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四方田犬彦『書物の灰燼に抗して』収録のA.タルコフスキー論ーー「ノスタルジア」と「ノストフォビア」について

書物の灰燼に抗して?比較文学論集書物の灰燼に抗して?比較文学論集
(2011/04/26)
四方田 犬彦

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評論家の四方田犬彦氏の『書物の灰燼に抗して』の第一章「帰郷の苦悶」を読んだ。一章はA.タルコフスキーの代表作『ノスタルジア』(1983)を、様々な次元から読解する自由度の高い評論になっている。
私もこの作品には独特な印象を持っていて、既に三度、四度は視聴している。特に人物として興味深いのは、あの「1+1=1」という数式が記された奇妙な廃墟で暮らす終末論的神秘主義者であるドメニコだ。冒頭の「聖母」と鳥たちの羽ばたき、全編を通して迫ってくるレオナルド・ダ・ヴィンチの《岩窟の聖母》の中のような、独特な「湿度」と静謐な「雨音」、そしてドメニコが憂鬱なゴルチャコフに与える神秘的な「使命」と、ラストでの異様な「火刑」……作品は、カトリックの私が観ても非常に宗教的なものであり、深く考えさせる味わい深い世界観を形成している。
著者はこの作品を、18世紀に登場したイギリス庭園から、ラカン派の精神分析、エリアーデ、ベンヤミンなどと該博な知識で縦横無尽に解釈している。中でも印象的だったのは、エリアーデの『聖なる空間と時間』からの引用部分である。

「我々は人間の中に、あらゆる面で、俗的時間を廃して、聖なる時間に生きたいという同じ願望にぶつかるのである。それのみならず、時間を全面的に再生したいという願望や希望に我々は出会う。換言すれば、時間を永遠の瞬間に変えることによって、永遠に生きる、“人間的に生きる”“歴史的に生きる”ことができるという願望であり、希望である。この永遠へのノスタルジアは、楽園のノスタルジアといわば対照をなしている。聖なる時間に永遠に、自然にいたいという願望に対応するのは、原型的行為の繰り返しによって、永遠の中にいつまでも生きたいという願望である」



これはその劇的な最期ゆえに目立っているドメニコに端的に当てはまる分析だが、私が注目したのはむしろ『ノスタルジア』のあまり目立たない主役ゴルチャコフだ。彼はそもそも何故イタリアに赴き、ドメニコに惹かれたのだろうか。ゴルチャコフがモスクワからトスカナへ赴いた本来の理由は、18世紀のロシアの作曲家サスノフスキーの人生に関心を抱き、彼の足跡を辿ろうとしたからだ。いわば、現在には属さない過去へと“亡命”しようとしているわけだ。
人は故郷にノスタルジアを抱く。他方で、四方田氏は「故郷で受けた迫害と屈辱のいっさいに堅く口を噤み、想起に怯え、過去をめぐって異常なほど嫌悪と恐怖を抱く」ような場合、それを「ノストフォビア」と呼称している。故郷に憧れている一方で、故郷でも「他者」としてしか振舞えない、“居場所”のない存在者である「わたし」――ゴルチャコフには、ノスタルジアとノストフォビアが同居して存在していたものと考えることができる。
ゴルチャコフのこの感覚は、現代社会においても我々に迫ってくるものだ。四方田氏はベンヤミンの『パサージュ論』を引用している。

「19世紀においては、技術の進歩によって、使用価値を持った品物が次々と通用しなくなってしまうので、意味を失って“空洞化”した事物の数がこれまで知られなかった規模と速度で増大している」


このテクストを念頭に入れると、21世紀の高度に情報化されたウェブ社会では、アウラ(一回性の神秘)ではなく、「擬似アウラ」が産出され、いよいよ自分の本来的な“居場所”の危機に瀕しているといえるのではないだろうか。例えば、休日に癒しと娯楽を求めて、我々はデパートへ向かったり演劇を観に行ったり、好きな洋服や本を買ったり、洒落たバーでワインを飲んだりするわけであるが、果たしてそれらは本当に我々の生を支える“居場所”になりえているのだろうか? 無論、そうした特定の居場所を欲しないからこそ、都会人なのかもしれないが、どんな人間であれ精神的に安穏を保障されている“居場所”(住居も含めて)が必要であるのは今更いうまでもないだろう。そして、「今、ここ、この時」という即物的な満足感が磨り減り、やがてどこにも“居場所”を見出せなくなった時、我々はこう思うのではないだろうか? 「楽園」はどこにあるのだろうか? 「故郷」はどこにあるのだろうか?

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「大衆消費社会」において喪失された聖性を奪還するプロセスとして、タルコフスキーの『ノスタルジア』を読解することもできるだろう。エリアーデの概念で、私が特に気に入っている術語を借りれば、まさに「世界の中心」までの遍歴としての作品である。ドメニコは少なくとも自分の暮らす、全世界を内包したミクロコスモス的な小宇宙=廃墟において、「世界の中心」を見出している。ゴルチャコフが希求していたものの一端が、ドメニコの言動から迸ったことは疑い得ない。彼には、ゴルチャコフが都会で暮らす上で喪失した何かが宿っているのである。
しかし、たとえ「世界の中心」を見出せたとしても、そこで主体は常に「他者」としての居心地の悪さを感じるという逆説が浮上する。四方田氏がライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『塵、都会、死』やタデウシュ・カントルの『ヴィエロポーレ、ヴィエロポーレ』を解説している箇所で用いている表現を使えば、「回帰する主体は、そのかみに離郷した主体と同一であるはずもなく、いかなる場合においても他者としてしか、回帰することができない」ものである。つまり、故郷でも我々は“居場所”を感じることはないのだ。それはやはり、都会と同じく一過性の幻想に過ぎず、我々は常に流浪するカフカ的主体としての「ディアスポラ(ユダヤ的離散)」を孤独に担うのである。
では、何故我々は「故郷=楽園」へのノスタルジアを抱くのであろうか?これについて、四方田氏は高橋睦郎氏の詩を解説した箇所で以下のように説明している。

「なぜ誰にとっても幼年時代は麗しく、また懐かしく感じられるのか。それはその時代に幸福な両親に恵まれていたためではない。それがとうの昔に喪われてしまった、もはや取り戻しようのない時間であるためである」


こうしたコンテキストから、四方田氏はゴルチャコフのノスタルジアについて、M.ハイデッガーの名高いHeimatlosigkeit(故郷喪失性)の概念とも結び付けつつ、以下のようにまとめている。

「『ノスタルジア』の主人公ゴルチャコフに憑いているノスタルジアは、空間的な隔たりや時間の凋落の意識に基いているものではない。それは極めて曖昧で、具体的な志向対象を持たず、さながら空に浮遊し、時と場所を選ばずして彼に襲いかかり、苦痛をもたらすという性格を持っている。ゴルチャコフを悩ませているのは、“すでにもはや”という意識である。だが、なにがすでにもはや過ぎ去ってしまっているのかを、彼は明言することができない」



これは換言すれば、「メランコリア」ともいえるのではないか。実際、『ノスタルジア』は極めてメランコリックな作品であり、作中でゴルチャコフが笑顔を見せる稀な描写でさえ、「疲れた微笑」として印象付けられてるものである。しかし、それでもこの作品が、とりわけ3.11という大きな震災以後、新たに再評価され始めつつあるのは、絶望的な“居場所の喪失”の時代にあって、それでもなお、聖域を探し続けようとする「信仰」を垣間見せるからではないだろうか。





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