† 文学 †

小川洋子 『ブラフマンの埋葬』――名もなき死者たちのためのレクイエム

ブラフマンの埋葬 (講談社文庫)ブラフマンの埋葬 (講談社文庫)
(2007/04/13)
小川 洋子

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小川洋子の『ブラフマンの埋葬』を読んだ。舞台は埋葬師や碑文彫刻家が共同体形成に深く関与した葬儀空間的な「村」であり、主人公の「僕」は「創作者の家」で下男として働いている。「創作者の家」は各地から訪れた芸術家たちが各々滞在している集団アトリエで、「僕」は彼らのために食事を作ったり雑用をしたりと、いわば「芸術活動」のparergon(余白)を象徴した人物造形である。
そんな主人公の前にある日、奇妙な動物が姿を現す。作中で猫とも犬とも断定されていないこの不可思議な動物(幻獣)に、「僕」と気が合う碑文彫刻家がサンスクリット語の「ブラフマン」という名前を与える。「ブラフマン」はあくまでも与えられた名前であり記号的な表現に過ぎないが、“名前の持つ神聖な力に導かれるようにして”、作中では神秘的な存在として描かれている。
例えば、ブラフマンが泳いでいる姿の描写にそれが端的に表現されている。

「泳ぐという言葉だけでは言い表せない、美しさを体現していた。彼は何の苦もなく泉の懐に潜り込み、抱かれていた。体と水を隔てる境界はなく、毛の一本一本までが泉と一体になっていた」
 
「彼のエプロンにも、ブラフマンの毛が付いていた。それは体を覆っている時は茶色なのに、抜け落ちるとなぜか金色に輝いた」



このように、ブラフマンは小川洋子が創造した架空の、虚構的な動物であると考えられる。ところで、彼の「名付け」の瞬間が、既に神秘的な美を伴っている。

「ただ、たった一言彫られた言葉が、アルファベットともギリシャやロシアやアラビアとも違う見たことのない文字で、その文字の形が魅力的だった。枯葉を太陽に透かした時浮かび上がる、葉脈のように見えた」


名前の持つ記号性自体を、瑞々しい「葉脈」に喩える描写は、ブラフマンの持つ存在を象徴している場面として、記憶に値する。
「村」は葬儀空間であり、「創作者の家」が作品を生み出す「命の場」だとすれば、舞台全域は生きとし生きる全ての者のために「喪」に服す空間である。
例えば、「埋葬人の小屋」という場所について、以下のように記されている。

「それは昔、川を流れてくるラベンダーの箱を見つけるために、埋葬人が詰めていた石造りの小屋で、半ば崩れかけているが、暑さを避けるには最適の場所だった。中はひんやりとし、埋葬人が川を見張った小窓が、丁度よい明かり取りになっていた。
 僕たちは窓の下に据えつけてあるベンチに腰掛けた。そのベンチも、天井も床も、小屋は全部石でできていた。それ自体が石棺のようだった」



特に素晴らしい場面は、「海沿いの墓地」の静謐な描写だ。「僕」はそこへ店で働く娘と、ブラフマンを連れてドライブに行く。そこは既に名もなき存在者たちの古代墓地となっていて、いわば村のシンボルの一つだ。
その墓地の中に、「父の声と母の温もりだけしか受け取らなかった慎み深い赤ん坊」と碑文が刻まれた墓標がある。匿名的な死者のための墓のために、碑文彫刻師がそう彫ったのだ。これは作者の「赤子」のまま亡くなった命に対する切実な想いが込められている描写であり、さり気なさがかえって魂を洗う。
ブラフマンのような小さな動物のための棺も存在する。人、動物、植物の差異はこの村の葬儀空間においては無いのだろう。
やがて聴こえる「波の音」……この辺りの場面描写は特に素晴らしいものがあり、段落も程よく改行されていて非常に読み易く、かつそれ程「重さ」を感じさせない。本作にとって「墓地」とは「そこに常にある風景」の一部であり、人物は特別な祈りを改まって捧げるということはない。「死」は常に存在し、やがて自分も棺に入ることを知っているのだ。
「僕」は帰宅してから、部屋で「風の音」を聴いている……この光景の連続した「癒し」を言語化することは平易ではない。独特な安らぎがテクストに宿っている。
ブラフマンは何故、「創作者の家」の芸術家たちではなく、その「余白」である「僕」を飼い主に選択したのだろうか? それはJ.デリダのparergonの概念とも関係しているだろう。真理は、常に辺境の、欄外の、書き込まれていない、作品の外の、額縁にこそ、現前することを暗示させている。
やがて訪れるブラフマンの突然の死。一言も鳴き声を出さなかった彼は、最期に「小さな悲鳴」をあげる。彼もやはり痛みに震えることのできる同じ生命だった。
「僕」たちはやがてブラフマンを静かに埋葬する。本作は、「僕」とブラフマンとの生活を透明な文体で描いた、素晴らしい物語である。

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