† 文学 †

「クリスティアン、愛は暖かくて豊かな波のようです」ーー現代ドイツ文学の作家、ジークフリート・レンツの恋愛小説『黙祷の時間』を読む


黙祷の時間 (新潮クレスト・ブックス)黙祷の時間 (新潮クレスト・ブックス)
(2010/08/31)
ジークフリート・レンツ

商品詳細を見る


 現代ドイツ文学を代表する作家の一人、ジークフリート・レンツの『黙祷の時間』(2008)という恋愛小説を読みました。舞台は1970年代から80年代のドイツの「海辺の街」で、主人公の少年クリスティアンの父は海底での採掘業を営んでいます。彼も父親の仕事を手伝ったり、学校では学級委員長を務めるなど、真面目な印象を与える少年です。年齢は十八歳で、一番感性が瑞々しく多感な時代の真っ只中にいるわけですが、彼には好きにならずにはいられない一人の女性がいました。それが、生徒たちから人気のある若い英語教師シュテラです。
 主人公はとても純情な心を持った少年で、この年上の女性に強い憧れを抱いています。学校にはソニヤという、彼のガールフレンドになりたい女の子もいるのですが、彼の想いはただシュテラに向けられていました。いわば、人生で一番最初に好きになった相手が、年上の教師だったわけですね。彼は自分のありったけの「想い」を、シュテラにぶつけます。そんな少年の要求に、彼女はけして彼の純愛を傷つけることなく、愛を教えていきます。
 この作品は上品で、なおかつ舞台が海辺の街ということもあり、叙情的な雰囲気を持っています。二人の関係は、嵐のような激しいものではなく、シュテラ主導の、穏やかで、プラトニックな関係です。クリスティアンの感情とは違い、シュテラは彼のことをあくまでも「生徒」として捉えています。授業中でも、二人だけの特別な合図を望む少年の欲求に、彼女は答えてくれません。けれど、彼が愛に不審を抱かないほどに、シュテラは「大人の女性」として彼に精神的な愛を教えていきます。
 といっても、シュテラもやはりクリスティアンの一途な気持ちが愛らしいのでしょう。二人で泳ぎ合った後は、浜辺の木の下で実際に肉体的な愛を教えることもありました。抱き合っている時の描写も、レンツはさり気なく、星空と海辺に紛れ込ませるように描いていて、上品で美しいものでした。
 シュテラの家に出向いた時、クリスティアンは部屋で彼女の昔の恋人の写真を発見します。具体的に過去は描かれていませんが、そのコリンという男性は彼女の昔の恋人だったのでしょう。彼女も喪失の感覚を抱いていて、クリスティアンとの愛によってそれを癒そうとしたのかもしれません。
 街の舞台には、海辺のレースや、岬にある「鳥類学者の小屋」など、なかなか印象的な場所が多いです。絵にすれば、エドワード・ホッパーの風景画に近いような、静謐さとリリシズムを感じさせる世界だと思います。何故か記憶に残ったのは、シュテラの部屋に「女王」というタイトルの謎の絵が飾られていた点です。この「女王」がどのような絵なのか、具体的に描かれていないのですが、作品における彼女の存在を鑑みると、おそらく精神的な次元で男性を導く存在であるような気がします。やがてシュテラは旅行に出て、しばらくクリスティアンのいる海辺の街から離れます。手紙が彼の元に届き、それが彼女とのコンタクトの手段になります。
 年上の女性との「距離」を感じつつ、愛を求める主人公ですが、悲劇的な出来事が待っていました。シュテラが水難事故に遭い、帰らぬ人になってしまうのです。シュテラが最後に書いた手紙が、この作品の中で最も美しく、最も印象的な箇所でした。そこには、「クリスティアン、愛は暖かくて豊かな波のようです」とだけ、記されていました。私はこの表現を読んで、この作品の雰囲気を見事に表したものだなと感じました。
 本作では、「見つめる」という眼差しの描写が非常に多く登場します。それは、実はこの小説の冒頭がシュテラの葬儀の描写から始まり、「写真」を見つめて回想するという形式を取っているからでしょう。その点で、本作には「痕跡」、「想い出のフリーズ」、「叶わぬ恋」といったテーマが浮かび上がります。終始、穏やかで、シュテラの書いた言葉にあるように、「暖かくて豊かな波」のような物語です。
 レンツはなんと、この作品を八十二歳で執筆したといいます。少年の夏の淡い恋の物語――こういう骨格を持つので、若い作家をイメージしますが、これはレンツが病床の中執筆した「想い出を振り返る」作品で、そういう部分も踏まえて少年クリスティアンを捉えると、シュテラの持つ存在の意味がいっそう豊かなものに膨らむような気がしました。因みに、レンツが過ごしたハンブルクの街も、本作の舞台のように海辺に面しているそうです。
 本書はそれほど長くないので、物語を読むのが好きな方なら、すぐに読み終えることができると思います。気持ちを落ち着かせたい、或いは安らかな恋の物語を味わってみたい方には、お勧めの作品です。




関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next