† 宗教学 †

ミルチャ・エリアーデ 『聖と俗』(1)

by  Kevin Rolly

by Kevin Rolly


このページでは、宗教学を学ぶための基礎文献であり、ミルチャ・エリアーデの代表的著作『聖と俗』についての記録を残す。
彼は神聖なるものを、「全くの他者」として規定し、それは「自ら顕れる」と述べている。この「聖なるものの顕現」のことは、Hierophanie(ヒエロファニー/聖体示現)と呼ばれ、最高のヒエロファニーはイエス・キリストの受肉であると考えられる。前近代の宗教的パラダイムにおいては、聖なるものとは「力」そのものを意味していた。エリアーデ的な思考回路にとって、「俗なるもの」と「聖なるもの」の対比的な捉え方は彼の認識論における基礎的な図式である。現代世界の人々は、前近代では一般的に見られたhomo religiosus(宗教的人間)のような「聖なるもの」との直通した通路を喪失しているが、「聖なるもの」自体が失われたわけではないとエリアーデは考えている。例えば、「石」を聖なるものと捉える場合、その石は超越的な次元と、この俗なる地上を橋渡しするメディウムとして認識される。「石」は唯物論的ないし科学的視座に基けば、単なる自然物としてそこにあるものと認識されるが、宗教的人間にとって、「石」は神聖な神話的世界と地上を繋ぐ「世界の中心」になり得る。いうなれば、現代人の宗教的人間にとって何よりも重要なのは、こうした宗教的な「意味賦与作業」(E.フッサール)を怠らないということになる。エリアーデは、結果的にはこうした宗教的な意味賦与が、我々の「俗なる」世界を支える基盤になると考えている。


○ 「聖なる空間」


私はカトリックの信徒であるので、「聖なる空間」のモデルをエリアーデのように「教会」として論述していくこともできるが、ここではあえて多くの現代人に見過ごされている、ありふれた川沿いの一本の樹木を例にして「聖なる空間」について考えてみよう。
エリアーデが述べるように、「宗教的人間にとって空間は均質ではない」。宗教的・神話的な意味賦与を受けた空間Aは、この世界の「中心」とみなされる。「中心」は、「固定点」であり、いわば聖域であり、ヒエロファニーが生起する地上の場である。ある少女が、たまたま川沿いを散歩していて深い眩暈に襲われ、一本の樹木の上で舞っている天使の姿を幻視したとしよう。これを精神医学的な見地から解明する方法も無論存在するが、彼女が宗教的な探索を選択したとしよう。彼女にとって、この樹木は彼女の気持ちを慰め、癒し、天使の到来を再び待つ聖なる場になっていく。こうした個人的な次元で生起した宗教体験から、「聖なる空間」の現出過程を分析することは非常に有意義な収穫を齎すはずである。
やがて彼女が見た天使が現れた樹木に対する信仰が、何十人かの人間の間で共有されたと過程しよう。いわば、彼女の啓示的体験が中核となって、そこから新しい一つの神話が創出されたのである。この時、信徒の数に関係なく、たとえ彼女一人だけがその樹木を「聖なる空間」と認識していたとしても、ここはまさに「世界の中心」と規定される。ゆえに、「世界の中心」は、個々人の啓示が無数に、豊富に存在する限り、無数に存在する。これはジョン・ヒックの宗教多元論とも相関的な観念であり、「中心」の「多数性」は今後も我々の探究においてテーマになるだろう。
こうした個人的な啓示による「世界の中心」の発見を、エリアーデは「個人的宇宙の聖地」などと呼称している。この概念に依拠すれば、イエスが磔刑に処されたカルワリオの丘は「世界の中心」である。また、現代においても新宗教の教祖が自分の出生した土地を「聖なる空間」と規定する点も、こうした宗教学的方法から理解できる。「聖なる空間」と、「俗なる空間」は異なるものである。これはエリアーデから私が敷衍した考えであるが、例えばある人が何気なくコンビニエンスストアへ出向いて、そこで何かを買おうとしたとせよ。この空間内のある地点で、彼が何らかの啓示を得た場合、そして彼がその地点に高度なヒエロファニーを見出した場合、この時、コンビニエンスストアのその地点は「世界の中心」と認識できないわけではない。エリアーデが暗に示している重要なメッセージは、どの都市のどの建物、どの地点でも「世界の中心」になり得るということである。重要なのは、いかに強力な宗教的意味賦与をそこに与えるかなのだ。
「聖なる空間」=「世界の中心」の内部は、神聖な領域となる。そこがショッピングモールであれ、プールサイドであれ、巨大な遊園地であれ、廃墟であれ、砂漠であれ、ヒエロファニーが到来し、継続的に聖なるものの現存が感じられる時、そこは超越的な次元との通路になる。内部の神聖さは、また外部の通俗性をも意味している。こうして、エリアーデ的な「聖/俗」概念の二文法的思考はここでも踏襲されている。彼のこの二元的な認識方法は、「俗なる空間」は聖なる世界と完全に差異化されてしまっている、ということを意味しない。「俗なる空間」であれ、「聖なるもの」は顕現するのであるから、いわば「聖なる空間」は、絶えず遊牧しているリゾーム的な場として規定され得るのである。エリアーデの「聖/俗」概念は、「善/悪」概念のような伝統的な二元論的思考に陥っているわけではない。そうではなくて、彼のいう「世界の中心」は、常にユビキタス化されているわけであるから、それを流動体として捉えることは可能なのである。かくして、「世界の中心」とはリゾームであり、「聖なる空間」は、土地から土地へと遊牧するのである。この考えがエリアーデの理論からどの程度逸脱したものであるかは、これから論を進める上で更に検証しなければならない。
「空間の聖化」においては、常に「徴表」が出現する。いわば、そこが彼女にとって聖なる空間であるとみなされうる根拠となるマーク、シグナルの出現である。エリアーデは、「人間には聖なる場所を勝手に選ぶことは許されない」と述べ、「ただひたすら探し求め、神秘な徴表の力を借りてそれを見出すことが許されるだけである」と考えている。だが、この前提には以下のような反論を展開することができるだろう。つまり、ある物体なり現象を「神秘な徴表」として認識している主体は人間であり、そうである以上、それは人間の意識の産物であると。聖なるものは到来するのではなく、人間が俗なるものに「聖なるもの」という意味を、貼るのである。ゆえに、「徴表」とは、実質的には人間の意識がそれを「聖なるもの」の証として直観したことの賜物であり、聖なるものそれ自体は、認識論的に構成されたものなのである。したがって、繰り返しになるが、「空間の聖化」、「世界の中心」の発見という大いなる旅において重要になるのは、強力な「意味賦与」である。
エリアーデが、ヒエロファニーは自ずと出現すると述べる時、それは常に人間的主体による現象学的直観を前提としていると解釈する方が、現代的であるしいっそう合理的な次元で「世界の中心」を発見する鍵となるであろう。我々人間は、俗なるこの社会、この都市に、一つの「宇宙」を創建することができる。それは「俗なるもの」の地平の突破を意味している。祭壇を建立したり、聖なる樹木を中心に新たな宗教施設を建造したりする行為が意味しているのは、「カオス」に満ちたこの俗なる世界の中で、一つの神聖なる「コスモス」を、秩序を創造するということである。エリアーデは、こうしたコンテキストで「カオスのコスモス化」を述べている。「コスモス化」とは、換言すれば「空間の聖化」であり、それは先述したように、「啓示」という「意味」を貼付された人間的主体による意識の産物として規定される。
エリアーデはいみじくも、「一つの領域は、それを新たに創造し、したがって浄化して始めて我らのものとなる」と述べている。この創造の担い手は我らであって、神ではない。我らがそこを「聖なる空間」と意味付けるのであって、主体は神ではない。しかし、このKosmisierung(宇宙化)は、人間の心性を救済するという効果を持っている。「世界の中心」は、意識の救済を目指して創造されるのであって、それは「世界の中心」それ自体が意識によって創造されたことの必然的帰結に他ならない。エリアーデは、こうした救済的役割について、「人は超越的なものへの入口なしには生きることができない」と確かに述べている。いわば、ここで彼は「啓示」の実質的な次元が、「意識」の救済に向けられたものであることを容認しているわけである。
キリスト教以前のケルト、ゲルマン人にとって、「世界の中心」は「聖なる柱」への信仰として現前していた。これはaxis mundi(世界軸)とも呼ばれ、この軸が超越的世界と俗なる地上を結ぶ通路になるのである。換言すれば、世界軸は、カオスとコスモスのメディウムである。我々現代人がTVやネットなどのメディアを通して情報を発信したり受信したりするように、当時の宗教的人間たちは、「世界軸」というメディアを通過して、「聖なるもの」から未来の情報を獲得したり、病を癒すための託宣を得たりしていたのである。世界軸とは、宇宙的なメディアに他ならない。
さて、ここで「世界軸」とか、「世界の中心」、「聖なる空間」などと呼ばれる場の特徴について、以下の四つのエリアーデの規定を概観しておこう。

� 聖なる場所は空間の均質性における“裂け目”を表す。
� この“裂け目”は、一つの宇宙領域から他の宇宙領域への移行を可能にするところの“入口”によって象徴される。
� 天との交流は、universalis columna(宇宙の柱)、梯子、山、樹、蔓など、種々の形象によって表現されうるが、それらはみなaxis mundi(世界軸)に関係する。
� この世界軸の周囲に世界が広がる。したがってこの軸は中央に、すなわち“地の臍”にあり、それは世界の中心である。


多数の神話、宗教体系はこの四つの体系を有する。この「世界の中心」についての四つの特徴は、いわば全宗教的体系を読解する上での基本的コードである。さて、次に今度はこれを「建物」に置換して再構成してみると、以下の三つの特徴が新たに獲得される。

� 聖都と聖殿は世界の中心にある。
� 寺院は宇宙の山の模型であって、地上と天界との間のかの絆をなす。
� 寺院の台座は地下深く下界の領域まで達する。



こういった建物への意味賦与が、エルサレムやバビロンのジッグラト、シナの皇帝の首都、ツァラトゥストラの生誕した都シズなどについて当てはまる。「いかなる建設も、いかなる製作もそれゆえ宇宙創造を範としている。世界の創造は、いかなるものであれ人間の全ての創造作業の原型となる」(エリアーデ)。


○ 宗教学的存在論


注意深く『聖と俗』を読解すると、エリアーデが随所に存在論的文脈で宗教論を展開していることが判明する。M.ハイデッガーの概念を慣用すれば、「世界-内-存在」としての「現存在」である我々にとって、「世界の内に存在すること」の意味とは、「世界の中心」を見出した者として存在することを意味する。「内に存在すること」は、エリアーデ的に換言すれば「世界の中心に存在すること」であり、かくて「世界-中心-存在」として、「現存在」が規定される。この「中心」の生成過程については、既に前述した通りである。
宗教的人間は、「コスモス」の中に住まうことを欲する。そうだとすれば、「現存在」としての我々もまた、「世界の中心」が持つ引力に引かれ、そこで霊的に“安らぎ”を得るのである。エルサレム(都市)、教会(建造物)といった場所性に聖性が帰属する時、エリアーデはそれをimago mundi(世界の模型)などと呼称したりしているが、これらは「世界の中心」の異表現に過ぎない。今後、宗教学的意味における「世界の中心」と、存在論的意味における「世界-内-存在」の両概念は、常にカップリングして思考されねばならない。つまり、我々が世界に住まうことの究極的意味とは、繰り返すように、「世界の中心」を開拓し、そこを中核にして霊的に生きるということを意味するのである。
ある古代の村社会の場合、そこが「世界の中心」となるためには、村の中心から四つの方角が投射される形状で建物が形成される必要がある。上空からの衛星写真として捉えると、天空の一点を更に加入すれば、これはすなわちピラミッド型の「四角錐」としての「世界軸」の生成に他ならない。実際、エリアーデはある土地なり、ある地区――総じて「場所」性に帰属される地上的な全位相座標――が「世界の中心」となるために必要なプロセスを以下のように明記しているのである。

�中心から四方の地平を投射することによって(これは村落創設の場合)、あるいは象徴的なaxis mundi(世界軸)を創設することによって、住所がコスモスに同化される。
�海龍あるいは太初の巨人の身体から世界を成立させた、神々のかの模範的行為を建設祭儀によって繰り返す。


こうした記述から明瞭となるのは、エリアーデにおいて、「住居」は極めて宇宙論的意味を持っているという事実である。住居=「世界の模型」=神の創造という等式さえ、彼の思考の中では成立している。あらゆる住居は、そこがデパートメントの一区画であれ、廃墟であれ、小学校であれ、寺院であれ、およそ聖性とは無縁な場所であれ、等しく「世界軸」になる可能性を持つのである。「それ(住居)は人間が模範的な神々の創造、宇宙開闢に倣って自分のために創建する宇宙である。新しい住居を創設してこれを祓い清めることは、みな或る程度、新発足、新しい人生と同じである」。メソポタミヤ、エジプト、インドに及ぶあらゆる寺院においても、「世界軸」=「世界の中心」の概念が適用できる。すなわち、「世界が全体として新たに清められるのは寺院の力による」のであり、寺院とは、「宇宙とその清浄な似姿」なのである。
建造物が持つ宇宙論的意味の奥深さには、非常に魅力的で深いものがある。むしろ、このようにもいえるのではないだろうか。すなわち、我々は「場」をメディウムとして、「聖性」に達するのであると。確かに、我々の気質や心性は、多分に環境世界に左右されている。生涯暮らす住居が、交通の慌しく騒音の激しい密集した地区である人間と、広大な森の傍で付近には小川が流れている場所を選んだ人間とでは、確かにパーソナリティそのものに大きな変化が起きるだろう。「場」はやはり、個人の性格形成にも重大な影響を与えているということができる。そして、「場」が見事な宗教性を備えている場合、今やこの「場」は個人にとって、「世界の中心」としての意味を持って衝迫し、彼女、彼の個人的神話における「聖域」=「宇宙の開闢点」としての次元にまで達することが可能なのである。こうして、建物は、地上における天の再現前を意味する。ビザンチンのカテドラル(大聖堂)は、世界全体を象徴的に具現化した建築様式を持っていることで有名である。
エリアーデが深い現代的意義を有するもう一つのポイントがある。それは、彼の現代文明における「聖性」認識である。前近代期が宗教的人間たちによって形成されていたのに対し、近代以降に属する我々は今や「聖性」を喪失しつつあると規定される。しかし、それは聖性の絶滅ではなく、「痕跡化」というべきものであり、現代においても「中心」への志向性の高い宗教的人間は、俗世間的な価値観よりも、宗教的・神話的価値観を重視する傾向にある。特にこうした傾向は、現代の世界的な経済不況、3.11などを経て、以前よりもいっそう強く多くの人々が希求しているものであると考えられる。特にアメリカでは近年、キリスト教原理主義が復興しているし、日本だけでなくオカルティズムや神秘主義を世界観や設定に盛り込んだエンターテイメントの人気は根強いものがあることは誰しもが理解することだろう。こうした大衆文化の次元でも、かつての「聖なるもの」は痕跡化して生き延びているのである。聖性は終幕したどころか、よりいっそう多元化・複雑化し、ソーシャルメディアの圧倒的な情報伝達力の速度に乗って、ますます大きく現代人の意識の深層に根付いているのである。
聖性が希薄化したパラダイムに生きる現代だからこそ、我々は「中心」への志向性を強めている。今、我々にとって真に大切なことは、「世界の中心」を見出すことである。そして、「世界の中心」を個人的なレベルで終わらせるだけでなく、それを多くの人々とも分有し合い、共有して「聖性」を深める時代なのである。この点で、かつてM.ブランショが用いた言葉を慣用すれば、「来るべき共同体」とは、まさに「世界の中心」への志向性を持った「宗教的人間」による霊的な共同体を意味するのである。こうして、「来るべき寺院」、「来るべき教会」、「来るべき世界の中心」といった、現代における聖性を奪還するために必要な観念が新しく創出される。我々はいわば、こうしたものの到来を準備し、それを整え、待ち望むメシアニズムを宿しているのである。


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