† 建築学 †

ジュリオ・ロマーノの《Palazzo del Tè(パラッツォ・デル・テ)》と「カタストロフ」―磯崎新『人体の影』

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「パラッツォ・デル・テ」

16世紀初頭のイタリアは盛期ルネサンスの只中にあり、建築も古典主義に属していた。16世紀後半には、バロックの萌芽が芽生え始める。この時代のイタリアに活躍したジュリオ・ロマーノ(Giulio Romano, 1499年? - 1546年11月1日)の「パラッツォ・デル・テ(Palazzo del Tè)」(1526-1533)に関する磯崎新の論稿が興味深かったので、ここでその記録を残しておこう。
ジュリオ・ロマーノはルネサンスの中期に属し、そこから既に逸脱して初期マニエリスムに入っていた存在として、多くの建築史家からも今日極めて高い評価を受けている建築家である。この建築家には明らかに狂的な側面があり、その霊性が建造物にも具象化されている。磯崎はロマーノの代表作「パラッツォ・デル・テ」の中枢テーマを「世界の崩壊」として解釈し、当時の時代背景の持つ「危機意識」が、磯崎が属した戦後の時代と共鳴していることに注目する。すなわち、共にある時代の過渡期に属し、「世界の崩壊」――(ロマーノの場合は1527年のカルロス5世による<サッコ・ディ・ローマ(ローマの掠奪)>で、磯崎の場合はいうまでもなく戦後の焦土と化した廃墟の光景である)を目の当たりにしたのではなく、あくまでも「第三者的に眺める」ことしかできなかったことが、逆説的に生涯に渡って影を残すことになったという事実である。ロマーノにおいては、無論「ルネサンスの過渡期」であるが、磯崎においては「近代建築の過渡期」を意味し、ここにおいても彼はこのイタリアの不穏な建築家にシンパシーを寄せている。

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「グロッタの入口」
(グロテスクgrotesqueの語源は、洞窟を意味するイタリア語のグロッタgrottaであり、これがグロッテスコgrottescoとなって他の言語へ移行していった)

ロマーノはラファエロの工房で学び、彼の死後宮廷建築家になっている。ロマーノの「パラッツォ・デル・テ」が着工された一年後の1527年は、ヨーロッパにおいても決定的な年だった。<ローマの掠奪>によってルネサンスの芸術家たちの間には崩壊の気運が高まり、更にルター、カルヴァンによる宗教改革の波による「ローマの脱中心化」も着実に広がっていて、いわば「世界の中心」それ自体が激震していた渦中である。ローマにはいなかったロマーノの立場は、ちょうど大江健三郎が『遅れてきた青年』でテーマ化した「戦争に参加できなかった世代」の独特な想いにも通じている。
当時の時代背景にあるこのような「ローマの権威失墜」という現象と、ロマーノの作品はけして切り離せない関係性を持っている。彼が「カタストロフ」をテーマにしたと解釈されているのも、まさにこの時代感覚を彼自身が敏感に感じ取っていたからであろう。

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「プシケの間」

「パラッツォ・デル・テ」に磯崎も訪れているが、彼がそこで感じたことを言語化しているテクストを読んだ限り、それはまさに入澤康夫の代表的詩集『ランゲルハンス氏の島』を髣髴とさせるような、「謎の洋館」そのものである。この建物には極めて多くの不可思議な謎、罠、仕掛け、策略が張り巡らされていて、来訪者はまるで「迷宮」に投げ込まれたような意識を抱くと磯崎は述べている。
元々、この建物はルネサンスの女傑として名高く、レオナルドに肖像も描かせているかのイザベラ・デステの息子フェデリーコ・ゴンザーガ2世が、カルロス5世らを招くための政治的なゲストハウスとして建造されたとされている。しかし、これは当時の公式見解に過ぎず、実質的にはフェデリーコの愛人ラ・ボスケッタを住まわせるための「愛の館」であった。その証拠に、「プシケの間」に描かれている「プシケ」は彼女を、「アモール」はフェデリーコのアレゴリーであると解釈されている(その場合、二人の恋仲を認めなかった母イザベラは、プシケの美貌に嫉妬する女神アフロディテに相当する)。「プシケの間」は官能的な空間として名高く、フェデリーコの情念を具現化している。ロマーノのこうした演出以前にも、ラファエロがシスティナ礼拝堂を裸体で埋め尽くしている手法などから、ルネサンスそのものが「ローマ中心主義」からの壮大な逃走運動であったと解釈できる。
磯崎は「中庭の迷路園」にも注目している。これは見た目は正方形の庭だが、中に入れば渦状の迷路になっており、「求心化を逃れ出る遠心性」として、やはり「脱ローマ」のアレゴリーとして読解されている。
私が入澤のあの不気味な詩を想起してしまったのは、建物に「中心から逃れる渦状のパターン」が存在する他に、「鏡像の原理」と呼ばれる仕掛けまで用意されているからだ。例えば、「扉」と、「壁に描かれた扉」が隣り合って存在している。これは「実体」―「模造」的な関係性を建築空間において表出したものであり、これに付随する様々な変形、重層、錯視、鏡像が仕掛けられている。こうしたことから、「パラッツォ・デル・テ」にWeb1.0時代に頻繁に議論されていた「虚構性」のテーマを結び付けることができるだろう。この建物は、ボードリヤールが『完全犯罪』で概念化した「シミュラークル」に基づいたとしか考えられないような「遊び」、「策略」を有する点で、時代を超脱しているわけである。

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「巨人の間」

「巨人の間」では、壁画にカタストロフが描かれている。これは「ルネサンスの崩壊」、「ローマ中心の終わり」の寓意としても解釈されている。
このような、現代人から見ても不可思議な印象を与える建物について、磯崎は以下のように説明している。

「精神的な歓喜よりも、通俗的で現世的な快楽があらわれている。整合化した構成のもたらす緊迫感にかわって、ルーズで不安定な崩壊感覚が支配する。…それは、諧謔に満ちた遊びである。荒唐無稽な策略でもある。いずれも、中心であったローマが腐食し、崩壊したことと裏腹の関係にある。中心が消え、次の中心が見つからないという時代の間隙にあっては、あらゆる作業は宙吊りにならざるを得ない」



自分がいつの時代に属しているのか明確ではないこと、卑近に大きな破壊を伴う混乱が生起したこと、先行する時代の文化的遺産は既に山積みにされてしまっていること――この三つは、どれも21世紀が20世紀的な文化を相続しつつ、そこからの超脱を求めて動き出していることと類比的に把捉できるのではないか。すなわち、ロマーノは実は現代的な建築家だったのではないかという視座が、ここで磯崎のテクストから敷衍されるのである。
「不安定な感情」の刻印された建物、「複合化された非現実性」、そしてルネサンスからの逸脱――ロマーノのこうした特質は、磯崎からも極めて深い寵愛と評価を与えられているようだ。

「…ジュリオ・ロマーノという個人の資質によるのか、彼がマントヴァの宮廷にみられた機知と奇想に溢れた人文主義者たちの会話から生まれたものか、あるいは館の主人公フェデリーコ・ゴンザーガ2世の屈折した生に由来するのか、また<ローマの剥奪>という崩壊を目の当たりにみせる歴史的事件に遭遇したためか。いずれもひとつの理由としてとりあげることのできる要因である」



これを受けて、磯崎はロマーノの時代と現代との接点を探っている。

「ロマーノが生きた時代は、推定するに私たちが今生きているこの時代そっくりの相貌を呈していたのではないか。時代の状況を語る必要はない。たとえば近代建築という産業社会に基盤を置き、テクノロジーを表現手段とした建築の様式がその古典主義的に透明な整合性のゆえに疑われている。無機的で中性化した表現手段が最早魅力あるものを生み出しえないことは建築家だけの議論でなく衆知の事実になった」



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磯崎新の事務所で学んだ青木淳の作品が持つ「フェノメナルな透明性」(コーリン・ロウ)や、彼の「原っぱ」の概念はそこからの脱出の試みだといえる。更に、我々は2011年に3.11を経験し、「戦後」から「災後」のパラダイムへ突入したといわれている(御厨貴)。この点で、磯崎の世代が担った「戦争に参加できなかった世代」ではなく、むしろ「戦争に参加して焦土を知った世代」に、我々はむしろ近接したというべきではないか。このサイトの筆者は1986年生まれだが、この年はチェルノブイリ原発事故によりヒロシマの500倍もの放射能汚染が生起した、「災厄の年」である。そして、現在25歳である我々は、「第二の災厄」をこの母国において体験した。我々の生きる時代には、明確な「時代のコンテキスト」が存在している。すなわち、磯崎が近代建築からの脱構築を企てていた時代は、既に終わっていると認識すべきではないだろうか。新しい時代は始まっているのであり、ロマーノがそうであったように、そこには必然的に現在の「社会情勢」が芸術に深い刻印を残す。ロマーノの可視化させた「崩壊のフーガ」に、我々は改めて「破局の後」を生きている現代の文化情勢を重ね合わせることができるのである。




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(2000/10)
磯崎 新

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