† 文学 †

大江健三郎のレイトワークのナラティブである「想像的私小説」を80年代に先取っていた前衛作家小島信夫の『寓話』はなぜラディカルか?

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by Antonio López García

小島信夫の『菅野満子の手紙』と並んで、本作『寓話』は極めて前衛的な方法論を取った小説である。『寓話』は1980年~86年に渡って連載されたものだが、大江健三郎のレイト・ワークの方法論である「想像的私小説」を既に先取りしたスタイルを展開している点が愕きである。
本作でも、やはりエッセイ的な作者自身の日常世界を舞台にした、大江とも共通するいわゆる「内輪ネタ」が多い。しかし、実際にどれほど事実に忠実であるかは巧妙に異化されている気配を感じる。いわば、私小説的な舞台を核にして、そこから自由に空想的な展開へと接続している可能性が高い。
本作は「連載小説」である点を利用して、前回までの作品に対する読者の感想が、次回に反映されている点で、「読者参加型」の私小説でもある。同じ80年代に、ロラン・バルトは「作者の死」を宣告すると同時に「読者の誕生」の概念を暗示していたが、小島の『寓話』では、明らかに「読者」の地位が非常に大きい。彼らは登場人物の一人として実際に生きており、「小島さん」に様々な言葉を投げかけている。連載形式であるというその文壇誌での機能を有効に応用した方法論といえるだろう。いわば、作家は「連載小説」というメディアを受容しているのである。今でいえば、それは「ツイッターでしか生まれない小説空間の独自性」とか、「電子書籍の機能が持つ特有のシステムを活かした小説空間」などとして敷衍することができるのではないか。
進行中の自作に対する他者(編集者や文芸関係者など)の評を有機的に吸収しているというスタイルは、大江健三郎の『憂い顔の童子』などでも先鋭化されているが、面白いのは大江よりも手法の点で遥かに先んじていた点であろうか。印象的だったのは、「小島さん」が「自分が何であるのかわからない」と告白している会話のやりとりだ。「自分」とは、果たして「小島さん」なのだろうか。否、実際に書いている主体と、書かれた主体である「小島さん」は、たとえ苗字が同じでも差異化された存在である。こうした「私小説」における「私」の問題にも深く切り込んだ作品として、『寓話』は非常に貴重で重要な作品だといえるだろう。


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