† 映画 †

パゾリーニの代表作『豚小屋』に見るAnti Capitalism

豚小屋 ニューマスター版 [DVD]豚小屋 ニューマスター版 [DVD]
(2009/09/02)
ピエール・クレマンティ、ジャン=ピエール・レオ 他

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パゾリーニには「イタリア共産党を青年に」という詩があり、これを書いた翌年に本作『豚小屋』(1969)を制作した。彼はマルクス主義者であり、この作品にはハイエクの『隷属への道』(1944)を、ちょうど正反対にした虚像世界が皮肉たっぷりに描き出されている。
物語のコードは二つであり、交叉して進行する点ではシンプルである。一方はドイツのボンに存在する財閥の息子ユリアン(ジャン=ピーエル・レオ)で、他方は中世と思しき時代を背景に、活火山地帯で彷徨する無法者の青年(ピエール・クレメンティ)に焦点を当てている。

画  像 307


あらかじめ書いておきたいが、私はこの映画は映画として非常に優れていると確信するものの、政治的には致命的なほど倒錯しているといわざるをえないと考えている。というのは、私が考えるにパゾリーニにとって「豚小屋」とはCapitalismによる労働者搾取のアレゴリーそのものであり、この作品自体がブルジョワ階級=「豚」に対する、とてつもないルサンチマンによって生成しているように感じたからだ。何故、パゾリーニはアドルフ・ヒトラーの顔にそっくりな財閥の父親像を作り出し、その息子が虚無的な「豚との交わり」に耽るという状況を描いたのだろうか。

画 像 311


パゾリーニ自身のコメントを読んでみると、そこには彼なりの消費社会への批判、戦後ドイツの中産階級の堕落への批判という意図が込められているようである。確かに、権力欲に憑かれたユリアンの父クロツ(アルベルト・リオネッロ)のギラギラした眼差しは、弱肉強食の競争市場における破壊的側面を反映しているかのようだ。
だが、本当に資本主義はパゾリーニが皮肉ったように「豚小屋」なのだろうか? ソ連の崩壊、東西ベルリンの統一の歴史を鑑みれば判るように、むしろパゾリーニがこれを描く際に概念化していたであろうマルクス主義、共産主義、社会主義――より広義にいえばCollectivismこそが、忌まわしき人間性の破壊的体制そのものだったのではないか。「社会主義を倒した」世紀の書である『隷属への道』で、我々はパゾリーニが称揚する共産主義がどれ程平易に国家社会主義、ファシズムへ変貌していくのかを教えられたはずである。
ハイエクのこの主著の一つが刊行されたのは1944年である。パゾリーニが『豚小屋』を公開したのは1969年だ。つまり、実に20年以上、この監督は共産主義の政治的な愚かさを思い知る機会があったわけである。しかしながら、映画では競争的資本主義を擬人化したような存在者として父親クロツがグロテスクに描かれている。息子はまるで、分裂症に陥った資本主義社会の病理を体現したような存在として、豚との交接でその異様な性倒錯を満たしている。
おそらく、何の時代背景も無しにこの映画を観た方は、間違いなくクロツは悪人で、パゾリーニはグロテスクな資本主義社会の本質を戯画化して描いたのだ、と解釈するだろう。だが、実はこれはマルクス主義的な映画であり、マルクスの激越な宗教批判論よろしく、明らかに誇張化されて資本主義が把握されている。

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パゾリーニ自身の運命にとっても決定的であった『ソドムの市』でも、裕福な一部の腐敗したブルジョワ貴族が、善良な若い少年少女を性的に搾取し、破壊する様が描写されている。これはそのままプロレタリアが陥っている政治的状況をパゾリーニが象徴化して描き出しているとも解釈できるし、現にそうされている。だとしたら、『豚小屋』と『ソドムの市』は、共に極端に資本主義を憎悪する、一人の映画制作に長けたマルクス主義者によって撮影された、甚だしく政治的に偏向を来している特異な作品として認識しなければならない。事実、J.ロックの『統治二論』、F.A.ハイエクの『法と立法と自由』、M.フリードマンの『資本主義と自由』、R.ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』などの政治学における必読書を読了した者であれば、どれ程パゾリーニが極端な曲解によって資本主義を認識しているかが、きっと見事に理解できるはずだ。なにせ彼は、経済的強者にわざわざファシズムの指導者の容貌を与え、自由市場そのものを「豚小屋」扱いしているのである。
これはまさに、リバタリアニズムを「ネオリベ」と一括して、「勝ち組・負け組み」を生み出し、「格差社会」を作ったのは小泉内閣だといって短絡的な批判に明け暮れていた、ありし日の日本共産党と相似形である。同じイタリアでも、貴族社会を美しく描くことのできた名門ヴィスコンティ家に出自を持つルキノ・ヴィスコンティに対し、パゾリーニにはあまりにも極端なブルジョワ嫌いが顕れていて、せっかく映画としては秀逸な構成を持っているにも関わらず、政治的なコードでやはり偏狭に過ぎるといわざるをえない。

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実はゴダールも、『中国女』(1967)でマオイズムに心酔する学生たちを描いている。当時、中国では文化大革命が生起していたので、ヨーロッパの青年層が彼らに影響を受けていたということはいえるだろう。『中国女』で出演したレオだけでなく、ゴダールの妻でもあったアンヌ・ヴィアゼムスキーまで『豚小屋』に登場しているのだから。しかし、今となっては二作品とも、政治的には誤った理念に基づいて制作されていたということができるだろう。社会主義は人間から「自由」を奪い取るファシズムへの最良にして最短の道である。たとえ格差構造が再生産され続けようが、常にイノベーションによる創造的破壊(J.A.シュンペーター)によって発展していく自由主義的社会にこそ、真の「自由」は存在するのである。

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ピエール・クレメンティのコードでは、ノージックがMinimal Stateを理論化する上で実験した無政府状態における無法者が描かれていた。彼は出会った人間を襲い、その肉を喰らうという15世紀のスコットランドに実在した人喰い一族の父祖ソニー・ビーンを髣髴とさせるような存在である。最後には捕縛されるが、彼は懺悔の言葉を口にしない。もし彼もまた「豚小屋」=資本主義社会で生きる動物化した現代人の末期的姿(例えば、『アメリカン・サイコ』のエリート・サラリーマン役を狂的に演じたクリスチャン・ベールのように)を、より原理的に象徴化した人物として構想されているとすれば、やはりそれは一方通行的なパゾリーニの社会批判であるに過ぎないといえる。
このように、私が観た限り、パゾリーニの本作は特定の政治理念に基づいて社会を分析している点で、どちらかというと普遍的な傑作というよりは「時代状況」の「スローガン/パンフレット」のような作品として感じられた。



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