† 宗教学 †

ミルチャ・エリアーデ 『聖と俗』(2)

Source   sofucking

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○ 「聖なる時間」


エリアーデの「聖なる空間」概念については、先のページで既に述べたところであるが、実は空間概念と時間概念は本来セットで思考されねばならない。よって、ここからの論述は「聖なる時空」に関わるものとなる。前回見たように、エリアーデの思考方法は基本的には二元論的なフレームを踏襲している。例えば、「カオス/コスモス」、「地上的価値/天上的価値」、「通俗的時間/聖なる時間(原-時間)」などである。用いるキータームはこのように二項対立的図式で表現できるものだが、そこから展開される理論はダイナミックであり、二元論的であるという批判は退けられるだろう。
エリアーデが最も意義深い思索を得た点、それはこうした本来対立している二つの世界を繋ぐ“通路”を見出したことである。では、「俗なる世界」と、「聖なる世界」を繋ぐ媒介項とは、何なのだろうか? 一言でいえば、それは「世界の中心」=「世界軸」の創出に他ならない。では、より具体的にこれらはどのように行為されてきたのだろうか? それこそが、「祭り」である。百年に一度開催される祭儀は、常に同一の聖なる時間へと回帰できる「聖なる時間」の再演である。
人間は、「祭り」において、神が創始した聖なる最初の時間にたち帰る。何百年も継続して同一性を保ち続ける伝統的な祭式が、常に“同じ”であり続けるのには理由が存在する。それは絶えず同一の世界開闢点への帰還を意味しているからである。祭りの同一性は、それ自体で既に世界の始原性を物語るに十分である。
「聖なるもの」は、けして空間性に限定されるものではない。「祭り」は一般的に同一の土地で再演され続けるものであるが、聖なるものは本来的に空間性を超越している。「祭り」というよりも、ここで我々は「儀式」とあえて呼んでおこう。「儀式」は、それがどこで行われようが、常に同一の「世界の中心」を現前させる。「儀式」はそれを主催する主体の空間的移動に伴って、地上に遍在可能である。「儀式」においては、時間は「聖なる時間」=「永遠」となり、空間は「聖なる空間」=世界創造の「開闢点」となる。よって、「儀式」は原理的には同一の場、同一の時間に行われる必要はない。先にも述べたように、「聖なるもの」は、私の経験からいっても、常に遍在して到来するものであり、どこであれ、どんな時であれ、突如急迫するものである。聖なる祭りに参加したからといって、「聖なるもの」に出会うわけではない。それは、むしろ「祭り」とは異なる、何気ない日常生活の中に潜在し、高度に霊的な感覚様態でのみ、知覚することができる恩寵なのである。こうした聖性の偏在性からいっても、「儀式」、「祭り」が空間性、時間性に限定されるべきではないのだ。何故なら、超越的な秩序においては、地上のどの座標平面でも同一の聖性が賦与できるのであるから。
ここで一つ、やや脱線になるが、エリアーデが紹介している興味深い語源学的な学説を紹介しよう。ヘルマン・ウーゼナーによれば、templum(寺院)と、tempus(時間)は、同じ語源から発した類縁的な語である。寺院はここで、「空間」とも置換できるであろう。だとすると、空間と時間は等根源的であるという、一種の存在論的時間論が、この語源分析から浮かび上がることになる。進学的にいえば、時間/空間のユニットを創出したのは、「時間」、「空間」それ自体である「神」である。よって、時空概念の等根源性の根拠とは、「神」なのである。だから、この二つはいわば神の属性を構成する表裏一体的な姉妹概念なのである。
エリアーデにとって、宇宙創造の開闢点とは、空間と時間の等根源性そのものであり、その一体性として把握されている。いわば、この起源は「原-空間」であり、同時に「原-時間」である。新年を祝ったり、ある聖なる出来事を記念して開催される「祭り」は、これまでの地上的生活における時間の“滅却”、“新規更新”を意味しており、それは根源的にはこの開闢点への回帰を志向していると解釈できる。我々が「祭り」で祝うのは、実はこれまでの時間を洗い落とし、新しく生まれ変わり、新しい世界を創造するという意味が込められているわけだ。祭りは、罪の祓いとしての意義も帯びるのである。
新年が世界の再創造を象徴的に意味するとすれば、一年最後の行事、祝祭とは、いわば神話論的次元における「世界の終末」、「この世の終わり」を意味する。かくて、「祭り」という一年の各分節的行事をサイクルにして、我々の神話論的な生活は太古より繰り返され続けてきたのである。それは紛れもなき「反復」であり、同一性が保持されねばならない。こうした「祭り」は、imitatio dei(神のまねび)とも称される。だとすれば、「祭り」を執行する「巫女」、「司祭」、或いは「儀式」の主体である「シャーマン」などは、まさに地上における「神」の表象=代理である。「神話的事件の永遠の現在のみが、歴史的事件の俗なる時間持続を可能にする」。
更にいっそうエリアーデの理論で興味深い点は、彼の「実在論」認識である。彼は愕くべきことに、この世に存在するありとあらゆる「実在」を、「聖なるもの」と相関的に把握している。すなわち、「実在の中の実在」として、「聖なるもの」を把握する。これは、「俗なるもの」=唯物論的、資本主義的、実在論的世界認識における「モノ」を、「聖なるもの」と直通した存在として捉えていることを意味する。俗なる世界と、聖なる世界は、けして断絶しているのでは“ない”のだ。それは差異化されてすらいない。むしろ、俗なる「モノ」と、聖なるものは、相互浸透しているのであり、いわば隣り合った扉には、壁が存在しないのである。ヴェールをめくれば、「聖なるもの」は、自ずと「俗なる世界」に到来する。これを、エリアーデは「オントファニー(存在示顕)」と呼んでいる。
よりいっそう明白に述べれば、「聖なるもの」は、この地上に「侵入」可能なのである。その最も代表的な宗教学的例こそが、キリストの「受肉」に他ならない。神は御子をお与えになるほど、世を愛されたとは、ヨハネ福音書の言葉であるが、これはまさにオントファニーを示唆した名高いテクストである。「聖なるもの」とは、不可視の、超越的な感覚的次元に属するものではない。むしろ、それは「実在」として、「モノ」的世界からやって来る。それは、我々にとって一つのインパクト、衝撃そのものであり、これを基点にして、我々は「存在」のより高次の次元へと、歩み始めるのである。
「人はただ神話の教えに則ることによってのみ、つまり神々を模倣することによってのみ、真の人間となる」と、彼は述べている。人間は、神的な原型へと接近することで、「自己」を創るとされるわけだが、これはむしろ、「自己」を“発見”すると言い換えた方が良いだろう。「聖なるもの」は、我々が何者であるかを知らせるものなのだ。「自己」は、「聖なるもの」を媒介にして、真に把捉されるに至る。エリアーデは、こうした認識において徹底しており、「個人的な記憶」は、何の役にも立たないと断言している。我々の真実の生は、むしろ「神話としての生」なのである。これは今更いうまでもないが、無論「個人」の日常生活が意味を成さないという意味ではない。そうではなくて、我々の日常も、「聖なるもの」との相関によって初めて「意味賦与」を得るということである。いうなれば、「意味」のない生活とは、エリアーデにとって、「聖なるもの」のない生活なのである。
真の歴史は神話にある――この考えを、政治的に、或いは歴史的に把握すべきではないと私は考える。ナチズムがゲルマン神話を地上で再現しようとした、“神話創出(ミュトポイエーシス)”から把握できることは、ラクー・ラバルトが既に述べたことである。また、歴史に神話という決まりきった「法則性」を見出してしまうことは、ポパーがまさに『歴史主義の貧困』の中で批判した骨格部分である。だとすれば、エリアーデのこれまで見てきた諸概念は、やはり政治的でもなく、歴史的でもない、「宗教学的」、「存在論的」な次元から解釈すべきであろう。エリアーデの理論を「政治」や「歴史」に応用すると危険だというのは、いうまでもないことなのである。そもそも『聖と俗』は、宗教学の入門書なのであるから、上記の批判は生起する余地がないだろう。


○ <身体-家-宇宙>


「宗教的人間にとって、宇宙は生きて“話す”何ものかである。世界が生きているということは、既にその神聖性の一つの根拠である。何故なら、それは神々によって創られ、神々は人間に対して宇宙的生命のなかにその身を示すからである」(エリアーデ)。我々は前回、エリアーデにとって「聖なるもの」とは、「全くの他者」であると規定した。それはこの地上に到来し、介入するものである。それは、“話す”。それはこの俗なる世界に“裂け目”を開き、その世界軸を媒介にして、語りかける。
「全くの他者」を知ることで、我々は「自己」を知るに至る。ゆえに、「他性」はここで、「自己」に反り返る。鏡を見て、そこに写っているのは果たして本当に我々なのであろうか? それは、「自己」をメディウムとして顕現する「聖なるもの」である。我々が瞳の奥を見つめれば見つめるほど、そこに「他性」の輝きを、その美を見出すはずである。エリアーデには、このように「全くの他者」としての「聖なるもの」を知ることで、「自己」自身を知ることができるという認識が働いている。
エリアーデが『聖と俗』を執筆する中でテーマとして獲得したものがある。それは非常に考察するに値するテーマなのだが、<身体-家-宇宙>は、本質的に同じものを表現していると認識しているところである。「人は家に住むように肉体に住む。言い換えれば人はみずから創った宇宙に住むのである」(エリアーデ)。「身体」と「家」には共通して「孔」が開いていることをエリアーデは再発見している。いわば、「霊」が入ったり出たりするために必要な「開口部」が、「身体」と「家」には共に存在するわけである。前近代期に建立されたある寺院では、天井が開いており、そこがそのまま天との通路となっている。人間の頭部にも、目、鼻、口、耳といった多くの「孔」が存在している。これらは、「家」と類比的に把握されねばならない。
「聖なるもの」は、「皮膚」を破るという考えをここで提起することは可能だろうか? 実際、顔の孔や、家の孔を通じて「聖なるもの」が介入するのであれば、それは「聖なるもの」自身にとっては、二次元的平面、単調な皮膚ではなく、立体的で「開口部」を持つ皮膚を求めているということである。以下に私が展開するのは、これまでおそらく展開されたことがないと思われるキリストの「鞭打ち」に関する「皮膚論」的、かつ「宗教学的」な考察である。イエスは史実にもあるように、凄惨な「鞭打ち」を受けたことは周知の通りである。マティアス・グリューネヴァルトの《イーゼンハイム祭壇画》は、夥しい皮膚の「孔」を持ち、それらは血を流している。20世紀最大の油彩画家の一人であるフランシス・ベーコンの《磔刑の下部にある三基体のためのエスキス》では、むしろ皮膚すら失って、丸裸にされた筋肉組織が露出している肉の集塊が横たわっている。これを「キリスト」として意味賦与することは、タイトルに示された聖書的なコードからも可能である。だとすると、ここで我々はこの二枚の同じ「磔刑」をテーマにした時代を跨ぐ絵画を起点にして、「皮膚」と聖性にまつわる、ある愕くべき次元に達することができるのではないか。
エリアーデは、先に述べたように「家」と「身体」が、「聖なるもの」を通す「開口部」を持つ点で共通していると述べた。換言すれば、「聖なるもの」は、開口部がなければ侵入しない。全くの二次元的な、のっぺりした皮膚では、「聖なるもの」は到来しないのである。直言してしまえば、「聖なるもの」は、人間の皮膚を見つめる行為において、「孔」を開くことを、“欲する”存在として規定される。すなわち、イエスが自ら「磔刑」に向かい、試練を受けたことの究極的意味とは、皮膚論的に解明できる余地も残されているのではないか? その場合、神は、「罪を贖う」ために確かにこの世で最も卑しく、最も残酷な刑に処されることを望んだわけであるが、それはむしろ、イエスの美しい皮膚に、夥しい「裂傷」や、棘つきの鞭による「孔」を開かせるためではなかったか?
神は、イエスの皮膚の奥に、皮下組織が眠っていることを熟知しておられる。聖ヴェロニカは、カルワリオの丘を十字架を担ぎながら登っているイエスの顔の血を拭った。それが「聖顔布」であるが、美学者谷川渥や、彼に学んだ作家諏訪哲夫の美学的視点に依拠すれば、この血に塗れた二次元的な「聖顔布」は、キリスト“それ自体”であると解釈される。ここで神は、イエスの顔面の皮膚に「孔」を無数に開く行為によって、「聖顔布」という二次元的な新しい皮膚を再現前したのではないだろうか。何故なら、「孔」を開く行為そのものが、「聖なるもの」とこの世を橋渡しすることになるからである。住居において天井のない家は、その屋根の無さ(=孔)によって、天的な超越的存在を歓待する準備ができている。同様に、イエスの皮膚の無数の破れ、夥しい「孔」は、父なる神のもとへ帰還するための、重要な準備、一種の「儀式」だったのではないだろうか。ここにおいて、イエスの「鞭打ち」による皮膚の「開口部」は、彼の三日後の「復活」という、高度に霊的な出来事のために必要な、一つの神殿的構造を獲得したのではないだろうか。


○ 「聖なるもの」の永遠性


エリアーデは、現代における「宗教的人間」の復興を企てていると考えられる。ヨーロッパの近代スピリチュアリズムにおける、オカルト現象に対する実証主義的な様々なアプローチも、根は前近代の宗教的体系の基礎にあった「聖なるもの」の再現前として解釈することが可能である。
我々の生の歩みは、彼が述べるように「世界の中心」への遍歴過程として把握できる。それは一種の「巡礼」であり、Deus absconditus(隠れたる神)を探す旅である。現代は、けして聖性が喪失された時代ではない。「宗教を喪失した人々の大多数は、実際には宗教的振る舞い方や、神学、神話から解放されていない。これらの人間は、戯画にまで歪められ、したがってそれと認め難くなっているものの、やはり宗教的魔術的な諸観念の瓦礫の山に往々埋もれているのである」。また、エリアーデは「神話は無意識の所産ではない」と断言している。それは啓示によって到来するものであり、「聖なるもの」は「実在」なのである。そして、いつの時代でも「聖なるもの」が希求される最大の理由は、宗教の本来的な役割が、「生の危機の解決」において最高にして最大の力を発揮するという点に存する。いわば、人間が存在する限り、そこにまた宗教が、「聖なるもの」が現存するということができるだろう。「聖なるもの」が現代においては失われているということに悲嘆する必要はないのであり、むしろその逆なのだ。エリアーデの『聖と俗』は、目には見えない神秘的な「聖なるもの」を大切にする全ての現代人の探究を、大いに励まし、自信付ける良書である。

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