも述べている。「我々が自分たちが神とは何であるかについて無知であることを知っていること、まさにそのことが神を認識することに他ならない」。これはジャック・デリダが「痕跡」について語ろうとする時に用いた、否定神学的なコンテキストと類比的である。神とは何であるか、我々はそれを「文字」に限定して、「神とは愛である」とか、「神とは聖三位一体における父の位格である」などと表現可能である。しかし、神はそもそも「文字」によって表現されない。神の永遠性は、エクリチュールという閉域に限定されないのである。よって、文字言語で神を語ろうとする『神学大全』は、本質的には「神」を語っていない。まさに、トマス自身が認めたように、「神について無知であること」を、「知る」ことしかできないのだ。そして、この「無知の知」こそ、神学を学ぶことの意義である。
 本質的には「語りえないもの」である「神」を、トマスは文字によって急迫しようとする。神は「一」でありつつ、そこではcausa prima(第一原因)と規定される。「第一原因」とは、全ての存在するものを存在せしめる原因でありつつ、自らは他の原因に依存することのない第一の存在を意味する。これはハイデッガー存在論における、「存在」そのものと接点を持っている。「存在者」が、「存在」に巻き込まれ、いわば存在の根拠を与えられているように、神である「第一原因」は、全ての存在の原因でありつつ、自らはいかなる他の原因にも依存せずに存在している。「存在」とは、まさに「第一原因」なのである。


【神はなぜ人間を創造したか?】


 トマスは「創造者」としての「神」をどのように理解したのだろうか? トマスの「創造」の概念は、非常に刺激的で魅力的なものである。我々は通常、神が世界を「創造した」と表現し、神を能動の主体として規定する。被造物は、「創造された」受動的な存在である。ここには、「創造する/される」という能動/受動関係が成立する。こうした関係性から、トマスは「創造は何らかの関係である」と定義する。創造とは、一方的に世界を創造する能動的行為だけを意味するのではなく、創造されたものとしての被造物と、能動的主体である創造主との「関係性」を指すというわけである。
 では、世界は何故存在しているのだろうか? トマスによれば、それは「神による存在全体の流出」に基いている。名高い「無からの創造」の教えは、「信仰」によって理解されるものである。世界を「創造」するとは、「神による存在全体のemanatio universalis(普遍的な流出)」を意味し、「創造される」という受動的な意味も、この「神の流出」に基いている。まさに、「流出」は、「創造」における関係性の核心である。この真理は、繰り返すが「信仰」のみによって肯定されるものであり、論証可能なものではない。
 では、「神の流出」=「創造」の目的とは何であるのか? それは他でもない、「人類の救い」である。被造物は、単に神から流れ出ただけのものではなく、深い神の「愛」によって肯定され、創造されたものである。存在する限り、我々被造物は神から深い「愛」を受けているのである。世界を創造した神の目的にはいかなる悪の介入の余地もなく、徹頭徹尾、「愛」に基いており、この「愛」による「人類の救い」を目指したものである。
 トマスの聖三位一体論も、この文脈から解釈される。父、子、聖霊は共に「創造」の原理であり、「人類の救い」のために必要なものである。この三つの位格は、「多」を意味しておらず、根源的な「一」の様態であり、全てが世界の「創造」における基本原理である。創造において聖三位一体が働くのは、ひとえに神の「智恵と愛」の賜物である。神が人間を創造したのは、堕落を罰するためでも、己の下僕にするためでもない。神は友を求めていたのであり、己の掛け替えの無いパートナーとしての関係性に入るべき相応しい存在者として、アダムを創造したのである。何故なら、アダムの子孫である我々は神に祈りを捧げることができ、また神の恩寵に感謝し、神の愛を隣人に与え、神のように敵を赦すことができる。神が我々人間を創造したのは、神御自身が神の孤独を救うため、神御自身が「愛の関係」に入るためである。だから、我々が神を希求する以上に、神も祈られること、愛されることを欲するのである。何故なら、神は「愛」そのものであるから。このように、トマスの創造論の核心に位置しているのは、常に「智恵と愛」である。


【神に感情は存在するか?】


 神に「感情」が存在するかという問題について、従来までの神学的伝統では、そのような人間的な本質は認められないという見解が大多数であった。これは、神のimpassibilitas(不受動可能性)と呼ばれる。しかし、20世紀以降、この教説に疑問を抱く神学者や宗教哲学者が現れ、神にも何らかの「感情」を認めなければならないのではないかと指摘した。これを、神のpassibilitas(受動可能性=受苦可能性)と呼ぶ。こうして、現在も神の「感情」をめぐって、神学、宗教哲学では活発な論議が展開されている。
 神にも「感情」が存在すると主張した代表的な神学者は、教理史運動の代表者で『教理史教本』(1886−1889)の著作などで知られる、プロテスタント神学者のアドルフ・フォン・ハルナックである。ハルナックによれば、元々神に「感情」など存在せず、完全なものである以上は常に既に自己充足的であるとする従来の神学教説は、ギリシア哲学の影響下において導入された概念であって、本質的には聖書と無縁なものであるという。確かに旧約聖書には、神の「怒り」や「愛」に関する感情表現が多く見受けられるので、ハルナックが神に「感情」が存在すると述べる点には一定の説得力がある。また、同じく神に「感情」を認める歴史神学者のアリスター・マクグラスによれば、アウシュビッツやヒロシマのような状況下において、人間と共に苦しみ、涙を流さない自己充足的な神など、信じるに値しないとされる。聖書には情緒豊かな神が描かれていたはずだが、この基本から遊離してしまった抽象的な神学は、真の神ではないというわけである。マクグラスのこの見解にも、やはり一定の説得力があるといわねばならない。
 では、カトリックの神学の伝統ではどうかといえば、まずトマスとアンセルムスによれば、神には少なくとも「人間のような感情」は絶対にあり得ないという。特にトマスは、『能力論』において、以下のように解釈している。全能である神には、不完全性を含意した受動的な能力としての「感情」は存在せず、徹頭徹尾、potentia activa(能動的な能力)のみが存在する。「神においては能動的な能力は、その本質と同一なのである」と述べられるように、神にはいかなるpassio(受動的感情)も存在しない。だとすれば、神には「愛」も存在しないことになってしまうのだろうか? これは、「神は愛である」というカトリックの根本的信条と矛盾する。トマスはどのように、この点を克服したのだろうか。
 トマスの回答は、以下のようなものである。すなわち、「神は、一にして単純で常に同一の仕方に留まる意志の単純な活動によって、万物を愛する」。換言すれば、神には何らかの受動的な作用によって感情を抱くことはないが、「意志の単純な運動」としての「能動的な愛」が存在している。つまり、我々人間がたとえ神を愛していなくとも、神は我々を徹頭徹尾、能動的に愛する存在なのである。この点は、アリストテレスも『二コマコス倫理学』で同様の見解を示している。つまり、「神は一にして単純なはたらきによって喜ぶ」と規定されているのである。トマスは、アリストテレス的なギリシア哲学における「神」の概念を、キリスト教に「接合」させた神学者なのだ。
 ここで忘れるべきでないのは、カトリック神学においては、神の「感情」が人間のような揺れ動き易いものではなく、「完全」なものでありながらも、意志の単純な活動においては「愛や喜び」を抱くということが規定されている点である。この神の感情は、常に世界を最善のものとして「肯定」するものである。神は最良の世界を常に選択すると同時に生成させており、何らかの揺らぎを感じることはない。こうした「意志の単純な運動」として世界や人間を愛する行為は、不完全で有限的存在である人間には不可能である。それゆえ、人間に存在するpassio(受動的感情)は神には存在せず、逆に、神に存在するsimplex motus voluntatis(意志の単純な運動)は人間には存在しない。このように考えることで、初めて神の「愛」の完全性を把捉することが可能である。
 また、神の属性である、一、善、全能、存在、愛、遍在などは、神学的な「表現」であって、こうした言葉の羅列によって神を定義したことにならないのは言うまでもない。トマスはこの点も抑えていて、「我々人間の知性は、被造物から神を認識するのだから、被造物が神を表現している限りにおいて神を認識する」と規定される。つまり、画家が描いたキリストの絵や、彫刻、荘厳な大聖堂、ロザリオ、十字架なども、あくまで被造物であって、こうしたものが神を表現する力は本来的には有限なのである。この点で、これらは神を「表象」しているのであって、神そのものではない。トマスのこの部分は、神の「表象不可能性」のひとつの証左として機能する。
 さて、ここでマクグラスの先の見解に戻ろう。彼は20世紀に起きた災厄に対して、人間らしい感情を持たない自己充足的な神は、形骸化した伝統的神学の産物に過ぎないと糾弾したのであった。アドルノもまた、「アウシュビッツ以後、詩を書くことは不可能である」と述べたことは広く知られている。なぜ、神はアウシュビッツやヒロシマ、近年ではフクシマ、あるいはテロ組織による残忍な行為を世界において現前させてしまっているのだろうか。もしも神が最善の世界としてこの世界を選択したのであれば、なぜこれほどおぞましい出来事が生起しているのか。これについて、トマスがどのように考えていたかを知ることが極めて重要になってくる。彼は以下のように記している。

善の特質は欲求され得るものという特質であり、悪は善に対立しているのだから、何らかの悪が悪である限りで欲求されることはない。……だが、何らかの悪は、何らかの善に伴う限りで、付帯的な仕方で欲求される。……神は、自然的な欠陥という悪または罰という悪を、このような悪がそれに結び付いているところの何らかの善を意志することによって、意志するのだが、それは例えば、正義を意志することによって罰を意志するようなものである。


 トマスはここで、悪に満ちたこの世界に対して、神の意志はあくまでも「肯定的」な仕方で働き続けると解釈している。そしてその場合、神は「正義の維持」のために、蛮行を齎す人間に「罰」を与えるのだが、これは神が「正義」、「善」、「愛」を自己の本質として完全に所有しているからであり、これを乱すことを最善の世界にとって悪とみなすためである。この「正義の維持のための手段」が、譬喩的に「神の怒り」と聖書では表現されているのである。ここで忘れるべきでないのは、神は悪をなし、人間社会に亀裂を与え、命を露ほどの価値もないと考えるような悪魔的な所業に対しては、常に既に「罰」を与える完全な準備ができているということである。ただし、これを神はsimplex motus voluntatis(意志の単純な運動)によって行うのであり、人間のような不完全な形式で行うのではない。
 ここでもう一つ注意せねばならないのは、神は「ネガティブな感情」を抱かないという、トマスの確信である。先述して、我々は「神の怒り」という表現を用いたが、これはあくまでも人間が捉えた神に対する感情的な表現に過ぎない。神にはそもそも、「欲望や怒り」のような「不完全性を含意した感情」は微塵も存在しない。存在しているのは、充足している際の人間の感情に接近した「愛」や「歓喜」である。神の「罰」は、神が肯定する最善の世界を乱す要素に対して、神御自身の「正義の秩序」を維持するために遂行するものであって、神はけして「怒り」を抱いているわけではない。神においては、「罰」ですら、simplex motus voluntatis(意志の単純な運動)によって実現されるのである。
 ところで、人間が何らかの「欲望」を抱くのは、自己の外にある「善」との関係性を構築する必要性があるからである。つまり、人間の欲望は常に何らかの「欠如」に起源を持っている。しかし、神は完全に自己充足的な存在であるので、自己の外部に何も求めるものはない。ただ、自らが創造の種を蒔いた、この不完全な人間社会の均衡を常に最善に維持しているということ、そのために我々を徹底的に愛しているという事実である。このような考えに立てば、一見不幸に思われる出来事も、その人をより成長させ、神の愛へと近付けていくための試練であり、より長い目で見れば「最善」への道程であったことが明らかになるのである。
 では、具体的に神は我々の不完全な社会の秩序維持を図るために、何をしているのだろうか。これを考察するためにトマスが用意した概念が、communicare(分かち合う)という表現に示されている。

自らの欠如を補うために働きを為すことは、人間に属することであって、神に属することではない。神に相応しいのは、自らの完全性の満ち溢れをcommunicare(分かち合う)ために、働きを為すことである。


 ここで明らかになったのは、神は完全であるので、不完全な人間社会に対して、自らの善の「充満」を拡散させる。いわば、神の愛を、己に似姿である我々人間に対して、「分有」させようと企図する。この最高点がイエス・キリストの御受難なのである。神は最も恐ろしく、最も痛ましい苦しみをナザレのイエスの身体と精神に与えることによって、つまりはこれほどの受苦を自ら担うことによって、人間に真の「愛」とは何かを告知しに「やって来た」のである。この特異点こそ、イエスにおいて生起した出来事に他ならない。
 既に述べたように、神は能動的に人間を愛している。神の愛はあまりにも深いため、我々が神に目を背けたとしても、神は我々を愛するために「やって来る」。この点で、キリストの御受難と復活は一回性の出来事ではなく、常に微分的な差異を伴って、繰り返し我々に訪れるものである。神の愛はあまりにも能動的で、我々人間への愛に燃えているため、我々がどれほど深く神に感謝を表しても、その祈りが神の愛の深みを越えることはない。それほどに、神は人間を愛しているのである。
 以上、トマスの神論を改めて振り返ってきた。トマスにおいては、神はipsum esse subsistens(自存する存在そのもの)であり、人間的な感情を持たない。神に存在するのは、simplex motus voluntatis(意志の単純な運動)であり、神はこの仕方において人間を徹底的に愛している。そして、神は自己の無限に豊かな完全性を人間社会に齎すために、人間と善をcommunicare(分かち合う)ことを企図される。
 
  
【イエス・キリストとは?】


 当時のユダヤ教文学に登場した殉教者たちは、イエスのように深く懊悩しておらず、落ち着いて神を讃美しつつ殉教死を遂げていったという。イエス・キリストが我々と同じように苦悩したり悲しんだりしたという事実は、彼の存在を理解するための中核である。トマスによれば、キリストは「真の人間」であると同時に、「真の神」でもある。ゆえに、キリストにはvoluntas divina(神的な意志)とvoluntas humana(人間的な意志)の二つが兼ね備わっているとされる。これを我々、人間の感情に置き換えて考察すると、「本性としての意志」と、「理性としての意志」として表現することができる。そしてトマスによれば、この二つの意志――より判り易く言えば、「感情」と「理性」――は、相反するものではなく、共通の「善」を目指して本来的には融和しているとされる。この究極的な実現こそが、自ら御受難へと向かったキリストの苦悩によって具体化しているのである。
 この点を、もう少し我々の日常生活に近付けて解釈してみよう。例えば、我々は日々働く中で、様々な困難に直面することがある。むしろ、困難の連続として人生をネガティブに捉えてしまいそうなことが、日常には多々生じるものなのだ。そうかと思えば、暗雲から突如として光が射すように、全てが嘘のように幸せに感じられる瞬間もある。特にキリストの存在が重みを増してくるのは、我々が困難を背負っている時である。これを、キリストが十字架を背負ってカルワリオの丘を登っていたプロセスに置き換えることができる。いわば、我々の苦悩を、より濃密に、より縮約された象徴的な形式で、キリストは予示しているのだ。そして何よりも重要なことは、キリストにとっては、いわばこれが神から言い渡された使命、任務、より日常に降下した表現を借りれば、「仕事」だったということである。壮絶な痛みと苦しみ、仲間に裏切られる孤独と失意を伴う「仕事」が目前に迫っている時、我々はいったい何を感じるだろうか。それは、日曜日の夜、明日からまた新しい週が始まるので少し憂鬱だと感じているどころの次元ではない。このような仕事は、存在できないほどに、想像できないほどに、苦を伴うものである。キリストは、それでも、「仕事」へと果敢に向かった。
 以上のように、「苦難に直面する人間の模範」として、ゲッセマネの祈りにおけるキリストを解釈することができる。そして重要なことは、キリストは恐ろしい仕事を自ら務めあげた後、「復活」したという事実である。この「復活」について、我々は日常においてはどのような意味を持っているのかを考えておく必要があるだろう。苦しいことの後には、必ず、確実に「良い」ことがあるというのが、キリストの「復活」を我々の経験に置き換えた時の教訓なのだろうか。むしろ、以下のように捉えるべきではないだろうか。つまり、実は我々が生きる上で味わう全ての「苦難」こそが、その後に訪れる木漏れ日を作り出しているのだと。これは、仕事に疲れ果てて心身ともに限界になっている人間をひとつのメタファーとして、解釈しなおすことが可能である。彼はもしかすると、退職するかもしれないし、なおも続けるかもしれない。いずれにしても、彼は自分の身に起きている苦難を乗り越えるために全力を尽くすだろう。そして、その結果、何らかの行動が生起するはずである。それが、新しい、より自分に相応しい職場の発見に繋がるだろう。この場合、彼は新しい職場を、前の職場と比較することができる。「今も確かに大変だが、前よりは私は十分にやっていける」と、彼は確信することができたとしよう。そうであれば、彼の最初の「苦難」は、いわば適性度の高くなった現在の職場において、「復活」を遂げていると考えることが可能である。これは、キリストの「受難」と「復活」を、我々の日常に積極的に変換するという、意識的な作業によって、初めて可視化される次元である。そして、このように捉えると、我々は、まさに「今・ここ」において、キリストがまだ「生きている」という事実に直面できるのである。
 山田晶は、トマスの『神学大全』第三部の日本語訳の訳註で、以下のようにキリストの「受難」と「復活」を解釈している。

キリストのうちに、ある段階において、この二つの意志(自己の本性的意志と神の意志)の葛藤があったと考えられるが、究極的に、自己の本性的意志を、神の意志に合わせて、受難と死とを、自らの意志をもって受けた。……この葛藤あるがゆえに、キリストの受難と死とは、最大の価値を有するのであり、人間としてのすべての望みを神の意志に従わせ、そのための苦しみと悲しみとを、神にささげつくすことによって、贖罪の事業は完成された。


 しかし、トマスはキリストを「完全な人間」として定義しているので、彼に人間的な「葛藤」が存在したと認めることはない。これは、先の「神に感情は存在するか」で触れた点と重なり、彼は「愛」にせよ、「喜び」にせよ、それらをただ、simplex motus voluntatis(意志の単純な運動)によって感じる存在なのである。これはトマスの思想の根底にあるものだが、彼はこの世界の全てを、「善」へ向かうものとして「肯定」している。神がソドムとゴモラに火柱を落としたのは、「善」の世界の秩序維持にとって、これらの都市に蔓延する犯罪が「悪」であり、これらを除くことがその時、より豊かな「善」のために必要であったからだ。ゆえに、神は「悪」を裁いている時ですら、いかなるネガティブな感情にも駆られることはなく、徹頭徹尾、「善」の実現のためにこれを行うのである。旧約聖書に頻出する「神の怒り」が、人間の有限な語彙体系が作り出したメタファーであるという点は、既に述べた通りである。
 重要なのは、トマスにとって「悪」とは、より大きな「善」を前提にしたものであるということだ。神が落とした火柱は、確かにソドムとゴモラの都市の住民(そこには幼い少年少女や小動物も含まれていたはずだ)をも焼いただろう。そして、彼らからすれば、神の火柱は、一見「悪」だとみなし得るだろう。だが、神からすれば、これはsub ratione boni(善の観点のもとに)欲求されたものなのである。全ては、「善」のために必要な過程として遂行されているのである。
 では、このような、全てを「最善」として遂行する神の生ける受肉であるはずのキリストが、なぜゲッセマネにおいてあれほど深く懊悩したのだろうか。この点を、トマスがどのように解釈したかという点を知ると、我々は彼の論理的一貫性が守られることに感心させられるだろう。聖三位一体論から考えると、キリストは全能なる父である神の、「御子」という位格である。つまり、父とは本質において同一でありつつ、完全な「人間」としての属性をも担う。だからこそ、鞭打たれれば血が噴き出し、涙を流すのである。キリストが苦しんだのは、自分の身体を破壊してくる「悪」を避けるための正常な人間的反応であり、これは神から授かった肉体を守ろうとする、いわば「自己の命を護ろうとする意志」である。ゆえに、それは「善」への意志である。キリストは、自らの身体を破壊されることについては、人間のように「感覚的苦痛」を抱き、自己の命を護ろうとする正常な人間的感覚を持っていたのである。
 ここでまとめておこう。トマスによれば、キリストにおいては、「感覚的欲求の意志」と、「本性としての意志」と、「理性としての意志」が、それぞれ相応しい在り方で共存していた。つまり、ゲッセマネの祈りの後、キリストが完全に「理性としての意志」のみを持って十字架上の死へ向かったのではなく、彼は生まれた時から死まで、常にこの三つの意志を共存させていたのである。このように考えると、トマスは、「感覚的欲求の意志」を認めている限りで、人間としてのキリストの心の中に起きていたダイナミズムを捉えていたことが判然となる。そこには、我々と同じように、悩み、苦しみ、悲しみ、恐怖、失意があったはずである。だが、それらは「理性としての意志」によって、「調和」されたのである。
 誤解を回避するために、トマスに倣って、passio(感情)を、propassio(感情の発端)と、passio perfecta(完全な感情)に区分しておく必要がある。人間は、理性が感情に敗北させられてしまうことがある存在である。この場合の感情は、passio perfecta(完全な感情)と表現される。しかし、キリストの場合は、あくまでpropassio(感情の発端)が生起するに留まり、それが「理性」を壊すことはない。我々は熱い涙に靡き易い傾向を持ち、どこかキリストにもそういう人間的な優しさを見たがっているところがあるはずだが、もしもキリストが人間と同じようにセンチメンタルな存在であったとすれば、逆に神学的な問題が起きることになってしまう。例えば、キリストはマグダラのマリアの美しさに欲望を抱いていたとか、十二使徒の中でも、ヨハネを愛したのは彼が美しかったからだ、などというような見解が平易に起きてしまうだろう。だが、ここまでのトマスの考え方を採用すれば、たとえキリストがマグダラのマリアの容貌や立ち振る舞い、仕草などに、何か「美」を感じることがあったとしても、むしろそれを自分が持っている属性として、すなわち「父」の属性の地上での多様な現れの一様態として把捉していたのではないだろうか。なぜなら、神の「美」に勝るものは存在しないからである。また、神が性差を超越した存在であり、生殖を必要としないように、キリストもまた女性に性的欲望を感じることはなかった。むしろ、キリストは男性身体を持ちながらも女性的であり、女性的な優しさを持ちつつも男性のように超然としていたのである。キリストにあったのは、propassio(感情の発端)であって、人間のような感情ではないのである。
 整理しておこう。神に感情がなかったように、キリストにも感情はない。神の愛とは、simplex motus voluntatis(意志の単純な運動)によって我々に与えられる愛であり、これは完全な善を目的としている。同様に、キリストにあったのはpropassio(感情の発端)であって、彼は感覚的に痛苦を感じることはあったが、愛が性的欲望に転じるなどというような、理性に敗北してしまうことはなかった。この場合の、「なかった」というのは、常に絶対的な「断定」を伴う。なぜなら、これは人間の尺度が通用するものではなく、そもそもキリストは神が地上に送った存在だからである。もしも、ここに懐疑を差し挟んでしまう場合、神学の学ぶ意味が何もなくなってしまうのは明らかである。我々が、そのように「信じる」ことにこそ最大の意味があるからである。
 このようにトマスは、キリストを「人間本性」と「神的本性」の融合した存在として規定している。そして、我々は神の隠された愛に抱き締められながら日々生きている以上、少しでもキリストの姿に見習おうとしなければならない。辛い時、哀しい時、苛立たしい時、そういう時は、そのような「人間的感情」を、神が我々の意識に「贈与」して下さっていると考えることができる。そうすると、我々の頭の中に残された「理性」という名の小さな天使が、感情的に振る舞おうとしている慌ただしい「感情」という名のわんぱくな天使を、少し宥めようとするはずである。全てを「今・ここ」で判断してしまおうとするのではなく、自分にとって何が「最善」かを常に見極めた上でなければ、何事も判断すべきではない。一瞬の何かに身を任せる行為は、例えば「芸術の制作」においては、インスピレーションや霊感として重要な意味を帯びてくることもあるのだが、少なくとも一般的に生活世界を成り立たせていく過程においては、神のように揺るがない安定した、穏やかな精神が必要である。
 このように自分を高めていくことで、我々は、隣人に対しても、より深い愛を注ぐことができるはずだ。忘れないようにしよう、我々が神に常に抱き締められているということは、「真実」であると。
 













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~ Comment ~

神様の偉大さを知るきっかけに

はじめまして!

聖トマスアクィナスのことで検索していてお邪魔しました。とても知的な文面で恐れ入りました…世間では「 アクィナスは神の存在証明をした 」とあったりもしますが、こちらでは神様に基づいた分析をされていて、私にも納得できるように感じる気がします。(多分、難しくて理解できてない部分が多々ありますが、恥を承知で書き込ませていただいています!)
唐突に申し訳ございませんが、神学大全は、あまり学のない者でも読めるのでしょうか?読みたい気持ちが強いのですが、なかなか気軽に読ませていただける場所がありませんので、ボチボチ購入しながらになりそうです。集めるだけになっても価値はありますでしょうか?
できれば、要約とか解釈書は、避けたいなと思っています。やっぱり聖人と言われる方が書かれたもののほうが、結局は近道だということが多いような気がするからです。
当方、一応カトリック信者です。聖三位一体の愛と聖母マリアの恩寵は日々感じていますし、聖書も好きですが、なかなか神学に触れる機会がありません。ただ、以前にお世話になり、私の信仰の礎に影響を与えてくださったメリノール会の司祭は、お話の内容からして、神学大全を学ばれていたのではと思われます。
しかし私にとっては、聖トマスアクィナスの死の前の約3ヶ月として記録された言動に、深く感動いたしました。やっぱり神様は人智を超える方であり、神様という幸福〜いわゆる天国〜は存在するんだということを。これほど重みのある神学さえもワラクズと例えられるほど、本物は筆舌しがたいのだということを。おそらく、聖トマスアクィナスも、その時期に人生で一番多くを悟ったのではないでしょうか。
[2013/10/15 23:25]  ミルキー  URL  [ 編集 ]

見つけました!

神学大全の訳のサイトを見つけました。
すこ〜し考えてみます!
頭を整理しながら読むことから始めます
^ - ^
[2013/10/16 13:31]  ミルキー  URL  [ 編集 ]

ミルキー様へ

こんばんは!

勉強熱心な御方からのコメントはとても励みになります。
返信がやや遅れてしまい申し訳ございません(仕事と少々風邪気味なのが相俟って…)。
私もミルキー様と同じく大阪のカトリック信徒です。
洗礼を受けたのは二十一歳の頃は、カルメル会のシスターに志願期間を通じて大変御世話になり、今でも私のカテキュレーション理解の根本にあるのはカルメル会の信仰精神(特に幼きイエスの聖テレーズ)の教えだと思います。
さて、アクィーノの聖トマスについては、私の知っている信仰仲間の方で原書で学んでおられる方もけっこうおられます。
トマスの生の言葉を知りたいのであれば、やはり日本語ではなく、キーになるテクストは特に原文理解が必要かもしれません。
とはいえ、トマスには全集も存在しており、日本にも秀逸な翻訳者の方がおられますよ。
今回ミルキー様のコメントを読んでいて、晩期トマスのテクストに関心が湧きました。
機会があれば私もぜひ読みたいです。
もしかするとミルキー様は神学生の方かもしれませんが、教区におられる司祭や年長信徒さんの中で『神学大全』に詳しい方は多数おられると思いますよ。
なにせ、ヴァチカンが発行しているカトリック神学の手引き(あの分厚い本ですが)の内容は現在もトマスの影響を色濃く受けていると言われているので。
いずれにしても、信仰と神学の学習はバランス良くやっていきたいものですね*

貴重な御言葉どうもありがとうございました。

[2013/10/16 23:07]  TOMOHISA  URL  [ 編集 ]

Re: 見つけました!

創文社にて全集が出ておりますね。
原典翻訳ですが、多少ばらつきがあるようです。
http://www.sobunsha.co.jp/result.html?search=7#
私はプロテスタント神学と比較する上で、トマスの聖母マリア論が特に好きですね。
[2013/10/16 23:13]  TOMOHISA  URL  [ 編集 ]

たびたび恐れ入ります

やはり全部揃ったのはないようで、こちらを拝見するたびに、どんなものか読んでみたくなります。カトリック的な話をする場合、そのバックボーンとなる部分を押さえていないなら、砂上の楼閣みたいになる恐れもありますから。
貴方様は、神様によって類稀な才能を贈られておいでです。難しすぎて、あまり多くを拝読してはいませんが、ご霊名が、洗者聖ヨハネだと知ることができました。神様が、貴方様のうちに果たそうとしておられるみ旨のままになりますように!
そうそう、ただ一つだけ不思議に思ったのですが、神様はご自身の孤独があり救われる必要があったのでしょうか。。それは、ひとえに私たちのために、そうあってくださったのではないのでしょうか?
孤独のため愛の必要があったのではなくて、愛ゆえに孤独となり孤独でいてくださったような気がするのですが…
[2013/10/16 23:37]  ミルキー  URL  [ 編集 ]

お大事に!なのに、ありがとうございます☆

TOMOHISAさん
ご丁寧な返信ありがとうございます(^人^)
ちょうど寒くなる時期だから、ホント体調を崩しやすいです。睡眠と栄養で、ふぁいと〜ですね!無理しないようにしてくださいませ。と申し上げても、なかなかそうはいきませんけどね(笑)
わぁ〜、お隣さんです(o^^o)なんと京都に住んでいます。でも、神学生ではありません(笑)。あ〜☆21歳っていうと、どれほど前の素敵な響きでしょ!!若いって、それだけで美しい時期だと、今更ながら思いますよっ!そ れにしても、本当に賢い方でいらっしゃいます。尊敬します…神様からの賜物を大事になさってくださいませね。
私としましては、我が子達を与えられてから、特に神様のことを思うようになりました。神の似姿に象られた命を、この地上において託されるのは、喜びでもあり使命でもあります。私にとっても宝物でありますから、もうすでに、聖ヨセフを通して聖母マリアにお捧げいたしましたが、親は日々の生活のためだけではなくて、「いつまでもなくならない、永遠の命に至らせる食べ物のために」働かないといけませんものね^_−☆
聖トマスアクィナスの最期の3ヶ月は、霊的な時期だったと思います。
だからこそ、妙に感動して彼を知りたいと思い、断片的に読んでいくと、私が幼い頃に教わった概念に近いと気づきました。体系だった教えは、子どもを導く上で力になります。もちろん、私をお使いになるのは神様ご自身であって、子ども達自身も各々が神様に導かれるのは承知しています。しかし、ワラクズのカケラでさえありたいと思う私の努力を聖トマスアクィナスは微笑んで助けてくださいますでしょうし、神様の愛である聖母マリアに捧げらた子らに、神様は良いもので満たしたい望みを持ってくださっているでしょうから。また、 そういう志を持つ者を助けてくださるTOMOHISAさんのような方々を、もっと大きな愛で神様は助けてくださいますでしょうから。私は、ただただ感謝です・・。
とりあえず、聖母マリアのものを検討しますm(_ _)m
神様の御母でいらっしゃり、私の母でもいてくださる聖母マリアが、いつもTOMOHISAさんと共にいてくださることを、私は信じています。神様に愛され恵まれた霊魂よ、どうぞ、そのことをTOMOHISAさんが、どんなときも信じてくださいませ!
[2013/10/17 18:56]  ミルキー  URL  [ 編集 ]

やっぱり…

親切にしていただいて、ありがとうございます。教えていただいた創文社の、全部ほしいです〜。こちらでは、なかなか、そういうことを話題にできる信者お友達がいません。。それに、原文だなんて…Σ(゚д゚lll)
実のところ、こちらのブログもホントに難しくて、真剣に集中して読破した感があるんです。TOMOHISA様の頭の中は、どんなになっているのだろうと思ってしまいました(笑)。
私も、幼きイエスの聖テレジアが大好きです。回心のきっかけを与えてくださった方です。その前には、なんと言っても聖母マリアの母としての導きがあったことは、例えようのない喜びでありました。
そして最近で一番気になるのは、今でも新鮮さを失わない(ということですね!)神学大全です。私自身もっと神の栄光を賛美するために、神の偉大さを知りたいと望みますが、読めなくても理解できなくても、いつか役立つ日がくることを祈って、ポチッとしてみようと思います。先立つ物とも相談して、決心に繋げますね*\(^o^)/*
聖トマスアクィナス、あなたが幸いにも、この地上にいるときに仰ぎみられた神秘のヴェールのわずかな隙間からもたらされた光への賛美を、あなたを信じることによって私にも賛美させていただけますように!
TOMOHISA様を通して働かれる御父と御子の愛に感謝いたします。神様からの愛と知恵にあふれたTOMOHISA様の霊魂が、ますます豊かに満たされますように、お祈りいたします。
ホントありがとうございました!
[2013/10/17 23:08]  ミルキー  URL  [ 編集 ]

ミルキー様へ、再訪感謝です!

ミルキー様へ

とても温かい御返事どうもありがとうございます。
まずはこちらから御返信させていただきますね!
ミルキー様の仰るとおり、「愛ゆえに孤独になって下さっている」方こそイエス様であったと思います。
実際、イエス様が十字架で御受難に合われるまでの道行きに、私たちが属する地上に合わせた「苦」を体験して下さろうという神の慈愛(アウグスティヌスのいうcaritas:聖愛)を感じますものね。
私のブログは芸術・文化などについても言及しておりますが、根本にあるのはミルキー様と同じカトリック精神だと自負しております。
ミルキー様からのコメント、とても嬉しくて最近の愉しみの一つです*
[2013/10/18 11:31]  TOMOHISA  URL  [ 編集 ]

森の修道院へ

なのかな…
と、ふと思ってしまいました。教会によって、少しずつ雰囲気は違うみたいですね。私の所属の教会も、どちらかと申しますと、年配の方々にオンブにダッコしていただいている状態です。同世代もおられますが、お仕事や家庭のことなどで、何かと忙しくされていたりします。やはり私も今は、なんとか日曜日のごミサにあずかっているような状態です。でも、ちょっとした動物園のような賑やかさを引き連れたオバチャンですわン…TOMOHISAさんを、お褒めの幻から覚ましてしまうようで、オバチャン悲しいわン〜!(笑)
TOMOHISAさんが、お仕事で行けないのは残念だろうけれど、仕方のないことだから、犠牲としてお捧げしてくださいね。私は、ごミサの最中に、その犠牲を神様にお捧げいたします。もしも、TOMOHISAさんが望まれるのでしたら、霊的にご聖体拝領できるように執り計らってくださっていますから。
TOMOHISAさんが、人生の美しい時期に洗礼を受けられたことを、神様に感謝いたします。主は「見よ、わたしはわたしの掌に、あなたを刻んだ」と。公教会にあっては一つのキリストの体であり、私の喜びでもあります。
私のママ・マリアが、今日もTOMOHISAさんを守り導いてくださいますように!!!昨日、いつくしみセンターのブログを読んでいて、10月13日のことが書かれていました。聖母マリアの優しさに触れるのが、私の至福の時間だったりします…(*^^*) マリアワルトルタの本も涙なしには読めません!
[2013/10/19 05:05]  ミルキー  URL  [ 編集 ]

ありがとうございます*

*ミルキー様*

一度消えてしまったようで、御手数おかけして大変申し訳ございませんでした。
fc2のブログには特定の文字・記号にフィルターがかかるようです。
ミルキー様もお忙しいと思いますので、また機会があれば当ブログにて足跡を残して下さると嬉しいです。
マリア様の御言葉、本当にありがとうございます*
敬虔な貴女から恵みの御言葉を頂けたこと、二度と忘れません。
この度は貴重な御時間をいただきありがとうございました(*^_^*)
[2013/10/20 12:17]  TOMOHISA  URL  [ 編集 ]

ミルキー様に祝福がありますように

*ミルキー様*

温かいコメントどうもありがとうございます*
創文社のトマスの著作集があれば、ミルキー様の御子様にとっても貴重な宝物になるでしょう。
幼きイエスの聖テレーズのような純真な信仰心を私も常に意識していけたらと思います***
[2013/10/20 12:24]  TOMOHISA  URL  [ 編集 ]















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