† 文学 †

「震災文学」の新しい地平としての、ウェルギリウスの『農耕詩』再評価

牧歌/農耕詩 (西洋古典叢書)牧歌/農耕詩 (西洋古典叢書)
(2004/05)
ウェルギリウス

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3.11は、多くの識者が語っているように、天災と人災の二つの側面を持っている。天災とはいうまでもなく「大地震」のことだが、むしろ問題が顕在化したのは「原発」という本質的に人類にとって危険な技術による「人災」の方だった。この問題をめぐる経済・産業界を含む多様な論議は現在も続いている。
このページでは、この「天災」と「人災」を、より根本的な概念である「自然」と「技術」の問題として前景化した上で、改めて考察してみたい。その上で、我々が今注目すべきなのはこの二つの問題をめぐって見事な叙事詩を展開したプブリウス・ウェルギリウス・マロの『農耕詩』(紀元前30年頃)である。震災以後、A.タルコフスキーへの再評価が復興し、注目を集めているが、このダンテよりも注目されることの少ない偉大なローマの詩人(ダンテの師であり、『神曲』のもう一人の主人公でもある)に、今こそスポットライトを照射すべきである。
技術は自然にとって「悪」か? この問題について、詩人は以下のように「技術」を擁護している。

「父なる神自身が、耕作の道は険しいことを望まれたのだ。この神が最初に、技術を用いて大地を耕作させ、人間の心を気苦労で研ぎ澄まし、みずからの王国が、重い無気力でまどろまぬよう図られた」(1歌130)


技術の持つ「存在の空無化」という凄惨な出来事については、ハイデッガーの必読書『ブレーメン講演』においてテーマ化されているが、そもそも技術は人間にとって「善い」ものであるという考えをウェルギリウスは持っていた。原子爆弾も、今回の原発も共に人間の叡智による「テクネーへの過信」として把握することはできるが、本源的にいってテクネーそれ自体は、人間の心を「無気力でまどろまぬよう図らう」ものなのである。すなわち、それは「快適さ」のための「道具」としてまず現前するのである。大地を耕作するための機械だけでなく、ハイデッガーは「技術」そのもののアレゴリーとして「工作機構」と呼称していたが、それは本源的には人間の「手助け」をする「恵」なのである。
このことは、以下の「手入れ」の重要さからも如実に伝わる。

「葡萄の手入れには、まだ他の仕事があり、それにはいくら労力を費やしても、けっして充分とはいえない。つまり毎年三度も四度も、すべての土を犂で耕し、土塊をたえず二又鍬の背で打ち砕き、全ての木々は、葉を減らしてやらねばならないのだ」(2歌400)



Publius Vergilius Maro

Publius Vergilius Maro

すなわち、自然と人間が共生するためには、人間による「技術」を用いた「手入れ」が必要である。これを「ケア」と呼んでも差し支えはない。人間が自然をケアしつつ、それを開拓する行為は本源的には罪ではなく、人間に対する自然からの恵である。では、何を基準にして「技術の暴走」が起きるのであろうか。暴走が起きた後の大地の様子は、まるで放射能に汚染された土地を髣髴とさせるものである。以下の描写は間違いなく、ウェルギリウスによる「被災地」の克明な記録といえる。

「かつてその地では、病毒を帯びた大気のゆえに、悲惨な季節が到来した。その季節は、秋の暑さをすべて集めて燃え上がり、あらゆる家畜を、あらゆる野性の動物を死滅させ、悪疫で湖水を毒し、牧草を汚染した」(3歌470)

 

津波が過ぎ去り、破壊された後の「被災地」の様相については、以下のように描写されている。

「また今や、果てなき海に生まれたものや、あらゆる泳ぐ種族が、まるで難破者の遺体のように、波で浜辺に打ち上げられ、川へ馴染みのない海豹が逃げてくる。(…)大気は鳥にさえも無慈悲である。鳥たちは、高い雲の下で命を失い、真っ逆さまに落ちていく」(3歌540)



災後の「人災」、すなわち原発を巡る「混乱」については以下のように予言されている。

「探し求めた治療法は、ただ害になるだけだ。ピリュラの子ギロンやアミュタオンの子メランプスのような熟練の医師も、治療を諦めた。蒼白のティシポネが、ステュクス川の闇から光明の中へ送り出されて荒れ狂い、病気を恐怖を前方に駆り立てながら、身を起こして、日ごとに貪欲な頭を高く聳え立たせていく」(3歌550)


このように、ウェルギリウスの時代から、「被災」の光景は克明に叙事詩的に描かれてきたのである。詩人はその「深刻な不安」を、獰猛な「狼をおとなしくさせる」ほどのものであると表現している。これを、我々は二つの側面から受け止めることができるだろう。
一つは、「天災」への畏怖である。これは現在の科学技術による「地震予知」でもなかなか難しい問題であり、「自然」が時として振るう猛威である。もう一つは、「技術」への過信が、大地を「毒化」するという事態への巧みな警句である。特に3歌470、540行は、「鳥が空から降ってくる」、「牧草が汚染される」など、まるでチェルノブイリ・東北大震災を象徴するかのような記述であることに驚かされる。まさに、これはタルコフスキーの『ストーカー』で描かれた世界観を映し出しているコンテキストである。

「まことに、ここでは、神が定めた正と不正は逆転している。世界で戦いは頻発し、罪業はじつに多くの形で現れている。犂には相応しい敬意が払われず、耕地は農夫を奪われて、荒れ果てている」(1歌500)


では、こうした暗澹たる災厄を描出することで、ウェルギリウスは現代の我々に何を伝えたかったのか? それを思索することこそ、今の政府に真に求められている責務なのである。詩人は以下のように3.11以後の日本人に語っている。

「何よりもまず、神々を敬いなさい。そして冬の最後の日が過ぎて、既にうららかな春になったとき、豊かに茂った草の上で毎年の儀式を催し、偉大なケレスに感謝の生贄を捧げよ」(1歌340)



これは、換言すれば「精神の復興」が大切だという謂いとして解釈できる。単に、ひとに宗教心を強制しているのではない。そうではなく、かつては宗教によって人間に教育されていた「自然をケアしつつ耕作する」という基本的な態度が、忘却されているということを示しているのである。ケレスとはあくまでもアレゴリーであり、これを現代において象徴的に解釈する場合は、文字通りに受け取るべきではない。
だが、実はこの「精神の復興」、「精神的な救い」を持つことで「自然との共生」に立ち返るという発想は、ウェルギリウスだけでなく、我々が幼い頃から観てきた、あのお馴染みの『風の谷のナウシカ』においてもテーマ化されているメッセージなのである。ウェルギリウスの姿を、ナウシカを影から見守る孤独な旅人ユパに見出すこともできるのではないだろうか。ナウシカ的なテクストは、『農耕詩』に実に多く見出せる。例えば、

「パルナススの月桂樹も、幼い時は、母木の大きな陰の下に芽を出した。自然は最初に、そのような方法をもたらした。それらの方法に従って、灌木も聖なる森の木も、あらゆる種類の樹木は緑に色付く」(2歌20)


ここには、「聖なる森の木」に想いを馳せる詩人の姿がイメージできる。我々が「技術」を過信した文明を発展させる過程で、何を忘却していたのかを強く呼び覚ますところである。
ウェルギリウスは「聖なる森の木」を表象する上で、「オリーブ=平和の女神」を重視している。オリーブには強い自生能力があり、その不屈な生命力を謳歌している。彼は儀式においては、「オリーブの葉の冠」で飾ることを付記してまでいる。オリーブは、キリスト教でも「平和」のシンボルである。ウェルギリウスにとって、それは災厄の後に到来する「聖なる森の木」の表象=代理として現前しているのだ。被災の後に、一本の逞しい樹が育つというのは、極めてポジティブで今まさに希求されている「精神の復興」を象徴している。
そもそも、「聖なる森の木」は、ウェルギリウスの時代にとって「実在する」ものと考えられていた。それは単なる空想ではなく、「きっとあるだろう」という、もっと切迫して現実的な存在だったのである。

「オケアヌスに近いインドには、どんな森があるのかも。――その世界の果ての彎曲した土地では、樹木は天にまで達し、木の頂上は、放たれた矢でさえも届かぬほどである」(2歌120)



復興の精神 (新潮新書 422)復興の精神 (新潮新書 422)
(2011/06/09)
養老 孟司、茂木健一郎 他

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このようにウェルギリウスのテクストの「場」を通して、我々は何か大きな一つのヒントを手に出来そうである。東京大名誉教授で解剖学者の養老孟司は、震災以後に刊行された『復興の精神』の中で、ウェルギリウスと根源的には同じメッセージを発している。リーマンショックによる「世界大不況」(P.クルーグマン)、そして去年の「3.11」を経て、今我々は「精神の復興期」に入ったのである。また、東京外語大教授で哲学者の西谷修は、被災地の様相をタルコフスキーの『ストーカー』の「ゾーン」と相関させ、その場を宗教空間における「零度の聖性」と名付けている。

中央公論 2011年 05月号 [雑誌]中央公論 2011年 05月号 [雑誌]
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東京大教授の御厨貴も、『中央公論』五月号において寄稿した「<戦後>が終り、<災後>が始まる」の中で、戦後から70年代にかけて急成長した「新宗教」に代わって、新しい精神的な居場所を与える思想的フレームが多くの人々に希求されるだろうと、「大宗教時代の到来」を予告している。まさに、ウェルギリウス的テーマが今、現前しているのである。これは、高橋源一郎の『恋する原発』や、よしもとばななの『スウィート・ヒアアフター』などの「震災文学」を、一過性のテーマとして回収するのではなく、ウェルギリウスの時代から連綿と続く「精神の復興」のための「文学そのもの」の系譜として評価する上でも重要である。

恋する原発恋する原発
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高橋 源一郎

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よしもと ばなな

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最後に我々は、ウェルギリウスの信じていた「土地」についての希望を引用して、このページを終えておこう。

「いつも自ずと生えてくる緑の草に覆われて、腐食と塩分による錆で鉄の農具を傷つけない土地、そのような土地こそが、楡の木に豊饒な葡萄の枝を絡ませるだろう」(2歌220)



アスファルトの上では、我々の「手」は「土で汚れる」ということを知り得ない。

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