† キリスト教神学 †

堕天使にまつわる美学的解釈ーー美学者マッシモ・カッチャーリ『必要なる天使』、美術史家マリオ・プラーツ『肉体と死と悪魔』を中心に


必要なる天使必要なる天使
(2002/04)
マッシモ カッチャーリ、岡田 温司 他

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 サタンはなぜ栄光から失墜したのだろうか? この神学、芸術上において最も重要な命題について、我々はヴェネツィア大学美学教授で現代イタリアを代表する哲学者マッシモ・カッチャーリの天使論『必要なる天使』(1986)を中心に考察してみよう。


【なぜ天使には翼が生えているのか?】


 我々が時どき絵で観たりする天使像にはたいてい「翼」が生えている。この由来については、以下のような説が述べられている。そもそも、翼を生やした女神はキリスト教以前の異教のものだった。それも「勝利の女神」という意味を持っていたという。初期のキリスト者たちは異教の女神と自分たちの宗教における天使を区別するために、あえて「翼」は与えなかった。けれども、やがて異教の力が衰退してキリスト教がヨーロッパで主流になり始めると、彼らはかつての「翼」を天使のイメージに吸収した。このような来歴をカッチャーリは本書付録の「天使への補遺」の「翼の誕生」の項で展開している。


【ユダヤ・キリスト教の天使は、なぜ天空から墜落したのか?】


 ここは天使論の中でも一番興味深い箇所ではないだろうか。サタンは元々、高貴な天使であったが傲慢の罪により神から地獄へ落とされたというのは一般的にも知られている。だが、「墜落説」がこのようなワンパターンで染まっているわけでもない。例えば、エノク書では人間の娘たちと交わるために、天使は意図的に天界から地上へ降下したとされている。天使は「女の美に迷う性質」を有するのである。だが、これはキリスト教神学における正統派の解釈ではない。
 では、トマス・アクィナスの正統的解釈をみてみよう。彼は『悪について』の中で、サタンという元天使は「自らの性質の美に魅惑されて」失墜したと述べている。いわば自らへの愛、神なき自己愛、自己陶酔、ナルキッソスの愛の覚醒である。トマスはまた、「悪魔の最初の罪は、神のヴィジョンたる超自然の至福を、神を抜きにして望んだことだった」とも書いている。サタンは至福のヴィジョンを拒否したのではなく、それを神という慈悲の手から受けることに拒絶したわけである。
 トマスのこの解釈から考えると、天使の中のある者がナルキッソス化したその「瞬間」こそが、まさに天使の墜落の起源である。これはずっと権威的な父親の支配にあった家庭で、ようやく一人の少年が自我に目覚め、父親に反抗する「瞬間」を神話的・宗教的に投影したものとしても読解できるかもしれない。それは瞬間であったが、「永遠」に続く瞬間でもあるとカッチャーリは述べている。

「第一の天使が叛逆を起こしたあの至高の危機の瞬間は、一度だけの永遠に続く決断といえないだろうか」



 天使の中で「自己」に目覚めた者が存在したばかりに、その後他の天使たちも彼が犯した罪を担い続けるのだ。彼の罪は瞬間的に生起し、神はその一瞬をけして見逃さなかった。彼は瞬く間に天界から地獄へと失墜し、その後「永遠」に「瞬間」の罪に閉ざされるのである。
サタンの失墜は、人間の原罪の起源でもある。サタンの犯した罪は、おそらく人間の自己愛とは非常に異質なものであった。彼は神を拒み、おそらく他の天使の存在をも拒んだ。何故なら、カッチャーリがフロレンスキーを引用していうように、罪とは「他者を受け入れない自己主張」だからである。他者を一切拒絶すること、これはサタンへの道に通じている。サタンは他者を全て排除し、完全に自分自身に閉じ篭らねばならなかったのだ。
天使が愛した自分自身とは具体的に何だったのだろうか? ここが最も面白いところなのだが、それは彼自身の「美」である。「天使自身が他者を拒む美への没入を始めた」(カッチャーリ)こと、これこそが天使墜落の核心である。そこにはあの懐かしいギリシア神話の美少年ナルキッソスの痕跡が窺える。キリスト教にとっては異教に過ぎない彼は、非常に重要なドラマ性を帯びて天使として再現前しているのである。
換言すれば、天使は「自由意志」を全能なる神に帰属させていたが、サタンが最初にこの臨界点を突破したのである。彼は「自由であること」を考慮したのだろう。そして、「自由」のためには「神」の従属から解放せねばならないと決意したのだろう。そこには彼自身の「美」が神の美に勝っているのではないか、という非常に劇的な心理的ドラマが働いていたに相違ない。実際、地獄へ降下したサタンほど醜い存在はいないといわれるが、天界にいた頃の彼は圧倒的な「美」を備えていたと考えられる。なにせ、神を空無化させたくなるほどの美である。

【神は、サタンが裏切ることを最初から知っていたのか?】


 実は、神学的には神はサタンが裏切る可能性があることを熟知していた。これは考えてみれば当然である。何故なら、神は「全知」であるから。「全知」であるからには、これから起きる一切、これまで起きた一切を、全て現在のこの瞬間として認識できることを意味している。神が天使を創造した時、あるいはアダムを創造した時、その「失墜」を、「原罪」を知らぬはずがない。神は全てを知り、天使の中から挑戦者が出現することをあらかじめ想定範囲内に入れて創造したのである。カッチャーリも、「神は天使もまた潜在的な罪人として創造せざるをえなかった」と述べている。
イレネウスは、『異端反駁』の中で、以下のようにこの原理を説明している。

「全ての者に相応しい住処を授けるために、神の言葉は到来する。ある者は歓喜に満ちた光の中に住み、またある者は闇の中に住むだろう」



 つまり、天使たちも機能的に分化することを神はプログラムとして設定していたということである。神はまず「天使」という善悪未分化状態の無垢な存在者を創造する。彼らに自由意志を与える。それから後は彼らの「自由」に委ねる。それが彼らへの神の愛である。神のもとで至福に与る天使もいれば、神を裏切る者もいる。一切は、神が仕組んだ出来事である。


【サタンが再び天界に戻る日は来るのか?】


 一度失墜した天使は、永遠に地獄の火に焼かれる定めなのだろうか? それはあまりにも反キリスト教的な解釈ではないか。何故なら、罪人の罪は彼の改心によって贖われるからである。罪の赦し、これをキリスト教ほど大切にする宗教は他に無い。あらゆる罪は赦されるのである。だとすれば、天使の分離=悪魔化は、本当に永劫に続く罪だといえるのか? この問いを先鋭化させたのが、ニネヴェのイサークである。
 イサークによれば、悪魔はやがて救済される。彼は天国の実現を、悪魔の贖いなしには訪れないと考えていた。悪魔こそが、「創造主の恩寵によって完全なものにならなければならない」というのである。彼は「悪魔」を罪人としては捉えず、「深淵に転び堕ちた貴石」と表現している。イサークは悪魔に対して親愛の情を寄せている。それは、我々キリスト者が往々にして忌み嫌う「悪魔」なるものにまで手をさし伸ばそうとする、おそらく無比の慈悲に他ならない。
悪魔の告白、一種の懺悔に近いテクストは、ルーミーの『マスナビー』の以下に記されている。

「幼いわたしに乳を飲ませ、揺り籠を揺すったのは誰だったのか……。わたしを叱ったのが海の如き寛容なら、あの恩寵の扉が永遠に閉ざされているのだろうか。……わたしは彼から遠ざかり彼は怒った。それはたしかに、彼と共にある価値を理解するのに、これ以上はないような手段だった。……だがわたしの眼はいつも彼の至高の顔を見つめ続けている。……そしてこの苦しみの中にあっても、彼のことばかり思い続けている。わたしは負けたのだ。負けたのだ」



 これほど美しいサタンの告白があるのだろうか。ここにはミルトンの『失楽園』に匹敵するような何か涙を誘うものがある。忘れないようにしたいのは、サタンの口調が地獄へ堕ちても高貴さを失っていない点だ。彼は地獄にいても、やはりかつての天使の威厳を保っているのである。
 ここまで来て、我々は一つの巨大な懊悩に苛まれる。神が一体どれほどの強靭な愛で、現在もサタンを愛し続けているかということだ。神のサタンへの愛は、おそらく本質的に不可避のものであり、神の属性そのものに根源的に付帯している謎である。神そのものが分離=悪魔化したものこそがサタンだとすれば――イスカリオテのユダがイエスの十字架上の死までに必須の存在だったとすれば――およそこの世界に存在する一切の「悪」とは、神御自身の影なのである。


肉体と死と悪魔―ロマンティック・アゴニー肉体と死と悪魔―ロマンティック・アゴニー
(2000/08)
マリオ プラーツ

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【サタンの変容、あるいはバイロニズム】


 ここで我々はカッチャーリのテクストから一度離れ、サタンについて言及した別の重要な文献――すなわち、マリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔』に収録されたサタン論「サタンの変貌」について言及しておこう。プラーツによれば、ミルトンの『失楽園』で展開されているサタンのプロメテウス的で格調高い悲劇性の先駆は、マリーノの『幼児の殺戮』で既に見受けられるという。ここでマリーノは、サタンを「堕天使である自己に哀しむ」存在として描き出している。詩人シェリーにおいては、『詩の弁護』の中でサタンは神よりも道徳的で優れていると述べた。ここでは、サタンの悲劇性が美的なものとして捉えられていることが判る。因みに、プラーツは絵画史において初めて悪魔が美しく描かれた作品を、ロレンツォ・ロットの《悪魔の墜落》に見出している。
 マリーノ、ミルトンにおけるこうしたサタンの悲劇性(己の犯した罪のために栄光から永遠に追放された呪われた存在者としての性格)は、アン・ラドクリフなどの恐怖小説の分野ではアウトロー的な男性という人物類型を生み出していく。例えばグレゴリー・ルイスの『破壊僧(マンク)』では、大罪を犯して苦悩する修道僧アンブロシオに、ミルトンのサタンの影を認めることが可能である。こうしたサタンの人間化(サタンの変容)は、バイロンの『ララ』、シャトーブリアンの『ルネ』にも見出すことができるが、彼らに共通するのは以下のような特徴である。因みに、プラーツはバイロンがこうした類型を自らの人生で実践していたことに触れながら、「バイロニズム」の特徴として描き出しているが、これは同時にロマン主義の要素でもあるだろう。

「ロマン主義におけるバイロニズムの特徴」

・心を蝕むような秘密を抱え込んでいる
・倦怠感、孤独感に苛まれている
・自ら放浪の旅に出る
・愛する女を破滅させる呪われた運命


 シャトーブリアンの簡潔な定義を採用すると、サタンとはそもそも「呪われた宿命の男」という類型なのである。バイロニズムのこのような特徴は、美学的には「悲愴」、「崇高」に近接するだろう。バイロニズムはヨーロッパ広範囲で影響を及ぼしたが、プラーツはその中でもポリドーリの『吸血鬼』、シェリーを通じてバイロンとも交友があったメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』、マチューリン『放浪者メルモス』などを挙げている。バイロニズムは1820年代のフランスでも熱狂的に受け容れられたが、その本質にあるのが「吸血鬼」の伝説であるというのは「サタンの変容」と相関して非常に興味深い点である。こうしてバイロニズムはフランス文学においてサドとも混じり合い、やがてボードレールを中心としたデカダンティズムへと合流していくことになる。
 
【現代にも、天使は存在するのか?】


 天使のイメージも時代と共に変化している。キリスト教神学の全盛期であった中世においては、天使はまさに大いなる慈悲である神と人間を媒介してくれる存在者であった。それは純粋な無垢であり、穢れを知らず、多くのイコンがそうであるように清らかに、眠るように微笑んでいる。
 スコラ神学でも、天使は「完全に精神的な存在」として考えられている。それは直感的、霊的にしか把握できないものである。天使は不可視である。いわば信仰の眼でしか天使を見ることはできないというわけだ。
ダンテの天使論によれば、彼らは「墜落」の記憶を全員で共有しているわけではない。彼らは無垢であり、少年少女のように楽しげに微笑みながら歌っている。天使はいうまでもなく、人間が生きるこの地上的な時間性を越えている。天使の時間は、時間のイデア=「永遠」である。それは「正義の時間」ともいわれ、彼らは神学の高貴な至福の守護者のように振舞っている。
 さて、以上がカッチャーリのいう近代以前の天使論である。ヘーゲルが学位論文「信と知」で述べたように、ヨーロッパの精神は近代に入って「神の死」を受容し始めることになる。18世紀後半においてはフランスでもキリスト教が衰退したことによる、スピリチュアリズムの興隆が起こっている。いわば、神学に支えられていた天使たちは、その根幹を揺るがされる事態に直面したのだ。彼らのイメージも、こうしたことを受けて異様な変容を遂げていくのである。
 近代以後の天使、それは「憂鬱なる天使」という言葉で表現できるものである。カッチャーリはこの「新しい天使」を、「哀れな天使」、「断片化した天使」、「魂の受難のなかに内面化した天使」、「知られざる無名の天使」、「時代遅れの天使」…などといった見事な言葉で直観的に捉えている。中世に活躍した素晴らしい天使たちが「前を向いて微笑んでいる」姿で表現されていたとすれば、現代の天使たちは皆、一様に「匿名化された顔で無機質な表情をしながら後ろを向いている」のである。
 この天使の神学的変容を、カッチャーリは「天使のケノーシス(空無化)」と呼んでいる。これを感受性豊かに把握したのは詩人リルケであった。彼によれば、現代の「天使は我々に眼差しを返すことをやめた」とされ、天使との大きな「隔たり」が問題化している。これは同時に、現代人にとって「神」が廃棄されたことを意味している。ペソアもある小説の冒頭で、人間が神を信じなくなって久しいことを告知している。天使のケノーシス、これは「神の死」の天使論的な換言である。
 天使は天国か、さもなくば地獄に少なくとも居場所を与えられていた。だが、彼らは今、どこにも居場所を持たない。地上にも、天国にも、地獄にも。彼らは「場を持たない存在」と化したのであり、不可視であるという特質と合わせて、「非在の場所」という第二の特質がここで姿を現すのである。アウグスティヌスが『詩篇註解』で述べていたように、かつて天使たちは「神の顔」を覗き見るという共通の目的を携えていた。

「永遠のその顔を探すこと。愛に導かれたこの探求に終りは無いが、しかし愛が大きくなればなるほど探求は多くの発見をもたらす」



 だが、今やその「顔」自体が、無限後退しているのである。ハイデッガーは現代思想を未だに呪縛し続ける真の主著『哲学への寄与論稿』において、神が我々から限りなく「遠ざかっている」という感覚を深く感得していた。我々が神から遠ざかったのか? 否、神が我々から遠ざかっているのではないか……。ハイデッガーは「神」という神学的なキータームを、オントロギー(存在論)としての「存在」に換言して、「存在」それ自体の「存在者」からの「遠ざかり」をテーマにした。これもやはり、神そのもののケノーシスを概念化した運動として認識できる。
 天使は「危機」と「懐疑」の象徴となる。彼らは中世において無傷であったが、近代以後は多くの傷を負い、包帯を巻いている。彼らは「不安定な天使」なのである。
 天使がまだ純粋に笑えていた時代、その頃の彼らの特徴は、天国を見張っている疲れを知らない存在であること、地上と天国とのメディウム(媒介)を果たしていることである。彼らは「時間」の番人であり、「永遠」に捧げられた存在であった。
 天使の図像で、よく彼らがおぼろげに微笑んでいるような眼差しをしているのには理由がある。彼らは「故郷の光」にノスタルジーを抱いているのだ。だが、現代の「憂鬱なる天使」たちは、天国のケノーシス化という苦悩のさ中で、どこにも自分の居場所がないことを悲嘆している。彼らは中世の「あの頃」を、虚ろに想起しているのである。
人間―「天使」―神という、この媒介的な役割が機能不全に陥ったということだろう。天使も今や、アイデンティティの喪失に苛まれているのだ。サタンは、なぜ自分が失墜したのかすら忘却した、蒙昧と忘却を象徴する悪と化していく。
ラファエロ的な天使たちは、今やヘルンヴァインの絵画に描かれた夥しい裂傷を負った美しい少年たちのような存在と化している。


【サタンとは何者だったか?】


 天使の失墜に話を戻そう。全てを予定調和的に考えれば、サタンは「神を裏切ること」が脆い失敗に終わるということを実験的に行ったと解釈できるだろう。サタンにとってそれは彼の運命を決定付けるほどの意味を持っていたが、神にとってはあくまでも「サタン」という名の実験なのである。それは神への信仰を失うことがどれ程痛ましいことであるかを暗に告げている。
 ニネヴェのイサークは、以下のように述べている。

「地獄に堕とされた者もまた、慈悲の鞭で打たれる。……慈悲の欠如によって、心の中で震える苦悶は、他のどんな苦しみよりも激しい」



 サタンとは、神の中に存在する「神の影」を、神御自身の理性が裁いた姿である。カッチャーリの言葉を借りれば、「神の分裂に神自身が抱いた怒りの瞬間」こそが、サタンである。それは依然、神なのである。サタンとは神の権能の分離=悪魔化である点で、あくまでも神に帰属するのである。地獄とは天国の「部分」であり、ユダとは、イエスの「部分」である。それらは根源的には同じものの別の形式、スタイルに過ぎないのである。


【救済の約束】 


 天使論を土台にして、カッチャーリは見事な終末論を展開している。だがその終末は、「もうすぐ世界が滅んでしまう」という危機感に根差した不安と憂鬱の賜物なのではない。逆である。彼にとって、キリストの「来臨」によって、地獄は天国へと同化する。悪魔はかつての罪を贖われ、再天使化する。「来臨」は終末的悲劇ではなく、「救済」なのだ。この時点では、最早「善しか残らない」。世界の終末とは、創造の最初の瞬間と、キリストの受難の時に顕現されたあの「創造主の至高の慈悲」が到来する出来事なのである。その時、我々のサタンは失墜の汚名を返上するであろう。彼は再び、神の慈悲に涙を流し、かつての美貌を蘇生させるであろう。
 この「救済」への信仰こそ、おそらく天使とは本質的に何であるかと物語っている。天使論は、我々に「信仰」の大切さを改めて教える。この不安定で、何を強力に信じていけば良いのか謎である現代社会において、信じるべきものは一つしかない。我々は最後に、かのニーチェが「神の死」を告知した後も、カトリック教会のミサにしばしば顔を出していたというエピソードを紹介してこの天使論を終えておこう。





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