† 建築学 †

《バウハウス》の建築家ヴァルター・グロピウスと幽霊性

7888778.gif

「住宅街」

ヴァルター・グロピウス(1883-1969)は近代建築において重要な役割を果たした建築家の一人である。1919年に彼は名高いバウハウス(ヴァイマールの国立バウハウス)を設立し、十年間その校長として活躍した。また、1945年には大規模な共同設計事務所(TAC)を設立し、その所長になっている。
グロピウスは若い頃、「工業大量生産」を理念にしていたペーター・ベーレンスの建築事務所に入っている。ここには他に、ル・コルビュジエ、ファン・デル・ローエなど優秀なメンバーが存在した。ドローイングする力のないグロピウスは、アドルフ・マイヤーとの協力で事業を展開した。また、ブルーノ・タウトのサークルとの交流でも知られる。

画  像 353

「集合住宅」

グロピウスが立ち上げたバウハウスは、モダニズムの象徴である。ここの教師には、パウル・クレー、ヴァシリー・カンディンスキーなどがいた。バウハウスの建築理念は、「Wohnmaschine(住むための機械)」であり、彼らの建てる建物はまるで「積み木」の組み合わせのように立方体、直方体で構造化されている。当時、バウハウスは賛否両論だった。
グロピウスは30年代以降、当時のドイツの社会主義的な風潮を明らかに意識してもいる。やがてナチス政権が誕生するが、彼はイギリス、アメリカへ渡る。彼の建築理念は、1923年の論文『ヴァイマールの国立バウハウスの理念と形成』の以下のテクストに結晶化している。

「我々がつくりたいのは、明確な有機体のような、むき出しで、独自の法則という美徳によって光を放ち、偽りでも贅沢でもない建物であり、機械、ケーブル、高速交通機関の世界を肯定し、建物躯体の個々の部分の間に生まれる緊張によってその感覚と目的を自ずから表すと同時に、建物の絶対的形態を曖昧にしかねない余分なものをすべて排除した建物だ



9---.gif

「バウハウスのアトリエ館」

コルビュジエも「住宅とは住むための機械である」といったが、バウハウスの理念にもこれと通じるところがある。ただし、グロピウスは「絶対的形態を曖昧にしかねない余分なものをすべて排除」することに「建物」を位置付けている。私が彼の建物をみた時に、「積み木の組み合わせ」、「レゴシティー」のような印象を抱いたのも、この理念が具現化されているからだろう。

799.gif

「テラスハウス」

21世紀初頭を生きる今、我々はグロピウスに単調で退屈な建物を見出す。だが、この怖ろしく無機質で洗練され過ぎている建造物群には、どこか「幽霊的」な気配が漂っている気がするのである。というのは、グロピウスの集合住宅群を眺めていて、我々はどこか無機質なだけでなく、非常に都会的な「匿名性」の罠のようなものを感じないだろうか? それはグロピウス自身の邸宅でも表現されている。

画像   358

「グロピウス邸」

グロピウスの集合住宅は、50年代になってもほとんど変化していない。先ほど、我々は彼の建物を「積み木」とか「レゴ」のようだといったが、集合住宅ほどこれを見事に具象化している好例はないだろう。「積み木+窓の配置=グロピウス的集合住宅」という定式が、ここに働いているように思えてならないからである。その組み合わせが微分的差異を持っているだけであり、一貫して単調だ。モノトーンの写真が更にその不気味なほどの「没個性」、「匿名性」を表している。

画像 35 4

「テラスハウス」

白い積み木があって、その積み木をネズミたちが齧ったとしよう。齧ったところに丸い穴があいた。今、この直方体には丸い窓が開いていることになる――グロピウス邸も、このような幾何学的な雰囲気を放っている。
グロピウスの単調で、無機質な世界は、デ・キリコのあのマリオネット的な形而上学絵画や、ルネ・マグリットの複数化された画一的な紳士たちの空中飛翔に繋がるような「不安」を与える。彼の作品は、我々の固有名を抹消し、代わりに記号的な「4 0 4」とか、「2 0 1 2」などの番号を賦与するかのようだ。そして実は私はここに、一種の不穏な「居場所」を見出すのである。極めて無味乾燥として、まるで感覚様態まで画一化されてしまいそうな場であるが、奇妙にもそこには閉鎖性において一貫された何か「住み心地」のようなものを感じる。このアンビヴァレントな建物は、グロピウス的なものが未だに都市の風景に多く見られることを考えると、やはり重要ではないだろうか。

画像   357

「バウハウス校舎の階段」

私がこのページのタイトルを、「グロピウスと幽霊性」としたのは、やはりそこに近代以後、「主体性」が崩壊した思想上のコンテキストと類比的な気配を嗅ぎ取るからに他ならない。
磯崎新は、バウハウスを「様式主義の解体運動」として捉えている。また、グロピウスの後任になったハンネス・マイヤーの「世界内に存在する全事物は、函数(機能×経済)の産物である」という理念をあげて、それを芸術としての建築の否定として捉えている。確かにここでは機能性が重視されていて、芸術性が喪失している気もする。しかし、そうであるが故に、グロピウスの作品には匿名性に汚染された現代人の孤独を反映した、一種の芸術性を見出すこともできるのではないか。

画   像 351

「生協ビル」

現在、このような建物は都市の何処にでも見出せる。いうなれば、個性がない。しかし、機能主義はむしろ芸術性を重んじ装飾に特化した様式主義を排除した上に成立している。住居空間がその居住者の「個性」を象徴しているとすれば、「集合住宅」のシリーズにおいてはそれが見出せない。これは、1968年にロラン・バルトが宣告した以下のテクスト、すなわち「作者の死」のアレゴリーとしても解釈可能なのではないか。その場合、言語は建築と相関的に把捉される。

「我々は今や承知している、テクストとは、単一の神学上の意味を解き放つ一連の言葉ではなくて、何一つ独創ではない様々な書き物が混合し合っている多次元の空間だということを。テクストとは、文化の無数の中心から引き出された引用文の織物であり……書き手は、常に既に前方にあってけして独創性などない身振りを模倣することしか出来ない」ロラン・バルト



890.gif

「アウエルバッハ邸」

建築を言語のアレゴリーとして捉えた時に、我々にとって「グロピウス的なテクスト」とは何を意味するのであろうか? それは、同じく20世紀のフランスで起こった文芸理論に影響を与えたミハイル・バフチンの以下の言説と共鳴し合うものではないだろうか。

「言語は、その歴史上の存在のどの特定の瞬間にあっても、頂点から底に至るまで他者の舌である」ミハイル・バフチン



画像 35  9

「二世帯住宅」

「私の暮らしてる部屋」が、「私の隣の住人の部屋」と、ほぼ一致するということ。これを、「私が書いたテクスト」が、「先行する他者のテクスト」と構造的に一致し、共に匿名性の構造に没していると認識することは可能だろうか。

670.gif

「全体劇場」

どこにでもありそうな外観の建物だ。グロピウス関連の資料を読んでから、休日に私は自分の暮らす都市が見渡せる堤防沿いをサイクリングしてみたのだが、そこには「グロピウス的」としか形容できないような無機質で機能主義的な建物があまりにも多く散見された。無論、駅前に近付くにつれてそうした景観ばかりではないことにも気付くのだが、やはり依然我々の都市空間は「近代建築」のままであるという他ないのではないか。

868.gif

「バウハウス資料館」

この建物にしても、どこの街にでもありそうな給食センターとか、パン工場のような気がしないだろうか。我々はこのページで「匿名性」や「無機質さ」のアレゴリーとして、グロピウスを用いている。しかしこれは換言すれば、この時代を代表する彼らの「個性」ともいえるのかもしれない。

57788.gif

「パンナム航空ビル」

こうして都市空間の断片を俯瞰すれば、彼の建てたライターのようなビルも、周囲のドミノ的なビル群も、整然と手入れされているが一方で窮屈な植木に近い。多様な形状で広がりながら植物が繁茂しているジャングルではなく、ここではあくまでも機械的なメトロポリスが志向されているのである。
関連記事
スポンサーサイト
*Edit TB(0) | CO(0)



~ Comment ~















管理者にだけ表示を許可する

~ Trackback ~


Back      Next