† 宗教学 †

聖なる空間はどこに存在するのか?ーーミルチャ・エリアーデ『聖なる空間と時間』読解

blue+caffeine+nothing  (by solarixx)

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ミルチャ・エリアーデは『聖なる空間と時間』(せりか書房『エリアーデ著作集第三巻』)の第十章「聖なる空間――寺院、宮殿、<世界の中心>」の中で、「聖なる空間」についての宗教学的考察を展開している。彼によれば、「聖なる空間」とは概念的に「ある空間を変容し、特殊化し、要するに周囲の俗的な空間からそれを隔絶させることによって聖別した、原初のヒエロファニーをくりかえす、という観念を含意している」ものである。また、聖なるものとの交わりを可能にするような明確な場は、常に存在していると認識している。ヒロエファニー(聖の顕現)は、エリアーデ曰く、人間自身に委ねられているのではないのであり、それは常に外部から迫ってくる=啓示されるものである。


○ 「中心のシンボリズム」


ヒエロファニーには多様な種類があり、ある特定の場、例えば「この泉」、「この樹木」などに限定されはしない。ヒエロファニーだけでなく、これに付随する同義語としてクラフトファニー(力の顕現)、テオファニー(神の顕現)には「徴」が必然的に伴われる。「徴」として多く見受けられるのは、何らかの「動物」がその場を他の場と区別する上で象徴的な働きをするということである。いずれにしても、場所の聖化において人間の外部性からそれが到来するというわけだ。
エリアーデは、聖なる空間の創造方法について、fossa(堀)という言葉を用いている。これは他の箇所で「囲い」とも述べられているが、一言でいえばその場所を特別な聖域としてテリトリー化するという行為である。例えば一片が二十メートルの正方形を広大な平原の中で描き、その頂点に木の棒を埋めて、一つの「囲い」を作れば、いわば原理的なレベルではその場所は「聖なる空間」として新たに意味賦与されるに至る。これをより発展させると、そこは「祭壇」になる。祭壇は、エリアーデにとって「宇宙創造の反復」の場として位置付けられている。
ある場所が聖なる空間として意味付けられる時、そこは「世界の中心」と呼ばれる。こうした「中心」の創出によって意味付けられた宗教学的な諸体系を、「中心のシンボリズム」と呼ぶ。「中心」は、天と地を結ぶための媒介となる聖なる場所であり、いわば世界が新たに創造される中心となる聖域である。小さなある地域、ある一点から、エルサレムなどの都市に至るまで、古今東西の宗教体系において「中心のシンボリズム」を見出すことが可能である。メソポタミア文明グデア朝時代の記録によれば、「王が建てた神の部屋は宇宙山のようであった」と記されている。ここでもやはり、ある空間が聖化されている例が窺える。
エリアーデから我々が考察してみたいのは、この「中心」についてである。いわばそこが「聖域」化された場なのであるが、エリアーデはこれを本書において常に「不動点」として規定している。エルサレムにせよ、カルワリオにせよ、バビロニアのジッグラトにせよ、或いは平原に正方形型の堀を作るプロセスにせよ、全ては「不動点」としての「中心」である。ここで我々は、何故それが「不動」である必要があるのかと、この宗教学者のテクストから検討してみなければならない。
エリアーデは「ある場所」という静止したエリアを対象にしている。しかし、中心そのものが動くということもありえるのではないだろうか。その最も重要な例が、イエスの活動である。彼は移動しながら教えを伝え、奇蹟を起こした。イエスという動点はけして、特定の「不動の聖域」に限定されるものではなかった。もしも「世界の中心」が、固定点だというのであれば、エリアーデの考えは場所のノモス(定住)論に依存しすぎているという側面がここで垣間見える。「中心」は、聖化された人物と共に移動する、流動する――ノマド(遊牧)という視点が抜け落ちているわけである。
エリアーデは、各宗教ごとに中心が差異化されていることは認めている。つまり、ミトラ教の「世界の中心」と、イスラム教の「世界の中心」が同一の地点である必要はなく、全ては多中心化されているわけだ。だとすれば、中心は不動であり、かつ複数化されているということである。もしも、現存しないある古代宗教が聖域として認めていた場所が、現在はマンションになっていたとすれば、それは中心の消尽を意味している。しかし、この宗教の末裔たちが別の場所に新たに聖域を移していたとすれば、それは中心自体の移動を意味していると解釈すべきではないのだろうか。時代の変遷によって、中心が移動したり、あるいは何らかの紛争などで破壊されたりする可能性がある以上、中心自体は「流動性」を保存していると考える方がむしろ自然である。そうだとすれば、中心は場所によって決まるというより、「人間」の移動と共に策定されるのではないだろうか。つまり、聖化された人間の移動によって、世界の中心それ自体も移動していると認識する方が、エリアーデ本来の「中心のシンボリズム」の原意に近いのではないだろうか。
エリアーデが引用している古いテクストでは、「いと聖なるお方が、世界を胎児のように創造された。胎児が臍から成長するのと全く同じように神は世界を臍から創造し始められ、世界は臍からあらゆる方向に拡がっていった」と記されている。もし世界=胎児だとすれば、胎児が子宮内部で実際に動く以上、臍という中心点も絶対的に同一の不動点を保ち続けるわけではないといえる。胎児の運動と同時に臍の場所も少しずつずれていくわけであり、こういう視座からでも、「世界の中心」は、ツリーのように不動で構築的なものではなく、リゾームのように全てのテリトリーを横断し、遊牧しつつ、ゲル状になって流動していくものとして規定すべきではないだろうか。エリアーデに欠落している視座とは、まさにドゥルーズ&ガタリのいう「ノマドロジー」、或いはレジス・ドゥブレのいう領土性に限定されないメディウムに焦点を当てた「メディオロジー」である。


○ 「聖域」はどこに存在するのか?


エリアーデは、アダムが創造された場所は、キリストが磔刑に処された場所と同一地点であると考えている。これは先の「中心のシンボリズム」から導出された観方であり、キリスト教内部の神秘主義的な象徴的体系にも古くから存在している。そこは「世界の中心」であると同時に「空間」、「時間」そのものが創出された「原点」である。換言すれば、これはエリアーデのいう「宇宙樹」や、「世界軸」、或いは「楽園」になる。この場所は「永遠」であり、地上的な時空のシステムを超越している。
興味深いのは、エリアーデが「どの住居も中心に変化する」ことを完全に認めている点だ。「空間の聖別という逆説によって、また建築儀礼によって、どの住居も中心に変化する。したがって家という家はすべて、あらゆる寺院、宮殿、都市がそうであるように、宇宙の中心という唯一で共通の地点に位置している」。これこそまさに、中心の多数化の根拠であり、群化やリゾーム運動に発展する箇所である。
具体的に、この「中心それ自体の移動」とは、「ヒエロファニーの遍在」を意味している。この概念は、以下のような具体例によって明記されるだろう。例えば、ある幻視体質の少女が、デパートで不思議な天使や悪魔を目にしたとしよう。他の人間にとってそうした体験は、まさに“啓示”レベルの稀有なものであったが、彼女はほとんど毎日幻視体験を持っているので、デパート以外のどの場所でも様々な天使、悪魔を目にしている。これはいわば「世界の中心」になる可能性のある出来事の常態化であって、まさに「ヒエロファニー(聖の顕現)の遍在」に他ならない。要するに、彼女の移動によって、ヒエロファニーが生起しているのであるから、この少女こそが「世界の中心」と認識される。
だが、このような少女の例は特殊なものであり、通常我々にとって「聖なる空間」を発見することは容易なものではない。その困難さを、エリアーデは「迷宮」という謎めいた術語で表現している。「迷宮は……中心を守ることを使命としていた。すなわち、迷宮は聖、不死、絶対的実在へ加入儀礼的に入ることを表現していたのである。加入儀礼の土台をなしている迷宮儀礼は、新加入者に、地上において生を送る間に、死の領域に迷わず入り込む仕方を教えるのが目的なのである。他のあらゆる加入儀礼の試練と同じく、迷宮もまた難しい試練であり、誰もがそれを乗り越えるとは限らない」。これはまさに、先の少女に現れるような特異な兆候が、いかに困難を伴うものであるかを示している。通常、「世界の中心」は怪物に守られている、という象徴表現にあるように、見出すことが困難な聖域であり、たとえ見出しても、その人物にとって「永遠」が「死」として到来することもありうる。そこは聖なる至福でありつつ、恐るべき死、呪いでもあり、ここに「聖なるもの」と「呪われたもの」の表裏一体的な、「対立物の一致」(ブルーノ)が見出せるのである。エリアーデはこれを、「聖なる空間はアンビバレンス(両面価値的)である」と記している。
我々にとっての「聖域」は、一体どこに存在しているのであろうか? その鍵となるテクストを、エリアーデは以下のように記している。「聖地巡礼は困難である。だが教会に通うことそれ自体が巡礼なのである。確かに宇宙樹には近づきがたい、といえよう。だが、宇宙樹に相当する樹を、どの小屋に運び入れようとも自由なのである」。これは、「中心」をこの地上において「代理」させることで、原型となる「中心」“それ自体”へ到達可能であることを示した箇所として重要である。何故なら、エリアーデが告白しているように、「我々は聖なる空間でしか生きられない」からである。このめまぐるしく情報が流れ落ち、何一つ確かなものなど残らない高度に情報化された消費社会において、彼の告白には非常に重い意味が宿っている。確かな自分の居場所、自分だけの聖域、本当にリラックスできて、誰にも干渉されずに済む静謐な波打ち際のような空間――いわば、タルコフスキーの作品でも最大のテーマとなった「ノスタルジア」が、本書の通奏低音として浮かび上がる。これを、「楽園へのノスタルジー」とエリアーデは表現している。もしかすると、我々はその生涯において「中心」に辿り着けないかもしれない。だが、「中心へ近付くこと」それ自体が、その意志こそが、「加入儀礼になり得る」とエリアーデは述べているのである。これも聖性喪失が深刻化し、安易にその「代理物」が商品化されてしまう今日にあって、確かな“目”を養う考え方である。
エリアーデの憂いは、「中心」が今や「局地的」かつ、「粗雑」になり、しかも「機械的に再生産」されている時代に入っているという表現からも窺える。機械的、という言葉はどうにも初期産業資本主義的な表現なので、ここで新たに「ウェブ社会による擬似アウラの産出」という、ベンヤミンを敷衍した『「場所」論』の著者の言葉を用いるのが適切だろう。いわば、「中心=アウラ」は喪失され、現代のウェブ社会では、それが擬似的に産出され、誰もがどこでも、簡単に高速度で入手できてしまうという点にこそ問題があるのだ。この「速度化」が、かえって「中心」が持つ近寄りがたい畏怖の感覚を麻痺化させているのである。現代社会の聖性喪失は、ウェブと相関的に把握して考察すべきである。我々は果たして、StreetViewだけで聖地に巡礼した感覚など持てるであろうか? そこには触感が欠損している。世界中の場所がオープンになったからこそ、逆説的に「世界の中心」が限りなく不透明になり、霧がかったものとなっているわけだ。



 

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