† 存在論 †

ハイデッガーの空間論『建てる 住む 思考する』について

ハイデガー (KAWADE道の手帖)ハイデガー (KAWADE道の手帖)
(2009/03/10)
不明

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以下は、マルティン・ハイデッガーが1951年に行った「人間と空間」についての名高い講演の記録『建てる 住む 思考する』の記録である。

○ 人間の支配者としての「言語」

「人間はあたかも言語の形成者であり師匠であるかのように振舞っているが、実は言語のほうが人間の女主人であり続けているのである。恐らく他の何にもまして、人間によって営まれているこの支配関係の転倒こそが、人間の本質を故郷にあらざるものdas Unheimischeへと駆り立てているのであろう」



○ 建てること

「建てることBauenは根源においては住むことWohnenである」

「建てることの本質は住まわしめることである。建てることの本質遂行は、場所どもを、それらの諸圏域を繋ぎ結ぶことによって築き上げることである、我々は、住むことを能くする場合にのみ、建てることができる」

�建てることBauenは本来、住むことWohnenである。

�住むことWohnenとは、死すべき者どもが地上にあるその仕方である。

�住むことWohnenとしての建てることBauenは、自らを解き開いて、育むBauenすなわち成長――および建物を築き上げるBauenとなる。



○ 住むこと

「住むことは、死すべき者どもがそれに従いつつ在るような、存在の基本輪郭である。住むことと建てることを熟考するという、この試みを通じて、建てることが住むことの内に属し、前者がいかに後者からその本質を迎え入れるかが、多少なりともより明瞭なものとして白日の下に晒されるかもしれない。住むことと建てることが、問いに値することdas Fragwürdigeへと到達し、そのようにして、思考に値する何かetwas Denkwürdigesとしてあり続けるとすれば、十分なものが得られたことになろう」



人間であることは、「住む」ことである。だが、彼のいう「本来的に住む」とは何であるか?

「(ゴート語の)Wunian(留まること=逗留すること、転じて住むことの語源)とは、満ち足りてあることzufrieden sein、平和へともたらされるzum Frieden gebrachtこと、平和の中に留まること、である。Friede(平和)という語は、自由であることdas Freie、das Frye(前者の古形)と意味し、fryとは損害と脅威から護られてあるbewahrt vor Schaden und Bedrohungことを意味し、bewahrt…vorとは――すなわち、赦し免ぜられてあるgeschontということである。自由にするfreienとは、本来赦し免ずるschonenことである」



我々はこのテクストを受けて、トリアーの『メランコリア』のラストにおいて建てられた簡素な「テント」を想起しないだろうか。「世界の終焉」という「脅威」からの、「護られてあること」としての、テント=聖域。これは、原理的に「住む」ことが外的からの保護であることを明瞭に示唆した貴重な例である。このように考えると、全ての「教会」、「寺院」は、やはり本来的には何らかの物理的、精神的「脅威」からの「避難所/シェルター」としての機能を有すると解釈可能である。

「とはいえ、<地上における>とは既にして、<天の下に>ということである。両者は<神的なものたちを前にして留まること>を共に意味し、<人間どもが共にあることへと属しつつ>そうするのであることを含む。ひとつの根源的な一性Einheitゆえに、大地と天、神的なものたちと死すべき者どもという四者は一つに属する」

「死すべき者どもは、神的なるものたちを、神的なるものたちとして待ち望む限りにおいて、住む。希望しつつもhoffend、死すべき者どもは、神的なるものたちを、思いがけなさdas Unverhoffteをもって迎える。彼らは神的なるものたちの到来の合図を待望し、その欠如の徴を見逃さない。彼らは神的なるものたちを自らの神々とはせず、偶像への奉仕も行わない。災厄Unheilにおいても彼らは、奪い取られた浄福Heilをなおも待望する」

「大地を救出し、天を迎え、神的なるものたちを待ち望み、死すべき者どもに付き随うことにおいて、住むことは、四なる集いを四重に赦し免ずるという出来事として生起する。赦し免ずるとは、四なる集いをその本質において保護することである。……住むことはむしろ、いつでも既に物たちのもとに滞在することである。赦し免ずることとしての住むことは、四なる集いを、死すべき者どもがそのもとに滞在するものの中に、すなわち物たちDingeの中に保匿するのである」

「我々は、住むことを能くする場合にのみ、建てることができる。シュヴァルツヴァルトの農家への示唆が意図するのは、我々がこうした農家へと立ち戻るべきであるとか、そうできるとかということではけしてない。そうではなく、この示唆によって、あるかつてありし住むことにおいて、それがいかに建てることを能くしたかが明瞭となるのである。」



ハイデッガーは必ずしも農家を神聖視しているのではない。むしろ、彼が農家を建物の雛形と認識すると規定する研究者を彼自身警戒している。重要なのは、おそらく「手仕事」であり、「祭壇」の意味を宿した建物という謂いであろう。

○ 橋について

「橋を渡ることではじめて、両岸は両岸として出現する。橋が両岸を殊更に、彼方と此方に相対して横たわらしめるのである。…橋は、流れと両岸と陸地を、交互的な近隣同士へともたらすのである。…橋は間を跨ぎ揺れ動く移行として、神的なものたちの前へと集める。神的なものたちの臨在が、殊更に熟慮され、橋の聖人の像を立てることによってそうするように、眼に見える仕方で感謝されるとしても、あるいは姿を変えられたり。それどころか遠ざけられたりしたままであるとしても。橋はおのれの仕方で地と天を、神的なものたちと死すべき者どもを、自らのもとに集わしめる」



橋は、土地Aと土地Bを相互連結させるものであり、そこには間隔が開く。AとBは、それぞれの圏域である。橋は「境(Grenze)」であり、それは「そこから何かが自らの本質を開始するもの」である。
ハイデッガーの「四方域」とは、「大地」、「天」、「死すべきものども(人間)」、「神的なるものたち」という四つ組である。この「大地」と「天」を接続する「橋」とは、一体何か? ハイデッガーはそれを述べていないが、間違いなく彼の空間的存在論で重要なのは、「橋」である。建築家の磯崎新も日本庭園論『見立ての手法』の中で、「橋」を「現世」と「他界」を繋ぐメディウムとして認識している。東西の思想家が、共に「建物」について思考するときに見せるこの奇妙な一致は、記憶に値する。
「橋自らに発して、ようやく場所が生じる」と、ハイデッガーはいう。場所以前に橋があるとすれば、それは非場所である超時間性としてのティマイオス的なchoraに先立つ原初である。コーラの起源に橋がある――実に神秘的なテクストという他ない。

「橋はひとつの場所である。そのような物としての橋は、大地と天、神的なるものたちと死すべき者どもがそこへの立ち入りを許されているような、ある圏域Raumを容認する。橋によって容認された圏域は、橋までの近さ遠さが様々な幾つかの広場を擁している」



○ 建物の定義の獲得

ハイデッガーは純粋数学平面上の座標的な構築を「空間」と呼称し、ここに「物」たちが内包された時、それが「場所」と呼ばれるとしている。

「場所として在り処を容認する物たちのことを、我々はこれから、先行的に建物と呼ぶ。これらの物がそう呼ばれるのは、それらが、築き上げるBauen(建てること)によって産み出されるからである」

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