† 映画 †

実在(信玄)と虚構(影武者)をめぐって、黒澤明『影武者』

影武者<普及版> [DVD]影武者<普及版> [DVD]
(2007/11/09)
仲代達矢、山崎努 他

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黒澤明監督の『影武者』(1980)を観た。本作は武田信玄(実在)と、その影武者(虚構)をテーマにした、なかなか哲学的な意味を秘めた作品である。そもそも、21世紀初頭のこの現代日本においては、「武士」そのものが虚構的存在だといえる。小悪党であった男が、信玄に容貌が酷似していることから、「影武者」としての仕事を引き受ける。その間、信玄は三年間生きていたが、この期間を通して影武者は実在に対する敬愛の念を抱き始める。そこには奇妙な憧憬の混じった「一体感」が芽生えている。
「影武者」とは、まことに不思議な存在である。彼は生きている「実在」でありながら、他者そっくりに模倣する「虚構」でもある。こういった稀有な職種についた職業病なのか、彼は「自分の正体が判らない」という根源的な不安に苛まれる。それは真の実体であった信玄の死によって「空虚」を感じたことで、頂点に達する。自分によく似た男で、なおかつ自分よりも名誉も地位も備わっている男を目の当たりにした時、ひとは往々にして「空虚」を感じるのではないだろうか。果たして、自分は世界に生きるに値するのか、と。自分と性格も特徴も異なる人の活躍は赦せてても、自分そっくりな者が己を出し抜くことだけは我慢できない――そんな感覚にこの影武者が陥ったのかもしれない。
「影武者」とは、「自分と顔が同じ人物と同じように振舞う」仕事である。俳優は信玄と影武者を仲代達也が二役演じている。ここには何か奇妙な関係性が窺える。プラトンは名高い洞窟の喩えにおいて、薄暗い穴の壁に光を燈されて写った「影」こそが、この世界の全ての存在者なのだと規定した。すなわち、我々は皆総じて何らかの真の実体的存在の「影武者」に過ぎないのである。この小悪党の孤独と不安、漠たる存在論的憂鬱は、我々現代人が共通して担っている魂の通奏低音に近いのではないか。私は黒澤の傑作の一つであるこれを観ながら、静かにそう考えたのであった。
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