† 存在論 †

なぜ、今「動物」が重要か?ーー動物の存在論的なステータス、あるいはドゥルーズの「マイノリティへの生成変化」についてーージョルジョ・アガンベン『開かれ』の世界

文庫化されて話題を呼んでいるジョルジョ・アガンベンの名高い『開かれ』(原著2002)を読了したので、ここで我々なりに判り易く得たテーマを記録しておこう。本書の副題は「人間と動物」であり、存在論的なコンテキストで「動物」とは何であるかが、ユクスキュル、ハイデッガーなどを慣用して考察されている。「動物」とは「人間界」の「外部性」であり、人間のように「存在了解」を持てない点で、根本的に我々とは異なる存在であると規定されてきた。アガンベンの企ては、リンネが規定した「ホモ・サピエンス」の定義の本質的な“曖昧性”を問い質すことで、新たに「人間」と「動物」の意味を根源的に思索する壮大な試みである。


○ 「動物」とは何か


アガンベンは動物学、存在論という二つの方向性から「動物」についてアプローチしている。まず、ハイデッガーの「動物」論については、以下のように解釈されている。

「ハイデッガーにとっての焦眉の課題とは、動物の<世界の窮乏(Weltarmut)>と<世界を形成する(weltbildend)>人間との関係を通じて、現存在――世界内存在――という根本構造そのものを動物に対して位置付けることなのであり、そうすることで、人間の登場と共に生物のうちに現れる開示の根源と意味を探究することなのである。人間とはアニマル・ラティオナーレ(理性的動物)であるという形而上学の伝統的な定義を、ハイデッガーが常に拒んでいたことは有名である」



ここでまず前提として理解しておくべきなのは、動物が「存在了解」を持てない点である。ハイデッガーの出発点はフッサールの現象学であり、師によれば全ての事物は「純粋意識」によって直観されることで、初めて存在する。世界は意識されなければ存在しない。よって、「存在」によって「存在者」が成り立っているという、ほとんど神学的な「創造論」に近いこのフレームを認識できない動物たちは、「存在者」ではあっても、「存在了解」を持つ者としての「現存在」ではないのである。
これをアガンベンは、以下の見事な「三つ組のテーゼ」によって表現している。すなわち、

命題�「石には世界がない[weltlos]」
命題�「動物は世界に窮乏している[weltarm]」
命題�「人間は世界を形成する[weltbildend]」



この三つの命題は非常に重要であり、アガンベンの本書を読解する上での基本的前提になる。動物が世界に窮乏しているとされるのは、既に述べたが「存在了解」を持てないためである。「存在了解」を持てる人間は、「世界-内-存在」として存在できるが、その前提に欠く彼らは「世界」が「石」のように「無い」とはいえないまでも、明らかに「窮乏している」と解釈できる。
アガンベンは「動物の環境の存在論的なステータス」について、以下のようにハイデッガーを看取して述べている。

「…(動物の環境は、)開かれている(aperto)が、露顕して(svelato)はいない、と。動物にとって、存在者は、開かれてはいるが、近付くことができるものではない。いいかえるならば、存在者は、接近不可能性と不透明性のうちに、つまり、いうなれば、非関係性のうちに開かれているのだ。人間を特徴付けるのが世界の形成であるとすれば、動物における世界の窮乏を規定するのは、まさに、この露顕なき開示(apertura senza svelamento)なのである。動物はたんに世界を欠いているばかりではない。何故なら、動物は放心のうちで開かれているがゆえに、――石が世界を剥奪されてしまっているのとは違って――世界を差し引き、世界なしですます(entbehren)ことを余儀なくされるからだ。すなわち、その存在において動物は、窮乏や不足によって規定することができるのである」


動物とは、したがって存在論的にいえば、「世界の窮乏」であり、「放心」した存在である。また、動物は世界に開かれているのではなく、世界を存在論的に持てない存在として、「閉じられている」ということへと露顕されているのである。この世界に開かれてはいるが、「存在了解」(私という存在者は、存在に巻き込まれて世界に存在している――この認識)を持てるほど進化していないために、ただ世界に開示されているだけという存在様態は、まさに天使の「放心」に近接したものである。アガンベンはハイデッガーの韜晦的な文体の影響を受けて、これを世界の「閉ざされ」へと「開かれている」と表現している。
動物はゆえに、「存在」を知ることがない。動物を聖なる存在として崇拝できるのは、あくまでも人間による「意味賦与」(フッサール)であって、動物自体は「存在」を認識しない。この無垢で、どうにも「存在」に手が届かない存在者である動物を「放心」と表現するのは、現代人が往々にして「存在」を忘却していることに由来している。ハイデッガーが基礎存在論を構築したその未完の大著『存在と時間』において述べていたように、「存在忘却」とは、現存在が「ひと」という共通の無個性的かつ匿名的な存在様態へと「頽落」した姿である。「ひと」はある意味で、「存在」に「放心」しているのである。ここにおいて、本質的に「放心」した存在としての「動物」が、「存在忘却」を患った現代人である「ひと」と類比的に把捉されている点は見事である。すなわち、ここにおいて人間の一種の存在論的な「動物化」という事態が生起する。
ハイデッガーはその存在論形成において、ユクスキュルの影響を多分に受けたとされている。ハイデッガーにおいて「動物」とは「放心」しているだけでなく、「朦朧とした」、「心を奪われた」、「ただ振舞う」だけの存在である。彼らは本能的に振舞うのみである。こうした、一種の「本能」という制度へと降下している存在である動物は、カッチャーリが近代以後の「天使」として、現代的な天使論『必要なる天使』で展開した姿と相関的である。カッチャーリによれば、天使とは「人間」よりもむしろ「動物」に類似している。天使の無垢さは動物の「放心」に類似しているだけではない。天使は「神」と「人間」の架け橋となるメディウムであるが、「動物」もまた「世界を持たない」、「石」と「人間」との架け橋になるメディウムなのである。
「石」―(動物)―「人間」―(天使)―「神」、この関係性の図式において、( )で括られた存在は共に人間にとって、存在論的な階層性を示す上での媒介項となっている。再び、アガンベンの以下の解釈を検討しよう。

「動物は、存在するものも存在しないものも、開かれたものも閉ざされたものも知らない以上、存在の外に存在している。つまり、あらゆる開かれよりもはるかに外的な外在性における外部、あらゆる閉ざされよりはるかに内的な内密性における内部に存在しているのだ。とすれば、動物を存在せしめるということは、動物を存在外に存在せしめるということを意味することになるだろう」


ここにおいて、動物の持つ「外部性」が強調されている。アガンベンは「存在の外に存在している」と規定しているが、この点についてもう少し深く考察しておくべきだろう。本来、神学的には動物は神によって創造されている以上、「存在の外部性」ではなく、「存在」にあくまでも「包摂」されている。しかし、ハイデッガーは「神」を棄却し、「存在」にテーマを再設定したのであるから、当然「存在了解」を持たない動物は、「存在」からも見放されたものとして扱われることになるのである。「神」なき現代文明において、「動物」の持つ存在論的意味とは、最早動物が「存在しない」ということである。動物は、「神」なき以後、存在できない。何故なら、彼らはアガンベン=ハイデッガーが述べたように、「存在の外部性」だからである。この外部を、デリダの戦略素としてのparergon(余白)へと置き換えれば、「存在のパレルゴン」としての「動物」には、現代思想にとっての考察の余地が膨大に残されているということを意味する。
何故なら、言明されていない「余白」には、意味の書き込みを免除された“聖性”が宿っているからである。動物は、「存在の外部性」として、我々の人間中心主義化された思想圏から迫害・追放されてしまっているがゆえに、新たにここに思考を領土化できる可能性を我々は持っているのである。


○ 「開かれ」とは何か

先述したように、現存在は「存在了解」を持つが故に「世界」に開かれている。しかし、動物はそれを持たないが故に、「世界」に開かれていない。ハイデッガーはこれを以下のように述べている。

「…開かれを持つということは、持たないということであり、より正確にいうならば、世界を持たないということである。実際、世界に属しているのは、存在者の存在者としての露顕可能性なのであるから」


アガンベンの動物論を読解する上での重要な存在論的定式は、aperto(開かれ)を、彼が「存在了解を持つこと」として規定している点であり、これが彼の思考の基礎である。更にこれを出発点として、アガンベンはこの「存在了解を持たない動物」の「放心」を、現代人の「存在忘却」に曝された「深き倦怠(tiefe Langeweile)」と類比的に把捉している。彼は以下のように述べている。

「かくして、動物の本質としての放心こそが、“いわば人間本質を際立たせるような恰好の背景”(ハイデッガー)となる、という一つの見込みのもとで、世界の窮乏――ある意味では動物はそこに、自分自身の開かれざる存在を感じているのだが――は、動物環境と開かれとのあいだに一つの突破口を保証する戦略的な機能を担うことになるのである」



以上から、我々が往々にして抱く「深き倦怠」が、「動物」の「放心」と、存在論的な等式で結ばれるに至る。我々は「存在忘却」に陥ったまま憂鬱である時、或いは端的に「不安」である時、「動物」なのである。それは動物園の檻に幽閉された犀の表情が、悲哀を湛えてメランコリックに眺められた、という程度のものではない。そうではなくて、どれほど活発に動き回る愛らしい猫であれ、子犬であれ、彼らは「存在」に対して無知であるが故に、「存在」を忘れ去った人間の姿を現したものとして存在論的に認識できるということなのだ。ハイデッガーは以下のように述べている。

「…動物が世界を持っていないことを、世界をなしですましているものとして理解し、動物の存在様態そのもののうちにひとつの窮乏した存在を見出さざるを得ない、ということである。……とはいえまた、動物における世界の窮乏を動物性そのものの内部にある問題として展開するのに、ペシミズムさえ必要ではない」



○ 我々は「最後の神」に出会い得るのでなければならない

我々が「深き倦怠」に襲われるのは、我々が「存在」に対峙していないからである。動物はあくまでも「放心」したものとして人間に直観されるだけに留まるが、人間はどこまでも「深き倦怠」へと沈殿していく存在者である。では、このような大いなる倦怠とは、具体的にどのような状態を指しているのか? これについて、ハイデッガーの愕くべきテクストをアガンベンが引用している。

「例えば、片田舎の支線の退屈な駅にいるとしよう。一番早い次の列車の到着には、あと四時間もある。この周辺に別段見所はない。リュックサックに本があるので、果たして、読書に耽るだろうか。否。それでは、何か疑問や問題についてあれこれと考えを巡らせるのだろうか。いや違う。時刻表を調べたり、まるで不案内な別の場所からこの駅までの色々な距離を載せた一覧表をしげしげと眺めたりする。ふと時計に視線を移す――やっと一五分経った。駅を出て、目抜き通りへ。何かしようとして往ったり来たりする。しかし、何の役にも立たない。街路樹を数えてみる。改めて時計を見る。さっき時計を見た時からようやく五分経ったばかりだ。往復にもうんざりして、石の上に腰を下ろし、砂の上に色々な模様を描いてみる。再び時計を見て愕く。三〇分経った……」


この一見何気ないが不穏なテクストを読んで、我々は何を感じるだろうか。実は、これは普段の我々の日常の些細な一こまである。時刻表を眺めたり、砂に絵を描いたりする行為がアイフォンでのほとんど空虚なネットサーフィンに変化しただけの微分的差異に過ぎない。ハイデッガーの捉えた「現代人」の「深き倦怠」の姿は、二一世紀初頭を生きる我々の姿にも重なるものである。
我々は何かを必死でしているように見えて、実は何もしていない。我々は何か与えられた仕事や課題に全力で取り組んでいるように見えて、存在論的には何の進展も生起してなどいない。この憂鬱で倦怠を知った自分に気付いた時、我々はようやく「存在」に対峙する端緒を掴むのである。ハイデッガーは、以下のように我々に宣告している。

「…倦怠によって、現存在が、全体としての存在者に直面する」



すなわち、我々は「深き倦怠」に支配されて初めて、ようやく始原的な、我々を現出させた「存在」それ自体に遭遇するのである。この「深き倦怠」とは、私が直観するに、原初の「存在」が抱いていた「根本気分」の表象=代理である。ハイデッガーの決定的に偉大な点は、彼がこの「存在」を、キリスト教神学的な「神」として認識「しなかった」点である。本来、人間は「深き倦怠」のさ中で、何らかの超越的な救いを見出すものである。ナザレのイエスによれば、我々は苦しめば苦しむほど、それだけ大いなる富を天国に積む。我々は「深き倦怠」にある時、実は神に慈愛によって抱き締められているのである。だが、ハイデッガーはこの最後の救いをも徹底的に拒絶する。
ハイデッガーは真の主著として再評価が目覚しい『哲学への寄与』において、「最後の神」がユダヤ・キリスト教神学における「神」とは何の関係も持っていない点を明記している。

「最後の神はその最も唯一的な唯一性を持ち、あの精算的な規定、すなわち<一神論>、<汎神論>、<無神論>、等といった表題が意味するような規定の外部にある。<一神論>と全ての種類の神論は、ユダヤ―キリスト教の<護教論>以来、初めて存在する。それは<形而上学>を思惟的な前提として持っている。この神の死によって、全ての神論は没落する。神々の多数性はいかなる数に服するのでもなくて、最後の神の合図が輝き出ることとその合図を覆蔵することとの瞬間場における、諸々の根拠と諸々の底無しの深淵の、内的な豊かさに服するのである」



「最後の神」と、全集版では「性起(エアアイグニス)」と名付けられている二つの概念は、明らかにハイデッガー思想の真の核心的テーマである。『哲学への寄与』の七章「最後の神」には、「既在の神々に対する、とりわけキリスト教の神に対する、全く別の神」という副題が設けられている。
アガンベンがテーマにしている「開かれ」について、ハイデッガーは同じ章で以下のように述べている。

「自らの裂け開けの不幸に帰属することを許されて、孤独な者たちの常に原初的な対話の内で聴き従う者となる人は、幸いである。この対話の内へ、最後の神が合図を送り入れる。何故なら最後の神はこの対話を通して、その傍過において、合図して招かれるからである」



まさにこれは、アガンベンのいう「深き倦怠」において、「最後の神」への応答可能性が「開かれ」るということに他ならない。我々は、「神の死」以後の「最後の神」と、応答する責任を持っている。何故なら、それこそが「深き倦怠」に抗戦し得る唯一にして最大の勇敢さだからである。ハイデッガーがこの章で述べていることをまとめておくと、それは「最後の神は底無しの深淵においてのみ現れる」という一文で言い尽くせる。底無しの深淵とは、「深き倦怠」として、我々の日常生活全てに潜在している。我々はその瞬間にこそ、「開かれ」ることに気付かねばならない。この「気付き」こそ、「最後の神」との「応答可能性」なのである。

○ 「電脳都市」に棲む「動物」

先述したように、人間は「深き倦怠」のさ中でこそ、「存在」に遭遇し、「現存在化(diventare-Dasein)」し得る。人間も動物も、共に「世界」に対して、「閉ざされ」という存在様態において「開かれている」点では共通する。しかし、人間は現存在化し得る存在である。ここが動物と人間の存在論的な決定的差異である。
また、ハイデッガーは「ポリス」について、我々がそこで生活する限り、本来隠されたものとしてあり続ける「存在」が、本質から遠ざかったものとして現前すると述べている。この「隠されている」ということは、実は真理の根本的な本質である。対して、本質ではないものが現前する現代都市においては、全てが「隠されることなく」現前し、可視化されてしまっている。彼のいう「ポリス」を、「ウェブ社会」やWeb3.0以降の「電脳都市」として換言しても良いだろう。その場合、我々なりに言い直したハイデッガーの新たなテクストは以下のようになる。すなわち、

「<電脳都市>は、存在者の非隠匿性が集中する場である。しかし今もし、語の意味するとおり、真理が闘争する存在を持ち、そのような闘争性が欺瞞や忘却との対立関係に表れているとすれば、人間の本質をなす場を意味する<電脳都市>においては、非隠匿性や存在者との、すなわち、その本質に反する多様性における非存在者との、あらゆる屹立――と共にあらゆる非本質――が優勢を占めるはずである」



ここで表現されているのは、いうまでもなく現代人の生活空間としての「電脳都市」が、全ての存在者(例えば本来プライベートなはずの司祭の生活記録がブログ形式で公開されるなどといった、私秘性の公的開示)の秘密を奪取しているということである。これをハイデッガーは「非隠匿性」(隠匿されるに非ず)と表現しているだけであって、実質的にこのテクストは、「秘密=真理」が消尽されつつあることを暗示させているわけである。我々がポリスを現代的な「電脳都市」に換言した理由は、いうまでもなくハイデッガー本人が「テクネー(技術)」を存在論的な位相に大きく据えていたことを受容している。我々の生活を根本的に変革してきたのは技術的なイノベーションであり、現代社会にとってそれはまずもってウェブ社会の更なる進化、飛躍と相関的である。


○ 人類の「動物化」について

エルンスト・ヘッケルの研究によれば、人間と類人猿の中間には、「言葉を持たない原人(sprachloser Urmensch)」という観念を想定すべきであるという。この人間特有の「言語」を持たない原人は、「ホモ・アラルス」などとも呼称されるが、人類の前-言語的段階として位置付けられている。ヘッケルのこの考えによれば、「人間」とは「言語」を持つ存在であることになる。
これを受けて言語学者のハイマン・シュタインタールは、「言語」を使用することを「人間」の条件に設定する。動物は人間に固有の言語システムを持っていない。双方の決定的差異は、やはり文化的生産物としての「言語」の有無だということになる。アガンベンは一見、シュタインタールの上記の見解に賛同しているかに見える。だが、哲学者である彼はこの「人間」概念に疑義を呈している。そこが大変興味深い。
人間を「言語的な存在」として位置付ける場合、動物はあくまでも人間と差異化された存在として規定されてしまう。いわば、動物は「人間に非ず」、その「外部性」、「余白」へと追放されるのだ。しかし、リンネは「ホモ・サピエンス」の概念を、より動物性に近いものとして規定していた。人間とはただ、「汝とは何者か」という問いに、動物が無言であるのに対して、「我々は人間である」と答えることが可能な点のみによって規定されると彼は考えていた。

「事実、リンネは冒頭から、自然は“剥き出しの地上に裸のままの”人間を、つまり、教えられでもしない限り話すことも歩くことも食べることも認識することもできない人間を産み落とした、と記している。人間は、人間を超えるときにはじめて人間そのものになるのである」



このリンネの定義によれば、「ホモ・サピエンス」は生まれながらに理性的な存在などではなく、むしろ「人間たるべくして自らを人間として認識しなければならない動物である」。動物と人間は、そもそも厳密にラインを引かれてしまったカテゴリーではなく、その概念は本来的に浸透し合っていたのである。

「ホモ・サピエンスは、それ故、明確に定義された実質でも種でもない。むしろそれは、ひとつの機械、あるいは人間認識を生み出すための一つの装置なのである。当時の趣味に従うならば、このマッキナ・アントロポジエーニカ(人間発生機械)は、人間が見凝めると自分の姿が常に既に歪んで猿の容貌として見えるような一連の鏡からなる、ひとつの光学機械なのである」



人類という概念には、「動物性」が賦与されているのであり、我々はただ「人間に類似したもの」になり得るだけなのである。我々は未だに「人間」ではなく、むしろ「人間に向かって進化途上の動物的存在」なのである。人類学が設けた「人間とは何か」に対する学術的な定義それ自体も、実はひとつの人類自身による文化的捏造に過ぎない。こうしたことから敷衍すれば、我々と動物の境界線はいよいよ揺らぎ始めるのである。根源的に我々と、その外部性である動物を分け隔てるものについて、再考せざるを得なくなる。アガンベンは、以下のようにいう。

「人類とは、人間の形をしたものとして構成された動物であり、この動物が人間的足りうるためには、人間ならざるもののうちに自らを認識しなければならないのである」



また、アガンベンはハイデッガーの政治的履歴をも問題視しており、歴史における「自民族中心主義」(ナチズムにおけるアーリア人至上主義)を、「使命としての遺伝」と呼称し、テロス(目標=結末)を歴史に設定してしまうことでその神話的な世界観が完結すると信仰する人間を、「動物化」とみなしている。これはK.ポパーが名高い『歴史主義の貧困』の中で、歴史にあらかじめ定められた「法則」や「掟」を設定し、その理論の軸上でしか政治、文化、社会を進行させない考え方であるHistolicism(歴史主義)への批判を展開したことと相関的に読解できるだろう。
アガンベンが、動物と人間を安易に生物学的に差別化してしまう考え方を批判している背景には、彼の「人間中心主義」、「ロゴス中心主義」への批判がある。人間を動物よりも秀でた存在として認識し、そこに境界線を設ける考え方も、ある特定の民族に劣位的地位を与えて迫害する考え方も、根本的には「種差」を生産していく理性的動物としての人間の過ちとして理解できる。これが、アガンベンのいう人間の「動物化」である。それは人外のもの、自分とは異なるもの、他なるものを設置して「意味」の余白へと追放していく運動としての「動物化」であり、この段階での人類は未だ真の目が開かれた「人間」ではない。

○ そしてドゥルーズの「マイノリティへの生成変化」へ

アガンベンの存在論的動物論について、そこで引用されている三人の重要な学者を紹介しておこう。ハイデッガーを筆頭に、ユクスキュル、そしてドゥルーズである。特に彼が注目しているのはユクスキュルの「環世界」の概念であり、これは人間には人間の属す世界があり、蟻には蟻の属す世界があり、各環境はそれ自体の内に閉じているという考え方である。ハイデッガーのいうin-der-Welt-Sein(世界-内-存在)は、ユクスキュル的に把捉すれば、あくまでも「人間の属す環世界」の意味にしかならない。つまり、そこでは隣接する類人猿や他の昆虫、植物たちの「世界」が意図されていないのだ。ハイデッガーの存在論が、本源的に「人間中心主義」化しており、従って「動物化」した思考の産物として位置づけられる由縁である。
しかし、アガンベンが哲学を「存在論」として規定している点では、やはりハイデッガーを相続しているといえるだろう。彼は第一哲学は依然存在論であるとみなしている。そして、存在論こそが、人間と動物を差異化させたのである。アガンベンはまた、存在論の近未来の地平についても以下のように予言している。

「(a)歴史以後の人間は、開かれざるものとしての自己の動物性を最早温存させてはいず、むしろ技術によってそれを統御し管理しようとする。
(b)存在の牧者たる人間は、自己自身の隠匿性、自己自身の動物性を我が物とすることで、動物性を覆い隠されたままにするわけでも支配対象にするわけでもなく、むしろ、それ自体として、純粋に置き去りにされたものとして思考する」



以上、本書の読解記録としてまとめてきたことを改めて整理しておこう。アガンベンは、ハイデッガーの存在論を視座に「動物」という存在を思考している。そうすることで、存在論的には「動物」が「外部性」に追放されていることを暴きだし、ハイデッガーの「世界」概念が自体が、実はユクスキュルの「環世界」程度の意味しか持っていなかったことを暴露する。これによって次に発展可能なのは、本書では言及されていないドゥルーズの「マイノリティへの生成変化」の概念である。我々は、この21世紀において、真剣に今一度「狼になること」について思考せねばならない。或いは、「薔薇になること」とは、一体哲学的にどのような事態を意味するのか? エクリチュールの問題としての動物への生成変化は、ドゥルーズが『千のプラトー』の生成変化論で述べていたように、文体そのものの持つ文化的背景を抹消し、我々を非-理性的な、シュルレアリスムのような「理論」にさえ帰属されない「原始」の力へと遡行させるであろう。このような意味では、21世紀の哲学は、まさに「動物になること」をテーマにして発展していくと考えられる。それは我々の思考の沸点の限界を越えていくテーマであり、哲学及び神学、そして存在論に新しい稲妻のような衝撃を与えるものとなっていくだろう。




「参考リスト」

開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)
(2011/10/11)
ジョルジョ・アガンベン

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哲学への寄与論稿-性起から(性起について)- ハイデッガー全集 第65巻哲学への寄与論稿-性起から(性起について)- ハイデッガー全集 第65巻
(2005/06)
ハイデッガー、辻村 公一 他

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千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)
(2010/10/05)
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ 他

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