† モーリス・ブランショ †

「書物の淵で、書物の外部で書くこと」――モーリス・ブランショ『書物の不在』を読む

Times Winged Chariot by Serge LeBlon
Times Winged Chariot by Serge LeBlon


モーリス・ブランショの『書物の不在』を読んだ。これは月曜社の叢書「エクリチュールの冒険」の第一階配本として、また「ブランショ生誕百周年記念」として2007年に刊行された、若干80ページほどの、ページから装丁まで全てが朱色の稀有な書物である。
この作品を読んでいる時の感覚は、デリダの『火ここになき灰』に近かった。終わることのない、途切れない作者自身による思弁的モノローグが繰り返されており、82ページ目で突如として終幕する――それは別の新しい作品への序章へと連結されるものだろう。ブランショは本書で、「経験に先立って知を与えるもの」として、まず書物を捉えている。そして、「究極の書物」は、「既存の書にも知にも経験にも起源を持たない」ものであると述べている。
興味深いのは、書物の中の知は、「仮想的に現前する<存在>」であると彼が規定している点だ。書物の中に描かれている、例えば「三つの頭を持つ獅子」という架空の動物は、現実には存在しない。しかし、それは「仮想的に現前する存在」である。書物の中を一つの世界として捉えれば、その幻獣は「書物―内―存在」として、実在するものである。
タイトルにもなっている「書物の不在」について、彼は以下のように述べている。

「書物の不在とは、書物のうちに閉じ込められていながら、書物の外部にあるものである。書物の外側にあるものというよりは、書物に関わることのない外部を指し示すのである」


「書く」ということは何であるかについては、彼は以下のように語っている。

「書くということは、作品の不在に関わるものであるが、書物という形式において、作品のうちで力を発揮するのである。…書くということは、書物の不在を作り出すこと(作品の消去)である。あるいは言い換えれば、書くということは、作品を横切って、作品によって生み出される作品の不在である」



ここで、「書物」と「作品」という二つの異なる概念が登場している。ブランショによれば、作品は世界の外部性であり、「災厄としての祝祭」という聖書的で黙示録的な意味内容を持った概念である。他方、書物とは世界の総体であり、作者によって一冊の本として「署名」され、出版され得るものである。ブランショがいっているのは、我々人間は書物を創出することができるが、そこには常に作品が不在しているということである。
「作品」は、換言すれば書物の「原型」であり、書かれたものの純粋な「外部性」である。聖書では多く「署名」が失われており、限りなく「作品」に接近しているが、聖書もまた書物という閉じられた宇宙の円環であり、「作品」を指し示すことしかできない。しかしブランショにとって聖書が全ての書物の中の書物として評価されているのも事実であり、彼は端的に聖書を「匿名性」の象徴として認識している。
限りなく普遍的なものが、同時に限りなく匿名化するというパラドックスには興味が尽きないものがある。ブランショは、「書く」行為の究極的な目的なるものは存在せず、それはただ「作品の不在」を生み出すことであると捉えている。作品は「未完成であることによって完成する」ものであり、終わることなく書き続けられる。しかし、それら記述されたものたちは、「脱―記述的」な体系(例えば音楽、絵画、身振り、コミュニケーション、祭儀など)の方へ差し向けられたものであり、記述は記述の外部性から到来し、また外部性へも影響を与えるものである。
デリダのキータームである「灰」を使えば、書物とは、いわば「灰」を生み出すものである。それは読者に本を提供する前に、本それ自体を燃やしてしまうことによって生起する残余としての「書物」である。それは読解可能性の臨界点を意味しており、読者に「読む」ことだけでなく、「書く」ことへの加担をほとんど強制する。読者は作者となり、作者は再び読者に戻り、こうして作品不在の「書物」で世界は横溢していくのだ。
ブランショが目指しているのは、純文学的なテーマである。愛や死や裏切りがテーマになり得るとすれば、「書く」行為それ自体も純文学の立派なテーマになり得る。彼が目指しているのは「書物の不在」によって表現される書物のparergon(余白)である。つまり、自分が今書いているものの外部へとはみ出ていくこと、常に規格された形式を侵犯すること、いうなれば非文学としての文学を目指すということ。
先ほど、ブランショが「書物」と「作品」を差異化していると述べたが、これは「大文字の書物」と「小文字の書物」という表現でも換言できる。大文字の書物とは、書物の原型であり、イデア、絶対的なものである。他方、「どうしても作品を手にすることのできない運命のもとにある」我々が生み出すのは、あくまでも小文字の書物に過ぎないのだ。
「書く」行為は、常に「言語行為の新たな様態を作り出すもの」であり、同時に「言語行為のうちに統合されていく」ものである。書くとは、我々が無意識で設定しまっている「文学とは、~のようなものである」という常識を侵犯する行為である。その侵犯によって、我々は「外部性」の気配に察知するのである。
いみじくも、ブランショは書くテーマが消失した時、そこに「外部性」(書物の外=パレルゴン)が現前すると述べている。無論、それは非―現前としての現前であり、不在という形で到来する「存在」であるが。こうした、「何も私には書くべきものがない」境地での「書く」行為は、作品に「外部性」を指示させる強力な意味を持たせることに寄与するだろう。ブランショはこれを、「書物の法」などと呼称し、究極的にこの法はパレルゴンを目的化したものとして受け止められる。
換言すれば、「読む」行為は、「書物の内に書物の不在を読み取ること」なのである。では、このパレルゴンはどのような場所性、時間性に属するのであろうか? 

「書物の不在は、書物と同時に存在することはない。別の時間から出発して、書物の不在が告知されるからではなく、書物の不在から異時間性が作り出されるからだ。しかも書物の不在は、この異時間性から生まれるのである」


書物の不在=パレルゴンは、「別の時間」に属している。いわば、そこではキリスト教的な「アウグスティヌスの矢」モデルとしての直線的時間の概念が通用しない。時間は抹消され、異なる世界の、異空間の、異時間がテーマとなる。
ブランショはおそらく、「バベルの図書館」(ボルヘス)の司書の一人だったのだろう。あまりにも多くの書物の死に直面し、同時にその棺を見守ってきたがゆえに、彼は一種の「書物嫌い」に襲われつつ、書物に愛憎のアンビバレンスな感情を抱いているかのようである。

「書くということは、全ての書物の他者とある関係を結ぶことであり、書物にあるものは、言語の外部で、言語行為の外部で、聖書的な書物が要請されることであろう。書物の淵で、書物の外部で書くこと」


『書物の不在』という書物は、署名された一冊の書物である。逆説的なことに、ブランショの目論見は失敗している。何故なら、彼は書物の「不在」を、「署名」された「存在」としてしか読者に贈与できなかったから。だからこそ、彼はそれを容認して、「書物」と「作品」の厳格な差異性を強調するのである。唯一、聖書のみが、普遍的な匿名性へと急迫していた。しかし、聖書ですら、ナザレのイエスの生身の「身体」という純粋な「書物の外部性」をかろうじて痕跡的に指示しているに過ぎない。ナザレのイエスは存在しない。それは「不在」であり、常に到来を予告されているものであり、来るべき書物においても「不在」の救世主としての意味を失わないはずである。
ブランショはいう。「書かれたものに先立つものは何も無い」と。だが、書物が存在する以前から、我々の眼前には豊かな大自然が存在してきた。書物は自然を文字という姿に圧縮する。文字=宇宙という同定は、この宇宙の中心を地球であると考えていた人々と同じく、どこか狭小である。しかし、もしも大自然そのものが、一つの純粋な「書物の不在」としての「外部性」であったとすれば、我々は書物文明の中で、それらを読解する力を失ったといえるのではないか。書物を捨てる必要など無いが、文字によって、「書物の不在」の時代の「外部性」を呼び覚ますことはできるのではないだろうか。
「空白」、「不在」、「匿名」、「書物以前の時代」、「自然」、「海辺そのもの」……彼のエクリチュールから、私はこのようなテーマを抽出する。それらは書く行為の臨界点を示しているものであり、共に文字の外部性を指示している。

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~ Comment ~

書物の不在。良いですね。

はじめまして。
突然のコメント失礼致します。

ケータイで読んでいて、衝撃を受けたので・・
お家に帰ってPCからもう一度読ませて頂きました。

作者の「書く」が読み手の「読む」になるのでは無く「書く」
に昇華すると言う概念に感銘を受けました。

書物が「灰」になるとか・・・
とても読み入ってしまって、
ついつい「灰」になっていました(苦笑)

VANILLAさんの他の文書も読んでみたいと想い、
リンクさせて頂きたい所存です。

このブログはリンクフリーなのでしょうか?
[2012/10/23 20:08]  おも子☆  URL  [ 編集 ]

Re: 書物の不在。良いですね。


*おも子様へ*

こんばんは*
こちらこそはじめまして!
お越しいただけてとても嬉しいです。
実は私も最近おも子様のステキなブログにお邪魔させていただいておりました。
リンクはフリーでございます。
これからもどうぞよろしくお願いしますヾ(@⌒ー⌒@)ノ
[2012/10/23 21:58]  satoshi  URL  [ 編集 ]















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