† 文学 †

江國香織の処女作『409ラドクリフ』における「プリミティブな恋愛の形」

江國 香織とっておき作品集江國 香織とっておき作品集
(2001/08)
江國 香織

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江國香織の処女作『409ラドクリフ』を読んだので、ここに私が感じたことを残しておきたい。
主人公の女性はナツミという留学生で、「ラファエル前派の女性像」についての論文を書いている。留学先で友達になったノーラという女性はハンガリー人で、恋多き女子大生だ。ナツミは日本に年下の彼氏がいるのだが、留学中の新しい彼氏であるシューヘイと仲が良い。留学中の寂しさから、この期間だけの恋人を作るのはアメリカ文化ではお馴染みであり、シューヘイも日本に別の彼女がいる。ノーラ、ナツミの他にツンディというハードロック好きな化粧の濃い友達もいて、いわば三人で暮らしている。
アメリカの恋愛観は日本と違って、「言葉よりも行動で示す」方らしい。だから言葉なしで、突然関係が途絶えることもある。「急に来なくなる」とか、「急に電話しなくなる」というのも、意志の表明なのだろう。ナツミとノーラはこれに反対で、日本とハンガリーはその点で似ている。言葉もとても大切にするわけだ。
ナツミはノーラのこともツンディも好きなのだが、アメリカにどこか馴染めないでいる。その時の彼女の気持ちを作者は以下のように表現している。

ここでは、すべてが非現実的で不確実だった。アメリカには、私の存在を証明するものなどないのだ。私はここで過去を持たず、過去を持たないということは、結局何も持っていないということだった。変な感じだった。私は時どき、自分がほんとうに風間夏美なのかどうか、不安になった。



カルチャーショックによるアイデンティティ・クライシスというほどのものではなく、漠然とナツミはそう感じている。リズムがあって、作者はナツミの移り変わる気持ちをうまく的確に表現している。江國香織という作家は、私が考えるに独特な行間を持っている。文章過多でもなく、過少でもなく、常に適度で、「余白」を大切にしている気がするのだ。書いていないところでも、読者が自然に想像できるように必要な文章は存在している。建物として彼女の文体を捉えると、塵一つ落ちていない夕暮れの喫茶店とか、雨の日で客が少なくなった美術館の昼下がりとか、そんな感じなのだ。この「感じ」が私は好きで、エドワード・ホッパーの絵画空間に少し似ている。
ノーラは最初、金髪の彼氏と付き合っていたのだが、彼に振られてしまう。急に来なくなったわけだ。最初は乗り気ではないものの、ノーラは次にマドゥーカという男性と親しくなる。この男性はナイジェリア出身の留学生で、ノーラに心から惚れている。ノーラはマドゥーカを適当にあしらっていた。けれど、彼が本気なので付き合ってみるうちに、本当に彼の良さが判ってくる。
マドゥーカは黒人なので、アメリカの白人とは少し距離を持って描かれている。決定的なところは、ツンディとの描写だ。ツンディは彼氏と下品なことでナツミを困らせて、マドゥーカを激怒させてしまう。これがきっかけでツンディは家を去り、マドゥーカとノーラは少し孤立してしまうようになる。

まわりから孤立すればするほど、彼らは二人きりで純化されていくようだった。ノーラはとてもきれいになった。横顔がどんどん透明になり、お化粧をしなくなった。痛々しいほどにやせ、長かった髪は、さっぱりとしたショートカットになっていた。そして、彼女の美しさはどこか植物的だった。はかなげで、ピュアだ。水がなければ、すぐに枯れてしまう。



植物的な美しさというのは、前に読んだ『スイートリトルライズ』のヒロインにも共通している気がするので、作家の好きなタイプなのかもしれない。この二人の関係を、ナツミは淡々と眺めている。この物語は、ナツミの恋物語ではなく、「ナツミが肩越しに見たノーラ」の物語なのだ。ここには、視点の微妙なズレがあり、ナツミにはノーラに対して理解できないところも沢山ある。けれど、ナツミはノーラのピュアさに心から惹かれていて、掛け替えのない親友だと思っている、ノーラもナツミを親友だと思っていて、二人はいわば、人種を越えた姉妹のようだ。
「プリミティブな恋愛の形」――江國香織はそういっている。時間は流れていく。タイトルの『409ラドクリフ』というのは、彼女たちの住所だ。やがてクリスマスが来て、ナツミたちはマンハッタンへ出かける。そこの描写が、非常に印象的だった。

私たちと同じように、一目で留学生とわかる若い人たち、ヨーロッパ顔の観光客、南米系の労働者、器用にブレイクダンスを踊っている黒人たち、純粋のアメリカ人は、クリスマスにこんなところにはいない。みんな家に帰り、家族とシャンパンを飲み、あたたかなベッドで横になっているのだ。帰るところのないエイリアンばかりが、マンハッタンで騒いだりする。
私たちはレストランで食事をした。ワインを飲み、ターキーを食べ、プディングを食べた。悲しいくらい完璧な、絵に描いたようなクリスマスディナーだった。



ここには微妙なリリシズムが流れている。そして、

「このまま私たちみんな、天使になれたらいいのに」
教会を見上げてノーラが言った。ノーラの越えは、あまりにも素直に、もの哀しくひびいた。誰も、こたえられなかった。三日月が、つめたい光を放っている。私たちに、ベツレヘムはあるのかしら。ダウンタウンにむかってさらに南へ歩きながら、私は思った。



この「私たちに、ベツレヘムはあるのかしら」という文章は、物語の奥底にある悲哀のようなものを孕んでいる気がした。私はこの悲哀がない小説はあまり好きになれない。どれほど充実して優雅な日々を送っていても、悲哀から目を背ける作家は好きになれない。何故なら、幸福などけして長続きしないことを、私は知っているからだ。
この後、ノーラは母親と大喧嘩したりする。学費を浮かせるために、他の男性と形式状の婚姻手続きをしたりする。これはノーラを愛するマドゥーカの頼みだった。形式だけの結婚、そこにもどこかメランコリアが流れている気がした。これは私の読みで、江國香織はもしかするとニヒリスティックには書きたくなかったのかもしれないが、私に印象を残すのは常にそういうテクストなのである。そういう点で、私はやはりリルケの『マルテの手記』やサルトルの『嘔吐』が好きなのかもしれない。ボルヘスを好きなのは彼が博覧であったからというだけでなく、処女作『ブエノスアイレスの熱狂』に、夕暮れの街をたった一人で歩きながら自分を、カルワリオを登るイエスになぞらえる場面があったりするからだ。私は恋愛の中に潜在する「悲哀」に、とてつもない美を感じる。だからそういったものをノーラ越しに読み取っているナツミは美しい。そして、美しい女性は、たいてい哀しみを持っている。
作家は時が経つにつれ、やがて処女作に回帰していくとよくいわれている。もしかすると、江國香織もいつかラドクリフの49番地へ帰還する時が来るのかもしれない……。

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