† 建築学 †

建築家フランク・O・ゲーリーを中心にした「皮膜」の思考――青木淳、妹島和世らに共通する「建築の皮膚」のスーパーフラットについて

Frank Owen Gehry
Frank Owen Gehry


 グロピウスがバウハウスで見られるような直線で構成された建物を理念にしていたなら、フランク・オーウェン・ゲーリー(Frank Owen Gehry, 1929年2月28日 - )は建物の皮膜を「曲面」化させることで近代建築の画一化された無機質な雰囲気からの脱却を試みている。1986年の建築展が開かれるまで、彼は一部にしか知られていなかった。「建物は建設中が最高の状態である」という有名な言葉を残した彼の代表作として知られているのは、スペイン最北のバスク地方ビルバオにある《グッゲンハイム美術館》である。この美術館はコンピューター技術によって建築を創出した最重要例として今日も知られている。(ただし、ゲーリー自身は設計する段階においてはコンピューターに依存していない)。ゲーリーの事務所には優秀な技術者がいて、彼らはGATIAという三次元形状を扱うプログラムのスペシャリストである。

Guggenheim  Museum
Guggenheim Museum  Frank O. Gehry

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Guggenheim Museum  Frank O. Gehry

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Ray and Maria Stata Center   Frank O. Gehry

 ゲーリーはカリフォルニアのモダン建築家からの影響を受けているといわれている。彼にとって大切な土地はL.A.であり、ロサンゼルスという都市のコンテキストを「アーバン・ジャンクヤード」と呼称していた。ゲーリーの作品を「脱構築主義」運動の中に入れてしまうことは、今日ゲーリー関連の書籍を著している著者から批判されている。彼はアヴァンギャルドの旗手(学生時代、アンチ・コルビュジエ派だった)というよりも、やはり「機能主義の終焉」を象徴する建築理論家として解釈されているようだ。ゲーリーは建物の皮膜に、「ワイヤーメッシュ」、「波板」を使用することが多かった。これには彼一流の理由があり、それは「皮膜になりたいと望むチタンは、曲面状化するべきである」というものだ。

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《パイミオ・チェア》

 ゲーリーが女性の柔らかい腰のラインのような「曲面」を先鋭化させるのは何故なのだろうか? それには、彼が兼ねてから尊敬している建築家アルヴァ・アールト(Alvar Aalto)[本名フーゴ・ヘンリク・アールト(Hugo Henrik Aalto, 1898年2月3日-1976年5月11日)]の有名な《パイミオ・チェア》(1931)の形状が重要なインスピレーションの源泉になっているようである(ゲーリーはアールトだけでなく、ハンス・シャロウ、フランク・ロイド・ライトを高く評価していた)。実はゲーリー自身も「曲げ木の家具」をデザインしているが、それらの編み籠はゲーリーの建築の概念的な模型のような役割を果たしている。椅子の骨組みはやはり「曲げる」ことにおいて一貫されており、「曲面化した皮膜」という彼の理念が家具にもしっかり具象化されていることが判る。

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ヴェールに包まれた謙遜 ディテール
アントニオ・コラディーニ《ヴェールに包まれた謙遜》(1749 - 1752)

Antonio Corradini 《ヴェールに包まれた謙遜》
アントニオ・コラディーニ《ヴェールに包まれた謙遜》(1749 - 1752)

Bust of a Veiled Woman (Puritas) アントニオ・コルディーニ
アントニオ・コラディーニ《ヴェールに包まれた女性の胸像》) (1717-1725)

 アアルトの《パイミオ・チェア》だけでなく、ゲーリーは「服の襞」が持つ「動き」にも注目している。例えば、ジョヴァンニ・ベリーニやフェルメール、レオナルドのデッサンに見られる衣服の襞、或いはギリシア彫刻という硬質な作品群の中で端的に「柔らかさ」、「動き」を伴って迫ってくる精密な襞の造形――これらはゲーリーが「曲面」=「皮膜」のテーマを発展させる上での参照軸であった。建築も、彫刻と同じく静止した硬質な構築物である。そこにいかに「動性」を賦与するかというテーマは一見矛盾しているようだが、例えば文学でも「余白」や「行間」といった書き込み区域以外の箇所に独特なメロディーを持たせられる作家が存在するように、これは建築家にとっては極めて神秘的なテーマといえるのかもしれない。服の襞の持つ潜在的な動性のほかに、ゲーリーは「魚の形態」にもアイディアを見出している。
 ゲーリーの作品は、初期の《ティーム・ディズニー社屋》において、既にグロピウス的な近代建築が持つ、あののっぺりした無機質な「匿名性」の罠から解放され、極めて個性的になっている。その個性のキーワードは、やはりゲーリーが天空の巨人と合言葉を交し合った痕跡であるかのような、建物それ自体の「彎曲」、「捻れ」である。これについてイメージしておくことは重要かもしれない。グロピウスの建物が硬質な積み木で構成された建築物だとすると、ゲーリーの《ティーム・ディズニー社屋》の黄色の建物や、《ハノーヴァー交通局ビル》は、まさに「粘土で自由に捏ねて捻じ曲げられる自由な建物」である。この幾何学的な空間を「弄る」操作は、明らかにコンピューター技術をゲーリー事務所が多用していることとも相関的だろう。

walt disney concert  hall

「walt disney concert hall」

walt disney  concert hall4

「walt disney concert hall」

 ゲーリーはポップアートやディズニーとも関係性が深い。《ティーム・ディズニー社屋》のほか、ロサンゼルスに《ウォルト・ディズニー・コンサートホール》も設計している。どれも重要な作品だが、先の《ティーム・ディズニー社屋》の中を撮影したある写真が、私には何故か「子宮の内部」のように感じたのだった。それは内装の壁が赤で、天井などに人間の骨や筋肉の筋をイメージさせる白が使用されているからかもしれないし、私が建築を人体として読解することに知的冒険心を感じているためかもしれないが。いずれにしても、ゲーリーが皮膜を曲面化させ、いっそう人体の自然なラインに接近させているように見えることは、我々にそういった解釈を許すものであろう。
 グロピウスとの対比で興味深いのは、ゲーリーが設計した工場や、《ゴールドスタイン集合住宅》である。「工場」と「集合住宅」、それは機能主義の観点からすれば最も没個性化し易い建物の典型例であるように感じられるが、ゲーリーがひとたび設計すると、工場ですらキュービックになり、平穏な集合住宅までもがしっかりと「ゲーリー的」な個性で彩られる。無論、我々はバウハウスやミース・ファン・デル・ローエに代表されるような近代建築にも、建築様式史の流れで見れば著しい前衛性を認め得るのだが、現代都市の諸相にあって、彼らの建物はあまりにも普及して「故郷喪失性」(M.ハイデッガー)の主要原因と化してしまっているといわざるをえないのである。ゲーリーの作品群は、したがって彼単体を読むというよりも、明らかに近代建築からの脱却として把握する方がその斬新さ、ユニークさに共鳴できると思われる。

Frederick R. Weisman  Art Museum

「Frederick R. Weisman Art Museum」

Frederick R . Weisman Art Museum2

「Frederick R. Weisman Art Museum」

 《トレド大学視覚芸術センター》には、どこかポップなメカや古典的SF作品に登場する機械仕掛けの都市のイメージが結び付くし、代表作の一つである《ワイズマン美術館》に及んでは宮崎駿の『ハウルの動く城』における初期「城のデッサン」が持っている、「建物としてのゴーレム」的な雰囲気にも通低しているのではないだろうか。こういった愛嬌あるポップな世界は、少年時代に我々が楽しんだ懐かしいエンターテイメントの世界観から飛び出してきたような印象を与える。彼にユーモアの効いたジョークのセンスがあるのもこういった作風と対応しているのだろう。

LOUIS VUITTON  ニューヨーク

《LOUIS VUITTON NEWYORK》青木淳

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「Nationale-Nederlanden building」Frank Owen Gehry

 《LOUIS VUITTON名古屋》や《LOUIS VUITTONニューヨーク》などで知られる私が好きな建築家の一人青木淳も、多くの注目を集めた『原っぱと遊園地』の中で、ゲーリーの代表作《グッゲンハイム美術館》を高く評価している。私が観た限り、確かに青木がゲーリーから多くの影響を受けていると感じたのは、むしろチェコ、プラハにある《ナショナル・ネーデルランデン・ビル》(通称「ダンシング・ハウス」)である。この建物は「女性のドレスのよう」と評されたセクシーな作品だが、左側の建物は「ガラスの皮膜」を建物が「着ている」といった様相であり、この形態は明らかに青木の《LOUIS VUITTONニューヨーク》でも反映されている。《LOUIS VUITTONニューヨーク》も、建物が半透明のガラスの服を着衣したような形態になっていて、青木がコーリン・ロウの理論から得た「フェノメナルな透明性」/「リテラルな透明性」を具象化させた作品である。建造物が「スケルトン」であったり、完全に透明であるというよりは、むしろ「半透明」(これは日本の美学者の一人である岡田温司の『半透明の美学』の要諦概念の一つだったアリストテレスの〈ディアファネース〉と明らかに相関している)であったりするというデザインは、建物の内部を外部に強く意識させる点で効果的であり、どこかゲルハルト・リヒターのあのボカシが入ったフォトペインティングとも共鳴している。

Dancers - Edgar Degas
Dancers -Hilaire Germain Edgar de Gas

 ゲーリーの《ダンシング・ハウス》は、絵画的次元で我々にエドガー・ドガの描いた数知れない踊り子たちの一人を髣髴とさせるものだ。建築作品でこのようなダイナミックな運動性を視覚的に与えるものは極めて稀有である。
 ゲーリー&青木の「透明性」を主題化した一部の建築は、「薄い膜のような〈表層〉」を追求する建築を意味する「スーパーフラット」(村上隆)の以下の二つの定義を条件的に満たすだろう。

(1)立体的なヴォリュームや区間の組み合わせよりも、ファサードがデザインの核となるもの。本来、建築は三次元的だが、むしろ二次元的な存在に近付く。ガラス面に文字をプリントした建築は、様々な情報が等価に並ぶデスクトップ画面と類似している。代表例は渋谷駅前の《QFRONT》、あるいは妹島和世と西沢立衛のSANAAによる《飯田市小笠原資料館》、《横浜市六ツ川地域ケアプラザ》など。
 こうした特徴はステファン・ペレッラが提唱する「ハイパーサーフェイス・アーキテクチャ」とも相関する。これはイメージが叛乱する都市の風景のように、サインと物質の融合、あるいは情報を発信する皮膜と構造が一体化した建築である。代表例としては、デジタル系建築家NOX、ヤコブ+マクファーレン、グレッグ・リンらの作品。

(2)建築のヒエラルキーを解体し、表裏の差異や空間の優劣をつけないプログラム。SANAAの《金沢二十一世紀美術館》のようなチューブ状の形態によって建物に正面性ができることを回避する方法や、西沢立衛の《ウィークエンドハウス》にように、構造材、二次構造材、装飾材を分けて使用しないことを目指した作品が挙げられる。



表参道Diorビル 妹島和代
妹島和世《表参道Diorビル》

ライナーアッペンツェル美術館(スイス)ギゴン&ゴイヤー
ギゴン&ゴイヤー《ライナーアッペンツェル美術館》(スイス)

 建築の「スーパーフラット」――これは20世紀末に浮上した概念で、もとは村上隆の造語である。建築家として「スーパーフラット」と関連する代表的人物は妹島和世、ギゴン&ゴイヤーらが名高い。マニフェストとしては東浩紀が関与した雑誌『広告』(1999年11、12月号)の「スーパーフラット特集」に彼が以下のように書いている。

「カメラアイがない。奥行きがない。階層構造がない。内面がない。あるいは「人間」がいない。しかし、視線がいっぱいある。全部に焦点が当たっている。ネットワークがある。運動がある。そして「自由」がある」(五十嵐太郎『現代建築に関する16章』p160)


 あるいは、「村上隆やオタクの図像の特徴は奥行きのない平面性と記号化された眼であり、近代的な透視図法による秩序化された空間表現や視線の制度が解体した世界の現れ」とも表現されている。

LOUIS VUITTON  名古屋 2

《LOUIS VUITTON 名古屋》青木淳


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フランク・オーウェン・ゲーリー《ダンシング・ハウス》

 ゲーリーの《ダンシング・ハウス》はダンサーの「ジンジャー&フレッド」に擬えられた作品であるが、「建築」と「身体」の形態的なアナロジーは現代建築でもテーマになっている。例えば、かつてヴィオレ・ル・デュクやC・ガルニエは、建築において「循環」している運動体は他でもない「人間」である、という見解を共有していた。そして、彼らは物理的な身体としての人間だけでなく、人間の内面(意識)に与える影響もデザインに組み込んでいた。20世紀ドイツのパウル・フランクルの『建築史の基礎概念』(1914)に至までには、既に「建築」を「身体」として動的に捉える視座が形成されている。
 ここで重要なのは、「建築」を本来別個に考察されるものである「人体」と相関させる「隠喩」の思考そのものである。最近の表象文化論でも、例えば田中純・小澤京子による『都市の解剖学』に見られるように、建物の表面を「皮膚」とみなして思考を発展させていく試みが見られる。表象文化論においては、単なるアナロジーによるイメージの結合ではない点に注意しなければならないが、いずれにしても「建築」と「人体」の単純な隠喩であるならば、17世紀以降様々な建築家によって語り継がれてきたことのである。
 ゲーリーはなぜ建築を「ダンスしている女性」として捉えることが可能だったのか? この命題を深く考える上で重要なのは、いうまでもなくゲーリーと同じく20世紀に活躍したル・コルビュジエの名高い「建築、それは動線である」という言葉である。実はこの考えの起源を辿ると、1615年に、ヴェネツィアの建築家ヴィンチェンツォ・スカルモッツィの以下のテクストが浮上する。

「建物におけるあらゆる部分の中で、階段は疑いなく最も必要で、人体における〈静脈〉や〈動脈〉のようである。なぜなら静脈や動脈が本来的に血を各部に行き渡らせる役割を果たすように、主階段と裏方の階段とは建物の最も深い部分に達しているからだ」(エイドリアン・フォーティー『言葉と建築』p129)



 スカルモッツィのこの卓越した見解は、17世紀半ばに活躍したサー・ウリィアム・ハーヴェイの「血液循環」説よりも二十年も前である。ハーヴェイは1635年に発表した「心臓と血液の動き」という論稿の中で、「我々は、アリストテレスが空気と雨は天体群の動きをなぞると言わねばならなかったのと同様に、この血液の運動を〈循環〉と呼ぶ」と述べている。(前掲書p147)
 ヴィオレ・ル・デュクは『建築講話』の中で、スカルモッツィ、ハーヴェイ的な思考を復権させて以下のように建築を把捉している。

「すべての建物に、一つの主要な器官――一つの支配的な部分――があり、一定の二次的な秩序や部材があり、これら部分のすべてを循環の体系によって活かすのに必要な設備がある、と言えよう。これら器官の各々は各々の機能を持っている。しかし建物全体とは各々の要求に応じて接続されるべきである」(前掲書p130)


 19世紀後半のフランスの批評家セザール・ダリーは1857年に、やはり以下のように「建築」と「生体」をアナロジーによって表現している。

「この建物(ロンドンのリフォーム・クラブ)は石、煉瓦、鉄による生気を欠いた塊ではない。それはほとんど〈生体〉であり、血管と神経の循環体系を備えている」(前掲書p130)


 こうした考え方の背景には、19世紀半ばから、ダンスホールの主階段(代表例はC・ガルニエ設計によるパリの《オペラ座》)などにおいて人々の往来(循環)が建物全体を把握する上での重要なコンセプトになっていたという問題がある。我々は既にバロック時代に、「建築」を人間の「身体」と相関させて把捉していた思考を見出すことができるのだ。こういった隠喩的思考から、二十世紀の我々の《ダンシング・ハウス》まではあと一歩だったのである。
 このように、ゲーリーの作品は「架空の不安定性」や、「動きのある建築」、「横たわった女性のシルエット」、「色っぽい有機的形態」などという評価にも見られるように、従来の静止した建造物のイメージを塗り替えるものである。まさに建物に有機的な生命を賦与する点で、彼はオーギュスト・ロダンの作品とも通低しているのではないだろうか。ロダンの作品もまた、例えばカミーユ・クローデルをモデルにしたとされる名高い《ダナイス》に見られるように、今にも血管を出現させて呼吸を始めそうな、瑞々しい躍動感で横溢している。
 因みに、ゲーリーの愛読書はプルーストで、彼の建築物についての卓越した描写がお気に入りのようだ。ゲーリーのデザインした建物の中で、例えば《コンデナスト社のカフェテリア》の中でプルーストを読む行為は優雅な一時を過ごせるかもしれないが、「落ち着いてリラックスできるか否か」という点については、保留にしておきたい。いずれにしても、ゲーリーは近現代建築を代表する象徴的存在として、我々の記憶に強い衝迫力を放っている稀有な建築家である。





「参考文献」

フランク・O.ゲーリー―アーキテクチュア+プロセスフランク・O.ゲーリー―アーキテクチュア+プロセス
(2008/01)
ミルドレッド フリードマン、 他

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原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か原っぱと遊園地―建築にとってその場の質とは何か
(2004/10)
青木 淳

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言葉と建築言葉と建築
(2005/12/23)
エイドリアン・フォーティー

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現代建築に関する16章 〈空間、時間、そして世界〉 (講談社現代新書)現代建築に関する16章 〈空間、時間、そして世界〉 (講談社現代新書)
(2006/11/17)
五十嵐 太郎

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~ Comment ~

はじめまして

ゲーリーの現代性を語るところあたりまでは楽しく読めたんだけど、
話が過去に遡ってきたあたりからよくわからなくなってきた。
スカモッツィが言ってるという、
「静脈や動脈が本来的に血を各部に行き渡らせる役割を果たすように」
というのはこれだけではアリストテレス的な発想と何が違うのかわからない。
別に循環的なことを言ってるように見えないから。
アリストテレスは静脈と動脈の区別をしないで、どっちも心臓から血液を送る道だと考えたわけで、
そのことを言ってるようにも見える。
あと、スカモッツィはウィトルウィウスにすごい影響を受けてるわけで、
ウィトルウィウスは古代ギリシアを継承してるわけで、
古代ギリシアは建築が人体のミメーシスであるわけで、
スカモッツィがどれほど卓越してるのかよくわからなくなってくる。
スカモッツィが生まれるずっと前からダヴィンチなんかもギリシア的に捉えてたわけだし。

そのあたりの説明をお願いします。
[2013/09/18 06:13]  こむこむ  URL  [ 編集 ]

Re: はじめまして

*こむこむ様*

とても貴重な御意見どうもありがとうございます!
スカルモッツィについては、また機会があれば調べてみようと思います。
この記事の血液循環説との絡みは、フォーティーの『言葉と建築』の読解に依拠しているので、深めるためにはより多くの文献が必要でしょうね。

[2013/10/20 12:38]  TOMOHISA  URL  [ 編集 ]















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